「ヴァリアシオン」としての「視点」。
モナドについてライプニッツは街を眺める「視点」の比喩を使うことがある。
各々の「視点」は全て異なっており、街を全て眺めることが出来るわけではない。
それが可能なのは神のみである。
モナドは神の取りうる視点として、想像されたということもできる。
神の取りうる視点のヴァリアシオンとして、各々モナドは存在するのである。
そこで、世界の多様性は神の視点の多さに、つまり無限に存在しているモナド、
ということになるかのように思われるが、
単にモナドの数ということでは、それらモナドがバラバラに存在していても、
構わないかのように思われてしまう。
モナドはその中に、他のモナドとの関係も含んでいるのであれば、
視点としての、ヴァリアシオンとしてのモナド同士も、
何らかの仕方で関係づけられなければならない。
関係づけの方法に関しては、一旦脇に置くとして、
視点としてのモナドは、各々の仕方で宇宙を表象しているのであるが、
この視点はあくまでも一つのモナドが、同一の宇宙を各々の仕方で表象しているということにとどまる。
多様性はこれを基礎として導き出されるだろう。
単純実体に於いて、多様なものとして含まれているその宇宙の表現が、
表現同士が掛け合わされるのである。
異なった眺望が幾倍にもなるように、視点としてのモナドが表象している宇宙も幾倍にも掛け合わされる。
そこでは、一つ一つの宇宙の表象は異なっていながらも、同一の対象を表現しているのである。
それはモナドの表現の仕方が異なるのであり、この方法の多様性が、
モナドの多様性であり、宇宙自体の多様性であるともいえるかもしれない。
ライプニッツにおいて、重要になるのは「足されるもの」としての視点、モナドではなく、
「掛け合わされるもの」としての視点、モナドなのである。
ここで、総体や全体といった語は、足し算により求められた最大量としてあるのではなく、
掛け合わせにより、つまりは組み合わせにより求められた最大量ということになるのである。
そして、この組み合わせはより少ないものにより行われることが求められる。
つまり、「最少費用による、最大効果」ということが重要である。
そのとき、より多様なものを求めるならば、足し算を行うよりも、掛け算を行うことにより、
その最大量を求めることの方が、より多様なものとして、組み合わせを提示できるはずである。
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