2009年6月25日木曜日

揺れる私

ここ数日、非常に落ち着いた日々を過ごしている。
あくまで、私が落ち着くのは勉強に関してである。

だが、勉強に関しても揺れている。
例えば、私の中に「貧困」というような直面している問題があれば、
経済学なり、社会学、国際関係についての勉強をすればいいだろう。
しかし、特にそのような問題はない。
哲学をやるにしても、ライプニッツを古典としてやるのか、
現代に引き上げようとやるのか。つまり、自分の立ち位置を古典、現代どちらに設けるのか。
修士は古典と決めてはいたが、現代の哲学も素敵だと思う。

ここで問題にしているのは将来の話である。
不確定なりに何らかのヴィジョンの設定が必要だと思う。
古典としてのライプニッツの研究者を目指すのか、
古典としてのライプニッツを踏まえたうえで現代哲学を研究するのか。
どちらも面白く、素敵であると思う。
周りのライプニッツを研究している先輩は前者の立場であるが、
大学時代からの先輩は後者に近い。

私のスタンスだけなら問題ないが、先輩方との付き合い方もいろいろ考えてしまう。
後2、3年は自分の決めたスタンスを守るつもりであるが、揺れ動くのである。



高校時代からの友人、高校時代に唯一会話をしていた女子がいる。
彼女はさばさばしており、私とは違い考える前に行動するようなタイプである。
先日、地元のテレビに出たらしくその映像を見ました。
感想は何か違和感を覚えた、この一言です。
活躍している彼女への嫉妬かもしれない、彼女の成長かも知れない。
ただ、話している姿に違和感を覚えた。
以前のように熱く語っていたのではなく、話を上手に伝達する術を覚え、
その技術で話しているように感じた。
この漠然としたも、何か揺れ動くものを感じさせた。



久しぶりにお菓子屋さんへ行った。
普段はお菓子を買うならば、スーパーで済ませていたが、出向いてみることにした。
お菓子の卸売の店なので、その量は豊富である。
ふとある棚の前で足を止めた。グミの棚である。
私はグミがものすごく好きというわけではない。
しかし、グミという対象は私に数ヶ月前の光景を思い起こさせる。
4月に別れた彼女が好きだったのである。
C大学に在籍していたときは生協に行き、よく買わされていた。
ものすごい勢いで食べ、気づくと私が食べる分がないことがよくあった。
勉強の合間のおやつとして買ったので、しばしば取り上げることもあった。
だが、グミをあげると嬉しそうにしていた彼女の笑顔が何よりも思い出される。

二人でしていたことを、一人でする生活に切なくなる瞬間が時々ある。
食事、勉強の話、煙草、散歩、コーヒー、映画、買い物、寝ることなど……
どれだけ依存していた生活をしていたかがよくわかる。

何かを期待している自分が嫌である。でも、完全に期待を捨てきることもできない。


私は、きっとみんなもいろいろなものの間を揺れ動いているのだろう。
引っ張られるのでもなく、突き放されるのでもなく、
ただ揺れ動いているのだろう。
しかし、自由自在というわけではないはずだ。
そこには何か力が働いている。力というよりもきっかけのようなものかもしれない。
何かを見たり、聞いたり、知ったり。

揺れ動いている、揺れ動かされている私は必死である。
その振れ幅を小さく、安定したものにするために、
何かにしがみついている。
思い出、友人、本、自分の好きなものに。
流れに逆らえばきっと振り落とされる。だから流れに、揺れに身を任せてみるのもいいかも知れない。

2 件のコメント:

  1. 流れに身を任せる、危ういけど「開いた」状態でやるとすごくいい結果が出る気がしています。
    「閉じた」状態でやるとわけわかんないことに…
    経験的で感覚的な意見ですまん……。。

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  2. モナドみたいね……
    変なテンションのときにコメントしているので申し訳ない。

    よく「モナドには窓がない」っていうんだけど、
    解釈が二通りあって、
    「完全に閉じている」状態と、
    「完全に開けている」状態の二つ。

    僕は後者の解釈の方が好きです……
    辛いときに限って、いろいろ連環が起きる。
    誰かが助けようとしてくれているのかしらん。

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