2009年6月12日金曜日

黒田アキに誘われて

昨日より読み始めた『水声通信』の黒田アキ特集。
目白にある学習院への往き帰りで山手線を一周しながら読み進めた。
まだ半分ほどしか読んでいないうえに、内容についてわからない部分もある。
しかし、書きたくて仕方ない。
しゃべることは汚く、書くことは良い。
そのようなことをドゥルーズが言っているらしい。私の書くことも汚いであろうが、
書きたいという衝動に駆りたてられる。

詩、小説、映画は一つのモチーフを中心にし、その周辺を登場人物、事物に運動させることにより時間を物語の中に作り出す。我々が読む、観るというその作品を認識、感覚する行為自体が時間性を伴わざるを得ない。
注意を作品に向ける行為こそが3つの芸術と時間とを不可分なものにしている。
しかし、絵画はどうだろうか。
絵画、写真は時間の流れに一つあるいは複数の切れ目を入れることで、場面を切り‐取る。
そこには時間を感じさせる風景(夕日、走る電車……)があったとしても、絵画という表現方法によってそこに時間を作り出すことは不可能である。
我々は絵画を見るとき、直感的に全体を把握し、その静止した細部をくまなく見る。
鑑賞者の行為自体は時間のかかるものであっても、対象の方から我々の感覚に時間的に働きかけてくることはない。
小説、映画において我々は受動的鑑賞者としてもいれる。あくまで情報は与えられるのである。時間的な流れの中に身を投じることを動的芸術は要求する。時間の流れの中に身を投じることなしに我々は小説、映画を読み、鑑賞することはできない。

しかし、静的であるはずの絵画において黒田アキは時間をその中に描き込む。いや、彼の作品は常に動的な闇へと観る者を落とし込むような恐怖を感じさせる。
それは彼の作品として完成させるまでの過程にある。細かなもしくは大きな作品、大作と呼ばれるものを作り上げるときに他の画家たちが時間をかけるが、彼は常に時間とともに作品を仕上げていく。
マルグリット・デュラスが黒田の個展のために描いた文章によると、黒田は『闇』を書くとき、
まず画布を白く塗りつぶす。乾くまでに数日、数週間かかる。そして乾いた白く塗られた画布の上を黒で覆いだす。この黒が乾くまでにまた数日、数週間と時間は経過していく。この段階でデュラスは「私には、時間の厚みが見えはじめる」と述べている。
そして、塗られた黒が乾き、画布から白の画布、そして黒の画布となったその画布に黒田はカミーユ・ファランが「夜の仄暗い破片の中に潜む生命と光の呼吸のよう」と形容する白い線を書き入れる。夜は持続性の中で反復される。白い線を解きほぐしてしまえば、その夜が何であったのかわからなくなる。

これらの作業、行為フィリップ・ラクー=ラバルトは台風(サイクロン)の通過という比喩を持ち出して語る。サイクロンが通過した後には、台風の眼のような奇跡的な瞬間があるにしても、荒廃しか残らない。
通過した後に荒廃として残ったものが黒田アキの絵画である。

ここで話を一旦区切りたい。
インタビュー、哲学者、文学者からの批評、そして黒田自身の言葉の中に「コスモガーデン」という言葉がある。まだまったくつかめていないが、これはつながりのあるミシェル・セールが処女論文『ライプニッツのシステム』において展開させているまさに「ライプニッツのシステム」ではないだろうか……

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