2009年11月6日金曜日

ハリー・ポッター [断片]

本日の授業にて「パノプティコン」の名が挙がった。
細かな話は夢うつつであったので覚えていないということにする。

石田衣良『うつくしい子ども』に出てくる学校の構造がイメージする限り、
「パノプティコン」である。
(小学校だったので)6学年にそれぞれ4クラスあると仮定する。
クラス毎にA~Dまでのアルファベットをふる。
1年~6年までのAクラス、1年~6年までのBクラス…とDクラスまで振り分け、
AクラスはA棟、BクラスはB棟…と同様に振り分ける。
各クラスは同学年であっても交流が最小限になるようにするため、
それぞれの棟の行き来が出来ないようにする。
もし、行き来をする場合は中の教員棟を通過しなければならない。

これだけではさっぱりなのでもう一つ『ハリー・ポッター』を持ち出す。
『ハリー・ポッター』でも寮同志の交流は授業、食事など最小限に留められており、
同学年の横の繋がりよりも、縦の繋がりの方が強い。
ここでは各寮の関係は競争相手、つまり敵対関係にある。
なぜ、同じ学校内であるのにも関わらず敵対関係にあるのだろうか。
彼らは寮対抗で年間の優秀な寮を決める、という戦いの中におかれている。
一人の生活態度、成績などが点数の加減に関わってくるのである。
悪い態度をとったと判断された場合は減点となり、逆は加点となる。

ここでは生活の規範を守るか否かということが点数の加減に関わっている。
彼らホグワーツで生活している生徒寮の為に規範を守るべきものとして強制されている。
このとき、見つからなければと悪戯するものがいるがそれは極めて少数派であり、
大半は常に規範を守って生活するようになっている。
このとき、彼らの中では「見ている」という点数の判断をする教師の見えざる権力を
知らず知らずのうちに自らと密接なものとして内面化しているのである。

見えざる権力を内面化することを前提として、彼らの生活は行われるが、
それをごまかす要素としての得点制を導入し、ゲーム感覚を装うことにより、
この内面化はより強固なものとなるが、それは知らず知らずのうちに行われていることである。

2009年9月9日水曜日

体を引きずりながら

実際、引きずられているのは心の方だ。
今まで、すっきりと別れたことがなく、その都度、引きずるものが増える。

友人、先輩と会話したい気がするが、したくない気もする。
ライプニッツ、西田幾多郎、M・セールは好きで研究したいが、
勉強は苦手である。
好きだから努力とはいわないだろう。

それにしても、引きずっているものが多い気がする。
それを気づかれないようにしていると、自分にいくつもの役を課しているので、
どの役で、誰に接すれば良いか判断するので、自分は多面的である。

「自分探し」をしきりに叫ぶ学部に在籍していたし、
それを声高に叫び、半ば強制的にこちらにも要求してくるような人々もいた。

こうやっていろいろなものを引きずり、
必要以上にそれぞれを重大な事のようにみている。

だから、動かなくなったのだと思う。

2009年9月7日月曜日

距離の問題

最初に言っておくが、別に数学の話ではない。
「距離=数学」の発想は数学嫌いの発想かもしれない。

最近、友人、後輩との会話でよく出てくる話について少し書きたい。

「好きには好きの悩みがある」
とても贅沢な、幸せな悩みかもしれないが、
悩みである以上、悶々としたり、悩むことの苦痛もある。
好きでやってきたこととの距離をようやく3年ほどたった今、ふと考えだした。
むしろ、他のやりたいこと、やらなければならないこと、そして一番好きなこと。
この3つとの関わり方(距離感)にふと悩んでみた。
「少し書きたい」と言いつつも、いざ文章で説明するのも難しい。
とにかく言いたいのは「好きには好きの悩みがある」ということだ。

もう一つは人との距離感である。
学校が休みのせいか、日常の会話が激減。人と話をするのに緊張する。
話し始めなど、何を話して良いのか悩む。
話をふってもらえればしゃべりだすが、一旦しゃべりだすとものすごい勢いでしゃべる。
特に自分の好きな分野に関しては、ほっておいてもしゃべり続ける。

後は単純に友人、先輩との距離感である。
結局それがわからなくなり、6,7月は勉強会にもいかなくなった。
そんな状況を未だに引きずっている。

書きたかったことはとりあえずこんな感じである。
一番良くない書きっぱなしであるが、書いている本人がよくわかっていないのでしょうがない。

2009年8月20日木曜日

無題

俺は絶望したのだよ。世界にか?自分にか?
何に絶望したのか、それは問題ではないのだよ。
いや待て、問題かもしれない。考えてみるとするか。どうせ時間はあるのだ。それこそ絶望するくらい。
俺は若い頃は世界に絶望していた。今の状況を見ればわかるだろ?
内紛やテロみたいな表面化した暴力は絶えないし、経済格差なんてものや、見えない暴力なんてものがテレビに画面から滲み出てその辺に蔓延しているだろ?
ましてや俺はゲバラやレーニン、マルクスなんかが好きなんだ。大して読んだこともないが、好きなんだ。
だが、彼らほど世界つまり今の現状を打破し、改善しようとする意志がない。自分にそんな力がないことを悟った気でいたもんだ。
でも、興味はあったんだ。意志や力とは全く違うが、知りたいと思ってたんだ。だって、宗教や戦争について学んだ知識をしゃべっている知識人はカッコよく見えるだろう?
だから、俺も勉強したかったんだ。特に宗教に興味があったんだ。「俺、宗教について勉強してるんだ」って言ったらカッコよく聞こえるだろ?ついでに俺も3割増しくらいでかっこよく見えればと思ってたんだ。至って不純な動機だよ。本当に苦しんでいるって言われてる人たちを食い物にしようとしてたんだからな。

実際に少しかじった。結局は哲学を勉強してるし、これからも続けたいって思ってんだ。
あくまで自分の欲求に従ったまでだよ。だから、人の為とか、平和云々みたいな大層なものはない。何て言ったっけ、そうだ、大義名分ってやつはないよ。
もう3年近くねちねち考えているんだが、今度は世界じゃなく自分に絶望している気がするんだ。
結局は自分への絶望に気づきたくないから、世界の悲惨な状況のせいにしてただけな気がし出したんだ。
「こんな時代に生まれた自分はかわいそうだ」ってことにしてしまえば、楽だもんな。
もし、自分への絶望みたいなもんに気づいていたら俺は5、6年前には確実に死んでただろうからね。
うまいこと責任転嫁してたんだよ。自己保存に本能がうまく向いていたんだろうな。
でも、今の状態はもっとひどいもんだよ。自分なり世界に絶望してんじゃなく、自分とか世界を嫌悪してんだから悲惨さ。俺自身を殺すほどの力も持ってなければ、明るさで満ちている生を歩かせてくれるほどの力も持ってないんだから。そうだな、空中ブランコみたいなもんだよ。常に重力によって下に引っ張られているが、ブランコと自分の筋肉を使ってそれに逆らって飛ぼうとしてるようなもんだってことだよ。
個性だ、アイデンティティとか言われてるから余計に自分を嫌悪してんだろうな。けど、そんなもんはあるのかい?俺にはよくわからん。最近の関心は体系や形式ってことだからな。それ自体に意味はなく、点と線でつくられる一つの状況によって与えられるもんだからな。

結局は自分に絶望することも世界に絶望することもおなじことなんだろうよ。
自己の外部化したやつが世界みたいなもんだろうし、世界を内部化したもんが自己みたいなもんだろう、って思ってんだ。
これが、今考えてる一応の結論だ、どうだ?


「お前はいろいろぼかして話しているが、そもそもお前に言っている「絶望」ってやつはどんなものなんだい?」

それには俺は答えられない。
俺が考えてたのは俺が絶望しているのは自分に対してなのか、世界に対してなのかだからな。
でも、最近読んでる本で面白いことを書いてる奴がいたんだよ。
ヘンリー・ミラーって奴の『北回帰線』って本の一節で奴は絶対の絶望に目覚めて救われたってかいてあったんだよ。変な奴だよ。でも、奴は「生 Life」に執着してたらしいってのが気に入ってんだよ。

2009年7月28日火曜日

国外退去

1週間ほど実家に帰省していました。
妹が高3で最後の大会なので、応援に行きました。
(妹は野球部のマネージャーですが……)

気づけばベスト8です。
東海地方はまだ梅雨は明けておらず、
試合は度々順延となっており、大変なようです。

それはさておき、
中学時代の友人に会い、特に仲の良くない同級生たちの話を聞きました。
気づけば結婚、出産、離婚。

これだから田舎は嫌である。
することが他にないのであろう。
地元は好きだし、田舎は好きである。
なにせ18年間、がっつり育ってきたのだから当然かもしれない。

しかし、同級生の話を聞くと吐き気がする。
22歳で家庭を持つって……子供がいるって……
きっと、すごいことなのだろう……

自分が半ば諦めていることを嫌悪してきた奴らが手に入れているのかと思うと、腹が立つ。

若くしての結婚については「田舎にはすることがない」というのが一般的だろう。
ないなら、東京なり、京都なりに出れば良いだけの話である。

そんなことをイライラ考えながら、東京へ戻ってきた。
しかし、東京は東京で吐き気を覚える。
食事は相変わらずだし、夏バテ、日にあたったのが原因かもしれない。

実家、地元だけではなく日本にいるのも嫌になりつつある。
嫌になったので、なんか海に飛び込みたくなったがあいにく近くに海はない。残念。

勉強頑張って早く海外に行きたい。


そんなことを言えば、先輩はふざけて「就労ビザ切れてないの?」とか、
「不法入国だろ?」というだろう……

2009年7月18日土曜日

見送り

「行ってきます」
小、中、高に通った12年間、僕は家族に向かって言っていた。
何気ない挨拶だが、この一言で父はネクタイを結びながら「気を付けてな」の一言を、
母は「忘れ物は?」の一言を、祖父母は「行ってらっしゃい」の一言をそれぞれが僕に言う。
本当に何気ない挨拶である。学校で友人に会い「おはよう」と言うようなものである。
意味のない形式的なものかもしれない。

出かける際の「行ってきます」を意識したのは中学に上がったばかりのころである。
ある事件をきっかけに1週間ではあるが不登校になった。
父は最初二日は休みをとり、一緒に当時好きだったジャッキー・チェンの映画などを観てくれた。
それ以外の日に何をしていたかは覚えていない。
きっと、朝起きて、ご飯を食べる、支度をする、テレビ、昼ごはん、テレビ、夕ご飯、寝る。
こな流れだろう。先輩たちがゲームを持ってうちに遊びに来てくれた。007のゲームだった。
プロテインまで持ってきてくれた。
担任と学年主任が来りもした。「つらいだろうが、学校に来てくれ」そんな感じだった。
学年主任には市民病院の緊急外来で会っていたが、彼はその時は何も気づいていなかっただろう。
気づく要素などないのだ。風邪でもないのに38度を超える熱と全身の痛み。
ただ緊急外来にいるだけでは急な風邪と区別はつかないし、何もわからないはずなのだ。

無事に帰ってこなかった息子が心配なのだろう。父や母が僕や姉、妹の見送りを欠かしたことはない。
妹はいつもそれをすり抜けようと必死になって出かけていた。

「行ってきます」
そんな親の気持ちを何となく感じていたのか、自分を奮い立たせるために自分に誓いを立てていたのか。
どちらでもあるだろうし、そうではないかもしれない。
「行って―来ます」
出かける私は、無事に帰ってくることを約束しながら靴を履き、体育着と弁当、読書用の本、筆箱、
そのくらいしか入っていないカバンを背負っていたのである。

今回は僕は見送る立場である。
いや、見送ることすらできない。何もできないのである。
出来たところで、大した役にも立たず、かといって問題があるわけでもない。
ただ、「いってらっしゃい」の一言に「行ってきます」といってくれ。
そして、「おかえっり」の一言に「ただいま、いってきました」と言ってくれ。

きっと自信とともに「おかえり」は言える。
だから、笑顔とともに「只今、行って―来ました」といってくれ。
僕はただ待つだけの人間じゃない。成長して帰ってくる君に見合う、それ以上の成長はして見せる。
僕だって男だ。カッコ悪いところばかり見せるわけにはいかない。

だから、悲しくなるようなことは言わないでくれ。
「いってきます」その一言だけでいい。十分である。

2009年7月16日木曜日

なんとなく

レポートを書いたので載せてみた。
きっと改行とか、日本語とか、ロジックの関係で読みにくいと思います。
何かあれば指摘してくださると助かります。

なんて荒いレポートだろう、と嘆いています。




M・セールの「図表的モデル」を手掛かりにしたライプニッツの可能性」

 M・セールは『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』 において一つのモデルとして「図表的モデル」を提出している。今回はまずこのモデルへの考察、そしてライプニッツ哲学における出来事、可能性への適用を考えることにする。
 まず、セールはこののちに「図表的モデル」と呼ぶ「網の目の形で描き出された図」について「この図はある瞬間に(……)、複数の点(頂点)によって形成される。各点は、複数の分岐(道[辺])によって互いに結びつけられている」 としている。さらに、この「図表的モデル」を構成している各々の点(頂点)は「ひとつの命題や、決定された経験的な事物の集合の中の実際に定義し得るひとつの要素を表す」 とする。
 セールは「弁証法的論法」との比較において「図表的モデル」の特徴を顕著にさせていく。両者の特徴は一つのケースを想定して顕著にされていく。それは二つの命題、二つの頂点を考えた場合、一方から他方へと行く道についてである。前者の「弁証法的論法」においてそれは「単線的であり、道筋の単一性や単純性、……に特徴づけられている」のである。それとは逆に「図表的モデル」の方は「媒介的な道筋の多様性や複雑性で特徴づけられる」のである。「図表的モデル」においてはある点から他の点へと至る経路(道筋)は直線的な最短距離の道筋だけではなく、非常に多くの道筋をとることが可能である。さらには別の第3、第4……複数の点を通過することさえ可能である。経路の複数性、複数の点の通過可能性により、このモデルでは「多様性や複雑性」が確保されているのであり、この「多様性や複雑性」こそが比較対象である「弁証法的論法」にはない「図表的モデル」の特徴である。
 「図表的モデル」の簡略的な説明は以上のようである。このモデルをライプニッツ哲学における出来事や可能性を語るのに有効なモデルであると仮定して、実際にセールのモデルをライプニッツの概念を考えるために適用させていきたい。
 ここで、まず先にライプニッツの「出来事」、「可能性」についてセールの「図表的モデル」と同様に簡略的に示しておきたい。まず「出来事」であるがこれはライプニッツ哲学におけるひとつの有名な命題「全ての述語は主語のうちにある」という命題の述語である。アルノーとの往復書簡においてライプニッツは「述語または出来事」 という言い換えを行っている。さらには、主語と述語の関係などを論じるときにライプニッツが用いる例 をみることで「述語または出来事」という彼の想定がより強固なものとなるだろう。ここでの「出来事」とは属性ではなく、動詞のことである。おそらくライプニッツにとって属性は動詞つまり「出来事」によって導き出され得るものである。
 次に「可能性」についてであるが、簡潔に言うならば、ある命題に対してその対立命題を措定したときに、対立命題が矛盾しなければ、可能であるということが出来る。例えば、歴史的事実として「カエサルはルビコン河を渡った」が対立命題として「カエサルはルビコン河を渡らなかった」と言っても命題としては矛盾しない。事実として成立した出来事に対して措定された対立命題の無矛盾性によって可能性は確保される。このとき、命題としては矛盾さえ含んでいなければどんなことも可能であるが、単なる説明のしやすさのためか、ライプニッツは例として歴史的事実を常に持ちだしている。この点においてライプニッツの「可能性」を未来へ向けられた「~するこができる」ではなく、常に過去に向けられた「~することができた」である考えることが出来る。しかし、ライプニッツ哲学の諸概念は相互的なものとして考えなければならない 。「可能性」に関しても二通りの考え方が成立することに注意しなければならない 。
 簡略的にセールの「図表的モデル」、ライプニッツの「出来事」、「可能性」について論じた。ここから実際に後者二つをセールのモデルへ適用させていきたい。
 まず、セールの提出した「図表的モデル」における「点(頂点)」をライプニッツにおける「個体概念」として考えてみたとする。各々の「個体概念」を関係づけている「道筋」は何に当たるのだろうか。この「道筋」を「出来事」と考えてみることが可能である。「道筋」は多様であり、複雑である。ライプニッツにおいて「出来事」は無数の「可能世界」の中から選ばれた一つが現実化するが、他の「出来事」が生じた可能性もあるという点で多様である。さらに、「出来事」例えば「カエサルはルビコン河を渡った」というときこの命題には表れていない周囲の状況が悉く含まれている。例に挙げた命題においては「渡る」という「出来事」によって「カエサル」と「ルビコン河」が関係づけられている。しかし、この「出来事」は共時的、通時的に現実世界の全てと「カエサル」と「ルビコン河」を関係づけるという点において複雑である。だが「出来事」による共時的、通時的な複雑性を我々は認識することが出来ない。我々が認識できるのはライプニッツの言う「出来事」の極一部であり、この認識できる範囲の「出来事」、言い換えれば「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な「出来事」だけである。
 この限定的な「出来事」は「カエサル」や「私」によって認識されるわけだが、この特権性は「カエサル」や「私」という「点(頂点)」の特権性に基づくのではない。セールのモデルにおいて「いかなる点も他の点に対して特権的ではないし、いかなる点もいずれかの点に一方的に従属してはいない」 のである。この認識の特権性をセールのモデルにおいて考えるならば、特権性はチェスの駒の強さのように「駒全体の配置や、敵方の網の目とのかかわりにおけるその分布の複雑さをふまえた上で、ひとつの時点における駒の相互的な状況に応じて、可変的である」 ことにより生じる。この可変的、特権的状況において私が認識できる範囲、セールの言葉をかりるなら「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」は全体から切り取りが可能であるセールは言う。この切り取り可能ということをライプニッツに即して言うなら明確な表象のある認識ということができ、つまりは「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な認識である。
 今までは「点(頂点)」を「個体概念」として考察を行ってきたが、セールが提示するモデルにおける「点(頂点)」をライプニッツにおける「出来事」として考えることも可能であるように思われる。そして、「出来事」同士の相互的な関係づけの中で集合全体から切り取り可能である「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」を「個体概念」つまり一つの「実体」として考えることが出来る。
 セールの提示した「図表的モデル」について二通りの適用を示したが、今一つの問題があるように思う。それは「点(頂点)」の捉え方の問題である。この「点(頂点)」と「道筋(線)」の二重性についてセールは以下のように記述している。「ひとつの頂点はふたつまたはいくつかの道の交差点とみなすこができる。(……)これと相関的にひとつの道は、あらかじめ想定された二つの頂点の対応づけを起点にして形成された決定とみなすことができる」という二重性である。「点(頂点)」に関してドゥルーズは前者の立場をとっている 。この二重性により「点(頂点)」を「個体概念」または「出来事」と解釈することが可能である。
 最後にこの「図表的モデル」の目的は、諸命題や出来事の空間的展開の分布より「図表的モデル」の上に表れるひとつの状況、この状況は流動的で時間とともに全体的に変化する状況を形式的に示すことであるといえるのではないか。しかし、この形式的に示されたものは「多様性や複雑性」を含んでいる。この複雑性を「知と経験にとっての最良の補助者」とすることがセールにおける「図表的モデル」の目的である。この目的に多少なりとも即した形でライプニッツと関連付けることができていれば幸いである。

参考文献
M・セール 『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』法政大学出版局(1985)
G・ドゥルーズ 『記号と事件』河出書房新社(2007)

2009年7月7日火曜日

ひがみ、未練、妄想

玄関の外に出て煙草に火を付ける。
一日の内で必ず一回はする習慣である。
通行人を見ながら携帯灰皿片手に、一吸い、一吐き。

通行人にはカップルもいる。彼ら彼女たちには申し訳ないが、
私の目の前を通るだけで、私のひがみの対象となってしまう。
なぜ、お前たちには恋人がいるのに、俺には…(省略)…!?
このとき、僕は完全に見下している。しかし、優越感も何もない。
あるのは自分の器の小ささの実感、ひがみ、そして漠然とした寂しさである。

要は、友人たちには自分たちの別れを美談の如く語り、
自分も今回の別れを美談として作り上げようとしていた。今現在もしている。
それは自分の未練を見ないためであり、友人たちに格好悪い部分を見せたくないからである。
そもそも格好良くはないが、意地を張っているのである。
そのせいで、何人かの友人には忙しい中、頻繁にメールをして迷惑をかけている。

自分の未練を認める。ようやくそんな作業を始めた。
認めたからといって、そこから解放されるわけでもない。
そんなに都合の良いものではないのである。

個人的な泥沼状態である。
そんな状況だからこそかもしれないが、いろいろと期待してしまう。
互いに嫌いになったわけではないこと、互いに評価していること。
これは数少ない光であり、僕の状況を最悪へと導かなかった要因である。

高校時代は当時の彼女が親友として信じていた友人との浮気により破局した。
絶望的だった。信じていた人に同時に二人から裏切りを受けたのである。
もちろんこれは一方的な解釈の仕方かもしれないが、
彼女と付き合っていた期間の五股かけれれていたという話を聞いた。

それからの人との付き合い方、距離の取り方は大学時代の僕を見てくれれば十分わかると思う。

今回に関しては、細かい内容は省くが、裏切りなどとは感じていない。


3ヶ月経った。「3ヶ月も」なのか「3ヶ月しか」なのかはわからない。
それでも、馬鹿みたいに毎日のように期待を抱いている。
バカみたいと言うよりも、馬鹿そのものである。
よく「新しい恋をすれば」みたいな言い方をするが、
僕が求めているのは新しい恋でも、一般名詞としての彼女でもない。
それだけははっきりしている。

だが、今はどうにもならない。
唯一どうにかできるのは、勉強することだけである。
夏休みは飛躍の期間にしたい。バイトも始めたいし、語学もしっかりとやりたい。

それでも、漠然とした寂しさは残る。
僕はこれまで多くの人に助けられ、守られてきたいた。
良い環境で22年生きてきた。自分は中心にはならないにしても、周りには素敵な友人がいた。
そして、今でも素敵な友人はいる。
だから、彼らに頼ってしまうのだと思う。
今はもう同じ環境ではない。だから、余計に迷惑をかけているのだと思う。

一人で居ることになれ、平気な人間になりたいと思うが、時間がかかる。
でも、周りに素敵な友人たちがいること、孤独であることは矛盾しないだろうし、
もう少し、孤独に身を置き、孤独に身を委ねれるようになりたい。


最近は、独身もいいかも……とふと思った。

2009年7月3日金曜日

レポート以前 断片として

そろそろレポート提出が近い。久しぶりに目白へ行ったが、授業は眠気との格闘であった。
ふと、レポートのことを考え、板書そっちのけでノートにメモをした。
テーマを仮設定した。

「可能性、出来事、照応関係」

・人間にとっての「可能性」は出来事に対して先立っているものではなく、出来事の生じた後に行為がなされた地点に「可能性」を挿入することにより成立する。出来事の後でのみ「可能性」を認識できる。つまり、「将来~になれる」などはこの場合、「可能性」としてはその地位を確保されていない。

・ライプニッツの「可能性」は論理的に導き出される。対立命題の無矛盾性により成立する。「可能性」という言葉の適応(?)には二種類考えられ得る。

(1)神における「可能性」。これは人間にとっては先験的に存在している。
(2)出来事に対して対立命題を定立し、獲得するような人間にとっての「可能性」。

・(1)に関連して。
神の悟性における無数の「可能世界」から神は現実化するべき世界を一つ選ぶ。このとき他の選択肢が存在したこと、そして決定されなかった世界が「可能世界」として「現実世界」に対する残余としてあり続ける。この意味において神の「可能性」は存在しうるのではないか。

・(2)に関連して。
神の領域において残余として存在し続けている「可能世界」の認識。これが人間が「可能性」を確保する方法、つまり対立命題の定立に当たるのではないだろうか。ドゥルーズが「可能性」を創造されるものとしてとらえている(ようである)。対立命題により現にある出来事が生じたこの「現実世界」以外の世界の創造を行う。これが残余の認識であり、「可能性」の創造ではないか。

・出来事の中には通時的、共時的な出来事がすべて包含されている。このことを知るには次のような条件がつく。
条件:出来事をすべて判明に読み解くことができれば。
もし無数のモナドから一つを選び取り、そのモナドに起きた出来事をすべて判明に読み解くことができたとする。このとき、他のモナドについても判明に知ることが出来る。さらにこのとき、モナドにおける認識は宇宙全体へと広がり、二つは同一のものとして合一しうるはずである。モナドはその極限においては宇宙全体つまり宇宙の極限と一致し得る(はず)。

あるモナドの極限と他のモナドの極限はする。このとき一方において他方のすべてを判明に知ることができる関係、照応関係が成立している。

2009年6月29日月曜日

サンダル

夏には欠かせない私の必須アイテムである。
以前まではいていた先代のサンダルは、2年ほど履いた結果、
大学院試験の1週間前に鼻緒が切れるという不運に見舞われた。
そして、引っ越しとともに葬ることにした。

そして、ようやく念願のサンダルを購入!!
早速履いて大学へ出かけるが、早くも左右2箇所ずつの靴ずれができた。
体への影響はサンダルに関係のないところにも出ていた。

先輩にラテン語を教えてもらうために約束の時間に待ち合わせ。
第一声が「クマ、ひどすぎですよ!!」だった。
なぜかクマが出来ていた。しかし、肝心の本人である自分に自覚症状は何もない。

昨日「MW」を一気に読んだことが原因だろうか。
眠いのを必死にこらえながら黒田アキに関する文章を読んだのが原因か。
相変わらず寝付き、寝起きともに悪いのが原因か……

今日は早めに寝たいが、読みたい本があるのでそれを読む。
友人に素敵な文章を送るための勉強であり、個人的な勉強である。



テレビ東京「ルビコンの決断」にて静岡空港の問題についての番組が放送された。
見ることができなかったが、親切な人がyoutubeにアップしてくれていた。
いろいろ書きたいことはある。
しかし、今回は一つだけ。

番組中の再現ドラマにおいて知事が静岡空港の住民投票に関する条例が議会を通らなかったとき、
「議会の決定を重んじる」と記者たちに向けて発言していた。(実際のところはわからない)
住民の署名27万人分(最低6万人分が必要)を集めたうえで、知事に住民投票の要求が行われた。
その27万人を無視して議会を重んじた。全員が同じ程度の熱意をもって署名してはいないにしても、
もっとも重んじるべき住民を、知事は、そして県議会議員たちはいとも簡単に軽んじたのである。
果たしてこれは許されるべき行為だろうか。空港に対して県民が「NO」と言えば、今までつぎ込んだ金額の損害がであるのもわかる。このとき、可能性としては「NO」もあり得た。だから否決したのだろうか。
詳しいことはわからない。

先日、東国原氏に出馬の打診があったとき、氏の諸々の発言を受けて、何人かの国会議員が「ふざけている」、「ばかにしている」と発言があったことは社会問題に疎い私でも知っている。議員などにプライドはいらない。国や人の為に働く人間であるべき議員が一番自らの地位を落とし、国民との間隙を作り出しているのではないだろうか。僕は彼らに対して「政治家」という語を使いたくはない。「○○家」と表記される職業についている人間はプロフェッショナルでなければならない。例えば、作家、書道家そして政治家。政治を勉強している訳でもないので、プロフェッショナルとしての政治家がどのような姿なのか想像もつかない。
だが、けっして人(国民)を軽んじることはない、というのが要素としてあるのではと思う。

政治家は自ら業績を作るべきではない。
彼らの業績はいつか歴史において判断されるべきものであり、判断され続けるべきものである。
政治家は自らに票を入れてくれた人に義務を返済すべきである。
不特定多数であり、顔は見えない。政治家の義務は顔の見えない将来の人々へも返済されるべきである。

理想論であるのはわかっている。
しかし、現実ばかり見ていては大きな流れを見落とすかもしれない。
ずっと前から「今こそ決断の時です!!」と言われているが、いつ決断はされるのだろうか。
世の中はのんびりと決断されるのを待っていられる人ばかりではない。

2009年6月25日木曜日

揺れる私

ここ数日、非常に落ち着いた日々を過ごしている。
あくまで、私が落ち着くのは勉強に関してである。

だが、勉強に関しても揺れている。
例えば、私の中に「貧困」というような直面している問題があれば、
経済学なり、社会学、国際関係についての勉強をすればいいだろう。
しかし、特にそのような問題はない。
哲学をやるにしても、ライプニッツを古典としてやるのか、
現代に引き上げようとやるのか。つまり、自分の立ち位置を古典、現代どちらに設けるのか。
修士は古典と決めてはいたが、現代の哲学も素敵だと思う。

ここで問題にしているのは将来の話である。
不確定なりに何らかのヴィジョンの設定が必要だと思う。
古典としてのライプニッツの研究者を目指すのか、
古典としてのライプニッツを踏まえたうえで現代哲学を研究するのか。
どちらも面白く、素敵であると思う。
周りのライプニッツを研究している先輩は前者の立場であるが、
大学時代からの先輩は後者に近い。

私のスタンスだけなら問題ないが、先輩方との付き合い方もいろいろ考えてしまう。
後2、3年は自分の決めたスタンスを守るつもりであるが、揺れ動くのである。



高校時代からの友人、高校時代に唯一会話をしていた女子がいる。
彼女はさばさばしており、私とは違い考える前に行動するようなタイプである。
先日、地元のテレビに出たらしくその映像を見ました。
感想は何か違和感を覚えた、この一言です。
活躍している彼女への嫉妬かもしれない、彼女の成長かも知れない。
ただ、話している姿に違和感を覚えた。
以前のように熱く語っていたのではなく、話を上手に伝達する術を覚え、
その技術で話しているように感じた。
この漠然としたも、何か揺れ動くものを感じさせた。



久しぶりにお菓子屋さんへ行った。
普段はお菓子を買うならば、スーパーで済ませていたが、出向いてみることにした。
お菓子の卸売の店なので、その量は豊富である。
ふとある棚の前で足を止めた。グミの棚である。
私はグミがものすごく好きというわけではない。
しかし、グミという対象は私に数ヶ月前の光景を思い起こさせる。
4月に別れた彼女が好きだったのである。
C大学に在籍していたときは生協に行き、よく買わされていた。
ものすごい勢いで食べ、気づくと私が食べる分がないことがよくあった。
勉強の合間のおやつとして買ったので、しばしば取り上げることもあった。
だが、グミをあげると嬉しそうにしていた彼女の笑顔が何よりも思い出される。

二人でしていたことを、一人でする生活に切なくなる瞬間が時々ある。
食事、勉強の話、煙草、散歩、コーヒー、映画、買い物、寝ることなど……
どれだけ依存していた生活をしていたかがよくわかる。

何かを期待している自分が嫌である。でも、完全に期待を捨てきることもできない。


私は、きっとみんなもいろいろなものの間を揺れ動いているのだろう。
引っ張られるのでもなく、突き放されるのでもなく、
ただ揺れ動いているのだろう。
しかし、自由自在というわけではないはずだ。
そこには何か力が働いている。力というよりもきっかけのようなものかもしれない。
何かを見たり、聞いたり、知ったり。

揺れ動いている、揺れ動かされている私は必死である。
その振れ幅を小さく、安定したものにするために、
何かにしがみついている。
思い出、友人、本、自分の好きなものに。
流れに逆らえばきっと振り落とされる。だから流れに、揺れに身を任せてみるのもいいかも知れない。

2009年6月24日水曜日

些細な疑問

最近は重い感じで過ごしていましたが、
快方に向かっております。

男として、人間として成長せねば。

読んでいる友人も少ないので、
のびのびやっております。

火曜日は学習院(目白)に。
授業が4時20分からにもかかわらず、毎週1時には目白にいます。
マックでコーヒー、煙草とともに勉強です。
今日はいつもより早かったので駅周辺を散策してからマックへ。

先輩とも小説、哲学の話ができ良かった。
久しぶりに晴れ晴れとした気分で一日を過ごせました。






ところで、書店をふらふらする(決して徘徊ではありません)のが趣味ですが、
女性のファッション雑誌もたまに読んだりします。

そんな中、女性ファッション誌のコーナーに衝撃の文字が……




「脱・水着!!」

えっ、まさかと思いつつ、
未だにわからない。

頼むからいろいろと文字、文章を過度に省くのはやめてくれ……

2009年6月18日木曜日

往復書簡 「善悪」

親愛なる友人へ

君の体験を読ませてもらった。
同じ状況にいたならば、きっと僕も同じようなことで苦悩していたと思う。

きっと「善悪」というわかりやすく、使いやすい二項対立がある。
僕らはこの区別を日常的には容易に用いているし、そこに問題も生じない。
でもある瞬間におそらくこの二項対立の枠の中に収まらない問題が出てくる。
それは僕らが単に枠に収めること、処理することができないだけかもしれない。
それが、僕や君が直面した問題、出来事なのかもしれない。

僕らは分類の仕方、その枠組みを知らないだけかもしれない。

「やらない善は悪」があるのだろうか。
何らかの行為をしない限りそこには善悪の区別など存在しないのではないだろうか。
君が選び取った選択肢も一つの行為ではないだろうか。
「やる偽善はまし」なのだろうか。
もしこの考え方に基づいて僕が行為したならば、
今回同様、僕は自分の行為とそこにある自己満に苦悩することになるだろうと思います。

僕たちが直面する問題も、
今回僕が直面したように個人的な場合、
君が直面したように背景に社会状況、国、国際問題などが隠れている場合があるのではないだろうか。
偽善の問題も背景がいろいろな区別の仕方があるのだろうし、
善悪の区別にしても単なる二項対立だけでは処理しきれないのではないだろうか。

僕は何か見返りを求めている自分が明確に存在していることが、
苦痛である。
満足している自分、褒められたい自分……
自分がある理想の為に嫌悪し拒絶していた姿を自分の中に観ている。
この状況が自分自身を嫌悪の対象として見させている。

結局は自分が問題なのだと思う。
偽善的である自分、満足している自分、それを俯瞰的にみている自分。
すべてが嫌悪の対象である。
偽善的であるというよりもむしろ僕は自己中心的なだけかもしれない。
それも普通に人が自己中心的であるというよりも、それよりもさらに自己中心的なのかもしれない。

そんな解決の仕方はないだろうし、解決にはなっていない。
うまく整理して書くことができなのが悔しい。

この問題には悩み続けるだろうし、
きっとまた何らかの出来事に直面するだろうと思う。幾度となく。

往復書簡 「罪と罰」

親愛なる友人へ。

私は「偽善」の問題に直面しています。
「偽善」をテーマとして考察を行っているのではなく、直面しているのです。
久しぶりに封印していたこの問題について綴りたいと思います。
(直面しているので主題ではなく、あくまで問題なのです)

僕が政治思想、特に革命から勉学の道に入ったことは周知かと思います。
そこでは、「純粋さ」と「(信念に近いものとしての)善」が一つの問題であると考えておりました。
これは大学1年のときの話ですが、同級生の一人とメールのやり取りをしていた時のことです。
彼女は「弱い立場の人たちの為になることをしたい」と言ってました。
角ばかりの血の気の多い青年であった私はためらいもなく噛みつきました。
僕の主張は以下のようです。

「国際協力の分野などで「人のため」をスローガンのように掲げているが、
 それは偽善だと思う。そのスローガンを掲げている人の圧倒的多数は「人のため」の背後に潜んでいること を黙殺している。そこには弱い人たちに何かをしてあげている自分に対する満足つまり「自己満」があ   る。それを後ろに隠して「人のため」というのは偽善に他ならない。
 「偽善」とは悪よりもたちが悪い。」

このようなやり取りの中、彼女は泣いていたことは後から知りました。
それを聞いても基本的なスタンスは変わっていません。
いつしか、自分の行動の一々を自ら監視するようになり、僕は疲れてしまい、
この「偽善」の問題と関わる限りで学問を拒絶していたのだとふと思いました。
だから、ある種「純粋に」何らかの真理を探究し、ある意味、自己を欺ける余地のある哲学を選んだのかもしれません。
もちろん純粋にライプニッツを尊敬し、敬愛してやまないのですが。

封印してから時々思い出すことはあるにしても、今回打ち明けているように表面的、内面的に問題として浮かび上がってくることはありませんでした。自らそこにストップをかける装置を無意識に開発していたらしいのです。

しかし、最初に書いた通りこの問題に私は直面しているのです。
きっかけは今日の出来事です。
友人とご飯を食べ、楽しくお茶した後、夜10時過ぎに帰宅するため駅のホームに上がりました。
ベンチでうなだれ、うずくまっている女性が一人いました。
そばにはおそらく彼女が嘔吐した形跡がありました。
よくあることだと思い、電車にの乗ろうとしましたが、気が重い。
電車を2本乗り過ごし、自販機で飲み物を買い、彼女に「大丈夫?」と声をかけました。
どう見てもしばらくは大丈夫ではない。しかし、私は飲み物も渡せずに電車に乗りました。
自らの気の重さを晴らそうとして、声をかけた。一応はそのことで満足し、気が晴れた気がした。
でも、自分が嫌悪していたはずの中途半端な善的行為、つまり偽善的行為をした。
そのことに気づき、後悔の念が増幅していくばかりです。
電車のドアーが閉まった瞬間から、終電の終わった今でもあの女性が気になります。
中途半端に一般に言う良いことをしようとした報いが今の苦悩なのかもしれません。

これが引き金となり、自分がとっさにしたこと、そのことへのお礼を欲しているのだと、
気づいて過ごしていた昔が苦痛すぎたことが思い出されます。

褒められることの少なかった私は、褒めれることを欲している。これは事実である。
その結果としての行為がとっさか否かを問わず、偽善的でないはずがない。
私が他人に対してとる行動はすべて偽善へと還元されてしまうのではという恐怖に怯えています。
偽善を嫌悪していたはずの自分の行為が、すべて偽善に還元されてしまうならばと考えてしまう。
僕にとって「偽善」に関する問題は社会的なものでも、倫理的なものでもなく、
常に私の、個人的な問題なのである。だからこそ、苦悩する。

完全なる善は、この世界では嫌われ、除外される。
キリストがそうであるように。つまり、人は完全なる善としては行為できない。
そのことは分かっている。わかっているからこそ、この問題によって生じた間隙にはまり込んでいるのである。

非常に支離滅裂であるが、君もこの問題つまり「偽善」に関する問題について
考えていたのならば、ぜひ意見を聞かせてもらいた。

2009年6月15日月曜日

家族

「家族」。
よくテレビや、小説のテーマに挙がる。
いったい何なのだろうか。

よくわからないが家族っていいな、と思う。

姉の結婚式があり、親戚も含め家族が集まる。
そして、新しい家族が増えた。

東京に出てきて4年が経ち、5年目になる。
年々、日々、家族っていいなと思う。

当分先の話だが、家族を持ちたいと思う。
きっと楽しくなる気がする。
就職していれば、もっと現実的な話なのかもしれないが、
僕にとってはまだまだ夢のような話である。

友人で現実味を帯びてきた結婚にいろいろと悩んでいるやつもいる。
僕は話を聞いて答えれることを答える。
彼が結婚するのはいいことだと思うが、
時期やら、いろいろ難しいらしい。

でも、素敵なことだと思う。
羨ましい……

2009年6月12日金曜日

黒田アキに誘われて

昨日より読み始めた『水声通信』の黒田アキ特集。
目白にある学習院への往き帰りで山手線を一周しながら読み進めた。
まだ半分ほどしか読んでいないうえに、内容についてわからない部分もある。
しかし、書きたくて仕方ない。
しゃべることは汚く、書くことは良い。
そのようなことをドゥルーズが言っているらしい。私の書くことも汚いであろうが、
書きたいという衝動に駆りたてられる。

詩、小説、映画は一つのモチーフを中心にし、その周辺を登場人物、事物に運動させることにより時間を物語の中に作り出す。我々が読む、観るというその作品を認識、感覚する行為自体が時間性を伴わざるを得ない。
注意を作品に向ける行為こそが3つの芸術と時間とを不可分なものにしている。
しかし、絵画はどうだろうか。
絵画、写真は時間の流れに一つあるいは複数の切れ目を入れることで、場面を切り‐取る。
そこには時間を感じさせる風景(夕日、走る電車……)があったとしても、絵画という表現方法によってそこに時間を作り出すことは不可能である。
我々は絵画を見るとき、直感的に全体を把握し、その静止した細部をくまなく見る。
鑑賞者の行為自体は時間のかかるものであっても、対象の方から我々の感覚に時間的に働きかけてくることはない。
小説、映画において我々は受動的鑑賞者としてもいれる。あくまで情報は与えられるのである。時間的な流れの中に身を投じることを動的芸術は要求する。時間の流れの中に身を投じることなしに我々は小説、映画を読み、鑑賞することはできない。

しかし、静的であるはずの絵画において黒田アキは時間をその中に描き込む。いや、彼の作品は常に動的な闇へと観る者を落とし込むような恐怖を感じさせる。
それは彼の作品として完成させるまでの過程にある。細かなもしくは大きな作品、大作と呼ばれるものを作り上げるときに他の画家たちが時間をかけるが、彼は常に時間とともに作品を仕上げていく。
マルグリット・デュラスが黒田の個展のために描いた文章によると、黒田は『闇』を書くとき、
まず画布を白く塗りつぶす。乾くまでに数日、数週間かかる。そして乾いた白く塗られた画布の上を黒で覆いだす。この黒が乾くまでにまた数日、数週間と時間は経過していく。この段階でデュラスは「私には、時間の厚みが見えはじめる」と述べている。
そして、塗られた黒が乾き、画布から白の画布、そして黒の画布となったその画布に黒田はカミーユ・ファランが「夜の仄暗い破片の中に潜む生命と光の呼吸のよう」と形容する白い線を書き入れる。夜は持続性の中で反復される。白い線を解きほぐしてしまえば、その夜が何であったのかわからなくなる。

これらの作業、行為フィリップ・ラクー=ラバルトは台風(サイクロン)の通過という比喩を持ち出して語る。サイクロンが通過した後には、台風の眼のような奇跡的な瞬間があるにしても、荒廃しか残らない。
通過した後に荒廃として残ったものが黒田アキの絵画である。

ここで話を一旦区切りたい。
インタビュー、哲学者、文学者からの批評、そして黒田自身の言葉の中に「コスモガーデン」という言葉がある。まだまったくつかめていないが、これはつながりのあるミシェル・セールが処女論文『ライプニッツのシステム』において展開させているまさに「ライプニッツのシステム」ではないだろうか……

芸術と哲学

よく文学作品について哲学者がそのモチーフ(主題)について文章を「書く」ことがある。
あえて「語る」と言わないことには理由があるが、それはいずれまた。

特に現代になるにつれて文学が哲学的主題を引き継ぐことが多くなった。
昔からあっただろうが、それが表面的なものとして出現するのは現代からではないか。
哲学的主題を文学が引き継ぎ、その文学のモチーフを哲学が引き継ぐ。
現代において哲学と文学の関係は強固なものへとなっている。
実際に読んだことはないが、ジョルジュ・バタイユ、小林秀雄、ミルチャ・エリアーデ、福永武彦、
埴谷雄高がいるし、現代思想が社会問題を扱うように、
文学でも三島由紀夫などが切り口は違うが似たような作業を行っているのではないだろうか。
エリアーデの幻想小説『若さなき若さ』は昨年コッポラが映画化した。
『コッポラ胡蝶の夢』というタイトルである。
これは文学部の先生に勧められた作品である。実際に観たが、主題としてライプニッツの「可能世界」を扱っていると考えても問題はないはずである。

哲学が扱っている(扱っていた)モチーフを芸術が引き受けることが多くなった。
現代になり芸術内でも手段が豊富になった。
詩、文学、音楽、映画そして絵画……
詩と哲学の関係では個人的に好きなルクレティウスがいる。
彼のやっていることを何らかの形で引き継いでいる人物としてミッシェル・セールの名を挙げても差し支えないであろう。
文学は先に挙げたとおりである。
音楽ではバロックの時代を象徴するバッハ。彼が意図的に哲学的な問題を引き継いだというより、
彼の音楽はその時代に共鳴したものであっただろう。「歪んだ真珠」であるバロック。
歪なものの中にある調和、これが時代の主題としてあったのかもしれない。
映画については昨年ようやく完結したドゥルーズの『シネマ』がある通り、
映画の中には哲学的主題として観ることができる要素が多くある。
先日観たヴィム・ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』などがある。
これは宗教的な主題があるのかもしれないが、中世以降、哲学と宗教の関係は密接である。
(こんな大雑把に言ってしまうと先生に怒られそうであるが……)

今日、本当に書きたかったのは絵画についてである。
理由は以前より好きで気になっていた黒田アキについての特集が『水声通信』で組まれていた。
これをきっかけにいろいろと調べてみるととても素敵な人であることが分かる。
先日オープンしたモーブッサン銀座店。
内装デザインを手掛けたのが黒田アキである。
来週予定があえば、友人と見に行く予定である。

今晩、特集を読むか、古川日出男を読むか悩んでいる。
おそらく黒田アキの特集だろう。
読み終えたら、画集を購入したい。さらにはフランスで作っていた雑誌『Noise』を大学にあれば、
セール、デリダ、そして黒田アキの文章をコピーして読みたい。
(雑誌の名前は「ノイズ」ではなく「ノワーズ」である)

勉強会をサボり、図書館でラテン語の勉強をした。
先日から学部以来、久しぶりに図書館にこもりだした。何と楽しいのだろう。
体調も良くなりつつある。
あと1ヶ月ほどで前期が終了である。
一つでも多くのことを学び、成長の印を残していきたい。

2009年6月11日木曜日

根拠のない私

「根拠のない私」などライプニッツ哲学の原理の一つである充足理由律で一発解消。
「すべてのものには理由がある」これが充足理由律である。

今日、黒田アキについてのんびりと考えつつ、
ライプニッツへの片思いと梅雨入りに憂鬱になる。

しかし、ライプニッツについて考えていて根拠のない論を立てた。

ライプニッツを相互主義、折衷主義と形容することはよくある。
前者に関してはミッシェル・セール、後者に関してはラッセルがそうであったと思う。
僕の関心は特に前者の側である。
ライプニッツ哲学における諸原理、諸概念をそれぞれ相互的なものとしてみる。
その相互的な諸原理、諸概念が複雑な体系(システム)を形成する。
複雑なシステムを形成するのであるが、
出来上がった体系自体は非常にシンプルなものとして成り立っているように思う。

『モナドロジー』、『形而上学叙説』は形而上学の領域を中心にしている。
モナドという概念はその代表格であるとおもう。
しかし、形而上学の領域は現実の領域と何らかの相互性がなければならない。
もちろん「ならない」というのは、ライプニッツを相互主義と形容するならの話である。
先ほどあげた著作では形而上学の領域に属するであろうシステムが非常に簡潔に書かれている。
この簡潔さは複雑さと対応しているはずである。
これがおそらく現実、現象と呼ばれるものであろう。

つまり、現実の豊かさ、複雑さを肯定するための形而上学の体系の簡潔さ。
そうでなければいけないのではないだろうか。

先日、読んだ本に書いてあったことからの大雑把な拡大解釈である。
このシステムの大枠についてやるには、個々の原理、概念をつぶさに見なければいけない。
少しずつ観ていければと思う。

僕の好きな哲学者ミッシェル・セールの『自然契約』における、
一番好きな文章は相互主義者としてライプニッツを発展させ、
自らの哲学、思想を発展させたから言える一言なのだろう。

僕もいつかその一文をきちんと根拠とともに言えるようになりたい。

2009年6月3日水曜日

『失われた肌』

半月ほど前に渋谷にある「ヒューマントラストシネマ文化村通り」にて観てきました。
この映画にまつわる個人的な話はさておき……

主演のガエル・ガルシア・ベルナルが目的でした。
彼は『モーターサイクル・ダイアリーズ』以来、大好きな俳優です。

今回の映画は結婚11年目にして別れて別々になったはずの夫婦の物語。
こんな風に書くと単なる恋愛映画になってしまう。
そもそも、観た映画を忘れないように書いているつもりが、
批評のようになっていたらショックである。
書いている動機も、その内容もあくまでも“個人的なもの”なのである。

人は失恋し淋しさを感じるとき、
次の恋へと向かうときに何を求めているのだろうか。
そして、恋愛の最中にあっては何を求めるのだろうか。

理想の恋人か、付き合っていた相手、付き合っている相手の優しさなのだろうか。
そもそも、交際相手に求める条件でよく1位に挙げられている「優しさ」。
これを挙げている人を僕は恋愛において信用してはいない。

僕の個人的な嫌悪感はさておき、
人は愛情を暖かいものだと形容する。
それはきっと、幼き頃に抱かれていた母の、父の腕の暖かさであり、
好きな相手とつないだ手であり、抱きしめた肩であり、胸の暖かさである。
肌により愛情を感じ、包まれているという暖かさを感じる。

ならば、失恋とは相手の喪失であり、
同時に(相手の)肌の温もりの喪失でもある。
幼年期を過ぎ、少年、青年へと年をとるにつれて、
親の肌の暖かさを感じる機会は減り、なくなる。
それでも人はその「失われた肌」の暖かさを求める。そこから恋愛が始まる。
失恋して、立ち直る手段として新たな恋を見つけることに向かうのも肌の暖かさを取り戻すためである。

そんなことをこの映画を観て感じ、考えた。
すごく粗い考えではあるが、恋愛を考えるときに、直感も大事ではあるが、
経験的に感じていることのできる感覚の側面も大事であると思う。
単純な発想ではあるが、喪失したものの回復ということは色々な場面において見受けられる。

今回は映画と兼ね合わせて「恋愛」と「肌」を当てはめて考えてみた。

2009年5月28日木曜日

恐怖

勉強をしていることに恐怖する。
先が見えないとか、生きていけるのかとか、
当たり前のことに対してもそうである。

しかし、知ることへの恐怖というかおびえもある。
知ってしまっていいのか?
人間は知ることを欲するというが、本当にそうなのだろうか?
知ることを恐怖し、拒絶している人もいるだろう。
そう考えると、知ることが怖いことであるようにも感じる。

先日、友人を捕まえて長々と電話した中で「希望/不安(絶望)」と「孤独/愛」は表裏一体。
この構造があるのではと話をしていたが、
知ることも善悪の二面性があるのだろう。
よくある議論のように二面性を語ることは下らないことのように思える。

話はかわるが、社会人の友人との距離感が難しい。
高校時代の友人が仕事を辞めたと聞き、直接は聞いてないので、
何気ないメールをしてみたが、返信がない。
彼はものすごく迷惑をかけたが、よき理解者の一人である。だから心配である。
しかし、友人に対して思いやりを持ち、心配している自分に何か優越感を感じているのかもしれない。
辞めた友人を見下している訳でもなく、馬鹿にしている訳でもない。
ただ、同情している自分に対して優越感を感じている。
社会人の友人の多くは自分のこういう面に気づいているのかもしれない。

きっと忙しいのだろう。そう思うことで自分を慰めると同時に、
負けるもんかと鼓舞させている。

久しぶりに人に会うとき、成長していない自分を見せるのは嫌である。
急成長を望めるほどの才能もない。鈍牛の如く一歩ずつ進んでいくしかない。

2009年5月26日火曜日

一日を4単語で

すごしてしまいました。
他大学院の授業がありましたが、最近の変な体調のせいで
寝過ごし、諦めて大学へ向かい図書館でラテン語のお勉強。

辞書を引くのは早くなりましたが、
翻訳をするとき、単語同士をくっつけるのが難しい……
文法もフランス語のときと同様後回しになっているので、何とかしたい。
月曜日の発表、パソコンにログインできず、印刷のシステムもわからず、
30分遅刻……それでも、先生は優しく授業終了後に話していると、
「今度、卒論を見せてください」と恐怖の一言を。

僕の好きな本を書いている方も快く卒論を見てくれると言ってくださっていたのですが、
怖くて未だに送っていません。愛想尽かされてしまっているんだろうとさらに恐怖する。

今日一日を振り返って、4単語というか4会話しかしていない。

1、コンビニでタバコの番号を指定する。
2、そのお礼に「ありがとうございます」と返す。
3、スーパーでカードを持っているか聞かれ「持ってません」と返答。
4、お箸はお付けしますか、と聞かれ「大丈夫です」と返す。

以上、今日の会話でした。
授業に行けば、先輩が二人出ているので会って、会話やら、鯛焼きを食べるやら、
あったかもしれませんが、今日は話したくない日だったので、登校拒否をしました。
勉強の基本は授業。
そんなことを言っている人もしましたが、
とりあえず今日だけは耳をふさいでおきます。

今日はレバニラ炒めを買ってきて食べたので、明日は元気になっているかと思います。
明日になれば普通に人と会話できるといいな、と思います。

友人を捕まえての会話もなんか申し訳ないので、
「飲み会」という名目を借りてお話でも……

ここ数カ月で話し相手が一気に減り、ちょっとさみしいですが、
福永武彦に励まされ、孤独もいいものだと思い込み、一人宙を漂う毎日です。

2009年5月25日月曜日

『椿三十郎』

勉学に励むとともに、映画や文学にも触れようと思った。
先日、日記に書いた姉の結婚式(披露宴)の最後の演目は、
兄の父の演武でした。しかも居合!!

その最後の型が黒澤明の『椿三十郎』で三船敏郎演じる椿三十郎が、
仲代達矢演じる敵を切るシーンでした。

そんなこともあり観てみました。
三船敏郎はかっこいい。映画も面白い。

ストーリーは省略します。観てください。


観ていると、熱意をもった若者に方向性、知恵を与える三船。
まるで、プラトン『国家』の洞窟の比喩に出てくる哲学者。
哲学者が光の中へ導くのを拒否する人もいる。
人は世界を見たくないのである。

しかし、映画の中の若者は変革への意志がある。彼らは光の中へ導かれるのを望んでいる。
ただそれだけなら、啓蒙を促すような映画の類である。
そして、そんな映画もよくある。環境問題を危惧するような映画やらなんやら。

ここで若者だけではなく、導き手である三船も問題となる。
彼は「鞘のない刀」と呼ばれ、自身もそうであるという。
最後の場面において若者たちに向け「大人しく鞘に収まっていろよ」と忠告する。
だから、三船演じる椿は仕えることや、とどまることはできない。
そうでないと、自身が刀となり、周りを切ってしまうからである、と思う。

幽閉されていた偉い人(名前は忘れたが、自称「馬面」である)は、
自身は不正を暴くために色々と証拠を集めていたが、
若者たちはそれを知らずに行動しようとしていた。そして、多くの犠牲を出した。
若者たちは当然、上司である「馬面」に謝る。
それを「馬面」は「君たちが謝ることはない」と返し続けて
「私に人望がなかっただけだ」と返す。これこそ懐の深さだと単純に思ってしまう。

織田裕二が主演で椿三十郎がリメイクされた。
そちらがどうなっているのかも気になる。

それにしても、何かと哲学や政治思想につなげて考えるのは悪い癖かもしれない。
だが、最後のシーンの三船のかっこよさ、これを見ただけでも満足である。

2009年5月22日金曜日

空腹とともに

今日はライプニッツの勉強会だったが、
体調不良を理由に早退をした。
中学時代からたまに使う逃走手段である。

大学院に入り2カ月くらい経ちます。
先輩方にお世話になりながら、語学を中心に勉強しています。
しかし、学部時代の最後1年半を基準にしてもわかるように、
勉強していない部類に入る。確実に。

今日は講義とラテン語(聴講)の授業に出席。
確かに夏バテ気味で体調は悪いが、勉強会に出れないほどではない。
出なかったのには理由がある。

先輩たちと勉強をしていると先輩たちは一致している意見でも、
僕の中ではちょっと違う気がする。
そんなことがよくあるのだ。自分が勉強していないだけかもしれない。
本日出席した講義でライプニッツの話が出てきたが、
そちらのほうが意見は合う。僕の考えていたことに近い。

先輩達はライプニッツを古典として研究していらっしゃる方で、二人とも優秀である。
ラテン語、フランス語、知識量のどれをとっても優秀である。
講義の先生はまだ若いドゥルーズの研究者。

僕の考え方はミッシェル・セールの影響もあるので、
時代的にもドゥルーズに近いものがあるだろう。
卒業論文の内容も正統なライプニッツ解釈から外れている部分を書きたかった。
直感的に考察を加え、解釈や意味を限定していくことで開放したかったのだ。



それならば、ライプニッツとセールをしっかりと勉強してみようかしらん。

2009年5月19日火曜日

兄弟が増えました。

先日、姉の結婚式がありました。
金曜日に渋谷で映画を観た後、千葉へ直行しました。

土曜日は朝から大忙し。
母と妹はホテル内の美容院へ行き、母は着付け、父もモーニングを着て……
私はスーツを着るだけ。支度だけなら15分程度でした。
(その内半分は髪型……)

カメラ担当の私はとにかく暇でした。
親戚のおばさん達には「わからなかったよ~」を連呼されました。

挙式はチャペルで行われました。
扉があき、姉がヴァージンロードに登場。
姉の隣に立っていた父は既に泣いておりました。

祖母は大泣き、祖父も久しぶりにお酒を飲んでいたし、
いとこが10年ぶりくらいに全員そろったし……

何よりも小さい頃あこがれていた“兄”ができました。
今までも兄弟のように接してくれていましたが、この日からは本当の兄弟です。

そして、2次会、3次会と参加しました。
兄の友人、姉の友人。多くの人たちが祝ってくれていました。
姉の友人には地元で何度か会っている方もおり、構ってもらいました。
3次会のカラオケには到着直後に「弟からのプレゼント」という名目で歌わされました。
兄の地元の友人で一人ものすごく気の合う方と話していたりと楽しかった。

この日一日で何人もの兄、姉ができた気がします。
とても、幸せそうなみんなの写真がうまく撮れていればいいのですが、これだけが心配です。

2009年5月15日金曜日

ロンリー論理

いきなり下らないタイトルで初めてしまいましたが、今のテンションを考慮してください。
僕が現実逃避のため爆発的睡眠状態にあるとき、友人かメールが届いており、「哲学において、論理的であることの重要性ってどの程度とかれているもんなの??」とのことです。僕は論理学を専攻しているわけでも、きちんと勉強したわけでもないので、応答できる範囲で応答します。

応答するといっても、自分の範囲に近づけるしかない……ライプニッツ!!
この時点で所謂ネタバレ兼オチですね。それでは始めてみたいと思います。
ライプニッツは論理学をしっかりとやった人です。天才ですから、現代論理学に通じている部分もあると論理学の先生が以前学会のときに言っておりました。そのくらい天才であり発想の豊かな人です。
彼の時代はホワイトヘッドにより「天才の世紀」と名付けられた17世紀です。同時代にはデカルト、スピノザ、アルノー、マルブランシュとまさに天才という名のふさわしい面子がそろっています。
時代背景を考慮すると、神にしても、思考にしても確実なもの、揺るがないものが真理の基盤として求められていたと思います。大雑把すぎますが、きちんと読んでいないのでここは流してください。
何らかの基盤として確実なもの、揺るがないものをどこに求めたのか、デカルトの場合は以前からあった懐疑論を省察することで「思惟するわれ」といわれるものへと導きます。デカルトは偉大な数学者でもあったので、数学的思考と哲学的思考は全く別物ではないはずです。
スピノザは主著「エチカ」の記述方法は数学のような厳密な体系を目指して、数学の証明のようにして書かれています。このような記述方法はライプニッツにも影響を与えているようにも思います。

さて、ライプニッツですが、ライプニッツは偉大な数学者でもあり、論理学も当然やっていました。ライプニッツ哲学の重要な原理に「矛盾律」があります。「AはnonAではない」当たり前のことです。さらに矛盾律は同一律の言い換えである、つまり「AはAである」、こちらも当たり前です。前者を「A≠nonA」、後者を「A=A」と記号で表記できます。この表記は論理学の本を立ち読みでぱらぱらとめくっても見当たるような表記方法だと思います。さらに良く見てみると数学の記号を用いています。ライプニッツは数学における真理を必然的真理、永遠真理と呼び高く評価しています。とすると数学的に表記できる矛盾律、同一律そして論理学全体にある種信頼を寄せていたのだと思います。このように表記することでこれらの原理は書くなものとなるでしょう。

さらに「個体概念」についても論理学の領域で説明がされることがあります。「述語が主語に内在する」と言ったときや、可能性を確保するためには命題「カエサルはルビコン河を渡った」という命題に対して、対立命題「カエサルはルビコン河を渡らなかった」というように論理命題として矛盾しない命題を措定することができれば可能性を認めることができるとしている。ここではカエサルが実際には渡っているという現実世界の事実に反する命題であっても問題はない。あくまで無矛盾性が問われているのは対立命題それ自体に矛盾が含まれているかどうかという論理学における命題の問題なのである。これにはさらにいろいろと分析などもっとしっかりした根拠があるのだがこのあたりで止めておきたいと思う。

話を元の質問に戻して考えてみよう。哲学における論理的であることの重要性とはおそらく数学的に表記できるという確実性である、つまり少し大袈裟にいえば間違いなく真理を記述する方法であると言えるだろう。そして、ライプニッツに関しては論理学の領域で話をすることの利便性も考えられるはずである。記号操作、例題の提示、少ない論述で定義などを行うなどである。

質問の答えになっていなく、十分な内容でもないかもしれない。全部読んで実のない話だと思ったら罵詈雑言は甘んじて受け入れます……

2009年5月10日日曜日

憧れ

顔も名前も全く知らない人を羨ましいと思った。
すごいと思った。

夜中の静かな住宅街の帰り道は考えていることを残酷な方向へともっていく。
残酷な現実をより堅固に作り上げていく。

憧れなのか、悔しさなのか。
どうしようもないことなど百も承知である。

百の前向きな発言をしても、
一言の事実が僕を後退させる。

そもそも前を向けとか、きっといい人が……、誰かがきっと……
前ってどこ?目のついてるほうを見れば良いの?
きっといい人がって誰?
誰かがきっとって、誰でも良いわけじゃないんですよ。

どんなに凹んでも勉学だけは自分の能力に絶望しても、
僕を裏切ることは絶対にしない。
だから、また頑張ろうと思う。

2009年5月9日土曜日

「可能性」について(講義のまとめ)

先日出た講義はベルクソン、ドゥルーズの可能性について行われた。
ライプニッツを下敷きにして「可能性」について少し考えていた自分としては触発された。

決定論VS可能性

まずはこの対立への懐疑から始まる。
簡潔にいえば、すべてが必然的である世界に対して、
選択することによって世界を構成する可能性。
しかし、可能性を選ぶということは、選択肢の中ら一つのものがある種「必然的」に生じてくる。
選択するものの中には必然的に現実化するものがあるのである。
つまり、決定論に対抗すべく導入された可能性こそが決定論へと陥れる原因である。

これに対抗すべく考えられたのが、
措定されている可能性ではなく「可能性の創造」である。
ある出来事が生じた地点へと回帰して、そこに別の可能性があった、
という創造を行うことにより可能性を創造、確保することである。

これは私が以前より考えていたライプニッツの可能性、
つまり「事後的可能性」に通じているのでは、と考えられる。
ライプニッツの可能性はある出来事つまり命題として成立したことにたいして、
その対立命題を立てることにより可能性は成立する。
ライプニッツの命題は現実か単なる命題かを問わず事後的になる。
可能性の確保についてライプニッツは対立命題を作るだけで十分であるとしている。


久しぶりにまじめなことを書いて疲れた……

2009年4月24日金曜日

『友情』

「君よ、仕事の上で決闘しよう。君の残酷な荒療治は僕の決心をかためてくれた。
今後も僕は時々淋しいのかも知れない。しかし死んでも君達には同情してもらいたくない。
僕は一人で耐える。
そしてその淋しさから何かを生む。見よ、僕も男だ。参り切りにはならない。」
(『友情』 武者小路実篤)

武者小路実篤の『友情』の一節である。
単なる三角関係の中の男女の話ではない。
男は好きな女について考え、男はそんな友のことを考え。
二人の友情は最後まで崩れることはない。
友人同士は何によって結ばれることにより「友情」を得るのだろうか。
日常において気安く口にしているものは「友情」ではないだろう。

我々の日常に溢れており、大衆化し、軽薄になった「友情」というもので結ばれている関係と
この小説における二人の間の「友情」との違いはなんなのだろうか。
同士、戦友とも呼べるような関係なのだろうか、
それとも互いに変わることのない尊敬の念なのだろうか。
ふと、プラトンの『饗宴』に友愛についても書いてあった気がするが、
読んだのが3年前なので内容がなかなか出てこない。読み返してみる価値はある。


それにしても、引用した文章は今の自分にぴったりではないか!!
小説というのは常に変わることなく文字が並んであり、体裁を整えてある。
さらには、なんとなく読みだしたものに、
自分のほしかった言葉が偶然見つかるということもある。
なんとも都合の良い相方とも呼べる存在なのだろうか。

まさに自分にとって都合の良い友人である。
彼は僕の問いに対する答えを何年、何十年、何百年も前から用意してくれている。
僕がそれを見つけることなど期待していないだろうが、
常に用意してくれている。
頼りになる。

現実に付き合う友人が実際に僕にかけてくれた言葉。
同情の気持ちより発せられた言葉よりも、僕を喜ばせてくれることもある。
それはさておき、現実が顔があり、「対話」という行為をできる友人もまた大切である。
偶然発見した本の中の一節、友人たちとの関係。
それぞれによって自分は肯定されている、と感じる。
僕がほしいのは同情の言葉でも、真理の言葉でもなく「肯定」なのかもしれない。

2009年4月19日日曜日

『家守綺譚』

タイトルを付けるのが面倒なので読んだ本のタイトルを拝借している。
梨木香歩『家守綺譚』。
梨木香歩は『西の魔女が死んだ』以来二冊目である。
僕は彼女の作品が好きである。

ストーリー構成、描写、表現力……
他にも評価するときの注意点はあるだろうが、
僕にはわからない。

しかし、彼女の本に出てくるたくさんの植物たち、登場人物たちが
作り上げているゆったりとした空間が好きである。
『家守綺譚』の目次を見てもらえればわかるが、
目次に出ているのはストーリーに沿ったものではなく、
植物の名前の羅列である。なので読みだすまでは話が掴めない。
読みだしても結末を先読みすることができない。

この本に「花」を添えているのは本当に「花(植物)」たちである。
電車の中でのんびりと読んでしまった。

読書することでのんびりできるので、勉強は少しせかされて世間の時間に合わせてみようと思う。
久しぶりの仏語もなんだかんだ読めているが読み方、訳し方が粗い。
羅語に至っては3行の文章を訳すために単語を調べるだけでほぼ一日の活動は終わる。
まだ始めて1週間。夏までには何とかしたい。

小説はしばらく女性作家しばりで行こうかしら。
数時間後にこの宣言はたぶん撤回されるかもしれないけどね……

結局は何を書こうとしたのかしらん……

2009年4月10日金曜日

『青春の終わった日』

数回お会いしたことのある清水真砂子さんの自伝である。
清水さんは『ゲド戦記』の翻訳者であり、
児童文学などを教えていらっしゃる素敵な方である。
学生が好きな人で、声や笑顔も素敵である。

だいぶ前に読んでいたのだが、エピローグが気になり、
久しぶりに開いてみた。


ふいに目の前に一本の道が見えた気がした。この道をいくしかない。
その瞬間静かな喜びがからだを満たした。終わった!解放された!自由になった!
私はこの時、はっきりと青春が終わったことを感じた。うれしかった。
たくさんの選択肢があるように見えたとき、私は不自由だった。
あれもしたい。これもしたい。あれをしようか。これをしようか。私は苦しみ、いら立った。
あんなふうにもなりたい。こんなふうにもなりたい。
そのくせ、何をしたらよいか、わからないままだった。


少し長いが僕の好きな個所の一つを引用した。
選択肢があるのは青春特有の悩みなのかもしれない。
だから、いくつになってもやるべき一つのことのない、ずっと≪青春≫の人もいる。
やるべき一つのことに気づいたとき青春が終わり、自由になり、解放される。
しかし、これは就職とは全く無関係である。実際に著者である清水さんがそう感じたのは、
彼女が27歳になったときである。

自分にはやりたいことがある。
自分の青春が本当に終わったのかはわからない。
でも、この4月で僕の青春は確実に終わりに一歩近づいたのだと思う。

清水さんのように明確な日付をもって青春を終えることができたら、
その日は素敵な輝いた一日になることだろう!!

2009年4月8日水曜日

『愛と死』

なぜ、こんなにも恋愛小説が多いのだろうか。
彼女に振られた今、僕は恋愛小説の多さを恨む。
しかし、男はロマンチストであると思う。
一般論ではなく、個人的な意見である。
「至上の愛」とも呼べるものに憧れているのではないだろうか。
女性の方が現実的であるというのも個人的な意見である。

生まれて初めて武者小路実篤の本を読んだ。
題は『愛と死』である。

僕は死別したわけではない。
だから、彼の気持ちはわからないが、
どこか自分と重ねてしまう。
おそらく「突然の別れ」と、なにより主人公その人に、
何か通じるものを感じる。

実家から東京に戻り、親には別れた事を言えずに今に至る。
大学院生としての生活も昨日の入学式がありようやく始まった。
今日からは既に授業が始まった。
先輩には彼女の事を気付かれないようにしていたが、
どうやら彼女が連絡していたらしく、出会いの機会を作ってくれた先輩に聞かれた。

ようやく分かれてから一週間。
「彼女の優しさ」を付き合っていたとき以上に感じている。
俺はきっと幸せ者なのだろう。
でも、一人で行く本屋、CD,DVD選び、服選びはひどくつまらない。
今までは彼女に頼っていた部分を一人でこなしていかなければならない。
成長のチャンスである。

大学院進学は自分で選んだ道だが、不安ばかり。
一年前に彼女の感じていた孤独がようやくわかるようになってきた。
自分で選んだ道ではあるが、
背中を押してくれた「彼女の優しさ」に応えれるように努力したい。

2009年4月3日金曜日

新しい出発に。

4月1日に彼女と別れました。
実質、振られたということです。

恋人から戦友へ。
一緒に戦いと休息を共有できる友人、つまり戦友だということです。

好きな人ができたと言われたら引くしかない。
今まで何度かの交際を経て、それくらいのこと分かっています。
かっこ悪くてもいいのかもしれない。

でも、今回ばかりは憤怒する気にはなれません。
僕にとって彼女が素敵過ぎるから。彼女が好き過ぎるから。
でも、自分でも実感のないまま納得しているのでしょう。

大学院生になるための覚悟。
「普通でいること」に力を使うような世界でしょう。
そんな不安定な時期に彼女に迷惑をかけたくはない。
僕の心が狭くなったときが僕たちの終わりだと思っていたので、
少し早めに終わりが来ただけなのかも知れません。

今回に関しては憤怒する気すら起きない。
ただ綺麗に引ける、そんな引き際だったからではなく、
どこかに彼女の優しさを感じたからかもしれません。

きっと常に感じれていたんだと思う。
だから、素敵すぎた1年9ヶ月。

彼女とはこれから何度となく線が交点を持つでしょう。
その交点ごとに僕は成長をみせていきたい。

桜の季節になると去年、2人で行った花見を思い出します。
幻想的な風景の中の桜と彼女、そして俺。
世界は2人だけでした。ビールを買い、煙草を吸い、
何かについて語り合っていた。
少し寒かったが、暖かな空間だった。


桜、「優れた美人」は僕にとって彼女だった。