2010年8月10日火曜日

ブリオッシュとコナトゥス



ブリオッシュな君へ。

少し長引用になるだろうが、ボルヘスから引用するのが、適切だろう。
だって、この二つの言葉を結びつけたのは君であり、
この二つの関係を気にしているのも君なのだが、今、君の手元にこの本はない。
もう一度、思い出してみよう。


地上に存在する新奇なものはいずれも天上の原型を反映している、と中国人らは考えている。
かつてそのように考えた者たちがあり、そう考えつづけている者たちがいる。
今や<何者>あるいは<何物>かは剣の原型、机の原型、ピンダロウス風の頌歌の原型、
三段論法の原型、砂時計の原型、時計の原型、地図の原型、望遠鏡の原型、天秤の原型を持っている。
スピノザは、すべてのものが自分の存在のうちに留まり続けたいと願っていると知った。
虎は虎でありたいと、石は石でありたいと望む。
原型であろうとしないものなど存在せず、時にはそれが実際に原型であることをわたしも知った。
相手の男あるいは女を自分の原型であると思うには、恋に落ちるだけで十分である。
マリア・コーダマがオウ・ブリオッシュ・ド・ラ・リュヌというパン屋でこの大きなブリオッシュを手にい れ、ホテルにいるわたしのところに持ってきて、これは<原型>ね、と言った。
彼女が正しいのはすぐに分かった。
読者よ、写真をよくご覧になった上で判断していただきたい。 (J・L・ボルヘス 『アトラス』)

最初に君から来たメールは「何で、ブリオッシュが原型なの?」だったね。
その時は、本が出張していて、手元になかったから、答えられなかったけど、
戻ってきて、読み返して、確かにブリオッシュは<原型>だとわかった。

ブリオッシュは、焼かれて、パンパンに膨れながらも、破裂することなく、
ブリオッシュであり続けている。だから、スピノザの話を持ってきているのだし、
これは実際に<原型>として存在しているんだろうね。

ここで、スピノザの話を少ししようと思います。
付け焼刃なので、申し訳ないです。
「スピノザは、すべてのものが自分の存在のうちに留まりつづけたいと願っていると知った。」
この一文が、どんな意味を持っているのだろうか。それを考えてみようと思う。

ボルヘスはスピノザの何処にそのような事を読みこんだのだろうか。
(スピノザに関しては先輩に幾つか質問して意見を伺ってみたりしました。)
最も有名な個所は『エチカ』第三部定理6である。該当箇所を引用しておこう。

おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執する。

さらに、スピノザはその証明の中で続けてこう言う。これも該当箇所を引用しておこう。

おのおのの物はできるだけ、または自己の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力する。

この努力にあたる単語が「コナトゥス conatus」である。
ドゥルーズは様態としての存在しているものの、本質としてこのコナトゥスを、
「力能の度」として定義している。
さらに、彼は「コナトゥス」に関して三つの規定をしているが、
この三つの中でボルヘスの主張を合致するものは第一の規定である。

「自己の有」への固執とは、自己(おそらく精神と身体の結合しているもの)を破壊したり、
消滅へと向かわせるようなものは含んでおらず、自己のできる範囲に於いて、
それを保持し更新していこうとする傾向、力能が「コナトゥス」であると言える。
「自己の及ぶかぎり」というのは、他の存在の様態と出会った時、
他の物の方が力能としてのコナトゥスが大きければ、自己の構成関係は破壊されてしまう。
コナトゥス同士の力関係により、破壊されたり、逆に、よりよく働いたりもするが、
コナトゥス自体はそれ自身の有を保持し、それに固執するのである。

ドゥルーズはスピノザのコナトゥスと、ライプニッツのそれとの違いを簡潔に述べている。
ライプニッツの場合は可能態から現実態へと向かうこの傾向をコナトゥスと呼び、
スピノザの場合には現実態としての存在の様態を上で見たように、保持し、固執する。
それはスピノザの哲学体系に於いて「すべての力能は、現実態であり、現に活動中の力としてはたらいている」のであり、現実存在へと移行しようとするものではなく、この現実において、
現実存在している現実態の力能として解釈されるならば、可能態から現実態へと働くものではなく、
現実態として働くものであり、その働きに関しては上で説明したとおりである。

まだまだ不十分ではあるが、大まかに話をまとめれば以上の様なことになるだろう。
そのもの(ボルヘスの言う<原型>)でありつづけようとしているもの、それが<原型>なのである。
(同語反復になっているけど……)

このボルヘスの文章は愛で満ちている、と思う。
これもまた一つの「コナトゥス」だろう。
コナトゥスは互いの構成関係が合一をみるような場合、喜びの情念が生じるのであり、
喜びの情念を抱く場合、
「私たちの力能はひろがって、相手の力能と一体となり、愛する対象とひとつに結び合う」のである。
ボルヘスは、パン屋でブリオッシュを見つけて、喜んで持ってきたであろう、
マリア・コーダマと恋におちているのであろう。
つまり、ボルヘスにとってのマリア・コーダマは、互いに<原型>であるのだろう。

「コナトゥス」は「本質というものの肯定的な捉え方」に関わっているのであり、
存在に於いては、これは「本質の肯定」である。
だからこそ、ボルヘスは「ブリオッシュ」という文章の最後を、
読者に、賛同を求める文章で締めているのではないだろうか。

自らと、自らの<原型>であるマリア、両者への肯定、彼らの構成関係と合一をみるような、
対象、つまり、愛によって対象と結ばれることを願っているのではないだろうか。

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