2010年8月9日月曜日

手掛かり、つまりはメモ

ライプニッツは『モナドロジー』§15において「欲求」という概念、作用を提出する。
これをライプニッツ自身の説明をかりて言えば、
「一つの表象から他の表象への変化もしくは推移を起こす内的原理」であるとしている。

これら表象は一つ一つは完全に表象として明晰判明なものとして、
全体に達しているとは限らない。いや、むしろ達していないのである。
つまりは一つの表象は被造物にとっては混雑した表象としてあるのである。
「その表象から何かを得て新たな表象に到達」するのである。
もし、人間が自らの表象の全体を判明に認識することが出来るならば、
それは神と同様の視点を手に入れたことになるのであり、
世界についての新たな認識としての新たな表象はいらないのである。
一つの表象を細かく、無限に見ていくことになるのであり、
そこに於いて全てを判明に認識しているならば、新たな表象を獲得する必要はないのである。
人間の表象が混雑であるが故に、人間は新たな表象を手に入れ、
世界をより良く見ようとするのではないだろうか。

人間の表象が混雑であるのはこれが、単純実体における「多」のことである。
表象自体が単純実体に於いて多を含みかつ表現している推移的状態であるので、
この多について、全てを判明に認識することが出来ないのならば、神の視点に立つことはない。
つまり、人間が判明に認識できるのは表象のごく一部の塊に於いて判明であるものである。

ライプニッツはこの「単純実体における多」を、「変化するものの細部」であるという。
この「変化するものの細部」が存在していることにより、モナドは多様であり、特殊である。
これは変化の原理、内的原理により生じている自然的変化とともにモナドの中にあるのである。
そして、この変化の原理、内的原理がその変化の一つ一つにおいて、
「変化するものの細部」を含んでいるということが出来る。
この内的原理により、モナドは特殊化するのであり、多様化していると言える。
とは言え、モナド同士の差異はその内的規定によるものであるので、
内的原理による特殊化、多様化はそのア・ポステリオリな証明の方法であると考えることが出来る。

なぜなら、モナド同士はその差異を内的規定により持っていることになるが、
それとは逆に特殊化、多様化しているもの、それも外的規定外にその源泉を求めるならば、
それは内的規定ということになるだろう。

「変化するものの細部」、「単純実体における多」としてモナドが含んでいるものは、
様々な「状態の変化」であり、他のモナドとの「関係」である。

この、モナドが潜在的に含んでいるであろう「状態の変化」、「関係」については、
まだまだ考える必要がある。
特に関係については、何との関係か、どのような関係かということを考えなければならない。
例えば、モナド同士の関係であるならば、
各々完足的であるモナド同士は神を媒介してしか関係を持つことがなく、
適合ということに従っている、つまり調和しているということになるが、
それだけでは何かが欠けているような気がする。

まだまだ、考える点は山ほどある。
少しずつ、丁寧に考えて積み上げていきたい。

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