2009年4月24日金曜日

『友情』

「君よ、仕事の上で決闘しよう。君の残酷な荒療治は僕の決心をかためてくれた。
今後も僕は時々淋しいのかも知れない。しかし死んでも君達には同情してもらいたくない。
僕は一人で耐える。
そしてその淋しさから何かを生む。見よ、僕も男だ。参り切りにはならない。」
(『友情』 武者小路実篤)

武者小路実篤の『友情』の一節である。
単なる三角関係の中の男女の話ではない。
男は好きな女について考え、男はそんな友のことを考え。
二人の友情は最後まで崩れることはない。
友人同士は何によって結ばれることにより「友情」を得るのだろうか。
日常において気安く口にしているものは「友情」ではないだろう。

我々の日常に溢れており、大衆化し、軽薄になった「友情」というもので結ばれている関係と
この小説における二人の間の「友情」との違いはなんなのだろうか。
同士、戦友とも呼べるような関係なのだろうか、
それとも互いに変わることのない尊敬の念なのだろうか。
ふと、プラトンの『饗宴』に友愛についても書いてあった気がするが、
読んだのが3年前なので内容がなかなか出てこない。読み返してみる価値はある。


それにしても、引用した文章は今の自分にぴったりではないか!!
小説というのは常に変わることなく文字が並んであり、体裁を整えてある。
さらには、なんとなく読みだしたものに、
自分のほしかった言葉が偶然見つかるということもある。
なんとも都合の良い相方とも呼べる存在なのだろうか。

まさに自分にとって都合の良い友人である。
彼は僕の問いに対する答えを何年、何十年、何百年も前から用意してくれている。
僕がそれを見つけることなど期待していないだろうが、
常に用意してくれている。
頼りになる。

現実に付き合う友人が実際に僕にかけてくれた言葉。
同情の気持ちより発せられた言葉よりも、僕を喜ばせてくれることもある。
それはさておき、現実が顔があり、「対話」という行為をできる友人もまた大切である。
偶然発見した本の中の一節、友人たちとの関係。
それぞれによって自分は肯定されている、と感じる。
僕がほしいのは同情の言葉でも、真理の言葉でもなく「肯定」なのかもしれない。

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