2009年6月18日木曜日

往復書簡 「善悪」

親愛なる友人へ

君の体験を読ませてもらった。
同じ状況にいたならば、きっと僕も同じようなことで苦悩していたと思う。

きっと「善悪」というわかりやすく、使いやすい二項対立がある。
僕らはこの区別を日常的には容易に用いているし、そこに問題も生じない。
でもある瞬間におそらくこの二項対立の枠の中に収まらない問題が出てくる。
それは僕らが単に枠に収めること、処理することができないだけかもしれない。
それが、僕や君が直面した問題、出来事なのかもしれない。

僕らは分類の仕方、その枠組みを知らないだけかもしれない。

「やらない善は悪」があるのだろうか。
何らかの行為をしない限りそこには善悪の区別など存在しないのではないだろうか。
君が選び取った選択肢も一つの行為ではないだろうか。
「やる偽善はまし」なのだろうか。
もしこの考え方に基づいて僕が行為したならば、
今回同様、僕は自分の行為とそこにある自己満に苦悩することになるだろうと思います。

僕たちが直面する問題も、
今回僕が直面したように個人的な場合、
君が直面したように背景に社会状況、国、国際問題などが隠れている場合があるのではないだろうか。
偽善の問題も背景がいろいろな区別の仕方があるのだろうし、
善悪の区別にしても単なる二項対立だけでは処理しきれないのではないだろうか。

僕は何か見返りを求めている自分が明確に存在していることが、
苦痛である。
満足している自分、褒められたい自分……
自分がある理想の為に嫌悪し拒絶していた姿を自分の中に観ている。
この状況が自分自身を嫌悪の対象として見させている。

結局は自分が問題なのだと思う。
偽善的である自分、満足している自分、それを俯瞰的にみている自分。
すべてが嫌悪の対象である。
偽善的であるというよりもむしろ僕は自己中心的なだけかもしれない。
それも普通に人が自己中心的であるというよりも、それよりもさらに自己中心的なのかもしれない。

そんな解決の仕方はないだろうし、解決にはなっていない。
うまく整理して書くことができなのが悔しい。

この問題には悩み続けるだろうし、
きっとまた何らかの出来事に直面するだろうと思う。幾度となく。

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