「君よ、仕事の上で決闘しよう。君の残酷な荒療治は僕の決心をかためてくれた。
今後も僕は時々淋しいのかも知れない。しかし死んでも君達には同情してもらいたくない。
僕は一人で耐える。
そしてその淋しさから何かを生む。見よ、僕も男だ。参り切りにはならない。」
(『友情』 武者小路実篤)
武者小路実篤の『友情』の一節である。
単なる三角関係の中の男女の話ではない。
男は好きな女について考え、男はそんな友のことを考え。
二人の友情は最後まで崩れることはない。
友人同士は何によって結ばれることにより「友情」を得るのだろうか。
日常において気安く口にしているものは「友情」ではないだろう。
我々の日常に溢れており、大衆化し、軽薄になった「友情」というもので結ばれている関係と
この小説における二人の間の「友情」との違いはなんなのだろうか。
同士、戦友とも呼べるような関係なのだろうか、
それとも互いに変わることのない尊敬の念なのだろうか。
ふと、プラトンの『饗宴』に友愛についても書いてあった気がするが、
読んだのが3年前なので内容がなかなか出てこない。読み返してみる価値はある。
それにしても、引用した文章は今の自分にぴったりではないか!!
小説というのは常に変わることなく文字が並んであり、体裁を整えてある。
さらには、なんとなく読みだしたものに、
自分のほしかった言葉が偶然見つかるということもある。
なんとも都合の良い相方とも呼べる存在なのだろうか。
まさに自分にとって都合の良い友人である。
彼は僕の問いに対する答えを何年、何十年、何百年も前から用意してくれている。
僕がそれを見つけることなど期待していないだろうが、
常に用意してくれている。
頼りになる。
現実に付き合う友人が実際に僕にかけてくれた言葉。
同情の気持ちより発せられた言葉よりも、僕を喜ばせてくれることもある。
それはさておき、現実が顔があり、「対話」という行為をできる友人もまた大切である。
偶然発見した本の中の一節、友人たちとの関係。
それぞれによって自分は肯定されている、と感じる。
僕がほしいのは同情の言葉でも、真理の言葉でもなく「肯定」なのかもしれない。
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