2010年1月22日金曜日

レポート[後期] 2

権力について――図表的モデルとオートポイエーシス・システムを手がかりに

M・セールはその著書である『自然契約』の中で「権力」について「どこにも反対勢力が見当たらないような決定機関を私は権力を呼ぶ」としている。具体的にセールは「どこにも反対勢力が見当たらないような決定機関」として「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」を挙げている。一体、何故上に挙げた三種類の人々はセールが指摘するような意味において「権力」と呼ばれうるのだろうか。
 まずセールは「そもそも彼らはどこで生きているのか」を問う。そして彼らの生活環境として実験室、役所、スタジオを挙げている。これら三つの環境はそれぞれ屋内を指している。屋内、それはセールが指摘するフランス語の「temps」の二つの意味――「流れ去ってゆく時間」と「空模様の天候」――において前者を掌握し、後者に裁定や決定を下そうとしており、天候としての「temps」が絶対に仕事に影響を及ぼさないような場所のことである。
 しかし、セールの詩的な文章のために、そして『自然契約』が自然とのある種の調和の締結を呼びかける内容であるために、ここで扱おうとしている「権力」について述べようとするには抽象的であり、不十分なように思われる。
 ここでようやく本題に話の内容を移すことにしよう。後期授業でフーコー、ドゥルーズそれぞれの視点から権力についての講義がなされたが、授業を通して一つの疑問が浮かんだ。それは多くの場面に関して権力や権力者などと言われているが、様々な分野(法律、経済、社会など)において共通の、もしくはそれぞれの分野に対して横断的な「権力」というものがあるのだろうか、というものである。この疑問について前期のレポートであるかったセールの図表的モデルとオートポイエーシス・システムを参考にして考えてみたいと思おう。そして先ほどあげたセールが「権力」として考えている三つの決定機関である「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」の特徴の「屋内」ということにそれぞれふたつのモデルから注目し、考察していくことにする。
 まず、図表的モデルの視点から考えてみることにしたい。注目すべき点は先ほどあげた「屋内」ということと「反対勢力が見当たらないような」ということである。ここでは最初に「反対勢力が見当たらないような」ということについてこれを「付け入る隙がない」というように受け取る。つまり、一つのモデルとして図表的モデルを用いるとき、頂点同士を線により結び付けるとき、他の線に余地を与えないような、そして他の頂点に対しても余地を与えていないようなモデルを考えることが必要である。決定された線に対して「反対勢力の見当たらないような」線とは頂点を結び付ける際に最も短い距離をとる線のことである。全てが最短距離をとるとは限らないとしても各々の線が最短距離もしくは限りなくそれに近いような線であることが求められる。さらに頂点同士は重なることなく密集しており、他の頂点があとから介在する余地を与えていないようなモデルが求められる。そしてこれらの線と頂点により形成された一つの図表的モデルは同時に一つの閉鎖性を示している必要がある。この図表的モデルが示している閉鎖性はセールが述べている「反対勢力が見当たらないような決定機関」の特徴である「屋内」ということに比喩としてイメージを譲る。このモデルにおいて諸線、諸頂点の配置やその密度などを決定するのは言表である。この言表は普通のものではなく特権的なつまり「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」の発言、論文、発表などである。彼らの言表は高密度の図表的モデルにおいてさらにその権力を増していくような役割を果たしている。
以上において、権力を俯瞰的に観たつもりではあるがこれでは横断的な「権力」があるのか、という私自身の疑問には何ら答えたことにはならない。そこで、オートポイエーシス・システムに論の中心を譲ることにして、考察したい。始めにオートポイエーシス・システムについて簡単に説明し、そこで説明されたシステムを実際に「権力」という枠組みの中で適応させていくことにする。
オートポイエーシス・システムの定義についてはマトゥラーナ、ヴァレラの著書である『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』引用したい。「オートポイエーシス・システムとは、構成素が構成素を産出するという産出(変形及び破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである」 としている 。ここで「有機的に」とされているがマトゥラーナ、ヴァレラが神経システムを念頭に置いていただけであり、システム論として考えるならば「構成素が構成素を産出する」ということが第一条件となってくる。システムと構成素の間には産出=産物の関係が成り立っており、どちらも産出するものであり産出されたものである。オートポイエーシス・システムにおいてはこの循環が重要となってくる。産出=産物の関係が循環することにより、円環状のシステムを形成し、その円環状のシステムによりつまりシステムが作動した結果として「境界」を「みずからの作動の範囲を区切り、みずから自身によって規定する」 のである。システムが作動し、作動が円環状になることによって初めて「境界」が出現するのであり、境界はあらかじめ導入されているものではなく、行為(作動)することにより帰結してくるのである。
構成素は構成素を産出するが、まったく異なる構成素を産出することは出来ない。例えば社会における構成素をコミュニケーションとするならば、コミュニケーションは別なコミュニケーションを新たな構成素として産出する。「コミュニケーションはコミュニケーションの連鎖として固有の位相領域を作」るのである。つまりシステムにおいて構成素が異なれば、それはもう全く別のシステムなのである。
以上でオートポイエーシス・システムについての大まかな説明に区切りをつけて、実際にこのシステムモデルを用いて「権力」について考察したい。まずは自身の疑問点として挙げた「横断的な権力」は存在するのか、に対して返答したい。私の答えは「ない」である。例えば経済、法律、学問などが同一領域に存在しているのならば、それらを横断するような「権力」を認めることは出来るだろうが、それらにおいて構成素が同一ということはなくシステムが異なることになり、別々の位相領域を各々が構成していることになる。しかし、だからと言って「横断的な権力」がないと結論付けるにはすこし早い気もする。なぜなら、一つのシステムに対して他のシステムはその「環境」として存在しており、影響を与える、及ぼす状態(「浸透」)の状態を認めることが出来る。しかし、ここではあえて「ない」として話を進めることにする。なぜならオートポイエーシス・システムが作動することによって初めて存在する(「行為存在論」的である)ように、あらかじめ措定されたような「権力」の有無が問題となるのではなく、「権力」においても作動しているか、効力、影響力を与えているのかということが問題となるはずである。なぜなら、その力を振るっていない「権力」は存在していないようなものだからだ。
再びここで「権力」の話からシステムの話に中心を移してもう一度「権力」について考えるための準備をする。ここでなぜ戻るかと言うと初めに引用したセールの文章に対して検討をしていきたいと思うからだ。図表的モデルでもその閉鎖性とセールが「反対勢力が見当たらないような決定機関」と屋内(=閉鎖性)を関連付けたことを考えると、このオートポイエーシス・システムに対しても閉鎖性つまり屋内であるということが当てはるかどうかを検討したい。
まず思い出してもらいたいが、オートポイエーシス・システムはその円環状の作動により一つの閉域を作り出すシステムであるのである種の閉鎖性をもっている。しかし、河本が注意を促すのは閉域があるからと言って内部・外部の関係における入力・出力ということは成り立たない、ということである。このシステム論においては産出ということと、外からの刺激に対する作用とは明確に区別されなくてはならないのである。つまり、オートポイエーシス・システムは観測者の視点を排除して「自分の構成要素を産出するという産出作動の循環のうちからみる限り、システムはただひたすらみずからの構成要素を産出し、その構成要素がシステムを構成し、そしてさらにシステムが構成要素を産出するという循環を繰り返すだけである」 。そうなると、閉鎖性は産出作動の循環による単なる結果により生じたものでしかない。だが、システムにおいて閉鎖性があるということはシステムが作動しているということであり、作動しているということは閉域を作り出すということである。この閉域を法律、経済、学問などの領域として考えることが出来るとなると、「権力」が閉鎖性(セールの言う天候から切り離されたという意味での「屋内」)を前提としているならば、「権力」があるつまり作動しているというためにはシステムの作動自体が前提されなければならない。つまりシステムが産出作動の循環として作動し、閉域(閉鎖性)が生じた結果として「権力」が発生する。
個々の領域においてもこのシステムは非常に柔軟であり、応用がきく。経済、法律、学問などの領域において同様にしてそれぞれの閉域(閉鎖性)が発生してセールの言う「権力」の条件ともいえる天候から切り離されているという意味での「屋内」が生まれる。この別々の領域において同様に作動システムがあるので、同様の作用として閉域から発生してくるものとしての「権力」を我々は横断的なものとして考えているのではないだろうか。オートポイエーシス・システムの作動は閉域の発生を介して「権力」を発生させる。ここではオートポイエーシス・システムがその境界を作動によって初めて示すように、「権力」もその作動によって初めて「ある」ということが出来るのである。
最後にもう一度、一つのシステムはその環境との「浸透」しあっている、つまり「相互浸透」状態により密接に関わり合いながら作動している(「連動」している)という状況を考えるならば、「横断的な権力」を考えることが出来るだろうが、ではそもそも「権力」というものはどのようにして生じてくるのかを問わなければならない。今回はその生じてくる場面をセールの文章における「屋内」ということをヒントに図表的モデル、オートポイエーシス・システムを用いて法律、経済、学問など一つの場面を想定しながら捉えようと試みた。私はやはり「静止した権力」はなく「権力」は常に作用しているものだと思う。





参考文献
M・セール 『自然契約』 法政大学出版局(1994)
河本英夫 『オートポイエーシス 第三世代システム』青土社(1995)
H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ
『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』国交社(1991)

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