2010年8月8日日曜日

表面について。

物事には表面がある。
人間でいえば、皮膚といえるような領域を指しても良いかもしれない。
ノート、本で言えば一つのページであると言えるのかもしれない。
ノート、本に関して言えば、その表面には文字が書かれている、
あるいは、文字を、記録を書きこむことが可能である。
書きこまれた文字は何を示すのだろうか。
個人的な日記であれば、筆者の内面的な葛藤の過程であったり、その日の出来事であったりするだろう。
本に関しては、例えば、哲学書であれば何か筆者の哲学が書きこまれている。
文学作品について言えば、現実を描こうとしていたり、素敵な物語を、風景を描こうとしていると言えるのかもしれない。

しかし、これらのどれについても筆者以外に人間が読み、中身を読みとろうとする行為に於いては、
我々はその表面をなぞるように、流れるようにして読む、ということだけでは不十分である。
それはあくまでも、「表面」でしかなく、文字の羅列でしかない。
文字の羅列には意味はない。
文字の並びに意味が生じるのは、置かれた文字同士の配置により生じる。
配置ということも、何らかの対象を表現するための法則に基づいて、
ひらがなを、カタカナを、漢字を、アルファベットを配置しなければならず、
これらの配置を組み合わせ的に行うことにより、限られた文字たちは、
自由度を増し、無限に自らを表現することが可能となるのである。

つまり、文字は無限に組み合わせにより、自らを無限に表現しているのである。
文字の組み合わせによる無限の表現の一つの現実化したものとしての作品であり、哲学書であり、一個人の日記ということになるのである。
文字の配置は自らを無限に読みこむ可能性を提示する。
たとえば、「私」の心情や、考え方によっても、読み方が異なる。
いつ、どこで、などという状況によっても左右される。
同一の書物であっても、複数回読めば、それと同じだけの読み方が存在することが可能なのである。
書物は自らの形式を変えることなく、読み手次第で自らを複雑化するのである。

しかし、こうした書物との複数回の出会いは表面に於いては現れない。
書物は深読みすることを要求している。これは文学、哲学に話を限定してのことである。
深読みという行為は、書物から多くのもを引き出そうとする行為であり、
我々の書物に対する態度であり、何よりも、読み手自らを対象としての書物の中へと潜り込むという行為である。
書物の読解に関して、書物に潜り込むことは、筆者の世界観に浸ることであり、
それと同化することであり、より深い理解を要求するための一つの手続きであると言えるだろう。
だが、対象と同化するだけでは不十分である。潜り込み、と私が呼んでいる行為は、
あくまでも、一つの「手続き」なのであって、目的ではない。

では、目的は何だろうか。

潜り込みという行為自体は対象と同一化することにより、
ある意味に於いては自らを対象化していると言える。しかし、この同化、対象化、ということもまた目的ではなく、一つの過程であり、潜り込みと同様に一つの「手続き」なのである。

では、目的とは何だろうか。

潜り込んだ主体としての読み手は、対象について考えるため、より深く理解するために、
そして、より多くのものを引き出そうとするが故に、潜り込むが、対象と同化したまま、
つまり自らを対象化した状態にとどまっていてはだめなのである。
あくまでも、我々は主体として思惟という行為を行うのであるから、
我々は再び主体の状態に戻ってこなくてはならない。
では、主体に戻ってきた主体はそのまま主体にとどまるべきかどうか、と問われたならば、
潜り込みにおいて、つまり対象との同化、主体の対象化において実現されるべきは、
要するに目的は、主体-対象間の交通の自由化であると言えるだろう。
主体は自由に対象化することが出来る、そのための通路を開く行為の第一の手続きとして、
「潜り込み」という行為があるのだと私は考えている。が、これはあくまでも、現段階での話である。

この「潜り込み」という行為、つまり主体の対象化ということは何も哲学や文学に限ったことではない。
その射程は芸術という行為や、人間同士の関係を考える上でも適応可能な一つの行為である。
まだ、大まかにしか記述することのできないこの「潜り込み」、「主体の対象化」という行為、
これらに概念という名を与えるにはまだ早すぎる。

現段階においては主体側からのみのアプローチだが、
この作用を客体側からの働きかけを持ちこむことにより、二重化する必要があるように思われる。
たとえば、セールの質料形相論における質料が形相のアルファベットを誘導できるように、
典型的構造を付与することが出来るような、対象の側の働きがあるはずだからである。

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