2010年1月22日金曜日

レポート[後期]

西田幾多郎『善の研究』における宗教観

 人々は宗教において何を求めているのだろうか。この問いの設定は適切ではないのかもしれない。少しややこしい言い方になるだろうがここで「人々」と言ったのは、何らかの宗教、神を信仰している人、つまり宗教に対して何かを求めている人、このような人たちが求めているものに何か共通項となるべき項があるのか、という問いの設定の仕方のほうが先に立てた問いよりも何か正確な気がする。この問いに答えるにあたって何ら指標のないままただ自らの中で解決を求めることよりも、先人の知恵として西田幾多郎を、中でも今回は焦点を『善の研究』にしぼり、考察していきたい。
 先の問いに対して西田は『善の研究』第4編宗教の冒頭において一つの答えを与えている。「宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命に就いての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを知覚すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと欲する要求である」 と述べている。ここで西田は「宗教的要求」とはあくまで「自己に対する要求」つまりは個人的なものであると述べている。西田がその内容として求めていることを細かく段階を追ってみるならば(1)自己の相対性、有限性の知覚、(2)「絶対無限の力」との合一、(3)「永遠の真生命」の獲得、以上3段階を設けることが可能であると思われる。
 ここで補足的ではあるが説明を付け加えておきたい。西田にとって「宗教的要求」は先にあげたようなものであり、現世における利益、安心などを目的としてはいけないとしている。安心に関しては宗教の結果として得られる状態であるとしても、それは目的ではなく、「往生を目的として念仏するのも真の宗教心」ではないとしている。「往生」はあくまで結果であり、念仏の目的ではない。ここで「悪人正機」を説く親鸞と門弟のやりとりが連想されるが今回は触れないことにしておく。
 話を本筋に戻すことにする。西田はその著作、今回でいえば『善の研究』において同じことをアプローチの角度などを変えながら執拗に繰り返し述べる、という筆記スタイルは晩年に至ってもさほど変化していない。つまり、西田の筆記スタイルからすれば彼の文章は常に彼が核心だと感じた所へと何度となく立ち戻り、多重円環的な文章となっている。『善の研究』においてはその核心は「主客未分の状態」、「主客合一の状態」、「意識本来の状態」などと呼ばれる「純粋経験」であり、「純粋経験」を発展させる力としての「或無意識統一力」、「統一的或者」である。そう考えるならば宗教について語られる第4編においても同様に「純粋経験」、「或無意識統一力(統一的或者)」へ立ち戻りながら、これらの概念が中心を成しながら西田の論が進んでいくことが予想される。気になる点に関して、西田の『善の研究』、特に第4編での論を中心に見ていくことにする。
 まず「宗教的要求」とはなにか、という疑問である。西田は「宗教的要求」のことを「意識統一の要求」や「宇宙と合一の要求」として「人心の最深最大の要求」、「生命そのものの要求」であるとしている。西田にとって「宗教的要求」とは普段「純粋経験」が分化発展した状態にある我々の「意識」がその根本的状態である「純粋経験」へと、つまりは「主客合一の状態」である意識の根底にある状態へと回帰することなのだと考え得る。「宗教的要求」の言い換えである要求の形容に使われている「意識統一」や「宇宙と合一」はどちらも我々の根本であるところの「純粋経験」を指していると解釈するならば、「宗教的要求」を「純粋経験」への回帰と解釈することに問題はないはずである。我々の意識の、広くは世界の根本であるところの「純粋経験」に対して我々の意識はその分化発展の一部であり、我々の意識、生命がその根本へと回帰しようとすること、つまり「主客未分の状態」である「純粋経験」において大なる統一を求めることは西田にとっては思想の「実践的意味」、思想の実現、実行である。
 次に西田は『善の研究』において宗教や神をどのように考えていたのだろうか。「宗教」に関しては「神と人との関係」と簡潔に述べているが、この関係を考える上で神の位置づけというのが重要になってくるのは言うまでもない。「神と人との関係」については全ての宗教において「神人同性」の関係が必要であるとしている。つまりは神と人はその本性を同じにしている関係であるが、この関係をより明確なものとするために「神」についての考察を行うことで、明確な位置を与えていくことにする。
 西田は「人」については「我々の個人的意識」を指すとしている。つまりは「純粋経験」の分化発展している状態、主客が分離しているところの我々の意識である。しかし、「神」については「宇宙の根本」と考えておくことが最も適当であるとしている。だが、これだけでは何ら明確にはなっていない。そこで西田は「神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直にこの実在の根底と考えるのである」 と述べている。宇宙と神の関係はそのまま「本体と現象の関係」であるということである。ここで西田の考える「神」の一つの特徴としていわゆる超越神ではなくスピノザの神のような内在神に近いということがわかる。「宇宙の根本」である「神」は、根本、根底において統一を求めている西田にとってやはり統一なのである。「我々は此二者の統一を考えずにはいられない、即ち此二者の根底に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。……而して此統一が即ち神である」 。ここで西田の言う「此二者」とは「自然と精神」のことである。両者は全く別々の実在としてあるのではなく、一つの統一の別々の見方なのである、というのが西田の主張である。「直接経験(純粋経験)」においては精神と物体の区別すらなく「物即心、心即物」なのである。西田が言う「神」とは自然と精神の根底であり、あらゆる区別のない状態(「主客未分の状態」)である「純粋経験」の根底なのである。西田の言葉を用いるならば「実在の根柢たる神とは、この直接経験(純粋経験)の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ」 ということになる。
 ここで再び西田の考える「宗教」における「神人同性の関係」が多少なりとも明確になったのではないだろうか。つまり、「神」は世界(宇宙)の外にいるような超越神ではなく、我々の意識現象の根柢たる「純粋経験(直接経験)」の根柢であるために我々とその本性を全く別にしているのではない。世界(宇宙)の中に我々同様に存在しており、その本性においては我々と全く異なることはない「神」なのである。この意味において「神」は「生命の源」なのであり「我は唯神に於いて生く」 ということになる。
 では、なぜ「宗教的要求」は神との合一を求めるのだろうか。宇宙の根本であり、我々の根本であるところの「神」に帰すると言ったとき、なぜ「帰する」というのか。それは西田が『善の研究』で考えている「神」は万物の目的であり、従って我々の目的でもあるということになる。目的である「神」へ到達するために、「純粋経験」へと到達し、宗教においてさらに「神」と合一する。このような段階がこの『善の研究』では踏まれているような全体構成になっているということも考えることが出来る。しかし、「神」は万物の目的であるので、我々の目的であるというところまでは、納得がいくがそこからなぜ「合一」ということになるのだろうか。
 西田は『善の研究』第4編において「最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる」と記している。自己の説明に関してその「最も根本なる説明」が自己にあるということだけではなく、「神」の表現であるところの「宇宙」の「最も根本的なる説明」も必ず自己においてなされる。そのためにまず「純粋経験」に、そして「神」へと到達していくこと、つまり「神」との合一が求められているのだと考えることが出来る。
 最後に不適切な形ではあるが私が提示した「宗教において何を求めるのか」という問いに対して返答しなければならない。答えとして二つを用意することが出来る。一つは真なる「宗教的要求」から結果として生じるに過ぎない、つまり派生的に副産物として得られる「安心」である。しかし、これは西田にとってこれに甘んじることは真の宗教ではない。二つ目として提示する答えは西田の意見に従ったものである。すなわち「絶対無限の力」である「神」と合一することにより得られる「永遠の真生命」つまりは自己の、そして宇宙の「最も根本なる説明」であるだろう。ここにおいて我々は自らの「生命の源」である神と合一しており、自らの、そして宇宙の「生命の源」との合一でもあるがために、そこでは「永遠の真生命」である「最も根本なる説明」を得ることが出来、これを欲しているのだと結論することが出来る。

参考文献
西田幾多郎 『西田幾多郎全集 第一巻』 岩波書店(2003)

0 件のコメント:

コメントを投稿