2009年7月18日土曜日

見送り

「行ってきます」
小、中、高に通った12年間、僕は家族に向かって言っていた。
何気ない挨拶だが、この一言で父はネクタイを結びながら「気を付けてな」の一言を、
母は「忘れ物は?」の一言を、祖父母は「行ってらっしゃい」の一言をそれぞれが僕に言う。
本当に何気ない挨拶である。学校で友人に会い「おはよう」と言うようなものである。
意味のない形式的なものかもしれない。

出かける際の「行ってきます」を意識したのは中学に上がったばかりのころである。
ある事件をきっかけに1週間ではあるが不登校になった。
父は最初二日は休みをとり、一緒に当時好きだったジャッキー・チェンの映画などを観てくれた。
それ以外の日に何をしていたかは覚えていない。
きっと、朝起きて、ご飯を食べる、支度をする、テレビ、昼ごはん、テレビ、夕ご飯、寝る。
こな流れだろう。先輩たちがゲームを持ってうちに遊びに来てくれた。007のゲームだった。
プロテインまで持ってきてくれた。
担任と学年主任が来りもした。「つらいだろうが、学校に来てくれ」そんな感じだった。
学年主任には市民病院の緊急外来で会っていたが、彼はその時は何も気づいていなかっただろう。
気づく要素などないのだ。風邪でもないのに38度を超える熱と全身の痛み。
ただ緊急外来にいるだけでは急な風邪と区別はつかないし、何もわからないはずなのだ。

無事に帰ってこなかった息子が心配なのだろう。父や母が僕や姉、妹の見送りを欠かしたことはない。
妹はいつもそれをすり抜けようと必死になって出かけていた。

「行ってきます」
そんな親の気持ちを何となく感じていたのか、自分を奮い立たせるために自分に誓いを立てていたのか。
どちらでもあるだろうし、そうではないかもしれない。
「行って―来ます」
出かける私は、無事に帰ってくることを約束しながら靴を履き、体育着と弁当、読書用の本、筆箱、
そのくらいしか入っていないカバンを背負っていたのである。

今回は僕は見送る立場である。
いや、見送ることすらできない。何もできないのである。
出来たところで、大した役にも立たず、かといって問題があるわけでもない。
ただ、「いってらっしゃい」の一言に「行ってきます」といってくれ。
そして、「おかえっり」の一言に「ただいま、いってきました」と言ってくれ。

きっと自信とともに「おかえり」は言える。
だから、笑顔とともに「只今、行って―来ました」といってくれ。
僕はただ待つだけの人間じゃない。成長して帰ってくる君に見合う、それ以上の成長はして見せる。
僕だって男だ。カッコ悪いところばかり見せるわけにはいかない。

だから、悲しくなるようなことは言わないでくれ。
「いってきます」その一言だけでいい。十分である。

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