2010年12月9日木曜日

断片

私の中に、一つの記憶がある。

小学生だった頃、いとこが一同に実家に集合するのである。
みんなで仏間で雑魚寝をし、昼間は出かけたり、ゲームをして遊んだりしていた。

一つの秘密として、夜中、大人たちが寝た後、隠しておいたお菓子を取り出し、
懐中電灯の灯りだけを頼りに、みんなで、何を話すともなく、お菓子を食べるたものだ。


いとこは大体二泊三日で泊まりに来ていたので、
この秘密の儀式をいつ決行するのかは、子供たちの間で取り決めたサインのみが合図であった。
このサインは軍隊の暗号や、独特の学問用語、恋人たちの秘密のやり取りの合図の様なものだ。
それらと同様に、必要以上に多くの人物の介入を阻止する。

たしか、セールが「コミュニカシオンを阻害する全ての物をノワーズとする」というようなことを何処かに記していた。コミュニカシオンには共通言語や文法規則、同じ意味で理解しようとすることなどが前提として含まれている。しかし、周囲の騒音や、偏見や感情の高揚などはこのコミュニカシオンの前提を破壊しかねない。つまり、これらのものはコミュニカシオンにとってはノワーズなのである。

会話をしようとしている二人、意志疎通を図ろうとしている者たちにとって、ノワーズは共通の敵として現前している。これに、われわれが気がついているかどうかはまた別の話であるが、われわれはこれらを極力排除したうえで、コミュニカシオンを行おうとするし、行いたいと望むことだろう。

子供時代にいとこたちと取り決めた合図は、子供の目的を遂行するとき、ノワーズとなる親たちに情報を漏らさないためのものだ。目的の遂行のために必要なコミュニカシオンを最低限のものにし、そこから極力ノワーズを排除しようと努めた結果、この目的はしばしば成功した。

失敗した時はといえば、一日遊び通して、疲れて、みんなで朝までぐっすりと寝てしまった時だけだろう。
そもそも、親たちは気がついていなかったのだろか。いや、お菓子のごみを見たり、何かを楽しみにする子供の目、合図を使うという怪しい行動をみて、私たちの計画に気づいていただろう。しかし、それを見過ごしてくれていたはずである。子供たちの秘密の遊びに対して、親はそれを阻害することなく、むしろ成功へと運ばせようとしていたのではないだろうか。

親たちにどんな意図があったのかは分からないし、ましてやそれに気づいていたかどうかすら確認したわけではないので、定かではない。
しかし、どんな形であれ、子供たちの秘密のコミュニカシオンは成功し、コミュニカシオンを道具とした私たちの目的も成功したのである。

ノワーズの中から、自分たちに必要は情報を選び分けることを(まだ)知らなかった子供時代。
それでも、ノワーズを極力減らそうと自分たちで合図という秘密の言語を作り上げた。
一種のふるい分けという行為を私たちは子供のころに、本能的に行っていたのではないだろうか。
それが本能的な行為だとしても、今ではそのことに気づいているので、私たちはそれを意図的に行うことが出来る。もちろん、全面的とは言えず、部分的なものであるだろうが。

ノワーズを避けることではなく、そこから必要な、有効なものを選び取るすべをそれなりに心得ているだろうし、学んできているだろう。どんなにノワーズが多くなろうとも、私たちはある程度はコミュニカシオンを成功させることが出来るのではないだろうか。

それでもなお、ノワーズはとても大きく、広く、小さく、狭い。つまり、ほぼ到る所にある。
そこをうまく泳ぐことが出来なkれば、私たちは交通不可能な状態に陥ってしまう。

巧く泳ぎ、泳ぎ切り、メッセージを運ぶ術を身につける必要があるのではないだろうか。


ふと、そんなことを思った。

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