2009年7月3日金曜日

レポート以前 断片として

そろそろレポート提出が近い。久しぶりに目白へ行ったが、授業は眠気との格闘であった。
ふと、レポートのことを考え、板書そっちのけでノートにメモをした。
テーマを仮設定した。

「可能性、出来事、照応関係」

・人間にとっての「可能性」は出来事に対して先立っているものではなく、出来事の生じた後に行為がなされた地点に「可能性」を挿入することにより成立する。出来事の後でのみ「可能性」を認識できる。つまり、「将来~になれる」などはこの場合、「可能性」としてはその地位を確保されていない。

・ライプニッツの「可能性」は論理的に導き出される。対立命題の無矛盾性により成立する。「可能性」という言葉の適応(?)には二種類考えられ得る。

(1)神における「可能性」。これは人間にとっては先験的に存在している。
(2)出来事に対して対立命題を定立し、獲得するような人間にとっての「可能性」。

・(1)に関連して。
神の悟性における無数の「可能世界」から神は現実化するべき世界を一つ選ぶ。このとき他の選択肢が存在したこと、そして決定されなかった世界が「可能世界」として「現実世界」に対する残余としてあり続ける。この意味において神の「可能性」は存在しうるのではないか。

・(2)に関連して。
神の領域において残余として存在し続けている「可能世界」の認識。これが人間が「可能性」を確保する方法、つまり対立命題の定立に当たるのではないだろうか。ドゥルーズが「可能性」を創造されるものとしてとらえている(ようである)。対立命題により現にある出来事が生じたこの「現実世界」以外の世界の創造を行う。これが残余の認識であり、「可能性」の創造ではないか。

・出来事の中には通時的、共時的な出来事がすべて包含されている。このことを知るには次のような条件がつく。
条件:出来事をすべて判明に読み解くことができれば。
もし無数のモナドから一つを選び取り、そのモナドに起きた出来事をすべて判明に読み解くことができたとする。このとき、他のモナドについても判明に知ることが出来る。さらにこのとき、モナドにおける認識は宇宙全体へと広がり、二つは同一のものとして合一しうるはずである。モナドはその極限においては宇宙全体つまり宇宙の極限と一致し得る(はず)。

あるモナドの極限と他のモナドの極限はする。このとき一方において他方のすべてを判明に知ることができる関係、照応関係が成立している。

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