2009年6月11日木曜日

根拠のない私

「根拠のない私」などライプニッツ哲学の原理の一つである充足理由律で一発解消。
「すべてのものには理由がある」これが充足理由律である。

今日、黒田アキについてのんびりと考えつつ、
ライプニッツへの片思いと梅雨入りに憂鬱になる。

しかし、ライプニッツについて考えていて根拠のない論を立てた。

ライプニッツを相互主義、折衷主義と形容することはよくある。
前者に関してはミッシェル・セール、後者に関してはラッセルがそうであったと思う。
僕の関心は特に前者の側である。
ライプニッツ哲学における諸原理、諸概念をそれぞれ相互的なものとしてみる。
その相互的な諸原理、諸概念が複雑な体系(システム)を形成する。
複雑なシステムを形成するのであるが、
出来上がった体系自体は非常にシンプルなものとして成り立っているように思う。

『モナドロジー』、『形而上学叙説』は形而上学の領域を中心にしている。
モナドという概念はその代表格であるとおもう。
しかし、形而上学の領域は現実の領域と何らかの相互性がなければならない。
もちろん「ならない」というのは、ライプニッツを相互主義と形容するならの話である。
先ほどあげた著作では形而上学の領域に属するであろうシステムが非常に簡潔に書かれている。
この簡潔さは複雑さと対応しているはずである。
これがおそらく現実、現象と呼ばれるものであろう。

つまり、現実の豊かさ、複雑さを肯定するための形而上学の体系の簡潔さ。
そうでなければいけないのではないだろうか。

先日、読んだ本に書いてあったことからの大雑把な拡大解釈である。
このシステムの大枠についてやるには、個々の原理、概念をつぶさに見なければいけない。
少しずつ観ていければと思う。

僕の好きな哲学者ミッシェル・セールの『自然契約』における、
一番好きな文章は相互主義者としてライプニッツを発展させ、
自らの哲学、思想を発展させたから言える一言なのだろう。

僕もいつかその一文をきちんと根拠とともに言えるようになりたい。

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