2009年5月15日金曜日

ロンリー論理

いきなり下らないタイトルで初めてしまいましたが、今のテンションを考慮してください。
僕が現実逃避のため爆発的睡眠状態にあるとき、友人かメールが届いており、「哲学において、論理的であることの重要性ってどの程度とかれているもんなの??」とのことです。僕は論理学を専攻しているわけでも、きちんと勉強したわけでもないので、応答できる範囲で応答します。

応答するといっても、自分の範囲に近づけるしかない……ライプニッツ!!
この時点で所謂ネタバレ兼オチですね。それでは始めてみたいと思います。
ライプニッツは論理学をしっかりとやった人です。天才ですから、現代論理学に通じている部分もあると論理学の先生が以前学会のときに言っておりました。そのくらい天才であり発想の豊かな人です。
彼の時代はホワイトヘッドにより「天才の世紀」と名付けられた17世紀です。同時代にはデカルト、スピノザ、アルノー、マルブランシュとまさに天才という名のふさわしい面子がそろっています。
時代背景を考慮すると、神にしても、思考にしても確実なもの、揺るがないものが真理の基盤として求められていたと思います。大雑把すぎますが、きちんと読んでいないのでここは流してください。
何らかの基盤として確実なもの、揺るがないものをどこに求めたのか、デカルトの場合は以前からあった懐疑論を省察することで「思惟するわれ」といわれるものへと導きます。デカルトは偉大な数学者でもあったので、数学的思考と哲学的思考は全く別物ではないはずです。
スピノザは主著「エチカ」の記述方法は数学のような厳密な体系を目指して、数学の証明のようにして書かれています。このような記述方法はライプニッツにも影響を与えているようにも思います。

さて、ライプニッツですが、ライプニッツは偉大な数学者でもあり、論理学も当然やっていました。ライプニッツ哲学の重要な原理に「矛盾律」があります。「AはnonAではない」当たり前のことです。さらに矛盾律は同一律の言い換えである、つまり「AはAである」、こちらも当たり前です。前者を「A≠nonA」、後者を「A=A」と記号で表記できます。この表記は論理学の本を立ち読みでぱらぱらとめくっても見当たるような表記方法だと思います。さらに良く見てみると数学の記号を用いています。ライプニッツは数学における真理を必然的真理、永遠真理と呼び高く評価しています。とすると数学的に表記できる矛盾律、同一律そして論理学全体にある種信頼を寄せていたのだと思います。このように表記することでこれらの原理は書くなものとなるでしょう。

さらに「個体概念」についても論理学の領域で説明がされることがあります。「述語が主語に内在する」と言ったときや、可能性を確保するためには命題「カエサルはルビコン河を渡った」という命題に対して、対立命題「カエサルはルビコン河を渡らなかった」というように論理命題として矛盾しない命題を措定することができれば可能性を認めることができるとしている。ここではカエサルが実際には渡っているという現実世界の事実に反する命題であっても問題はない。あくまで無矛盾性が問われているのは対立命題それ自体に矛盾が含まれているかどうかという論理学における命題の問題なのである。これにはさらにいろいろと分析などもっとしっかりした根拠があるのだがこのあたりで止めておきたいと思う。

話を元の質問に戻して考えてみよう。哲学における論理的であることの重要性とはおそらく数学的に表記できるという確実性である、つまり少し大袈裟にいえば間違いなく真理を記述する方法であると言えるだろう。そして、ライプニッツに関しては論理学の領域で話をすることの利便性も考えられるはずである。記号操作、例題の提示、少ない論述で定義などを行うなどである。

質問の答えになっていなく、十分な内容でもないかもしれない。全部読んで実のない話だと思ったら罵詈雑言は甘んじて受け入れます……

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