天使の居場所は何処か。
カッチャーリの文章はその問いに対する一つ目の回答から始まる。
「非在の場所が天使の次元である。天使の住居はどこでもない国、……、想像の世界にある。」
しかし、天使が呼びかけわれわれがそれに応えている、という状態から、
今ではわれわれが呼びかけ、天使がそれに応えることを欲している状態になっている。
なぜ、最初に天使の住居、居場所について書くことから始めているのだろうか。
きっと、天使とわれわれの関係を考えるためには、天使がどこにいるのか、考える必要があるのだろう。
話を巧く進めることができるかわからないが、書き始めることにしよう。
天使は私たちに何かを伝達する。
例えば、マリアへの受胎告知などが、天使の伝達にあたるだろう。
しかし、この告知はわれわれの感覚へと洩れてくるものではない。
「神秘を神秘としてあらわし、見えざるものを見えざるものとして」伝達するのである。
不可視である天使は、人間に自らが伝達するものをその瞬間のそのままの形において手渡す。
しかし、天使の住処であるどこでもない国を見るには、「その国になり変らねばならないだろう」。
つまり、「主客の次元が消失した合一という至高の観照」であり、
天使は「主体と客体がひとつのモナドを形成するような世界」にわれわれを導くのである。
モナドはそれ自身で完足しているが、それはモナドが一つの視点として宇宙の全てを、
各々の仕方によって表出しているからであって、そこには他の全てのモナドも含まれており、
宇宙に於いては、モナドは互いに表出され、表出しているのである。
この世界にあっては、実際には明確に主体、客体ということが難しくなる。
全ては主体であり、客体である。
ある表象に於いて判明でないことも、他の表象に於いては見れば、判明に読みとることも可能なのである。
モナドは互いに相互に照応可能な関係にあるのである。
この世界において、人間は不可視のものに触れる可能性を得る。
なぜなら、この世界では全てのことを知ることが理論的には可能であるし、
世界のそのままの姿を見ることさえ可能となる。
モナド同士が主体としてでもなく、客体としてでもなく振舞う宇宙のハーモニーは、
ポリフォニックな音楽である。
「いわば宇宙の類比的=象徴的直観、コルバンが言うところの存在の天使的次元、多声音楽は、唯一の原理の名の数々を構成する。その音楽的価値の頂上にあるのは、天球の音階でも完璧な反復でも永遠の旋回でもなく、天の典礼のリズムに交錯するさまざまな事物の共感である」とカッチャーリは語る。
「事物の共感」、ライプニッツで言えば全てが作用し合っている「協働」している世界だろう。
全ての事物は互いの響きに共感し合っている。
だからこそ、世界のバランスは崩れないのだろう。たとえ、それがギリギリの状態であっても。
むしろ、調和という言葉を色々なものの均衡状態と考える方が良いのかもしれない。
能動と受動、善と悪、美と醜の均衡状態。
しかし、美と醜に関しては個人的には均衡し合っているとは思わない。
世界の根底に、肯定を据え置くことが出来るならば、世界は全て抽象的な意味での「美」となるだろう。
肯定を置くと言う表現は語弊を招くかもしれない。
では、どう言い換えるべきか。
「世界を美的直観によって把握する」という表現の方が適しているのかもしれない。
理解ではなく、認識というよりは把握という、一挙に包み込むようなニュアンスである。
現段階での美的直観という語の使い方も非常に曖昧である。
全体を提示されているものとして、抽象的に、形式的に把握し、
世界をその組み合わせ的なヴァリアシオンとして考えるような世界観に基づくもの、
その程度にしてか、まだ考えていない。
これから、少しずつ詰めていきたい。
断片、一時終了。
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