「行ってきます」
小、中、高に通った12年間、僕は家族に向かって言っていた。
何気ない挨拶だが、この一言で父はネクタイを結びながら「気を付けてな」の一言を、
母は「忘れ物は?」の一言を、祖父母は「行ってらっしゃい」の一言をそれぞれが僕に言う。
本当に何気ない挨拶である。学校で友人に会い「おはよう」と言うようなものである。
意味のない形式的なものかもしれない。
出かける際の「行ってきます」を意識したのは中学に上がったばかりのころである。
ある事件をきっかけに1週間ではあるが不登校になった。
父は最初二日は休みをとり、一緒に当時好きだったジャッキー・チェンの映画などを観てくれた。
それ以外の日に何をしていたかは覚えていない。
きっと、朝起きて、ご飯を食べる、支度をする、テレビ、昼ごはん、テレビ、夕ご飯、寝る。
こな流れだろう。先輩たちがゲームを持ってうちに遊びに来てくれた。007のゲームだった。
プロテインまで持ってきてくれた。
担任と学年主任が来りもした。「つらいだろうが、学校に来てくれ」そんな感じだった。
学年主任には市民病院の緊急外来で会っていたが、彼はその時は何も気づいていなかっただろう。
気づく要素などないのだ。風邪でもないのに38度を超える熱と全身の痛み。
ただ緊急外来にいるだけでは急な風邪と区別はつかないし、何もわからないはずなのだ。
無事に帰ってこなかった息子が心配なのだろう。父や母が僕や姉、妹の見送りを欠かしたことはない。
妹はいつもそれをすり抜けようと必死になって出かけていた。
「行ってきます」
そんな親の気持ちを何となく感じていたのか、自分を奮い立たせるために自分に誓いを立てていたのか。
どちらでもあるだろうし、そうではないかもしれない。
「行って―来ます」
出かける私は、無事に帰ってくることを約束しながら靴を履き、体育着と弁当、読書用の本、筆箱、
そのくらいしか入っていないカバンを背負っていたのである。
今回は僕は見送る立場である。
いや、見送ることすらできない。何もできないのである。
出来たところで、大した役にも立たず、かといって問題があるわけでもない。
ただ、「いってらっしゃい」の一言に「行ってきます」といってくれ。
そして、「おかえっり」の一言に「ただいま、いってきました」と言ってくれ。
きっと自信とともに「おかえり」は言える。
だから、笑顔とともに「只今、行って―来ました」といってくれ。
僕はただ待つだけの人間じゃない。成長して帰ってくる君に見合う、それ以上の成長はして見せる。
僕だって男だ。カッコ悪いところばかり見せるわけにはいかない。
だから、悲しくなるようなことは言わないでくれ。
「いってきます」その一言だけでいい。十分である。
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