2010年12月26日日曜日

鈴の音の響きの先に 1

 忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下ろしたが、どこで鳴いているか影も形も見えぬ。只声だけが明 らかに聞こえる。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれな い様な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、又鳴 き暮さなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀は屹度雲 の中で死ぬに相違ない。登り詰めた挙句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、 只声だけが空の裡に残るのかも知れない。(夏目漱石『草枕』p.8)

今回の私の文章はどうしてもこの一文から始めたかったので、少し長くなってしまったが、一段落まるまる引いてくることにした。この一文を引いた理由はいくつかある。この文を初めて目にしたのは、グレン・グールドがラヂオで朗読したということを知って、本棚に置いてあった『草枕』(新潮文庫)を手に取り、さっそくこの一文を探した時であった。その後、機会あってミシェル・セール『生成』(法政大学出版局)の勉強会に向けて、取り組んでいる時に、ふと『草枕』のこの部分が思い浮かんだ。思い付き、体よく言って直観でしかないこの感覚をどうにか繋げよう、そう思い今出来る範囲で二つの本を、海を隔てた二つの国をどうにか結ぶことは出来ないだろうかと思ったのである。
まさに、問題は対象をどのように切り取るのか、どのように結び付けるのか、という点にあるだろう。「まさに」と言ったのは、私が『生成』を読む時に気になっていた点がノワーズや「基調の響き le bruit de fond」から対象がどのようにして生成してくるのか、つまりどのように切り取られるのか、ということであったからだ。

『生成』の中で、セールは認識論のモデルとして聴覚を提案し、採用している。聴覚は我々の感覚器官の中で、最も能動的で豊かなものであるというのがセールの見解だが、これは至極正しいと思われる。目を閉じれば視覚作用を抑えることが出来、鼻を摘まんでしまえば嗅覚を抑えることが出来る。しかし、聴覚は耳をふさいでも何らかの音が聞こえるのであり、私たちが寝ている時でさえも、働き続けている。休むことなく働いている感覚器官と言えるならば、最も能動的な感覚器官として、認識論のモデルとして聴覚を用いることに異論はないだろう。
『草枕』の主人公は画工であるにも関わらず、この作品の中には聴覚により主人公が見た風景、情景というものがよく登場してくるように思う。これは私の興味のせいで、偏りのある意見かもしれない。しかし、それでもやはり聴覚を通して感じた風景というものの表現の仕方が美しいという感覚を拭い去ることは出来ないだろう。気になるようであれば、是非一読の上、感想をお聞かせ願いたい。

 この『草枕』と『生成』という時代も場所も離れた書物を自然、芸術、聴覚ということを鎹にしながら、どうにか繋げることが出来れば幸いである。もちろん、読みの浅い部分などが多々あると思われるし、表現の仕方などに対して費やされるであろう語句の少なさを考えると恥ずかしい試みであるあるが、どう受け取られるか、それを知りたいという冒険心、何よりも何か文章を届けたいと言う願いという二点において大目に見ていただければ幸いである。

 まず、冒頭にある『草枕』からの引用を思い出すきっかけになった一文を『生成』から引いてくることにする。「老人は騒音の中で死に、私たちは騒音の中で死ぬだろう」(筆者訳)というこの一文である。雲雀は雲の中で死に、私たちは騒音の中で死ぬ。この二つの表現がこの二つの作品を繋げる鎹であると思ったのである。では、それをもう少し具体的に見ていくことにしたい。
 雲雀の鳴き声を聞いた主人公は「雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ」と考え、続けて「魂の活動が声にあらわれたもの」とも言っている。おそらく、魂は震えているのだろう、それとともにおそらく存在を震えている、揺れ動いているのだろう。その振動が私たちの質料を伝わり、空気を振動させており、空気の振動は音、この場合は雲雀の声として主人公の魂をも振動させているのだろう。8月15日付のブログでは『ショーシャンクの空に』の劇中で「フィガロの結婚」のレコードをかけるシーンに対して、同じようなことを書いた。一方、セールは「おそらく存在は静止状態にあるのでもなく、運動状態にあるのでもなく、おそらく揺さぶられているのだ」と述べている。ざわめきは空間の至る所で侵入しており、私たちの体中を占領しているのであり、それ自体背景を持たないものとしての「基調の響き」であり、「存在の基調」であるとしている。
「基調の響き」はノワーズでもある。そこでは様々なものが生成し、溶け込んでいくのである。騒音の中で、老人は死に、私たちも死ぬのであるが、「ノワズゥな美女はノワーズの中で生まれ、生まれつつある自然はノワーズの中で始まる」のである。「基調の響き」、ノワーズは対象が生成する場(そこから浮かび上がってくる場)であり、そこへと飲み込まれていく場でもあるのだ。では、『草枕』との関係において、「基調の響き」、ノワーズをどのように考えるべきなのだろうか。

セールは『生成』において次のように語っている。「多は開かれていて、それから常に生まれている最中である自然が生まれる」としており、ここで言われている「多」とはカオスであり、私たちが明確な対象を切り取ることが出来ないような、対象が浮き上がる背景であるようなノワーズであり、「基調の響き」なのである。ノワーズ、「基調の響き」はここでは「自然(ピュシス)」として語られている。この「自然」を背景から、対象へと引き上げて、扱ったものが(おそらく)『自然契約』だろう。ここにおいて、世界=「無償の贈与者」、つまり自然がなければ、美は存在しないとセールは語っている。つまり、自然は美の源泉でもあるのだ。漱石がその言葉の多くを(風景としての)自然を美しいものとして語ることに割いており、『草枕』においても自然は美の源泉であるように語られている。
『草枕』と『生成』において、自然が(後者においてはあらゆるものの源泉であると言っても過言ではないように思われる)美の源泉として語られているが、どのようにして、対象を切り取り、動かすのかということ、つまり主体と対象(客体)の関係ということも主題としてあるように思われる。

 緻密な証明あるいは濃密な詩を生むために、言語の中を泳ぎ、迷ったように、その騒音へと潜り込む必要が ある。(筆者訳)

セールが多くの著作で提示する認識論における主体と対象(客体)の関係を、芸術論として解釈をしていくとすれば、対象へと、そして対象の生成する場(=ノワーズ)へと潜り込んでいく必要がある。漱石ならば、これを「同化」と言うだろう。それは『草枕』において詩人や画客の楽しみと言うものは物に帰着するのではなく、物と同化することであり、「その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ」(『草枕』p.77)のだと言っている。つまり、セールが「その騒音へと潜り込む」こととしていること、つまり対象が生成するその背景へと潜り込むこと、そこにおいて私たちは対象そのものであり、背景の中の一つの音なのである。対象そのものであるが故に、私を樹立する余地などないのである。
ここで、漱石が「同化」と言っていることは、「対象化(客体化)」ということである。しかし、「物そのものになり済ました」ままでは、おそらく芸術活動と言うものを行うことは不可能であるだろう。例え、何かにとり憑かれたように制作に打ち込むにしても、芸術活動においては、主体として振る舞うことが要求される。「物そのものになり済ました」状態から、一歩退くことが必要である。これについて、漱石は以下のように語る。

 こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、その物を、おのが前に据えつけ  て、その感じから一歩退いて有体に落ち着いて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。 (『草枕』p.38)

漱石はこれを「第三者の地位」と言っている。しかし、私はこれを「主体のずれ、あるいはずれた主体(主体´)」と呼びたい。対象化した主体は、一度、対象を経由してもう一度主体に帰ってこなければならず、その時の主体は単なる主体ではなく、対象を経由したものとして、最初の主体からずれている。
一方、主体についてセールは「私がある対象、ある主題について考えている時、もし私が本当にそれらについて考えているならば、私がこの主題であり、この対象であるということはいかなる疑いをも生じさせない」のである、私は「誰でもない人 personne」である、という。セールは「誰でもない人」としてバレーの踊り手を例に挙げる。「誰でもない人」は「誰でもあり得る人」なのであり、その点でバレーの踊り手は変幻自在のプロメテウスなのである。彼は多義性と複数性を持ち合わせている。彼は何を見せる、表現しているのだろうか。「彼(踊り手)は、全可能性を、リズムによって時間の全可能性を、空間における不不在と現前の全可能性を見させるために、もはや何物でもないということに耐えられるように、自己を砕いた」のであり、彼の踊りは空間にすら痕跡、記憶をとどめることはないのである。
このような「何ものでもない人、何も持たない人は通過し、道を譲る」のである。こうして運動が生まれ、時間が生じるのである。踊りとは、場所を譲りながら、白いページを残すことである。では、「誰でもない人」、踊り手のステップがどうして問題なのだろうか。「道を譲る人々、場所を譲る人々は、彼らの譲渡により、過程を開始する」のである。

これは漱石のいう一歩退く、と言うこととは異なるだろうが、ここに漱石とセールの芸術に対する違いが生まれる。まず、漱石は芝居を楽しむ余裕のために「第三者の地位」へと一歩退くことを必要とする。しかし、セールにおいて、踊り手の運動は時間を形成するのであり、ノワーズが占領するべき新たな領土を発見するのである。そして、傑作は「時間の源泉」であり、雑音で震えていると言う。セールは「認識は、第一に、恐怖を与えるものであり、それは私たちの方に押し寄せてくる」としており、認識の根底に恐怖を置いている。




つづく。

2010年12月9日木曜日

断片

私の中に、一つの記憶がある。

小学生だった頃、いとこが一同に実家に集合するのである。
みんなで仏間で雑魚寝をし、昼間は出かけたり、ゲームをして遊んだりしていた。

一つの秘密として、夜中、大人たちが寝た後、隠しておいたお菓子を取り出し、
懐中電灯の灯りだけを頼りに、みんなで、何を話すともなく、お菓子を食べるたものだ。


いとこは大体二泊三日で泊まりに来ていたので、
この秘密の儀式をいつ決行するのかは、子供たちの間で取り決めたサインのみが合図であった。
このサインは軍隊の暗号や、独特の学問用語、恋人たちの秘密のやり取りの合図の様なものだ。
それらと同様に、必要以上に多くの人物の介入を阻止する。

たしか、セールが「コミュニカシオンを阻害する全ての物をノワーズとする」というようなことを何処かに記していた。コミュニカシオンには共通言語や文法規則、同じ意味で理解しようとすることなどが前提として含まれている。しかし、周囲の騒音や、偏見や感情の高揚などはこのコミュニカシオンの前提を破壊しかねない。つまり、これらのものはコミュニカシオンにとってはノワーズなのである。

会話をしようとしている二人、意志疎通を図ろうとしている者たちにとって、ノワーズは共通の敵として現前している。これに、われわれが気がついているかどうかはまた別の話であるが、われわれはこれらを極力排除したうえで、コミュニカシオンを行おうとするし、行いたいと望むことだろう。

子供時代にいとこたちと取り決めた合図は、子供の目的を遂行するとき、ノワーズとなる親たちに情報を漏らさないためのものだ。目的の遂行のために必要なコミュニカシオンを最低限のものにし、そこから極力ノワーズを排除しようと努めた結果、この目的はしばしば成功した。

失敗した時はといえば、一日遊び通して、疲れて、みんなで朝までぐっすりと寝てしまった時だけだろう。
そもそも、親たちは気がついていなかったのだろか。いや、お菓子のごみを見たり、何かを楽しみにする子供の目、合図を使うという怪しい行動をみて、私たちの計画に気づいていただろう。しかし、それを見過ごしてくれていたはずである。子供たちの秘密の遊びに対して、親はそれを阻害することなく、むしろ成功へと運ばせようとしていたのではないだろうか。

親たちにどんな意図があったのかは分からないし、ましてやそれに気づいていたかどうかすら確認したわけではないので、定かではない。
しかし、どんな形であれ、子供たちの秘密のコミュニカシオンは成功し、コミュニカシオンを道具とした私たちの目的も成功したのである。

ノワーズの中から、自分たちに必要は情報を選び分けることを(まだ)知らなかった子供時代。
それでも、ノワーズを極力減らそうと自分たちで合図という秘密の言語を作り上げた。
一種のふるい分けという行為を私たちは子供のころに、本能的に行っていたのではないだろうか。
それが本能的な行為だとしても、今ではそのことに気づいているので、私たちはそれを意図的に行うことが出来る。もちろん、全面的とは言えず、部分的なものであるだろうが。

ノワーズを避けることではなく、そこから必要な、有効なものを選び取るすべをそれなりに心得ているだろうし、学んできているだろう。どんなにノワーズが多くなろうとも、私たちはある程度はコミュニカシオンを成功させることが出来るのではないだろうか。

それでもなお、ノワーズはとても大きく、広く、小さく、狭い。つまり、ほぼ到る所にある。
そこをうまく泳ぐことが出来なkれば、私たちは交通不可能な状態に陥ってしまう。

巧く泳ぎ、泳ぎ切り、メッセージを運ぶ術を身につける必要があるのではないだろうか。


ふと、そんなことを思った。

2010年11月5日金曜日

断片

修士論文にて、ライプニッツの連続律を扱おうと考えている。
もともと、微小表象の問題を扱うため、質料(第一質料)の問題を扱うために、
連続律について考察し、言及することの必要性を感じたからである。

しかし、連続律について考えていると、つまるところ「関係 relation」の問題に突き当たる。
連続とは一つの関係(づけられ方)であると考えることが出来る。

連続と言うときライプニッツが前提としているのは複合的であること、つまり分割可能性であると思う。
ある任意の塊(物体、質料)が分割可能であることと、それが複合的であるということは同じである。
『結合法論』や『数学の形而上学的基礎』などにおける「全体-部分」の関係の説明を見れば、
このように考えることに無理はないだろう。

だが、ある任意の物体に依らない連続性というものがあるのではないだろうか。
一言でいえば「離散的な」ものの連続性(関係づけ)の問題である。
これは無限に分割可能とはいえ、ある程度の大きさを持っている質料同士が、
連続(関係)することにより、複合されたものを構成している。
個々の物質同士を離散的であると考えることもできる。
更に拡大して言うならば「見かけ上全く関係のないようにみえるもの」同士が、
どのように関係しているのか、という問題にもなる。



関係に関して、ライプニッツは二種類の区別を設けいているが、『結合法論』と『人間知性新論』では、
その区分の仕方は異なっている。
前者における関係はunio(結合、統合)かconvenientia(適合)の二つである。
(詳細は省略)
後者における関係はcomparaison(比較)に基づくもの、concour(協働)に基づくものの二つである。

この関係の区分についてはきちんと考える必要性がある。
ことどちらの区分においても後者(適合、協働)というものが離散的連続性(離散的関係性)を考える上で、
非常に重要であると思われる。
しかし、ここで注意すべき点は、注意して適合と協働という関係を扱わなくては、
それらの関係においてあらゆるものが予定調和へと即座に還元されてしまうという点である。


離散的、ということをライプニッツが表立って、明確に言っている箇所を私は見つけたことがない。
つまり離散的連続性をライプニッツにおいて考えるには「かくあるべし」という、
予測の様なものが必要となる。
だからこそ、取り扱いには注意が必要となる。
しかし、これは非常に面白いテーマだと思うので、修士論文の裏テーマとして扱いたい。


途切れ途切れだが、以上。
断片、終了。

2010年8月15日日曜日

断片

『ショーシャンクの空』はとても有名な映画である。

この映画のワンシーン、主人公のアンディーが届いた本、レコードの中から、
「フィガロの結婚」を選び、方喪失から無断でかけるシーンがある。

囚人たちも、看守たちも、空を見上げ、音楽に耳を、体を傾ける。

有名なシーンである。


このシーンは魂が、事物が共感している。
音楽という、一つの事件に対して、魂が、事物が一斉に音楽の方へと向かう。
この瞬間に、長いこと動かずにいた人々の魂が一斉に動き出す。
一つの魂が動き、それに応じて他の魂が動く。
魂の振動は身体という事物を伝い、空気を伝い、他の身体へと入り、
その身体に宿る魂を振動させる。そして、全ての事物が、魂が、一斉に振動する。
このとき、ショーシャンク刑務所には一つの自由が立ち現れる。
各々の自由ではなく、一つの自由だ。
魂と事物としての身体の共感、協働。魂同士の共感、協働。事物同士の共感、協働。
全てのものが、勝手気ままに動く事が自由ではなく、
全ての物が共感に基づいて、共に働く、つまり協働していることが自由なのだと思う。
そのとき、個々の事物は勝手気ままに、刺激に対して振動しているのかもしれないが、
全ての事物は一つの刺激に対する共感に基づいて、振動している。
そう考えるならば、個々の事物が自由であると同時に、
全体として、一つの自由が成立している、ということが出来るのかもしれない。


昨日、カッチャーリについて書いていた時、「事物の共感」ということを、
引用文中で見かけた気がする。
たまたま、今日観ていた映画で、同じような事を考えることになったので書いてみた。


上に書いたシーンの後に、食堂でアンディーは心を石に喩える。
石は記憶を持つ。その固さゆえに。
丸い石も、ゴツゴツとしている石も、記憶つまりは歴史を持っている。
色々な所を転がり、その表面に傷をつける。溝が出来る。これらは石の歴史である。
ゴツゴツとしている石は、雨に打たれれば、川の中を転がれば、
角が取れていき、丸くなる。丸くなった石の表面には傷もなく、
滑らかな感触がある。しかし、丸くなるためには多くの傷を負うという、経験があり、
無数の経験をその表面に刻んでいる石は、歴史を持っているのである。

魂もそうだろう。事物もそうだろう。
傷を持つものは歴史を持っているのである。



断片、一時終了。

2010年8月14日土曜日

断片

天使の居場所は何処か。
カッチャーリの文章はその問いに対する一つ目の回答から始まる。
「非在の場所が天使の次元である。天使の住居はどこでもない国、……、想像の世界にある。」
しかし、天使が呼びかけわれわれがそれに応えている、という状態から、
今ではわれわれが呼びかけ、天使がそれに応えることを欲している状態になっている。

なぜ、最初に天使の住居、居場所について書くことから始めているのだろうか。
きっと、天使とわれわれの関係を考えるためには、天使がどこにいるのか、考える必要があるのだろう。
話を巧く進めることができるかわからないが、書き始めることにしよう。

天使は私たちに何かを伝達する。
例えば、マリアへの受胎告知などが、天使の伝達にあたるだろう。
しかし、この告知はわれわれの感覚へと洩れてくるものではない。
「神秘を神秘としてあらわし、見えざるものを見えざるものとして」伝達するのである。
不可視である天使は、人間に自らが伝達するものをその瞬間のそのままの形において手渡す。

しかし、天使の住処であるどこでもない国を見るには、「その国になり変らねばならないだろう」。
つまり、「主客の次元が消失した合一という至高の観照」であり、
天使は「主体と客体がひとつのモナドを形成するような世界」にわれわれを導くのである。
モナドはそれ自身で完足しているが、それはモナドが一つの視点として宇宙の全てを、
各々の仕方によって表出しているからであって、そこには他の全てのモナドも含まれており、
宇宙に於いては、モナドは互いに表出され、表出しているのである。
この世界にあっては、実際には明確に主体、客体ということが難しくなる。
全ては主体であり、客体である。
ある表象に於いて判明でないことも、他の表象に於いては見れば、判明に読みとることも可能なのである。
モナドは互いに相互に照応可能な関係にあるのである。

この世界において、人間は不可視のものに触れる可能性を得る。
なぜなら、この世界では全てのことを知ることが理論的には可能であるし、
世界のそのままの姿を見ることさえ可能となる。

モナド同士が主体としてでもなく、客体としてでもなく振舞う宇宙のハーモニーは、
ポリフォニックな音楽である。
「いわば宇宙の類比的=象徴的直観、コルバンが言うところの存在の天使的次元、多声音楽は、唯一の原理の名の数々を構成する。その音楽的価値の頂上にあるのは、天球の音階でも完璧な反復でも永遠の旋回でもなく、天の典礼のリズムに交錯するさまざまな事物の共感である」とカッチャーリは語る。

「事物の共感」、ライプニッツで言えば全てが作用し合っている「協働」している世界だろう。
全ての事物は互いの響きに共感し合っている。
だからこそ、世界のバランスは崩れないのだろう。たとえ、それがギリギリの状態であっても。
むしろ、調和という言葉を色々なものの均衡状態と考える方が良いのかもしれない。
能動と受動、善と悪、美と醜の均衡状態。
しかし、美と醜に関しては個人的には均衡し合っているとは思わない。
世界の根底に、肯定を据え置くことが出来るならば、世界は全て抽象的な意味での「美」となるだろう。
肯定を置くと言う表現は語弊を招くかもしれない。
では、どう言い換えるべきか。
「世界を美的直観によって把握する」という表現の方が適しているのかもしれない。
理解ではなく、認識というよりは把握という、一挙に包み込むようなニュアンスである。

現段階での美的直観という語の使い方も非常に曖昧である。
全体を提示されているものとして、抽象的に、形式的に把握し、
世界をその組み合わせ的なヴァリアシオンとして考えるような世界観に基づくもの、
その程度にしてか、まだ考えていない。
これから、少しずつ詰めていきたい。



断片、一時終了。

2010年8月11日水曜日

前夜

ブリオッシュな君へ

今日は一つの文章を送ることにしよう。
言いたいことはたくさんあるが、まとまらない。
メールみたいに好き勝手書くわけにもいかない。(一応、ブログだから、ね)

今日はボルヘス『アトラス』の中からお気に入りの物を一つ。


 砂漠

 ピラミッドから三、四百メートルほど離れた場所で、
 私は屈みこんで一握りの砂をつかんだ。
 少しばかり遠くに移動して静かにそれをこぼし、小声で呟いた。
 「わたしはサハラ砂漠の姿を変えようとしている」。
 それはごく些細な出来事であったが、この気に利かない言葉も正鵠を射ており、
 これを口にするために自分の全生涯は必要とされたのだ、とわたしは思った。
 あの瞬間の記憶は、わたしのエジプト滞在でもっとも重みのあるものの一つであった。


どんな些細な出来事も、世界に何らかの影響を持っている。
世界は常に動いているのだ。変化しないものなどない。
形であれ、心であれ、それを望むのならば、君は小さな変化に、
小さな言葉に、小さな景色に、小さな感情に目を向ければ良い。

君は小さな所に、よく目が行くね。
よく見つけたものを「素敵」という言葉とともに、伝えてくれるね。
それを少し自分に、自分の感じていることに向けてみれば良い。

世界の出来事は、どんな小さな出来事でも、世界を作り上げているし、
「私」を作り上げている。
それは僕にとっての出来事か、世界中が知るような出来事か、それはちょっとした違い。
「出来事」に寄り添えば、ボルヘス的な意味で世界を変えることは可能だよ。

きっと、素敵な世界に変わるだろうね。

少し、早いけど、君の誕生日へ向けての断片です。

2010年8月10日火曜日

ブリオッシュとコナトゥス



ブリオッシュな君へ。

少し長引用になるだろうが、ボルヘスから引用するのが、適切だろう。
だって、この二つの言葉を結びつけたのは君であり、
この二つの関係を気にしているのも君なのだが、今、君の手元にこの本はない。
もう一度、思い出してみよう。


地上に存在する新奇なものはいずれも天上の原型を反映している、と中国人らは考えている。
かつてそのように考えた者たちがあり、そう考えつづけている者たちがいる。
今や<何者>あるいは<何物>かは剣の原型、机の原型、ピンダロウス風の頌歌の原型、
三段論法の原型、砂時計の原型、時計の原型、地図の原型、望遠鏡の原型、天秤の原型を持っている。
スピノザは、すべてのものが自分の存在のうちに留まり続けたいと願っていると知った。
虎は虎でありたいと、石は石でありたいと望む。
原型であろうとしないものなど存在せず、時にはそれが実際に原型であることをわたしも知った。
相手の男あるいは女を自分の原型であると思うには、恋に落ちるだけで十分である。
マリア・コーダマがオウ・ブリオッシュ・ド・ラ・リュヌというパン屋でこの大きなブリオッシュを手にい れ、ホテルにいるわたしのところに持ってきて、これは<原型>ね、と言った。
彼女が正しいのはすぐに分かった。
読者よ、写真をよくご覧になった上で判断していただきたい。 (J・L・ボルヘス 『アトラス』)

最初に君から来たメールは「何で、ブリオッシュが原型なの?」だったね。
その時は、本が出張していて、手元になかったから、答えられなかったけど、
戻ってきて、読み返して、確かにブリオッシュは<原型>だとわかった。

ブリオッシュは、焼かれて、パンパンに膨れながらも、破裂することなく、
ブリオッシュであり続けている。だから、スピノザの話を持ってきているのだし、
これは実際に<原型>として存在しているんだろうね。

ここで、スピノザの話を少ししようと思います。
付け焼刃なので、申し訳ないです。
「スピノザは、すべてのものが自分の存在のうちに留まりつづけたいと願っていると知った。」
この一文が、どんな意味を持っているのだろうか。それを考えてみようと思う。

ボルヘスはスピノザの何処にそのような事を読みこんだのだろうか。
(スピノザに関しては先輩に幾つか質問して意見を伺ってみたりしました。)
最も有名な個所は『エチカ』第三部定理6である。該当箇所を引用しておこう。

おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執する。

さらに、スピノザはその証明の中で続けてこう言う。これも該当箇所を引用しておこう。

おのおのの物はできるだけ、または自己の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力する。

この努力にあたる単語が「コナトゥス conatus」である。
ドゥルーズは様態としての存在しているものの、本質としてこのコナトゥスを、
「力能の度」として定義している。
さらに、彼は「コナトゥス」に関して三つの規定をしているが、
この三つの中でボルヘスの主張を合致するものは第一の規定である。

「自己の有」への固執とは、自己(おそらく精神と身体の結合しているもの)を破壊したり、
消滅へと向かわせるようなものは含んでおらず、自己のできる範囲に於いて、
それを保持し更新していこうとする傾向、力能が「コナトゥス」であると言える。
「自己の及ぶかぎり」というのは、他の存在の様態と出会った時、
他の物の方が力能としてのコナトゥスが大きければ、自己の構成関係は破壊されてしまう。
コナトゥス同士の力関係により、破壊されたり、逆に、よりよく働いたりもするが、
コナトゥス自体はそれ自身の有を保持し、それに固執するのである。

ドゥルーズはスピノザのコナトゥスと、ライプニッツのそれとの違いを簡潔に述べている。
ライプニッツの場合は可能態から現実態へと向かうこの傾向をコナトゥスと呼び、
スピノザの場合には現実態としての存在の様態を上で見たように、保持し、固執する。
それはスピノザの哲学体系に於いて「すべての力能は、現実態であり、現に活動中の力としてはたらいている」のであり、現実存在へと移行しようとするものではなく、この現実において、
現実存在している現実態の力能として解釈されるならば、可能態から現実態へと働くものではなく、
現実態として働くものであり、その働きに関しては上で説明したとおりである。

まだまだ不十分ではあるが、大まかに話をまとめれば以上の様なことになるだろう。
そのもの(ボルヘスの言う<原型>)でありつづけようとしているもの、それが<原型>なのである。
(同語反復になっているけど……)

このボルヘスの文章は愛で満ちている、と思う。
これもまた一つの「コナトゥス」だろう。
コナトゥスは互いの構成関係が合一をみるような場合、喜びの情念が生じるのであり、
喜びの情念を抱く場合、
「私たちの力能はひろがって、相手の力能と一体となり、愛する対象とひとつに結び合う」のである。
ボルヘスは、パン屋でブリオッシュを見つけて、喜んで持ってきたであろう、
マリア・コーダマと恋におちているのであろう。
つまり、ボルヘスにとってのマリア・コーダマは、互いに<原型>であるのだろう。

「コナトゥス」は「本質というものの肯定的な捉え方」に関わっているのであり、
存在に於いては、これは「本質の肯定」である。
だからこそ、ボルヘスは「ブリオッシュ」という文章の最後を、
読者に、賛同を求める文章で締めているのではないだろうか。

自らと、自らの<原型>であるマリア、両者への肯定、彼らの構成関係と合一をみるような、
対象、つまり、愛によって対象と結ばれることを願っているのではないだろうか。

断片

「ヴァリアシオン」としての「視点」。

モナドについてライプニッツは街を眺める「視点」の比喩を使うことがある。
各々の「視点」は全て異なっており、街を全て眺めることが出来るわけではない。
それが可能なのは神のみである。
モナドは神の取りうる視点として、想像されたということもできる。
神の取りうる視点のヴァリアシオンとして、各々モナドは存在するのである。

そこで、世界の多様性は神の視点の多さに、つまり無限に存在しているモナド、
ということになるかのように思われるが、
単にモナドの数ということでは、それらモナドがバラバラに存在していても、
構わないかのように思われてしまう。
モナドはその中に、他のモナドとの関係も含んでいるのであれば、
視点としての、ヴァリアシオンとしてのモナド同士も、
何らかの仕方で関係づけられなければならない。
関係づけの方法に関しては、一旦脇に置くとして、
視点としてのモナドは、各々の仕方で宇宙を表象しているのであるが、
この視点はあくまでも一つのモナドが、同一の宇宙を各々の仕方で表象しているということにとどまる。
多様性はこれを基礎として導き出されるだろう。
単純実体に於いて、多様なものとして含まれているその宇宙の表現が、
表現同士が掛け合わされるのである。

異なった眺望が幾倍にもなるように、視点としてのモナドが表象している宇宙も幾倍にも掛け合わされる。
そこでは、一つ一つの宇宙の表象は異なっていながらも、同一の対象を表現しているのである。
それはモナドの表現の仕方が異なるのであり、この方法の多様性が、
モナドの多様性であり、宇宙自体の多様性であるともいえるかもしれない。

ライプニッツにおいて、重要になるのは「足されるもの」としての視点、モナドではなく、
「掛け合わされるもの」としての視点、モナドなのである。
ここで、総体や全体といった語は、足し算により求められた最大量としてあるのではなく、
掛け合わせにより、つまりは組み合わせにより求められた最大量ということになるのである。
そして、この組み合わせはより少ないものにより行われることが求められる。
つまり、「最少費用による、最大効果」ということが重要である。
そのとき、より多様なものを求めるならば、足し算を行うよりも、掛け算を行うことにより、
その最大量を求めることの方が、より多様なものとして、組み合わせを提示できるはずである。

2010年8月9日月曜日

手掛かり、つまりはメモ

ライプニッツは『モナドロジー』§15において「欲求」という概念、作用を提出する。
これをライプニッツ自身の説明をかりて言えば、
「一つの表象から他の表象への変化もしくは推移を起こす内的原理」であるとしている。

これら表象は一つ一つは完全に表象として明晰判明なものとして、
全体に達しているとは限らない。いや、むしろ達していないのである。
つまりは一つの表象は被造物にとっては混雑した表象としてあるのである。
「その表象から何かを得て新たな表象に到達」するのである。
もし、人間が自らの表象の全体を判明に認識することが出来るならば、
それは神と同様の視点を手に入れたことになるのであり、
世界についての新たな認識としての新たな表象はいらないのである。
一つの表象を細かく、無限に見ていくことになるのであり、
そこに於いて全てを判明に認識しているならば、新たな表象を獲得する必要はないのである。
人間の表象が混雑であるが故に、人間は新たな表象を手に入れ、
世界をより良く見ようとするのではないだろうか。

人間の表象が混雑であるのはこれが、単純実体における「多」のことである。
表象自体が単純実体に於いて多を含みかつ表現している推移的状態であるので、
この多について、全てを判明に認識することが出来ないのならば、神の視点に立つことはない。
つまり、人間が判明に認識できるのは表象のごく一部の塊に於いて判明であるものである。

ライプニッツはこの「単純実体における多」を、「変化するものの細部」であるという。
この「変化するものの細部」が存在していることにより、モナドは多様であり、特殊である。
これは変化の原理、内的原理により生じている自然的変化とともにモナドの中にあるのである。
そして、この変化の原理、内的原理がその変化の一つ一つにおいて、
「変化するものの細部」を含んでいるということが出来る。
この内的原理により、モナドは特殊化するのであり、多様化していると言える。
とは言え、モナド同士の差異はその内的規定によるものであるので、
内的原理による特殊化、多様化はそのア・ポステリオリな証明の方法であると考えることが出来る。

なぜなら、モナド同士はその差異を内的規定により持っていることになるが、
それとは逆に特殊化、多様化しているもの、それも外的規定外にその源泉を求めるならば、
それは内的規定ということになるだろう。

「変化するものの細部」、「単純実体における多」としてモナドが含んでいるものは、
様々な「状態の変化」であり、他のモナドとの「関係」である。

この、モナドが潜在的に含んでいるであろう「状態の変化」、「関係」については、
まだまだ考える必要がある。
特に関係については、何との関係か、どのような関係かということを考えなければならない。
例えば、モナド同士の関係であるならば、
各々完足的であるモナド同士は神を媒介してしか関係を持つことがなく、
適合ということに従っている、つまり調和しているということになるが、
それだけでは何かが欠けているような気がする。

まだまだ、考える点は山ほどある。
少しずつ、丁寧に考えて積み上げていきたい。

2010年8月8日日曜日

表面について。

物事には表面がある。
人間でいえば、皮膚といえるような領域を指しても良いかもしれない。
ノート、本で言えば一つのページであると言えるのかもしれない。
ノート、本に関して言えば、その表面には文字が書かれている、
あるいは、文字を、記録を書きこむことが可能である。
書きこまれた文字は何を示すのだろうか。
個人的な日記であれば、筆者の内面的な葛藤の過程であったり、その日の出来事であったりするだろう。
本に関しては、例えば、哲学書であれば何か筆者の哲学が書きこまれている。
文学作品について言えば、現実を描こうとしていたり、素敵な物語を、風景を描こうとしていると言えるのかもしれない。

しかし、これらのどれについても筆者以外に人間が読み、中身を読みとろうとする行為に於いては、
我々はその表面をなぞるように、流れるようにして読む、ということだけでは不十分である。
それはあくまでも、「表面」でしかなく、文字の羅列でしかない。
文字の羅列には意味はない。
文字の並びに意味が生じるのは、置かれた文字同士の配置により生じる。
配置ということも、何らかの対象を表現するための法則に基づいて、
ひらがなを、カタカナを、漢字を、アルファベットを配置しなければならず、
これらの配置を組み合わせ的に行うことにより、限られた文字たちは、
自由度を増し、無限に自らを表現することが可能となるのである。

つまり、文字は無限に組み合わせにより、自らを無限に表現しているのである。
文字の組み合わせによる無限の表現の一つの現実化したものとしての作品であり、哲学書であり、一個人の日記ということになるのである。
文字の配置は自らを無限に読みこむ可能性を提示する。
たとえば、「私」の心情や、考え方によっても、読み方が異なる。
いつ、どこで、などという状況によっても左右される。
同一の書物であっても、複数回読めば、それと同じだけの読み方が存在することが可能なのである。
書物は自らの形式を変えることなく、読み手次第で自らを複雑化するのである。

しかし、こうした書物との複数回の出会いは表面に於いては現れない。
書物は深読みすることを要求している。これは文学、哲学に話を限定してのことである。
深読みという行為は、書物から多くのもを引き出そうとする行為であり、
我々の書物に対する態度であり、何よりも、読み手自らを対象としての書物の中へと潜り込むという行為である。
書物の読解に関して、書物に潜り込むことは、筆者の世界観に浸ることであり、
それと同化することであり、より深い理解を要求するための一つの手続きであると言えるだろう。
だが、対象と同化するだけでは不十分である。潜り込み、と私が呼んでいる行為は、
あくまでも、一つの「手続き」なのであって、目的ではない。

では、目的は何だろうか。

潜り込みという行為自体は対象と同一化することにより、
ある意味に於いては自らを対象化していると言える。しかし、この同化、対象化、ということもまた目的ではなく、一つの過程であり、潜り込みと同様に一つの「手続き」なのである。

では、目的とは何だろうか。

潜り込んだ主体としての読み手は、対象について考えるため、より深く理解するために、
そして、より多くのものを引き出そうとするが故に、潜り込むが、対象と同化したまま、
つまり自らを対象化した状態にとどまっていてはだめなのである。
あくまでも、我々は主体として思惟という行為を行うのであるから、
我々は再び主体の状態に戻ってこなくてはならない。
では、主体に戻ってきた主体はそのまま主体にとどまるべきかどうか、と問われたならば、
潜り込みにおいて、つまり対象との同化、主体の対象化において実現されるべきは、
要するに目的は、主体-対象間の交通の自由化であると言えるだろう。
主体は自由に対象化することが出来る、そのための通路を開く行為の第一の手続きとして、
「潜り込み」という行為があるのだと私は考えている。が、これはあくまでも、現段階での話である。

この「潜り込み」という行為、つまり主体の対象化ということは何も哲学や文学に限ったことではない。
その射程は芸術という行為や、人間同士の関係を考える上でも適応可能な一つの行為である。
まだ、大まかにしか記述することのできないこの「潜り込み」、「主体の対象化」という行為、
これらに概念という名を与えるにはまだ早すぎる。

現段階においては主体側からのみのアプローチだが、
この作用を客体側からの働きかけを持ちこむことにより、二重化する必要があるように思われる。
たとえば、セールの質料形相論における質料が形相のアルファベットを誘導できるように、
典型的構造を付与することが出来るような、対象の側の働きがあるはずだからである。

2010年7月13日火曜日

とりあえず

『人間知性新論』第Ⅱ巻

C1「観念一般が論じられ、人間の魂が常に思惟しているかどうかが機械に応じて吟味される」


P「諸観念が生得的かどうかを吟味した後で、諸観念の本性と差異を考察しましょう。観念が思惟の対象であるというのは確かですよね。」

T「あなたが観念は内的直接的対象であり、この対象は本性の表出あるいは諸事物の性質の表出であるということ付け加えてくれるのであれば、私はそのことを認めましょう。もし、観念が思惟の形相であるならば、観念に応じる諸々の現実的思惟とともに生じたり終わったりするでしょう。しかし観念が対象であるならば、諸々の思惟の以前以後にあり得るだろう。諸々の可感的外的対象は媒介的でしかないのです。なぜなら、諸々の可感的外的対象は直接的に魂に作用し得ないのです。神のみが直接的外的対象であるのです。魂そのものはその(魂の)内的直接的対象であると言われうるのです。しかし、それは魂が諸観念あるいは諸事物に応じるようなものを含んでいる限りにおいてのことです。というのは、諸々の判明な観念が神の表現であるところで、諸々の雑然とした観念が宇宙の表現であるところで、魂は小さな宇宙なのだからです。」

P「最初、魂はあらゆる文字のない、いかなる観念もないタブラ・ラサであると仮定した方々は、どのように魂がたまたま諸観念を受け取るのか、そしてどのような手段によって魂はこの驚くべき観念の量を得るのか、と尋ねております。それに対して彼らは一言で、経験からだと応えます。」

T「それについてそれほど語られているところのこのタブラ・ラサは、私の見解では、自然が少しも許容しない虚構であり、哲学者の不完全な諸概念においてのみ確立されるような虚構でしかないのです。それは空虚、原子、そして絶対的静止ないし、一つの全体のそれら(諸部分)の間の二つの部分の各々の静止のようなものであり、あるいはいかなる形相もなしに着想(理解)された第一質料のようなものである。いかなる多様性も閉じ込めていない一様な諸事物は、時間、空間そして他の純粋数学の諸存在のような抽象化でしかない。その部分が静止している物体はなく、他のいかなる実体から自らを識別するようなものを持っていないような実体はない。人間の魂は他の諸々の魂と異なるだけではなく、さらにそれら(諸々の魂)の間でも異なるのである。とはいえ、差異は少しも種差と呼ばれているようなそれら(諸々の魂)の本性ではありません。私が持っていると信じている論証に従えば、あらゆる実体的事物は、それが魂であれ身体であれ、他の実体的事物に各々に対する固有な関係を持っている。そして、内的規定によりある実体的事物は他の実体的事物とは常に異ならなければならない。それはこのタブラ・ラサについてよく語るような人々が、それ(タブラ・ラサ)から諸観念が取り除いた後で、彼らの第一質料に対して何も残しておかないスコラの哲学者たちのように、それ(タブラ・ラサ)に残っているようなものについて言うことが出来ないという人々については言うまでもない。

たぶん人は、哲学者のこのタブラ・ラサは、魂は自然的に本来的には裸の能力しか持っていない、と言いたいのだと、私に反駁するだろう。しかし、何らかの現勢(actes)のない能力、一言でいえばスコラの純粋態勢(les pures puissances)は同様に虚構であり、それは自然が少しもすることのない、抽象化の産物においてのみ得られるような虚構なのです。というのは、かつて、この世おいて、現勢を与えることのない単なる態勢を含んでいるある能力はどこで発見されるのだろうか?常に、行為への、そして他の行為と言うよりはむしろある行為への際立った傾向(disposition)がある。傾向(disposition)に加えて、同時に各々の主体において、無数の傾向(tendance)あるような行為への傾向(tendance)がある。そして、この傾向(tendance)は何らかの努力(effet)なしにはありえない。経験は必要なものである。私はこのことを、魂がこれこれの思惟に対して決定されるために、我々の中にある諸観念に魂が用心するために、認める。しかし、経験と諸感官(les sens)が諸観念から与えることの出来るような方法とは?魂は窓を持っているのか、魂は板に似ているのか?魂は蝋のようなものなのか?魂についてこのように考える全てのものは、実際は、魂を物体的なものにしているということは明白なことである。人は、諸感官に由来しないようなものは魂においては何もないという、哲学者たちの間で認められたこの公理でもって、私に反対するだろう。しかし、魂そのものと、この感情(ses affections)を例外としなければならない。――知解においてなかったものは、知性においてもない。知性そのものを除いては。―― つまり、魂は、存在、実体、一、同一、原因、表象、理性、そして諸感官が与えることのできないそれ以外の多くの概念(d’autre notion)を含んでいる。このことは、この固有の本性に基づく精神の反省において諸観念の大部分の起源を探究した人間知性論のあなたたちの著者と十分に一致します。」

P「それ故、私はこの熟達した著者に対して、あなたが全ての観念は感覚(sensation)あるいは反省により生じると言うことに同意してくれることを期待します。すなわち、私達が外的で感覚可能な対象に基づき、あるいは私達の魂の内的操作に基づき成すような観察により生じると言うことをです。」

T「私達がそれだけをあまりに立ち止まっているところの論争を回避するために、私はあなたに前もって以下のことを表明しておきます。それは、あなたが、諸観念はこの原因のどちらか一方から私達に生じると言う時、私はそのことをそれらの現実的表象として理解します。と言うのは、私は諸観念が判明なものについての何かを持っている限りにおいて、そのことに気づかれる前に、私達においてあるということを明らかにしたと信じているからである、ということです。」

P「その後で、いつ魂が表象に似始めるのか、諸観念に対して現実的に思惟し始めるのかと言われなければならないのか、みていきましょう。私は、魂が常に思惟していること、現実的思惟は、現実的延長が物体から不可分であるのと同様に、魂から不可分であると主張するような意見があることを良く知っています。しかし、私は物体が常に運動においてあること以上に、魂が常に思惟していることが必然的であるということしか概念できない。諸観念の表象は魂に属するのは、運動が物体に属するようなものである。このことは、少なくとも私には大いに合理的であるように思えるし、その点について私はあなたたちの意見(sentiment)を知ることが出来てとてもうれしいのです。」

T「あなたはそのことについて言いましたね。行為は物体以上に魂に結びつけられたものではない。魂における思惟のない状態と物体における絶対的静止は等しく自然に反していることのように思われ、世界において前代未聞のことのように思われるのです。一旦、作用においてあるだろう実体は常にそうである(作用においてある)のです。というのは、全ての印象はとどまり、単に他の新しいものと混じり合ったものであるからです。物体を打つ時、そこでむしろ液体におけるような無限に多くの渦が引き起こされ、決定されるのです。というのは、実際は、全ての固いもの(solide)は流動性の度合いを持っており、全ての流動的なものは固さの度合いを持っているのです。そして、この内的な渦を完全に止めるための手段はないのです。つまり、今では、もし物体が決して静止においてないのだとしたら、それに応じるような魂もまた決して表象なしではあり得ないということが信じられているのです。」

P「しかし、おそらく、彼は決して眠ることも、まどろむこともない、と言うのは彼の完全性において無限であるような万物の創造者であり保管人の利点です。どんな有限な存在に対しても少しも適していないようなもの、あるいは少なくとも人間の魂のようなある存在にも適していないようなものなのです。」

T「私達が眠り、休止するということ、神がそれをまぬかれているということは確かなことです。しかし、私達は寝ている時に、どんな表象を持っていないという結果には少しもならない。もし人がそこに良く用心するならば、むしろ全く反対のものがあります。」

P「私達において、思惟する態勢(puissance)を持っているような何かがあるが、そこで私達が常に現勢(acte)を持っているということにはならない。」
 
T「真の態勢(puissance)は決して単なる可能性ではない。常に傾向(la tendance)と行為がある。」

P「しかし、魂は常に思惟している、というこの命題はそれ自身によって明らかではない。」

T「私もまたそのようなことは少しも言っていない。それ(この命題)を見つけるための若干の注意と推論が必要である。一般大衆は空気圧、あるいは地球の丸さと同様に、この命題にほとんど気づいていません。」

P「私は昨晩、思惟していたかどうかを疑います。これは事実についての一つの疑問であり、感覚可能な諸経験によってそこのことを決めなければならない。」

T「ある人がそのことを不条理なものとして論じるとは言え、表象不可能な物体と不可視的な運動があるということが証明されたように、そのことは決定されるのです。少しも引き立てられていない無数の表象についても、同様である。その表象とは、自らを意識的に表象し、あるいは自らを思い出す程十分に自らを区別していないようなものである。しかし、表象はある結果によって、自らを識別させるのである。」

P「我々の寝ている間に、私達は魂が存在していることを感じることが出来ないので、魂が存在することをやめたという私達が弁護したことに対して反論したある著者がいました。しかし、この反論は奇妙な懸念にのみ由来するのです。というのは、我々は人間の中に魂が少しもないということを言うことはなく、それは眠っている間に魂が存在していることを感じることはないが、人間は自らを意識的に表象することなしに思惟することは出来ないということ言っているだけです。」

T「私はこの反論を含んでいる本を読んだことはありませんが、思惟が意識されていないということから、そのために思惟がやむということにはならないと、あなたに対して反論するだけと言うことは間違いではない。なぜなら、さもなければ、同じ理由によって、意識的に表象されていない間、魂はないということが言われうるからです。そして、この反論を拒むために、思惟について、特に、意識的に表象されるということが、思惟にとって本質的であるということを、示さなければならない。」

P「ある事物が思惟し得ること、ある事物が思惟することを少しも感じないことを概念することは容易なことではないです。」

T「疑いなく、そこには巧みな人たちを困惑させたような、問題と困難の核心がある。しかし、ここにその核心から脱する手段がある。その手段とは、私達は、同時に多くの事物を思惟するが、私達は最も区別された思惟にしか用心することはない、と言うことを考察しなければならないのである。そして、事物は別な仕方で進むことは出来ないのである。と言うのは、もし私達が全てのものに対して用心するならば、同時に無数の事物について注意して思惟しなければならないのです。(無数の事物とは)私達が感覚するような全てのものであり、私達の感官に基づいて印象を与えるようなものです。私は更に次のように言います。私達の過去の全ての思惟について何かが残っており、そこではいかなるものも、完全に忘れられることは決してない。つまり、私達が夢を見ることなく寝ている時、私達が何らかの衝撃、転倒、症状、あるいは他の事件によって茫然としている時、私達において、無数の混雑した小さな諸感覚(sentiment)が形成される。そして死でさえ、動物の魂に基づく他の効果(effet)を作ることは出来ない。それは疑いなく、遅かれ早かれ区別された表象を取り戻さなければならない。というのは、全てのものは自然における秩序によって進展するからである。しかしながら、私はこの混雑した状態において、魂は快楽も苦痛もなくあるだろうことを知っています。というのは、これ(快楽、苦痛)は顕著な表象に属するからです。」

P「今私達が関わっている人々、すなわち、魂は常に思惟していると信じているデカルト派の人々は、人間とは異なる全ての動物に対して、それら(人間とは異なる全ての動物)に認識し、思惟するような魂を与えることなく、生命を一致させたこと、そして、デカルト派の人々は、魂は身体に結びつけられることなしに思惟し得ると言うことにいかなる困難も発見しなかったのは本当のことですよね。」

T「私としては、私は他の見解を持っています。というのは、彼ら(デカルト主義者)が魂は常に思惟しているというようなものおいて、デカルト主義者たちの見解を持っていますが、私は他の二つの点において、そのこと(デカルト主義者たちの見解)を持っていないからです。私は、動物は不滅の魂を持っているということ、人間の魂あるいは他の全てのもの達の魂は何らかの物体なしには決してあり得ないということを信じています。その証拠には神のみが、純粋な現勢(acte)であるものとして、それから(何らかの身体)から、完全に免れている、と述べます。」

P「もし、あなたがデカルト主義者たちの見解を持っているならば、私はカストルあるいはポルクスの身体は、常に生き生きとしているとはいえ、ある時は魂とともに、ある時は魂なしに存在し得るし、魂もまたある時はそのような身体において、ある時は、その身体の外に存在し得るので、カストルとポルクスは唯一つの魂しか持たないということが仮定され得る。その魂とは交代で眠っている、そして目覚めている二人の人間の身体において、交互に働くであろうものである。つまり、そういう訳で、それ(魂)はカストルとヘラクレスがそうであり得るほど、判明な二人の人間(deux personnes)に働きかけるでしょう。」

T「今度は私がより現実的に見える他の仮定を提出する番です。何らかの隔たり、あるいは何らかの大きな変化の後で、人が総体的な忘却に陥り得ることが常に同意されなければならないと言うことは本当ではないだろうか?スレーダンは死ぬ前に、覚えていた全てのことを忘れたそうです。つまり、この悲しい出来事のたくさんの他の事例がある。そのような人間が若返り、全く新たに、一から学ぶことが出来るとしたら、この人(スレーダン)は、別の人間であるだろうか。それ故に、同一の人間を精確に成しているのは記憶ではありません。しかしながら、これらの身体の一方において記憶に生じるようなことなしに、他方において記憶に関係づける、これらの異なった身体を交互に突き動かすようなある魂の虚構は、物体なしの空間とか、運動なしの物体のような哲学者の不完全な観念に由来する諸事物の本性に反するようなこれらの虚構の一つである。そして、それはもう少し深く理解すれば消えてしまうようなものです。というのも、各々の魂は全ての先の印象を保存しているということ、今話したような仕方により、魂は半ば区別されるようなことはないということを、知らなければなりません。つまり、各々の実体における未来は過去との完全な連関を持っている。これは個体の同一性を作るようなものである。にもかかわらず、私達の現在の思惟に貢献するような現在と過去の印象の多様性のために、記憶は少しも必要ではなく、必ずしも可能ですらないのです。というのも、私は少なくとも混雑した何らかの結果がないような、あるいは次の思惟とともに混ざり合った何らかの名残がないような思惟が人間の中にあると言うことを少しも信じていないのです。諸事物は大いに忘うるのですが、もし、しかるべく連れ戻されるならば、はるか昔のことからでも同様に再び思い出されるでしょう。」

P「いかなる夢もみることなくたまたま眠るような人々は、それらの思惟は作用(action)においてあるということを決して確信することは出来ない。」

T「たとえ夢をみていないとしても、眠っている間、何らかの弱い感覚(sentiment)がないということはないです。目覚めでさえそのことを示しています。そして目覚めることが容易であればある程、外で起きていることについての感覚(sestiment)を持っているのです。けれども、この感覚(sentiment)は常に目覚めの原因となるほど、十分に強いものではありません。」

P「この瞬間に、眠っている人間において魂が思惟ていると概念すること、次の瞬間、起きている人間においてもまた思惟している、と概念することは、魂がそれを思い出すことなしには、確かに難しいことのように思われます。」

T「このことは概念しやすいだけではなく、同様のことは、起きている間、毎日のように観察されるように思われます。というのも、私達は常に、私達の眼あるいは耳を刺激するような対象を持っているのです。それ故に、魂はそこにおいて、それに注意することなく、同様に結びつけられているのです。なぜなら、私達の注意は、その作用が繰り返される時、あるいはいくつかの他の理由により、対象が自分にそれ(注意?対象?)をもたらすのに十分に強くなるまで、他の対象に対して隠されているのである。これはあたかもこの対象に対して個別的な眠りのようなものであり、この眠りは、私達の注意が全ての対象に対して一斉に止んだ時、全体的なものとなるのである。それ(注意)が分割される時、眠る方法についても同様である。」

P「青少年期において勉強に専念し、十分に恵まれた記憶を持っていたので、熱病になる前には、いかなる夢も持つことはなかったということを実際に知っています。彼が私に話してくれた時、彼は熱病から治ったばかりで、25、26歳のときでした。」

T「もっと年をとった研究者で、いかなる夢も決して見たことのない人について、同様のことを聞いたことがあります。しかし、魂の表象の永遠性に基づかなければならないと言うことは夢だけに基づくものではありません。なぜなら、まさに眠っている時、どのようにして魂は外で起きていることについての何らかの表象を持つのか、と言うことを私は既に見せたからです。」

P「しばしば思惟し、少しも思惟されたものを覚えていない、これは役に立たない仕方で思惟しているということです。」

T「全ての印象はそれらの効果(effet)を持っているが、全ての効果は常に顕著であるとは限らないのです。あっちではなく、こっちを向くとき、これはまさに、しばしば私が気付いていないような小さな印象の連鎖によるのであり、この連鎖とはある運動を少しばかり困難な他の運動にするのである。意図的でない私達の全ての行為(actions)は諸々の微小表象の協力の結果であり、さらに、私達の熟考(nos deliberations)において多くの影響を持っている私達の習慣と情熱である。というのも、これらの習慣は徐々に生じるのであって、したがって、諸々の微小表象なしに顕著なこれらの配置(ces dispositions)に達することは少しもないのである。道徳においてこれらの効果を否定するような人たちは、自然科学において感覚不可能な粒子を否定するような悪い教養のある人々をまねているのである、ということを私は既に指摘した。そして、それにもかかわらず、そこで自由について語る人々の間には、均衡を傾かせるようなこれらの感覚不可能な印象に用心せず、道徳的行為において、二つの牧場の中間にいるビュリダンのロバのように、全くの無差別を想像している人がいることを私は見てきました。そして、これは私が、後で、より十分に語るものです。それにもかかわらず、私はこれらの印象は強いることなく、傾けると言うことを認めます。」

P「おそらく、思惟しており目覚めている人において、彼の身体は何らかの事物に関わっており、記憶は脳の痕跡によって保存されているが、その人が活動していない(眠っている)時、魂は魂自身においては別として、自らの思惟をもっている、と言われるかもしれない。」

T「いずれにしても、私はそのことについて言うどころではない。なぜなら、私は身体と魂の間に、常に、厳密な照応(corerespondance)があると信じており、そして、私は、目覚めていようが寝ていようが、自分が気付いていないような身体からの印象を、魂がそこについて相似しているものを持っていることを証明するために利用するからである。私は、そのうえ、血液の循環に応じ、それでもそれについて少しも意識されていないような内臓の全ての内的な運動に応じているような魂において、何かしら起こると言うことを述べる。それはあたかも、水車の側に住んでいる人が、それ(水車)が成す音に少しも気が付いていないようなものである。確かに、寝ている間、あるいは起きている間に、魂がそれから少しも接触されておらず、身体において、作用されることが少しもないような諸印象があるならば、あたかも魂がそれ(諸々の身体的印象)を受け続けるために、ある形象と大きさを必要としているように、諸々の身体的印象が魂と身体の結合に対して限定を設けなければならない。魂が非物体的かどうか少しも支持できないような人は、と言うのは非物体的な実体と質料のこれこれの変様の間には釣り合いは少しもないのである。一言でいえば、これは、魂においては、魂がそれに気づくようないかなる表象もないと信じてしまう誤謬の大きな源泉である。」

P「私達が思い出すような夢の大半は常軌を逸した、不十分に結びつけられたものである。それ故に、魂は身体に対して理性的に思惟する能力を持っていなければならず、どんな理性的なこれらの独り言もとどめておかないということが、言われるはずだ。」

T「身体は、理性的、あるいは非理性的な魂についての全ての思惟に応じるのである。そして、夢は目覚めているよう人の思惟と同様に、脳におけるそれらの痕跡をも持っている。」

P「あなたは魂が常に、実際に思惟していると確信しているのだから、私はあなたが私に、それらは、身体に結び付く前に子供の魂の内にあるような、あるいはまさに感覚(sessation)の手段により、魂がいかなる観念を受け取らない前にその結合があるうちは諸観念であると言ってくれることを望みます。」

T「私達の原則によって、あなたを満足させることは容易です。魂の表象は常に、本性的に身体の構成に対応しています。経験をほとんど持たないような人々に生じるように、多くの雑然とした運動、脳においてほとんど識別されていない運動がある時、(諸事物の秩序に従がえば)魂の思惟は、もはや判明ではあり得ません。しかしながら、魂は決して感覚(sensation)の助けを失うことはありません。なぜなら、魂は常にその身体を表出し、この身体は常に周囲の無数の仕方により打たれています。しかし、周囲を取り巻くものとはしばしば雑然とした印象のみを与えるのです。」

P「しかしまた、『知性論』の著者が成すのとは別の問題がここにあります。私は(彼が言うように)大変な自信とともに、人間の魂あるいは(同じようなことだが)、人間は常に思惟しているということを主張する人々がどのようにそのことを知るのかを私に言ってくれたら良いのに、と。」

T「私は、魂において私達が気付くことがない何かが起こっていることを否定するために、より多くの信用が必要かどうかわかりません。と言うのは、注目すべきものは際立ってはいない諸部分の複合でなければなりません。思惟も運動も、何ものも一挙に生じることはあり得ません。要するに、それは、今日あたかも誰かが感覚不可能な粒子を私達がどのように認識するのか、と尋ねるようなものです。」

P「私達に魂は常に思惟しているといった人々が、既に私達に人間は常に思惟していると言ったことを私は憶えていません。」

T「それは彼らが切り離された魂についてもそのことを理解しているからです。しかしながら、彼らは結合の間中、常に人間が思惟していると、容易に認めるにも関わらず。魂は決してあらゆる身体(物体)から切り離されていないと考えている私はと言えば、人間は常に思惟し、思惟するだろうと絶対的に言われ得ることを私は信じています。」

P「身体(物体)は諸部分を持つことのない延長である、ある事物はそれ(ある事物)が思惟していることに気づくことなしに思惟すると言うこと、それは平等に理解可能であるように思われる二つの主張です。」

T「申し訳ありませんが、あなたが、それ(魂)が意識的に表象していないものが魂においては何もないと言うならば、これは、私達の第一の討論(第一巻の生得観念について)により既に支配されているような原理についての繰り返しだと言わなければなりません。そこで人は生得観念と生得的な真理を壊すために、(原理についての繰り返しを)利用したいと望んだでしょう。もし、私達がこの原理を承認するならば、私達は経験と理性に反すると思うばかりではなく、私達は理由なしに私達の見解を放棄するでしょう。私はこの見解を十分に理解しやすいものだと信じています。しかし、有能であるような、私達の論敵は、その点について彼らがかくもしばしば、かくも積極的に進展させるようなものについて証拠を示したことがないばかりでなく、彼らに反対のことを示すことは容易です。即ち、私達が私達の全ての思惟について、常に、明白に反省することは可能ではありません、と言うことです。さもなければ、精神は、決して新しい思惟に移行することが出来ずに、各々の反省について、無限に反省することになるでしょう。例えば、現在の感覚(sentiment)に気がつくとき、私は常に、私がそれ(現在の感覚)について思惟していることを思惟しなければならず、そして、更にそれ(思惟していることを思惟していること)について思惟していることを思惟しなければならず、したがって無限に。しかし、私はこれら全ての反省について反省することをやめなければならず、そして要するに、人がそれについて思惟することなく、移行させるような何らかの思惟がなければならないのです。さもなければ、人は常に同一のものに止まることになるでしょう。」

P「しかし、全く同様に、そこにおいて空腹に気づくことなく空腹であると言う時、人間は常に空腹であるということを主張する根拠があるだろうか?」

T「多くの差異があります。つまり、空腹は常に自存している訳ではない個別的な理由を持っているのです。しかしながら、飢えている時でも、絶えずそれ(空腹)について考えている訳ではないと言うことも、また本当のことです。しかし、空腹について考えている時、人はそれ(空腹)に気が付いています。と言うのは、これは非常に顕著な配置(disposition)だからです。つまり、胃には常に刺激があるが、それ(刺激)は空腹の原因となるためには、十分に強くならなければならないのです。同一の区別が常に思惟一般と顕著な思惟との間に成されなければならないのです。こうして、私達の見解をあざけるために生じたものは、私達の見解を堅固にするのに役に立つのです。」

P「今や、人間がその思惟においていつから観念を持ち始めるのか、と言うことが尋ねられ得るでしょう。そして、それは人が何らかの感覚(sensation)を持つや否やだと応えられなければならないように思われます。」

T「私も同じ見解です。しかし、それはやや特殊な原理によります。というのは、私達は観念なしに、思惟なしに、そして同様に感覚(sensation)なしにあることは決してないのです、と私は信じているからです。私は単に観念と思惟の間を区別するだけです。と言うのは、私達は常に、感官とは無関係に、純粋あるいは判明な諸観念を持っているのである。しかし、思惟は常に何らかの感覚(sensation)に応じているのです。」

P「しかし、精神が複合観念を形成する時は能動的であるのに、認識の基礎あるいは素材である単純観念の表象においては単に受動的なのです。」

T「全ての単純観念の表象に関して、精神が単に受動的であるということが、どうしてそういうことがあり得るのだろうか。なぜなら、あなた自身の告白に従えば、その表象が反省に由来するところの単純観念があるのであり、少なくとも精神は自分自身に反省という諸思惟を与えているのです。と言うのは、反省するのはそれ(精神)自身ですからね。精神がそれら(思惟)を拒否し得るかどうか、これは別問題です。そして、疑いなく、何らかの機会が精神をそのように至らせるとき、精神をそこから反らすような何らかの理由なしに、そうあること(精神が反省についての思惟を断ること)はおそらくあり得ません。」

P「ここまで、私達は一緒に公然と討論してきたようです。今度は、私達は諸観念の詳細へと進もうとしているのだから、私はより意見が一致すること、私達が何らかの特徴においてのみ異なる、ということを期待しています。」

T「私が真であると見なした諸見解を学識豊かな人たちが認めてくれると嬉しいのですが。というのも、彼らはそれら(私が真だと見なした諸見解)を強調することができ、それら(私が真だと見なした諸見解)を白日の下にさらすことが出来るからです。」



とりあえず、あげてみましたが、まだ直していない個所などがあるので、
手を加えていこうと思っています。
何か指摘のある方、どしどしお願いします。

2010年6月24日木曜日

『人間知性新論』序文 部分訳

部分過ぎて、話の流れがわからないので、
少しずつたしていきたいと思います。



・魂は、アリストテレスと『知性論』の著者に従うような、まだ書き込まれていない(タブラ・ラサ)であるところの書字板のように、全く空白なのかどうか。そして、そこ(魂)に刻まれた全てのものは単に諸感官(des sens)と経験に由来するのかどうか。あるいは魂は単に機会に応じて、諸々の外的対象が呼び覚ますような多くの諸概念(notions)と諸言説を本来的に含んでいるかどうかを知ることが問題(重要)である。

・ところで、一般的真理を堅固に(確認、批准)するような諸事例は、それがどんな数であれ、この同一の真理についての普遍的必然性を打ち立てるのに、十分ではない。

・論理学は、一方が自然神学を、他方が自然法学を形成するところの形而上学と道徳と共に、そのような真理(必然的真理)で満ちているのであり、したがって、それらの証明は生得的と呼ばれるような内的原理にのみ由来し得るのである。

・しかし、諸感官によって機会が与えられるような注意の力で、私達の中に、それら(諸法則)が発見されうるということで十分である。

・動物の(観念の)連合(consécution)は推論の影でしかない。すなわち、これは想像力(imagination)の連結、そして一つの象(image)から別の像への移行でしかない。

・というのは、理性のみが確実な規則を打ち立て得るし、少しも確かではなないような規則に不足しているようなものには、確実な規則に対して例外を設けることにより、(不足を)補うことができ、そしてついには、必然的な結論(結果:conséquence)の力において、ある(確実な)連関、動物が帰されるところの象の感覚可能な連関を試す必要なしに、しばしば出来事を予見する手段を与えるようなものを発見し得るのである。

・さて、反省とは私達の内にあるようなものへの注意に他ならず、諸感覚は私達が既に私達と共に持っているようなものを私達に与えることはないのである。

・そして、これらの対象は直接的であり、私達の知性に対して常に存在(現前)しているので……

・そのような理由で、諸観念と諸真理は傾向(des inclinations)、配置(des dispositions)、習慣(des habitude)、あるいは自然的潜在性(des virtualités)として、私達に生得的なのであって、作用(des actions)として生得的なのではない。とはいえ、これらの潜在性は、しばしば感覚不可能で、それ(この潜在性)に応じるような何らかの諸作用(quelques actions)を常に伴っているのである。

・したがって、私は、彼が私達の認識の二つの源泉、諸感官と反省を認めているのだから、この点に関して、彼の見解は、実際は私の見解、あるいは共通の見解とはことならない、と信じるに至ることができた。

・なぜなら、自然的に(本来的に、本性的に)作用なしの実体はあり得ず、運動なしの物体さえも、決してないのである。

・それ故、この微小表象は考えられていない程、より大きな効果(効力)を持っているのである。

・寄せ集めにおいては明晰だが、諸部分においては混雑している、この「曰くいいがたいもの」、これらの好み、多くの諸感官による(の)象を形成しているのは微小表象である。(私達を)取り巻く物体が私達になすような、無限、各々の存在が宇宙の他の全てのもの共に持っているこの連関(cette liaison)を包むようなこれらの印象を形成しているのも微小表象である。

・これらの微小表象に応じて(の結果として)、現在は未来で満ちており、過去を背負っているということ、全てのものは協働している(ヒポクラテスのいうような「万物同気」)こと、諸実体の最も小さなものにおいて、神の眼と同じほど鋭い眼は、宇宙の諸事物の全ての帰結(結果、実現、列:la suite)を読み取ることができると言うことが、まさに言われ得るのである。

・さらに、その(個体の)現在の状態との連結がなされたとき、これらの感覚不可能な表象は同一の個体を示し、構成している。その個体とは、感覚不可能な表象がこれらの個体の先行状態を保存しているような痕跡によって特徴づけられるのである。これらの感覚不可能な表象は、この個体そのものが、それ(感覚不可能な表象)を感覚しないとき、すなわち、もはやはっきりとした記憶がないとき、上位の精神により識別され得るのである。

・一言でいえば、感覚不可能な表象は自然科学における感覚不可能な粒子と同様に、精神学において、役に立つのである。

2010年6月17日木曜日

「夜」について

conti/nuit/é

もちろんContinuite(連続性)を切断しつつ「nuit」(夜)が現れ出ることをいう言葉である。
日常の連続を打ち破って、底のほうから、なにやらobscure(正体不明)の「夜」が立ち上がってくる。
その「夜」が宇宙への通路なのである。
(『水声通信』黒田アキ p.81)

最近、夜寝ることを拒んでいる。
一つの感情としての「恐怖」が原因である。
なぜ、「恐怖」を抱くのだろうか、何に対して。

夜寝ることを拒んでいるのは、夜が好き、寝る時間がもったいない、
といったこれらの理由によるものではない。
そのことだけは、はっきりと言っておこう。
では、それ以外に「夜」寝ることを拒んでいる、その理由とは何だろうか。
私なりに、ここ数日、そのことを考えるとき、常に頭にあるのは、黒田アキの作品、概念に対する、
小林康夫のコメントであり、上に引用した文章である。

そのことを念頭に置きつつ、話を進めていきたい。

私が「夜」寝ることを拒んでいる、恐怖により拒んでいる理由は、「朝」の到来である。
個人的な体験として、小説、映画、歌詞などで、二人(恋人同士、友人同士、親子は問わない)が、
砂浜に並んで、朝日が昇るのを見つめているシーンは、ほぼ「幸せ」なシーンとして描かれている。
そのようなシーンに対して、「正体不明」の恐怖を秘かに抱いてきた。
家族で行った初日の出、キャンプ場で眠れずに過ごして迎えた朝、夜通し飲み始発に乗り込む時の朝日、
これらには崇高なもの、暖かさを感じつつも、どこかにしこりとして「恐怖」が残っていたことを告白しよう。

では、「なぜ」なのだろうか。
一つとして同じ、そして一般的なる「夜」は存在しない。
それぞれが個別的な「夜」なのであり、どんな日常の平穏な流れの中にあっても、その都度「夜」なのである。
Continuite(連続性)を打ち破るものとして、「夜」が立ち上がってくる。
つまり、日常の連続は、「夜」によって切断される。
しかし、この「夜」による「切断」がなければ、そこに連続性があることを認識できないのではないだろうか。
「夜」が立ち上がることで、そこには「連続性」と「切断」が同時に現れてくることになるのではないだろうか。

そして、私が「恐怖」を抱く場面、つまり朝が訪れる瞬間には、
「夜」が日常を切断するのではなく、逆に「夜」が切断されるのである。
「宇宙への通路」であり、開かれたものとして「夜」が切断される。
こういうことが出来るのならば、「太陽」によって「夜」が日常から引き裂かれるのである。
そして、この瞬間は我々(少なくとも私)が「宇宙への通路」を失う瞬間なのである。

安定した、我々を包み込むような「日常」という大きな連続の中で、
私は「引き裂かれた」感覚、「切断」された感覚を「夜」の終わる瞬間に見てしまうのである。
この感覚は、自らの皮膚を「引き裂かれた」感覚に似たような「恐怖」を、
私の目の前に立ち上がらせるのである。

大切なものを失くした時の、好きな人を失った時の感覚と似ているのではないだろうか。
それらのものは(少なくとも)私にとっては、世界への、「宇宙への通路」のようなものである。
生命を育む、「宇宙への通路」である「夜」が「引き裂かれ」、「切断」される瞬間を、
目撃してしまうのは、個人的な体験として、私に「恐怖」という感情を抱かせる。

空間的な区切りであるならば、私は自らの些細な力によってでも、拒否することが可能である。
そして、自ら空間を「切断」することも可能である。
私たちはある程度の自由度をもって、空間を移動することが出来る。
しかし、時間においてはそうはいかない。私たちは不可逆の時間の中をただ進むしかないのである。
進む、という能動的な行為を行えているのかすら疑わしい。

空間と絶対的に異なる時間において、否応なく、我々にもたらされるこの「切断」を、
私はどのように受け止めるべきか、認めるべきなのだろうか。
少なくとも、それがわからない、今の私にとっては、この「夜」の「切断」は、
「連続性」を生みだし、「連続性」を切断するという二重の意味を持ちつつも、
「切断」の側面ばかりが、強調され、強烈なものとして、私の前に現れているのである。

このように、弱い私にとって、夜は愛しいものでもある。
小さなもの、弱いものが身を隠し、もしくは隠さずとも生きていけるのは、
全てが明らかになってしまう太陽の下において、ではなく、全てに等しく「闇」を与え、
私自身を隠すように包み込んでくれる「夜」において、ではないだろうか。

2010年5月13日木曜日

NE LⅡ C2

第Ⅱ巻 2節 「単純観念について」

P:それ故に私は単純観念と複合観念があるということをあなたが承知してくれることを期待しています。このように、蝋における暖かさと柔らかさと氷における冷たさは諸々の単純観念を供給してくれます。というのも、魂はそこにおいて、様々な諸観念において区別され得ないような一様な概念(conception uniforme)を持つからである。

T:これら可感的観念は見かけにおいては単純であると言われうることを私は信じています。なぜなら、雑然としているので、それら(可感的観念)はそれら(可感的観念)が含むようなものを区別する方法を精神に対して少しも与えることがないからです。
それは丸く現れるような遠い諸事物と同様です。なぜなら、そこにおいて何らかの雑然とした印象は受け取られるとしても、角はそこ(現れとして丸いもの)から見分けられることはないからです。
例えば、緑は青と黄色の混じり合ったものから一度に生じると言うことは明らかである。同様に、緑の観念はこの二つの観念(青の観念と黄色の観念)が複合したものであるということも信じられ得る。
そして、それにもかかわらず、緑の観念は青の観念、あるいは熱さの観念と同じくらい単純に我々に現れるのである。
この青の観念と熱さの観念は現れにおいてのみ同様に単純だということは信じられるべきである。それにもかかわらず、私はこの単純なものという諸観念が扱われることに容易に同意する。なぜなら、少なくとも我々の統覚(apperception)はこれら(諸々の単純観念)を分離することは出来ず、それら(諸々の単純観念)がより理解可能なものになるのに応じて、他の経験と理性によりそれらの分析に至らなければならないのです。


P=フィラレート(ロック)
T=テオフィル(ライプニッツ)

あげてみたのは良いものの、恥ずかしい……
ご指摘があればコメントをお願いします。

2010年5月11日火曜日

部分訳

この説が導入する実体の諸々の統一性において、そして原初的実体によるそれら(諸事物)の予定調和において、私は諸事物の諸々の真の原理を発見する。そこにおいて私は驚くべき単一性と一様性を発見する。従って、完全性の程度を除けば、常に至る所で同じことである。(p. 56)


要するに、私が動物の諸々の魂とそれらの感覚がいかに人間の諸々の魂の不死性を少しも損なうことがないのか、あるいはむしろあらゆる魂が不死であると理解すること以上に私達の自然的不死を確立し得るものはどうしてないのかと私が理解したのはこの説について熟考したからである。それにもかかわらず、危惧すべき輪廻があるということはない。なぜなら、諸々の魂だけではなく、さらに動物も生きたままであり、感覚したままであり、活動したままであるし、あり続けるでしょう。既にあなたに言ったことに従えば、至る所でここと同じであり、どこでも常に私達においてと同じである。(p. 57)


ライプニッツ『人間知性新論』の第一章の部分訳です。
論文に関係あるとかではなく、単に気になった箇所です。
ページ数はブラウンシュビック版のものです。

2010年4月16日金曜日

実感なきまま

実感なきまま日常は進む。
いや、むしろ日常生活の方が実感というものを感じ取れるのではないだろうか。
不勉強さ、労働、満腹感……何かを現実として感じ取ること、
それはやはり日常の強みというのではないだろうか。

そこに「非日常的な出来事」つまり「事件」と名付けるならば、
「事件」はその強烈さゆえに、その駆け抜けるスピードの速さゆえに、
「実感」を感じさせることはない。

「事件」は云々……


修論を来年書くにしても、テーマは早いうちに決めたほうがよい。
それは私が読解に必要な力が人より劣るからである。
劣ることを言い訳にはできないし、そこに胡坐をかくのも駄目である。
今年は血反吐を吐くくらい出来たら良いなと思うし、力、語学力が何よりも課題なのは当の前にわかっている。
わかっていることを実行しないのは愚の骨頂であるだろう。

今年の努力次第であるが、修論のテーマを考えてみた。

表向きは「ライプニッツの観念、認識」のあたりで書きたいということになっているが、
実際は「ライプニッツにおける天使の身体とは」ということについて書きたい。

そう、ふと思った。

2010年2月6日土曜日

レポート[後期]3

スピノザ『エチカ』第二部定義4について

 スピノザは『エチカ』第二部定義4において「十全な観念 とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する」 と記している。ここでスピノザが示そうとしている「十全な観念」とはどのようなものなのだろうか。
 まず、引用文中にある「真の観念」についてスピノザは第一部公理6で「真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならぬ」 としている。では、観念と対象の一致とはどういうことだろうか。
 第二部定理7において「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一」であることを第一部公理4より証明している。さらに備考において「思惟する実体と延長した実体は同一の実体」であるので、同様にして「延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されている」だけであるとしている。つまり「思惟する実体と延長した実体」および「延長の様態とその様態の観念」はそれぞれ「同型性」 をもっていることになる。
 この「同型性」は人間精神と人間身体についても当てはめることが出来る。第二部定理11においてまずは人間精神を構成する最初のものは「現実に存在するある個物の観念」であると述べたうえで、第二部定理13において「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」のである。つまり第二部公理4により我々は身体が様々な仕方で刺激されることを感じているが、もし身体が人間精神の対象でないとしたら「身体の変状の観念」が人間精神の中にないことが「同型性」によりわかる。なので「身体の変状の観念」があるということは人間精神の対象は「現実に存在する身体」であるということになる。
 しかし、「身体の変状の観念」よってのみ人間精神は自らの身体と外部の物体を現実に存在するものとして知覚しており、さらにそれらの本性を含んではいるが「十全な認識」を含んでいないのである。スピノザの「認識」についてドゥルーズは「観念の自己定立、観念の「開展」すなわり発展」であるとしている 。「身体の変状の観念」によって得られる認識は「非十全な認識」であり、その認識を構成している観念は「非十全な観念」であるということが言えるだろう。
 では十全ないしは非十全な観念を含む十全ないしは非十全な認識の区別を手掛かりにして、両者の区別を行うことにする。
 第二部定理25、27においてスピノザが「人間身体のおのおのの変状の観念」は外部の物体についても、人間身体そのものについても「十全な認識」を含んでいないというとき、第二部定理28で述べているように「単に人間精神に関連している限り」において「十全な認識」ではなく「混乱したもの」となっている。というのも、外部の物体の、そして人間身体(を組織する部分)の「十全な認識」は「神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中にある」ので、原因としての神へ辿り着くには他の多くの観念をさかのぼっていくという作業が無限に続き、人間精神に関連している場合にはこの観念の無限連鎖の一部しか知覚できず、「前提のない結論のようなもの」であり「混乱した観念」である、とスピノザは結論付けている。
 では、なぜこのような無限連鎖は「前提のない結論のようなもの」であり「混乱した観念」であるのか。第二部定理29の系においてスピノザは自らの身体、外部の物体について「十全な認識」を持ち得ない場合として「自然の共通の秩序に従って知覚する場合」を挙げている。この場合は「自然的条件」の下での知覚する場合、「外部から決定さ」れた場合であり、「物との偶然的接触に基づいて」知覚する場合である。外部から決定された場合については第二部定理40の備考2にいて説明されている。そこにおいては我々が多くのものを知覚する手段が記されており、「非十全な認識」は「第一種の認識」に由来する。つまりは感覚と記号による認識であり、これは「表象」と呼ばれる。そして第二部定理26の系の証明において「人間精神がその身体の変状の観念により外部の物体を考察する時、我々は精神が物を表象すると言う。……精神は外部の物体を表象する限りその十全な認識を有しえない」としている。「表象」や「第一種の認識」は観念の無限連鎖が起こるために、人間精神はそれを「前提のない結論のようなもの」としてしか認識できず、このような場合「人間精神が物を部分的にあるいは非十全的に知覚する」のである。
 つまり「非十全な観念」とは「標徴〔記号〕としての観念」であり、「おのずから開展〔=説明〕」されるのではなく、外部の物体との偶然的接触による身体の変状により開展=説明される。そして標徴=記号として「私たちの現在」、「痕跡からのがれられない私たちの無力」、外部の物体の現前、そして外部の物体が「私たちにもたらす結果」を「指示しているにすぎない」のである。
 では、「十全な認識」、「十全な観念」とは、を考えるために、まずは認識(第二種、第三種の認識)について述べることにする。なぜなら、「第二種の認識(=「理性」)」と「第三種の認識(=「直観知」)」はどちらも「十全な観念」を含んでいるからである。
 この二つの認識は先に見たように「第一種の認識」は「非十全な観念」しか含んでいないのに対して、「十全な観念」を含んでいるという点において区別され、必然的に真であり、真偽の区別を我々に教えてくれるものである。「第二種の認識」と「第三種の認識」は真偽の区別、「真なるものと偽なるもの」についての「十全な観念」を含んでいるからである。では、「第二種の認識」と「第三種の認識」はどのように区別されるのだろうか。
 「第二種の認識」は「共通概念」あるいは「十全な観念」を有しているものである。「共通概念」については第二部定理37において「すべてのものに共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるもの」であり、「決して個物の本質を構成しない」ものであるとしている。「共通概念」とはドゥルーズが「まずそれが身体または物体相互に共通ななにかを表すところからきている」と指摘しているように参照箇所として「補助定理2」が挙げられている。「共通概念」がなぜ「個物の本質」を構成しないのかについてはスピノザ指定しているように第二部定義2を見れば明らかである。
 第二部において「第三種の認識」については「我々はこれを直観知と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質の十全な観念から事物の本質の十全な認識へ進むもの」とだけ記されている。
 「非十全な認識」と「十全な認識」の違いは「非十全な観念」を含んでいるか「十全な観念」を含んでいるかである。「第二種の認識」である「理性」においてその機能として与えられているのは第二部定理44における「事物を偶然としてではなく必然として観想すること」であり、同定理の系1において事物を「偶然として観想する」ことは「第一種の認識」である「表象」にのみ依存しているとある。つまり「十全な観念」の有無で区別される「第一種の認識」と「第二種の認識」の違いは事物を偶然として観想するか、必然として観想するかである。感覚、記号による漠然たる経験、知性による秩序づけのない「記憶や習慣の秩序」にしたがった認識、つまり「事物を偶然として」観想するのではなく、事物を「必然として」観想する、必然性の認識である。必然性の認識とは「記憶や習慣の秩序」にしたがい連鎖、連結を形作る「非十全な観念」として事物を認識すること、特に事物を時間に関して偶然なものとして「表象」するのではなく、「永遠の相のもとに知覚する」こと、つまり「それ自身においてあるとおりに」知覚することである。事物の必然性の認識は、第一部定理16によりそこから「無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならぬ」ものである「神の本性の必然性」の認識に他ならないからである。
 ここでもう一度、第二部定義4を確認し、論を「十全な観念」に戻していきたい。「十全な観念とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことである」とされている。「真の観念」のように対象と一致しているだけでは「十全な観念」ではなく、「それ自体で考察され」なければならない。ここで「それ自体で」考察されるとは先にみた「それ自身においてあるとおりに」ということである。さらに「真の観念の特質」を有しているのだから、第一部公理6における「真の観念」と同様に対象と一致していなければならない。しかし、スピノザは「十全な観念」に関して「外的」ではなく「内的」であることを強調しているならば、対象との一致についても「内的」であるはずだ。対象との一致と言った場合に第二部定理7が思い出される。つまり「延長の様態とその様態の観念」の一致、つまり「延長属性と思惟属性」の「同型性」である。この場合、「延長の様態とその様態の観念」は「同一の必然性」をもって生じている。
 我々の持ち得る観念は「延長の様態の観念」だけではない。第二部定理20、21において説明されているように現実に存在する身体を対象とした観念により構成される人間精神の観念、つまり「観念の観念」もある。「十全な観念」が「真の観念の特質」を有している限り、対象と一致しなければならないので、神の中にある「観念」とその観念つまり「観念の観念」も一致していなければならない。第二部定理43の証明においてスピノザは観念Aの例を持ち出す 。第二部定理21の備考より「精神の観念と精神自身は同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずる」である。これは「延長の様態とその様態の観念」のときと同様に「同一の必然性」をもって生じている。つまり「精神の観念と精神自身」は「観念とその対象」として一致している。つまり「真の観念の特質」を有している。そして、「精神の観念と精神自身」は同一属性において考えられているので、「それ自体で」考察されている。
 「真の観念」が対象と一致している観念である時、二通りの一致が考えられるのではないか。一つは「延長属性と思惟属性」での一致であり、他方は「思惟属性同士」での一致である。後者において「人間精神の本性によって説明される限りにおいて」神に帰すことのできる観念が「十全な観念」であるのではないか。そして、「十全な観念」は必然的に真である認識を特徴づけるものであるというが出来るのではないだろうか。






参考文献
スピノザ 『エチカ』(上巻) 岩波文庫、1951
G・ドゥルーズ 『スピノザ 実践の哲学』 平凡社、2002
上野修 『スピノザの世界 神あるいは自然』 講談社現代新書、2005
ピエール=フランソワ・モロー 『スピノザ入門』 白水社、2008
小林道夫(責任編集) 『哲学の歴史』(第5巻) 中央公論社、2007
 松田克進「スピノザ」参照

2010年1月22日金曜日

レポート[後期] 2

権力について――図表的モデルとオートポイエーシス・システムを手がかりに

M・セールはその著書である『自然契約』の中で「権力」について「どこにも反対勢力が見当たらないような決定機関を私は権力を呼ぶ」としている。具体的にセールは「どこにも反対勢力が見当たらないような決定機関」として「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」を挙げている。一体、何故上に挙げた三種類の人々はセールが指摘するような意味において「権力」と呼ばれうるのだろうか。
 まずセールは「そもそも彼らはどこで生きているのか」を問う。そして彼らの生活環境として実験室、役所、スタジオを挙げている。これら三つの環境はそれぞれ屋内を指している。屋内、それはセールが指摘するフランス語の「temps」の二つの意味――「流れ去ってゆく時間」と「空模様の天候」――において前者を掌握し、後者に裁定や決定を下そうとしており、天候としての「temps」が絶対に仕事に影響を及ぼさないような場所のことである。
 しかし、セールの詩的な文章のために、そして『自然契約』が自然とのある種の調和の締結を呼びかける内容であるために、ここで扱おうとしている「権力」について述べようとするには抽象的であり、不十分なように思われる。
 ここでようやく本題に話の内容を移すことにしよう。後期授業でフーコー、ドゥルーズそれぞれの視点から権力についての講義がなされたが、授業を通して一つの疑問が浮かんだ。それは多くの場面に関して権力や権力者などと言われているが、様々な分野(法律、経済、社会など)において共通の、もしくはそれぞれの分野に対して横断的な「権力」というものがあるのだろうか、というものである。この疑問について前期のレポートであるかったセールの図表的モデルとオートポイエーシス・システムを参考にして考えてみたいと思おう。そして先ほどあげたセールが「権力」として考えている三つの決定機関である「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」の特徴の「屋内」ということにそれぞれふたつのモデルから注目し、考察していくことにする。
 まず、図表的モデルの視点から考えてみることにしたい。注目すべき点は先ほどあげた「屋内」ということと「反対勢力が見当たらないような」ということである。ここでは最初に「反対勢力が見当たらないような」ということについてこれを「付け入る隙がない」というように受け取る。つまり、一つのモデルとして図表的モデルを用いるとき、頂点同士を線により結び付けるとき、他の線に余地を与えないような、そして他の頂点に対しても余地を与えていないようなモデルを考えることが必要である。決定された線に対して「反対勢力の見当たらないような」線とは頂点を結び付ける際に最も短い距離をとる線のことである。全てが最短距離をとるとは限らないとしても各々の線が最短距離もしくは限りなくそれに近いような線であることが求められる。さらに頂点同士は重なることなく密集しており、他の頂点があとから介在する余地を与えていないようなモデルが求められる。そしてこれらの線と頂点により形成された一つの図表的モデルは同時に一つの閉鎖性を示している必要がある。この図表的モデルが示している閉鎖性はセールが述べている「反対勢力が見当たらないような決定機関」の特徴である「屋内」ということに比喩としてイメージを譲る。このモデルにおいて諸線、諸頂点の配置やその密度などを決定するのは言表である。この言表は普通のものではなく特権的なつまり「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」の発言、論文、発表などである。彼らの言表は高密度の図表的モデルにおいてさらにその権力を増していくような役割を果たしている。
以上において、権力を俯瞰的に観たつもりではあるがこれでは横断的な「権力」があるのか、という私自身の疑問には何ら答えたことにはならない。そこで、オートポイエーシス・システムに論の中心を譲ることにして、考察したい。始めにオートポイエーシス・システムについて簡単に説明し、そこで説明されたシステムを実際に「権力」という枠組みの中で適応させていくことにする。
オートポイエーシス・システムの定義についてはマトゥラーナ、ヴァレラの著書である『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』引用したい。「オートポイエーシス・システムとは、構成素が構成素を産出するという産出(変形及び破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである」 としている 。ここで「有機的に」とされているがマトゥラーナ、ヴァレラが神経システムを念頭に置いていただけであり、システム論として考えるならば「構成素が構成素を産出する」ということが第一条件となってくる。システムと構成素の間には産出=産物の関係が成り立っており、どちらも産出するものであり産出されたものである。オートポイエーシス・システムにおいてはこの循環が重要となってくる。産出=産物の関係が循環することにより、円環状のシステムを形成し、その円環状のシステムによりつまりシステムが作動した結果として「境界」を「みずからの作動の範囲を区切り、みずから自身によって規定する」 のである。システムが作動し、作動が円環状になることによって初めて「境界」が出現するのであり、境界はあらかじめ導入されているものではなく、行為(作動)することにより帰結してくるのである。
構成素は構成素を産出するが、まったく異なる構成素を産出することは出来ない。例えば社会における構成素をコミュニケーションとするならば、コミュニケーションは別なコミュニケーションを新たな構成素として産出する。「コミュニケーションはコミュニケーションの連鎖として固有の位相領域を作」るのである。つまりシステムにおいて構成素が異なれば、それはもう全く別のシステムなのである。
以上でオートポイエーシス・システムについての大まかな説明に区切りをつけて、実際にこのシステムモデルを用いて「権力」について考察したい。まずは自身の疑問点として挙げた「横断的な権力」は存在するのか、に対して返答したい。私の答えは「ない」である。例えば経済、法律、学問などが同一領域に存在しているのならば、それらを横断するような「権力」を認めることは出来るだろうが、それらにおいて構成素が同一ということはなくシステムが異なることになり、別々の位相領域を各々が構成していることになる。しかし、だからと言って「横断的な権力」がないと結論付けるにはすこし早い気もする。なぜなら、一つのシステムに対して他のシステムはその「環境」として存在しており、影響を与える、及ぼす状態(「浸透」)の状態を認めることが出来る。しかし、ここではあえて「ない」として話を進めることにする。なぜならオートポイエーシス・システムが作動することによって初めて存在する(「行為存在論」的である)ように、あらかじめ措定されたような「権力」の有無が問題となるのではなく、「権力」においても作動しているか、効力、影響力を与えているのかということが問題となるはずである。なぜなら、その力を振るっていない「権力」は存在していないようなものだからだ。
再びここで「権力」の話からシステムの話に中心を移してもう一度「権力」について考えるための準備をする。ここでなぜ戻るかと言うと初めに引用したセールの文章に対して検討をしていきたいと思うからだ。図表的モデルでもその閉鎖性とセールが「反対勢力が見当たらないような決定機関」と屋内(=閉鎖性)を関連付けたことを考えると、このオートポイエーシス・システムに対しても閉鎖性つまり屋内であるということが当てはるかどうかを検討したい。
まず思い出してもらいたいが、オートポイエーシス・システムはその円環状の作動により一つの閉域を作り出すシステムであるのである種の閉鎖性をもっている。しかし、河本が注意を促すのは閉域があるからと言って内部・外部の関係における入力・出力ということは成り立たない、ということである。このシステム論においては産出ということと、外からの刺激に対する作用とは明確に区別されなくてはならないのである。つまり、オートポイエーシス・システムは観測者の視点を排除して「自分の構成要素を産出するという産出作動の循環のうちからみる限り、システムはただひたすらみずからの構成要素を産出し、その構成要素がシステムを構成し、そしてさらにシステムが構成要素を産出するという循環を繰り返すだけである」 。そうなると、閉鎖性は産出作動の循環による単なる結果により生じたものでしかない。だが、システムにおいて閉鎖性があるということはシステムが作動しているということであり、作動しているということは閉域を作り出すということである。この閉域を法律、経済、学問などの領域として考えることが出来るとなると、「権力」が閉鎖性(セールの言う天候から切り離されたという意味での「屋内」)を前提としているならば、「権力」があるつまり作動しているというためにはシステムの作動自体が前提されなければならない。つまりシステムが産出作動の循環として作動し、閉域(閉鎖性)が生じた結果として「権力」が発生する。
個々の領域においてもこのシステムは非常に柔軟であり、応用がきく。経済、法律、学問などの領域において同様にしてそれぞれの閉域(閉鎖性)が発生してセールの言う「権力」の条件ともいえる天候から切り離されているという意味での「屋内」が生まれる。この別々の領域において同様に作動システムがあるので、同様の作用として閉域から発生してくるものとしての「権力」を我々は横断的なものとして考えているのではないだろうか。オートポイエーシス・システムの作動は閉域の発生を介して「権力」を発生させる。ここではオートポイエーシス・システムがその境界を作動によって初めて示すように、「権力」もその作動によって初めて「ある」ということが出来るのである。
最後にもう一度、一つのシステムはその環境との「浸透」しあっている、つまり「相互浸透」状態により密接に関わり合いながら作動している(「連動」している)という状況を考えるならば、「横断的な権力」を考えることが出来るだろうが、ではそもそも「権力」というものはどのようにして生じてくるのかを問わなければならない。今回はその生じてくる場面をセールの文章における「屋内」ということをヒントに図表的モデル、オートポイエーシス・システムを用いて法律、経済、学問など一つの場面を想定しながら捉えようと試みた。私はやはり「静止した権力」はなく「権力」は常に作用しているものだと思う。





参考文献
M・セール 『自然契約』 法政大学出版局(1994)
河本英夫 『オートポイエーシス 第三世代システム』青土社(1995)
H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ
『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』国交社(1991)

レポート[前期]

「M・セールの「図表的モデル」を手掛かりにしたライプニッツの可能性」

 M・セールは『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』 において一つのモデルとして「図表的モデル」を提出している。今回はまずこのモデルへの考察、そしてライプニッツ哲学における出来事、可能性への適用を考えることにする。
 まず、セールはこののちに「図表的モデル」と呼ぶ「網の目の形で描き出された図」について「この図はある瞬間に(……)、複数の点(頂点)によって形成される。各点は、複数の分岐(道[辺])によって互いに結びつけられている」 としている。さらに、この「図表的モデル」を構成している各々の点(頂点)は「ひとつの命題や、決定された経験的な事物の集合の中の実際に定義し得るひとつの要素を表す」 とする。
 セールは「弁証法的論法」との比較において「図表的モデル」の特徴を顕著にさせていく。両者の特徴は一つのケースを想定して顕著にされていく。それは二つの命題、二つの頂点を考えた場合、一方から他方へと行く道についてである。前者の「弁証法的論法」においてそれは「単線的であり、道筋の単一性や単純性、……に特徴づけられている」のである。それとは逆に「図表的モデル」の方は「媒介的な道筋の多様性や複雑性で特徴づけられる」のである。「図表的モデル」においてはある点から他の点へと至る経路(道筋)は直線的な最短距離の道筋だけではなく、非常に多くの道筋をとることが可能である。さらには別の第3、第4……複数の点を通過することさえ可能である。経路の複数性、複数の点の通過可能性により、このモデルでは「多様性や複雑性」が確保されているのであり、この「多様性や複雑性」こそが比較対象である「弁証法的論法」にはない「図表的モデル」の特徴である。
 「図表的モデル」の簡略的な説明は以上のようである。このモデルをライプニッツ哲学における出来事や可能性を語るのに有効なモデルであると仮定して、実際にセールのモデルをライプニッツの概念を考えるために適用させていきたい。
 ここで、まず先にライプニッツの「出来事」、「可能性」についてセールの「図表的モデル」と同様に簡略的に示しておきたい。まず「出来事」であるがこれはライプニッツ哲学におけるひとつの有名な命題「全ての述語は主語のうちにある」という命題の述語である。アルノーとの往復書簡においてライプニッツは「述語または出来事」 という言い換えを行っている。さらには、主語と述語の関係などを論じるときにライプニッツが用いる例 をみることで「述語または出来事」という彼の想定がより強固なものとなるだろう。ここでの「出来事」とは属性ではなく、動詞のことである。おそらくライプニッツにとって属性は動詞つまり「出来事」によって導き出され得るものである。
 次に「可能性」についてであるが、簡潔に言うならば、ある命題に対してその対立命題を措定したときに、対立命題が矛盾しなければ、可能であるということが出来る。例えば、歴史的事実として「カエサルはルビコン河を渡った」が対立命題として「カエサルはルビコン河を渡らなかった」と言っても命題としては矛盾しない。事実として成立した出来事に対して措定された対立命題の無矛盾性によって可能性は確保される。このとき、命題としては矛盾さえ含んでいなければどんなことも可能であるが、単なる説明のしやすさのためか、ライプニッツは例として歴史的事実を常に持ちだしている。この点においてライプニッツの「可能性」を未来へ向けられた「~するこができる」ではなく、常に過去に向けられた「~することができた」である考えることが出来る。しかし、ライプニッツ哲学の諸概念は相互的なものとして考えなければならない 。「可能性」に関しても二通りの考え方が成立することに注意しなければならない 。
 簡略的にセールの「図表的モデル」、ライプニッツの「出来事」、「可能性」について論じた。ここから実際に後者二つをセールのモデルへ適用させていきたい。
 まず、セールの提出した「図表的モデル」における「点(頂点)」をライプニッツにおける「個体概念」として考えてみたとする。各々の「個体概念」を関係づけている「道筋」は何に当たるのだろうか。この「道筋」を「出来事」と考えてみることが可能である。「道筋」は多様であり、複雑である。ライプニッツにおいて「出来事」は無数の「可能世界」の中から選ばれた一つが現実化するが、他の「出来事」が生じた可能性もあるという点で多様である。さらに、「出来事」例えば「カエサルはルビコン河を渡った」というときこの命題には表れていない周囲の状況が悉く含まれている。例に挙げた命題においては「渡る」という「出来事」によって「カエサル」と「ルビコン河」が関係づけられている。しかし、この「出来事」は共時的、通時的に現実世界の全てと「カエサル」と「ルビコン河」を関係づけるという点において複雑である。だが「出来事」による共時的、通時的な複雑性を我々は認識することが出来ない。我々が認識できるのはライプニッツの言う「出来事」の極一部であり、この認識できる範囲の「出来事」、言い換えれば「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な「出来事」だけである。
 この限定的な「出来事」は「カエサル」や「私」によって認識されるわけだが、この特権性は「カエサル」や「私」という「点(頂点)」の特権性に基づくのではない。セールのモデルにおいて「いかなる点も他の点に対して特権的ではないし、いかなる点もいずれかの点に一方的に従属してはいない」 のである。この認識の特権性をセールのモデルにおいて考えるならば、特権性はチェスの駒の強さのように「駒全体の配置や、敵方の網の目とのかかわりにおけるその分布の複雑さをふまえた上で、ひとつの時点における駒の相互的な状況に応じて、可変的である」 ことにより生じる。この可変的、特権的状況において私が認識できる範囲、セールの言葉をかりるなら「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」は全体から切り取りが可能であるセールは言う。この切り取り可能ということをライプニッツに即して言うなら明確な表象のある認識ということができ、つまりは「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な認識である。
 今までは「点(頂点)」を「個体概念」として考察を行ってきたが、セールが提示するモデルにおける「点(頂点)」をライプニッツにおける「出来事」として考えることも可能であるように思われる。そして、「出来事」同士の相互的な関係づけの中で集合全体から切り取り可能である「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」を「個体概念」つまり一つの「実体」として考えることが出来る。
 セールの提示した「図表的モデル」について二通りの適用を示したが、今一つの問題があるように思う。それは「点(頂点)」の捉え方の問題である。この「点(頂点)」と「道筋(線)」の二重性についてセールは以下のように記述している。「ひとつの頂点はふたつまたはいくつかの道の交差点とみなすこができる。(……)これと相関的にひとつの道は、あらかじめ想定された二つの頂点の対応づけを起点にして形成された決定とみなすことができる」という二重性である。「点(頂点)」に関してドゥルーズは前者の立場をとっている 。この二重性により「点(頂点)」を「個体概念」または「出来事」と解釈することが可能である。
 最後にこの「図表的モデル」の目的は、諸命題や出来事の空間的展開の分布より「図表的モデル」の上に表れるひとつの状況、この状況は流動的で時間とともに全体的に変化する状況を形式的に示すことであるといえるのではないか。しかし、この形式的に示されたものは「多様性や複雑性」を含んでいる。この複雑性を「知と経験にとっての最良の補助者」とすることがセールにおける「図表的モデル」の目的である。この目的に多少なりとも即した形でライプニッツと関連付けることができていれば幸いである。

参考文献
M・セール 『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』法政大学出版局(1985)
G・ドゥルーズ 『記号と事件』河出書房新社(2007)

レポート[後期]

西田幾多郎『善の研究』における宗教観

 人々は宗教において何を求めているのだろうか。この問いの設定は適切ではないのかもしれない。少しややこしい言い方になるだろうがここで「人々」と言ったのは、何らかの宗教、神を信仰している人、つまり宗教に対して何かを求めている人、このような人たちが求めているものに何か共通項となるべき項があるのか、という問いの設定の仕方のほうが先に立てた問いよりも何か正確な気がする。この問いに答えるにあたって何ら指標のないままただ自らの中で解決を求めることよりも、先人の知恵として西田幾多郎を、中でも今回は焦点を『善の研究』にしぼり、考察していきたい。
 先の問いに対して西田は『善の研究』第4編宗教の冒頭において一つの答えを与えている。「宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命に就いての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを知覚すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと欲する要求である」 と述べている。ここで西田は「宗教的要求」とはあくまで「自己に対する要求」つまりは個人的なものであると述べている。西田がその内容として求めていることを細かく段階を追ってみるならば(1)自己の相対性、有限性の知覚、(2)「絶対無限の力」との合一、(3)「永遠の真生命」の獲得、以上3段階を設けることが可能であると思われる。
 ここで補足的ではあるが説明を付け加えておきたい。西田にとって「宗教的要求」は先にあげたようなものであり、現世における利益、安心などを目的としてはいけないとしている。安心に関しては宗教の結果として得られる状態であるとしても、それは目的ではなく、「往生を目的として念仏するのも真の宗教心」ではないとしている。「往生」はあくまで結果であり、念仏の目的ではない。ここで「悪人正機」を説く親鸞と門弟のやりとりが連想されるが今回は触れないことにしておく。
 話を本筋に戻すことにする。西田はその著作、今回でいえば『善の研究』において同じことをアプローチの角度などを変えながら執拗に繰り返し述べる、という筆記スタイルは晩年に至ってもさほど変化していない。つまり、西田の筆記スタイルからすれば彼の文章は常に彼が核心だと感じた所へと何度となく立ち戻り、多重円環的な文章となっている。『善の研究』においてはその核心は「主客未分の状態」、「主客合一の状態」、「意識本来の状態」などと呼ばれる「純粋経験」であり、「純粋経験」を発展させる力としての「或無意識統一力」、「統一的或者」である。そう考えるならば宗教について語られる第4編においても同様に「純粋経験」、「或無意識統一力(統一的或者)」へ立ち戻りながら、これらの概念が中心を成しながら西田の論が進んでいくことが予想される。気になる点に関して、西田の『善の研究』、特に第4編での論を中心に見ていくことにする。
 まず「宗教的要求」とはなにか、という疑問である。西田は「宗教的要求」のことを「意識統一の要求」や「宇宙と合一の要求」として「人心の最深最大の要求」、「生命そのものの要求」であるとしている。西田にとって「宗教的要求」とは普段「純粋経験」が分化発展した状態にある我々の「意識」がその根本的状態である「純粋経験」へと、つまりは「主客合一の状態」である意識の根底にある状態へと回帰することなのだと考え得る。「宗教的要求」の言い換えである要求の形容に使われている「意識統一」や「宇宙と合一」はどちらも我々の根本であるところの「純粋経験」を指していると解釈するならば、「宗教的要求」を「純粋経験」への回帰と解釈することに問題はないはずである。我々の意識の、広くは世界の根本であるところの「純粋経験」に対して我々の意識はその分化発展の一部であり、我々の意識、生命がその根本へと回帰しようとすること、つまり「主客未分の状態」である「純粋経験」において大なる統一を求めることは西田にとっては思想の「実践的意味」、思想の実現、実行である。
 次に西田は『善の研究』において宗教や神をどのように考えていたのだろうか。「宗教」に関しては「神と人との関係」と簡潔に述べているが、この関係を考える上で神の位置づけというのが重要になってくるのは言うまでもない。「神と人との関係」については全ての宗教において「神人同性」の関係が必要であるとしている。つまりは神と人はその本性を同じにしている関係であるが、この関係をより明確なものとするために「神」についての考察を行うことで、明確な位置を与えていくことにする。
 西田は「人」については「我々の個人的意識」を指すとしている。つまりは「純粋経験」の分化発展している状態、主客が分離しているところの我々の意識である。しかし、「神」については「宇宙の根本」と考えておくことが最も適当であるとしている。だが、これだけでは何ら明確にはなっていない。そこで西田は「神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直にこの実在の根底と考えるのである」 と述べている。宇宙と神の関係はそのまま「本体と現象の関係」であるということである。ここで西田の考える「神」の一つの特徴としていわゆる超越神ではなくスピノザの神のような内在神に近いということがわかる。「宇宙の根本」である「神」は、根本、根底において統一を求めている西田にとってやはり統一なのである。「我々は此二者の統一を考えずにはいられない、即ち此二者の根底に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。……而して此統一が即ち神である」 。ここで西田の言う「此二者」とは「自然と精神」のことである。両者は全く別々の実在としてあるのではなく、一つの統一の別々の見方なのである、というのが西田の主張である。「直接経験(純粋経験)」においては精神と物体の区別すらなく「物即心、心即物」なのである。西田が言う「神」とは自然と精神の根底であり、あらゆる区別のない状態(「主客未分の状態」)である「純粋経験」の根底なのである。西田の言葉を用いるならば「実在の根柢たる神とは、この直接経験(純粋経験)の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ」 ということになる。
 ここで再び西田の考える「宗教」における「神人同性の関係」が多少なりとも明確になったのではないだろうか。つまり、「神」は世界(宇宙)の外にいるような超越神ではなく、我々の意識現象の根柢たる「純粋経験(直接経験)」の根柢であるために我々とその本性を全く別にしているのではない。世界(宇宙)の中に我々同様に存在しており、その本性においては我々と全く異なることはない「神」なのである。この意味において「神」は「生命の源」なのであり「我は唯神に於いて生く」 ということになる。
 では、なぜ「宗教的要求」は神との合一を求めるのだろうか。宇宙の根本であり、我々の根本であるところの「神」に帰すると言ったとき、なぜ「帰する」というのか。それは西田が『善の研究』で考えている「神」は万物の目的であり、従って我々の目的でもあるということになる。目的である「神」へ到達するために、「純粋経験」へと到達し、宗教においてさらに「神」と合一する。このような段階がこの『善の研究』では踏まれているような全体構成になっているということも考えることが出来る。しかし、「神」は万物の目的であるので、我々の目的であるというところまでは、納得がいくがそこからなぜ「合一」ということになるのだろうか。
 西田は『善の研究』第4編において「最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる」と記している。自己の説明に関してその「最も根本なる説明」が自己にあるということだけではなく、「神」の表現であるところの「宇宙」の「最も根本的なる説明」も必ず自己においてなされる。そのためにまず「純粋経験」に、そして「神」へと到達していくこと、つまり「神」との合一が求められているのだと考えることが出来る。
 最後に不適切な形ではあるが私が提示した「宗教において何を求めるのか」という問いに対して返答しなければならない。答えとして二つを用意することが出来る。一つは真なる「宗教的要求」から結果として生じるに過ぎない、つまり派生的に副産物として得られる「安心」である。しかし、これは西田にとってこれに甘んじることは真の宗教ではない。二つ目として提示する答えは西田の意見に従ったものである。すなわち「絶対無限の力」である「神」と合一することにより得られる「永遠の真生命」つまりは自己の、そして宇宙の「最も根本なる説明」であるだろう。ここにおいて我々は自らの「生命の源」である神と合一しており、自らの、そして宇宙の「生命の源」との合一でもあるがために、そこでは「永遠の真生命」である「最も根本なる説明」を得ることが出来、これを欲しているのだと結論することが出来る。

参考文献
西田幾多郎 『西田幾多郎全集 第一巻』 岩波書店(2003)