2010年6月17日木曜日

「夜」について

conti/nuit/é

もちろんContinuite(連続性)を切断しつつ「nuit」(夜)が現れ出ることをいう言葉である。
日常の連続を打ち破って、底のほうから、なにやらobscure(正体不明)の「夜」が立ち上がってくる。
その「夜」が宇宙への通路なのである。
(『水声通信』黒田アキ p.81)

最近、夜寝ることを拒んでいる。
一つの感情としての「恐怖」が原因である。
なぜ、「恐怖」を抱くのだろうか、何に対して。

夜寝ることを拒んでいるのは、夜が好き、寝る時間がもったいない、
といったこれらの理由によるものではない。
そのことだけは、はっきりと言っておこう。
では、それ以外に「夜」寝ることを拒んでいる、その理由とは何だろうか。
私なりに、ここ数日、そのことを考えるとき、常に頭にあるのは、黒田アキの作品、概念に対する、
小林康夫のコメントであり、上に引用した文章である。

そのことを念頭に置きつつ、話を進めていきたい。

私が「夜」寝ることを拒んでいる、恐怖により拒んでいる理由は、「朝」の到来である。
個人的な体験として、小説、映画、歌詞などで、二人(恋人同士、友人同士、親子は問わない)が、
砂浜に並んで、朝日が昇るのを見つめているシーンは、ほぼ「幸せ」なシーンとして描かれている。
そのようなシーンに対して、「正体不明」の恐怖を秘かに抱いてきた。
家族で行った初日の出、キャンプ場で眠れずに過ごして迎えた朝、夜通し飲み始発に乗り込む時の朝日、
これらには崇高なもの、暖かさを感じつつも、どこかにしこりとして「恐怖」が残っていたことを告白しよう。

では、「なぜ」なのだろうか。
一つとして同じ、そして一般的なる「夜」は存在しない。
それぞれが個別的な「夜」なのであり、どんな日常の平穏な流れの中にあっても、その都度「夜」なのである。
Continuite(連続性)を打ち破るものとして、「夜」が立ち上がってくる。
つまり、日常の連続は、「夜」によって切断される。
しかし、この「夜」による「切断」がなければ、そこに連続性があることを認識できないのではないだろうか。
「夜」が立ち上がることで、そこには「連続性」と「切断」が同時に現れてくることになるのではないだろうか。

そして、私が「恐怖」を抱く場面、つまり朝が訪れる瞬間には、
「夜」が日常を切断するのではなく、逆に「夜」が切断されるのである。
「宇宙への通路」であり、開かれたものとして「夜」が切断される。
こういうことが出来るのならば、「太陽」によって「夜」が日常から引き裂かれるのである。
そして、この瞬間は我々(少なくとも私)が「宇宙への通路」を失う瞬間なのである。

安定した、我々を包み込むような「日常」という大きな連続の中で、
私は「引き裂かれた」感覚、「切断」された感覚を「夜」の終わる瞬間に見てしまうのである。
この感覚は、自らの皮膚を「引き裂かれた」感覚に似たような「恐怖」を、
私の目の前に立ち上がらせるのである。

大切なものを失くした時の、好きな人を失った時の感覚と似ているのではないだろうか。
それらのものは(少なくとも)私にとっては、世界への、「宇宙への通路」のようなものである。
生命を育む、「宇宙への通路」である「夜」が「引き裂かれ」、「切断」される瞬間を、
目撃してしまうのは、個人的な体験として、私に「恐怖」という感情を抱かせる。

空間的な区切りであるならば、私は自らの些細な力によってでも、拒否することが可能である。
そして、自ら空間を「切断」することも可能である。
私たちはある程度の自由度をもって、空間を移動することが出来る。
しかし、時間においてはそうはいかない。私たちは不可逆の時間の中をただ進むしかないのである。
進む、という能動的な行為を行えているのかすら疑わしい。

空間と絶対的に異なる時間において、否応なく、我々にもたらされるこの「切断」を、
私はどのように受け止めるべきか、認めるべきなのだろうか。
少なくとも、それがわからない、今の私にとっては、この「夜」の「切断」は、
「連続性」を生みだし、「連続性」を切断するという二重の意味を持ちつつも、
「切断」の側面ばかりが、強調され、強烈なものとして、私の前に現れているのである。

このように、弱い私にとって、夜は愛しいものでもある。
小さなもの、弱いものが身を隠し、もしくは隠さずとも生きていけるのは、
全てが明らかになってしまう太陽の下において、ではなく、全てに等しく「闇」を与え、
私自身を隠すように包み込んでくれる「夜」において、ではないだろうか。

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