2009年6月18日木曜日

往復書簡 「罪と罰」

親愛なる友人へ。

私は「偽善」の問題に直面しています。
「偽善」をテーマとして考察を行っているのではなく、直面しているのです。
久しぶりに封印していたこの問題について綴りたいと思います。
(直面しているので主題ではなく、あくまで問題なのです)

僕が政治思想、特に革命から勉学の道に入ったことは周知かと思います。
そこでは、「純粋さ」と「(信念に近いものとしての)善」が一つの問題であると考えておりました。
これは大学1年のときの話ですが、同級生の一人とメールのやり取りをしていた時のことです。
彼女は「弱い立場の人たちの為になることをしたい」と言ってました。
角ばかりの血の気の多い青年であった私はためらいもなく噛みつきました。
僕の主張は以下のようです。

「国際協力の分野などで「人のため」をスローガンのように掲げているが、
 それは偽善だと思う。そのスローガンを掲げている人の圧倒的多数は「人のため」の背後に潜んでいること を黙殺している。そこには弱い人たちに何かをしてあげている自分に対する満足つまり「自己満」があ   る。それを後ろに隠して「人のため」というのは偽善に他ならない。
 「偽善」とは悪よりもたちが悪い。」

このようなやり取りの中、彼女は泣いていたことは後から知りました。
それを聞いても基本的なスタンスは変わっていません。
いつしか、自分の行動の一々を自ら監視するようになり、僕は疲れてしまい、
この「偽善」の問題と関わる限りで学問を拒絶していたのだとふと思いました。
だから、ある種「純粋に」何らかの真理を探究し、ある意味、自己を欺ける余地のある哲学を選んだのかもしれません。
もちろん純粋にライプニッツを尊敬し、敬愛してやまないのですが。

封印してから時々思い出すことはあるにしても、今回打ち明けているように表面的、内面的に問題として浮かび上がってくることはありませんでした。自らそこにストップをかける装置を無意識に開発していたらしいのです。

しかし、最初に書いた通りこの問題に私は直面しているのです。
きっかけは今日の出来事です。
友人とご飯を食べ、楽しくお茶した後、夜10時過ぎに帰宅するため駅のホームに上がりました。
ベンチでうなだれ、うずくまっている女性が一人いました。
そばにはおそらく彼女が嘔吐した形跡がありました。
よくあることだと思い、電車にの乗ろうとしましたが、気が重い。
電車を2本乗り過ごし、自販機で飲み物を買い、彼女に「大丈夫?」と声をかけました。
どう見てもしばらくは大丈夫ではない。しかし、私は飲み物も渡せずに電車に乗りました。
自らの気の重さを晴らそうとして、声をかけた。一応はそのことで満足し、気が晴れた気がした。
でも、自分が嫌悪していたはずの中途半端な善的行為、つまり偽善的行為をした。
そのことに気づき、後悔の念が増幅していくばかりです。
電車のドアーが閉まった瞬間から、終電の終わった今でもあの女性が気になります。
中途半端に一般に言う良いことをしようとした報いが今の苦悩なのかもしれません。

これが引き金となり、自分がとっさにしたこと、そのことへのお礼を欲しているのだと、
気づいて過ごしていた昔が苦痛すぎたことが思い出されます。

褒められることの少なかった私は、褒めれることを欲している。これは事実である。
その結果としての行為がとっさか否かを問わず、偽善的でないはずがない。
私が他人に対してとる行動はすべて偽善へと還元されてしまうのではという恐怖に怯えています。
偽善を嫌悪していたはずの自分の行為が、すべて偽善に還元されてしまうならばと考えてしまう。
僕にとって「偽善」に関する問題は社会的なものでも、倫理的なものでもなく、
常に私の、個人的な問題なのである。だからこそ、苦悩する。

完全なる善は、この世界では嫌われ、除外される。
キリストがそうであるように。つまり、人は完全なる善としては行為できない。
そのことは分かっている。わかっているからこそ、この問題によって生じた間隙にはまり込んでいるのである。

非常に支離滅裂であるが、君もこの問題つまり「偽善」に関する問題について
考えていたのならば、ぜひ意見を聞かせてもらいた。

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