2009年6月29日月曜日

サンダル

夏には欠かせない私の必須アイテムである。
以前まではいていた先代のサンダルは、2年ほど履いた結果、
大学院試験の1週間前に鼻緒が切れるという不運に見舞われた。
そして、引っ越しとともに葬ることにした。

そして、ようやく念願のサンダルを購入!!
早速履いて大学へ出かけるが、早くも左右2箇所ずつの靴ずれができた。
体への影響はサンダルに関係のないところにも出ていた。

先輩にラテン語を教えてもらうために約束の時間に待ち合わせ。
第一声が「クマ、ひどすぎですよ!!」だった。
なぜかクマが出来ていた。しかし、肝心の本人である自分に自覚症状は何もない。

昨日「MW」を一気に読んだことが原因だろうか。
眠いのを必死にこらえながら黒田アキに関する文章を読んだのが原因か。
相変わらず寝付き、寝起きともに悪いのが原因か……

今日は早めに寝たいが、読みたい本があるのでそれを読む。
友人に素敵な文章を送るための勉強であり、個人的な勉強である。



テレビ東京「ルビコンの決断」にて静岡空港の問題についての番組が放送された。
見ることができなかったが、親切な人がyoutubeにアップしてくれていた。
いろいろ書きたいことはある。
しかし、今回は一つだけ。

番組中の再現ドラマにおいて知事が静岡空港の住民投票に関する条例が議会を通らなかったとき、
「議会の決定を重んじる」と記者たちに向けて発言していた。(実際のところはわからない)
住民の署名27万人分(最低6万人分が必要)を集めたうえで、知事に住民投票の要求が行われた。
その27万人を無視して議会を重んじた。全員が同じ程度の熱意をもって署名してはいないにしても、
もっとも重んじるべき住民を、知事は、そして県議会議員たちはいとも簡単に軽んじたのである。
果たしてこれは許されるべき行為だろうか。空港に対して県民が「NO」と言えば、今までつぎ込んだ金額の損害がであるのもわかる。このとき、可能性としては「NO」もあり得た。だから否決したのだろうか。
詳しいことはわからない。

先日、東国原氏に出馬の打診があったとき、氏の諸々の発言を受けて、何人かの国会議員が「ふざけている」、「ばかにしている」と発言があったことは社会問題に疎い私でも知っている。議員などにプライドはいらない。国や人の為に働く人間であるべき議員が一番自らの地位を落とし、国民との間隙を作り出しているのではないだろうか。僕は彼らに対して「政治家」という語を使いたくはない。「○○家」と表記される職業についている人間はプロフェッショナルでなければならない。例えば、作家、書道家そして政治家。政治を勉強している訳でもないので、プロフェッショナルとしての政治家がどのような姿なのか想像もつかない。
だが、けっして人(国民)を軽んじることはない、というのが要素としてあるのではと思う。

政治家は自ら業績を作るべきではない。
彼らの業績はいつか歴史において判断されるべきものであり、判断され続けるべきものである。
政治家は自らに票を入れてくれた人に義務を返済すべきである。
不特定多数であり、顔は見えない。政治家の義務は顔の見えない将来の人々へも返済されるべきである。

理想論であるのはわかっている。
しかし、現実ばかり見ていては大きな流れを見落とすかもしれない。
ずっと前から「今こそ決断の時です!!」と言われているが、いつ決断はされるのだろうか。
世の中はのんびりと決断されるのを待っていられる人ばかりではない。

2009年6月25日木曜日

揺れる私

ここ数日、非常に落ち着いた日々を過ごしている。
あくまで、私が落ち着くのは勉強に関してである。

だが、勉強に関しても揺れている。
例えば、私の中に「貧困」というような直面している問題があれば、
経済学なり、社会学、国際関係についての勉強をすればいいだろう。
しかし、特にそのような問題はない。
哲学をやるにしても、ライプニッツを古典としてやるのか、
現代に引き上げようとやるのか。つまり、自分の立ち位置を古典、現代どちらに設けるのか。
修士は古典と決めてはいたが、現代の哲学も素敵だと思う。

ここで問題にしているのは将来の話である。
不確定なりに何らかのヴィジョンの設定が必要だと思う。
古典としてのライプニッツの研究者を目指すのか、
古典としてのライプニッツを踏まえたうえで現代哲学を研究するのか。
どちらも面白く、素敵であると思う。
周りのライプニッツを研究している先輩は前者の立場であるが、
大学時代からの先輩は後者に近い。

私のスタンスだけなら問題ないが、先輩方との付き合い方もいろいろ考えてしまう。
後2、3年は自分の決めたスタンスを守るつもりであるが、揺れ動くのである。



高校時代からの友人、高校時代に唯一会話をしていた女子がいる。
彼女はさばさばしており、私とは違い考える前に行動するようなタイプである。
先日、地元のテレビに出たらしくその映像を見ました。
感想は何か違和感を覚えた、この一言です。
活躍している彼女への嫉妬かもしれない、彼女の成長かも知れない。
ただ、話している姿に違和感を覚えた。
以前のように熱く語っていたのではなく、話を上手に伝達する術を覚え、
その技術で話しているように感じた。
この漠然としたも、何か揺れ動くものを感じさせた。



久しぶりにお菓子屋さんへ行った。
普段はお菓子を買うならば、スーパーで済ませていたが、出向いてみることにした。
お菓子の卸売の店なので、その量は豊富である。
ふとある棚の前で足を止めた。グミの棚である。
私はグミがものすごく好きというわけではない。
しかし、グミという対象は私に数ヶ月前の光景を思い起こさせる。
4月に別れた彼女が好きだったのである。
C大学に在籍していたときは生協に行き、よく買わされていた。
ものすごい勢いで食べ、気づくと私が食べる分がないことがよくあった。
勉強の合間のおやつとして買ったので、しばしば取り上げることもあった。
だが、グミをあげると嬉しそうにしていた彼女の笑顔が何よりも思い出される。

二人でしていたことを、一人でする生活に切なくなる瞬間が時々ある。
食事、勉強の話、煙草、散歩、コーヒー、映画、買い物、寝ることなど……
どれだけ依存していた生活をしていたかがよくわかる。

何かを期待している自分が嫌である。でも、完全に期待を捨てきることもできない。


私は、きっとみんなもいろいろなものの間を揺れ動いているのだろう。
引っ張られるのでもなく、突き放されるのでもなく、
ただ揺れ動いているのだろう。
しかし、自由自在というわけではないはずだ。
そこには何か力が働いている。力というよりもきっかけのようなものかもしれない。
何かを見たり、聞いたり、知ったり。

揺れ動いている、揺れ動かされている私は必死である。
その振れ幅を小さく、安定したものにするために、
何かにしがみついている。
思い出、友人、本、自分の好きなものに。
流れに逆らえばきっと振り落とされる。だから流れに、揺れに身を任せてみるのもいいかも知れない。

2009年6月24日水曜日

些細な疑問

最近は重い感じで過ごしていましたが、
快方に向かっております。

男として、人間として成長せねば。

読んでいる友人も少ないので、
のびのびやっております。

火曜日は学習院(目白)に。
授業が4時20分からにもかかわらず、毎週1時には目白にいます。
マックでコーヒー、煙草とともに勉強です。
今日はいつもより早かったので駅周辺を散策してからマックへ。

先輩とも小説、哲学の話ができ良かった。
久しぶりに晴れ晴れとした気分で一日を過ごせました。






ところで、書店をふらふらする(決して徘徊ではありません)のが趣味ですが、
女性のファッション雑誌もたまに読んだりします。

そんな中、女性ファッション誌のコーナーに衝撃の文字が……




「脱・水着!!」

えっ、まさかと思いつつ、
未だにわからない。

頼むからいろいろと文字、文章を過度に省くのはやめてくれ……

2009年6月18日木曜日

往復書簡 「善悪」

親愛なる友人へ

君の体験を読ませてもらった。
同じ状況にいたならば、きっと僕も同じようなことで苦悩していたと思う。

きっと「善悪」というわかりやすく、使いやすい二項対立がある。
僕らはこの区別を日常的には容易に用いているし、そこに問題も生じない。
でもある瞬間におそらくこの二項対立の枠の中に収まらない問題が出てくる。
それは僕らが単に枠に収めること、処理することができないだけかもしれない。
それが、僕や君が直面した問題、出来事なのかもしれない。

僕らは分類の仕方、その枠組みを知らないだけかもしれない。

「やらない善は悪」があるのだろうか。
何らかの行為をしない限りそこには善悪の区別など存在しないのではないだろうか。
君が選び取った選択肢も一つの行為ではないだろうか。
「やる偽善はまし」なのだろうか。
もしこの考え方に基づいて僕が行為したならば、
今回同様、僕は自分の行為とそこにある自己満に苦悩することになるだろうと思います。

僕たちが直面する問題も、
今回僕が直面したように個人的な場合、
君が直面したように背景に社会状況、国、国際問題などが隠れている場合があるのではないだろうか。
偽善の問題も背景がいろいろな区別の仕方があるのだろうし、
善悪の区別にしても単なる二項対立だけでは処理しきれないのではないだろうか。

僕は何か見返りを求めている自分が明確に存在していることが、
苦痛である。
満足している自分、褒められたい自分……
自分がある理想の為に嫌悪し拒絶していた姿を自分の中に観ている。
この状況が自分自身を嫌悪の対象として見させている。

結局は自分が問題なのだと思う。
偽善的である自分、満足している自分、それを俯瞰的にみている自分。
すべてが嫌悪の対象である。
偽善的であるというよりもむしろ僕は自己中心的なだけかもしれない。
それも普通に人が自己中心的であるというよりも、それよりもさらに自己中心的なのかもしれない。

そんな解決の仕方はないだろうし、解決にはなっていない。
うまく整理して書くことができなのが悔しい。

この問題には悩み続けるだろうし、
きっとまた何らかの出来事に直面するだろうと思う。幾度となく。

往復書簡 「罪と罰」

親愛なる友人へ。

私は「偽善」の問題に直面しています。
「偽善」をテーマとして考察を行っているのではなく、直面しているのです。
久しぶりに封印していたこの問題について綴りたいと思います。
(直面しているので主題ではなく、あくまで問題なのです)

僕が政治思想、特に革命から勉学の道に入ったことは周知かと思います。
そこでは、「純粋さ」と「(信念に近いものとしての)善」が一つの問題であると考えておりました。
これは大学1年のときの話ですが、同級生の一人とメールのやり取りをしていた時のことです。
彼女は「弱い立場の人たちの為になることをしたい」と言ってました。
角ばかりの血の気の多い青年であった私はためらいもなく噛みつきました。
僕の主張は以下のようです。

「国際協力の分野などで「人のため」をスローガンのように掲げているが、
 それは偽善だと思う。そのスローガンを掲げている人の圧倒的多数は「人のため」の背後に潜んでいること を黙殺している。そこには弱い人たちに何かをしてあげている自分に対する満足つまり「自己満」があ   る。それを後ろに隠して「人のため」というのは偽善に他ならない。
 「偽善」とは悪よりもたちが悪い。」

このようなやり取りの中、彼女は泣いていたことは後から知りました。
それを聞いても基本的なスタンスは変わっていません。
いつしか、自分の行動の一々を自ら監視するようになり、僕は疲れてしまい、
この「偽善」の問題と関わる限りで学問を拒絶していたのだとふと思いました。
だから、ある種「純粋に」何らかの真理を探究し、ある意味、自己を欺ける余地のある哲学を選んだのかもしれません。
もちろん純粋にライプニッツを尊敬し、敬愛してやまないのですが。

封印してから時々思い出すことはあるにしても、今回打ち明けているように表面的、内面的に問題として浮かび上がってくることはありませんでした。自らそこにストップをかける装置を無意識に開発していたらしいのです。

しかし、最初に書いた通りこの問題に私は直面しているのです。
きっかけは今日の出来事です。
友人とご飯を食べ、楽しくお茶した後、夜10時過ぎに帰宅するため駅のホームに上がりました。
ベンチでうなだれ、うずくまっている女性が一人いました。
そばにはおそらく彼女が嘔吐した形跡がありました。
よくあることだと思い、電車にの乗ろうとしましたが、気が重い。
電車を2本乗り過ごし、自販機で飲み物を買い、彼女に「大丈夫?」と声をかけました。
どう見てもしばらくは大丈夫ではない。しかし、私は飲み物も渡せずに電車に乗りました。
自らの気の重さを晴らそうとして、声をかけた。一応はそのことで満足し、気が晴れた気がした。
でも、自分が嫌悪していたはずの中途半端な善的行為、つまり偽善的行為をした。
そのことに気づき、後悔の念が増幅していくばかりです。
電車のドアーが閉まった瞬間から、終電の終わった今でもあの女性が気になります。
中途半端に一般に言う良いことをしようとした報いが今の苦悩なのかもしれません。

これが引き金となり、自分がとっさにしたこと、そのことへのお礼を欲しているのだと、
気づいて過ごしていた昔が苦痛すぎたことが思い出されます。

褒められることの少なかった私は、褒めれることを欲している。これは事実である。
その結果としての行為がとっさか否かを問わず、偽善的でないはずがない。
私が他人に対してとる行動はすべて偽善へと還元されてしまうのではという恐怖に怯えています。
偽善を嫌悪していたはずの自分の行為が、すべて偽善に還元されてしまうならばと考えてしまう。
僕にとって「偽善」に関する問題は社会的なものでも、倫理的なものでもなく、
常に私の、個人的な問題なのである。だからこそ、苦悩する。

完全なる善は、この世界では嫌われ、除外される。
キリストがそうであるように。つまり、人は完全なる善としては行為できない。
そのことは分かっている。わかっているからこそ、この問題によって生じた間隙にはまり込んでいるのである。

非常に支離滅裂であるが、君もこの問題つまり「偽善」に関する問題について
考えていたのならば、ぜひ意見を聞かせてもらいた。

2009年6月15日月曜日

家族

「家族」。
よくテレビや、小説のテーマに挙がる。
いったい何なのだろうか。

よくわからないが家族っていいな、と思う。

姉の結婚式があり、親戚も含め家族が集まる。
そして、新しい家族が増えた。

東京に出てきて4年が経ち、5年目になる。
年々、日々、家族っていいなと思う。

当分先の話だが、家族を持ちたいと思う。
きっと楽しくなる気がする。
就職していれば、もっと現実的な話なのかもしれないが、
僕にとってはまだまだ夢のような話である。

友人で現実味を帯びてきた結婚にいろいろと悩んでいるやつもいる。
僕は話を聞いて答えれることを答える。
彼が結婚するのはいいことだと思うが、
時期やら、いろいろ難しいらしい。

でも、素敵なことだと思う。
羨ましい……

2009年6月12日金曜日

黒田アキに誘われて

昨日より読み始めた『水声通信』の黒田アキ特集。
目白にある学習院への往き帰りで山手線を一周しながら読み進めた。
まだ半分ほどしか読んでいないうえに、内容についてわからない部分もある。
しかし、書きたくて仕方ない。
しゃべることは汚く、書くことは良い。
そのようなことをドゥルーズが言っているらしい。私の書くことも汚いであろうが、
書きたいという衝動に駆りたてられる。

詩、小説、映画は一つのモチーフを中心にし、その周辺を登場人物、事物に運動させることにより時間を物語の中に作り出す。我々が読む、観るというその作品を認識、感覚する行為自体が時間性を伴わざるを得ない。
注意を作品に向ける行為こそが3つの芸術と時間とを不可分なものにしている。
しかし、絵画はどうだろうか。
絵画、写真は時間の流れに一つあるいは複数の切れ目を入れることで、場面を切り‐取る。
そこには時間を感じさせる風景(夕日、走る電車……)があったとしても、絵画という表現方法によってそこに時間を作り出すことは不可能である。
我々は絵画を見るとき、直感的に全体を把握し、その静止した細部をくまなく見る。
鑑賞者の行為自体は時間のかかるものであっても、対象の方から我々の感覚に時間的に働きかけてくることはない。
小説、映画において我々は受動的鑑賞者としてもいれる。あくまで情報は与えられるのである。時間的な流れの中に身を投じることを動的芸術は要求する。時間の流れの中に身を投じることなしに我々は小説、映画を読み、鑑賞することはできない。

しかし、静的であるはずの絵画において黒田アキは時間をその中に描き込む。いや、彼の作品は常に動的な闇へと観る者を落とし込むような恐怖を感じさせる。
それは彼の作品として完成させるまでの過程にある。細かなもしくは大きな作品、大作と呼ばれるものを作り上げるときに他の画家たちが時間をかけるが、彼は常に時間とともに作品を仕上げていく。
マルグリット・デュラスが黒田の個展のために描いた文章によると、黒田は『闇』を書くとき、
まず画布を白く塗りつぶす。乾くまでに数日、数週間かかる。そして乾いた白く塗られた画布の上を黒で覆いだす。この黒が乾くまでにまた数日、数週間と時間は経過していく。この段階でデュラスは「私には、時間の厚みが見えはじめる」と述べている。
そして、塗られた黒が乾き、画布から白の画布、そして黒の画布となったその画布に黒田はカミーユ・ファランが「夜の仄暗い破片の中に潜む生命と光の呼吸のよう」と形容する白い線を書き入れる。夜は持続性の中で反復される。白い線を解きほぐしてしまえば、その夜が何であったのかわからなくなる。

これらの作業、行為フィリップ・ラクー=ラバルトは台風(サイクロン)の通過という比喩を持ち出して語る。サイクロンが通過した後には、台風の眼のような奇跡的な瞬間があるにしても、荒廃しか残らない。
通過した後に荒廃として残ったものが黒田アキの絵画である。

ここで話を一旦区切りたい。
インタビュー、哲学者、文学者からの批評、そして黒田自身の言葉の中に「コスモガーデン」という言葉がある。まだまったくつかめていないが、これはつながりのあるミシェル・セールが処女論文『ライプニッツのシステム』において展開させているまさに「ライプニッツのシステム」ではないだろうか……

芸術と哲学

よく文学作品について哲学者がそのモチーフ(主題)について文章を「書く」ことがある。
あえて「語る」と言わないことには理由があるが、それはいずれまた。

特に現代になるにつれて文学が哲学的主題を引き継ぐことが多くなった。
昔からあっただろうが、それが表面的なものとして出現するのは現代からではないか。
哲学的主題を文学が引き継ぎ、その文学のモチーフを哲学が引き継ぐ。
現代において哲学と文学の関係は強固なものへとなっている。
実際に読んだことはないが、ジョルジュ・バタイユ、小林秀雄、ミルチャ・エリアーデ、福永武彦、
埴谷雄高がいるし、現代思想が社会問題を扱うように、
文学でも三島由紀夫などが切り口は違うが似たような作業を行っているのではないだろうか。
エリアーデの幻想小説『若さなき若さ』は昨年コッポラが映画化した。
『コッポラ胡蝶の夢』というタイトルである。
これは文学部の先生に勧められた作品である。実際に観たが、主題としてライプニッツの「可能世界」を扱っていると考えても問題はないはずである。

哲学が扱っている(扱っていた)モチーフを芸術が引き受けることが多くなった。
現代になり芸術内でも手段が豊富になった。
詩、文学、音楽、映画そして絵画……
詩と哲学の関係では個人的に好きなルクレティウスがいる。
彼のやっていることを何らかの形で引き継いでいる人物としてミッシェル・セールの名を挙げても差し支えないであろう。
文学は先に挙げたとおりである。
音楽ではバロックの時代を象徴するバッハ。彼が意図的に哲学的な問題を引き継いだというより、
彼の音楽はその時代に共鳴したものであっただろう。「歪んだ真珠」であるバロック。
歪なものの中にある調和、これが時代の主題としてあったのかもしれない。
映画については昨年ようやく完結したドゥルーズの『シネマ』がある通り、
映画の中には哲学的主題として観ることができる要素が多くある。
先日観たヴィム・ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』などがある。
これは宗教的な主題があるのかもしれないが、中世以降、哲学と宗教の関係は密接である。
(こんな大雑把に言ってしまうと先生に怒られそうであるが……)

今日、本当に書きたかったのは絵画についてである。
理由は以前より好きで気になっていた黒田アキについての特集が『水声通信』で組まれていた。
これをきっかけにいろいろと調べてみるととても素敵な人であることが分かる。
先日オープンしたモーブッサン銀座店。
内装デザインを手掛けたのが黒田アキである。
来週予定があえば、友人と見に行く予定である。

今晩、特集を読むか、古川日出男を読むか悩んでいる。
おそらく黒田アキの特集だろう。
読み終えたら、画集を購入したい。さらにはフランスで作っていた雑誌『Noise』を大学にあれば、
セール、デリダ、そして黒田アキの文章をコピーして読みたい。
(雑誌の名前は「ノイズ」ではなく「ノワーズ」である)

勉強会をサボり、図書館でラテン語の勉強をした。
先日から学部以来、久しぶりに図書館にこもりだした。何と楽しいのだろう。
体調も良くなりつつある。
あと1ヶ月ほどで前期が終了である。
一つでも多くのことを学び、成長の印を残していきたい。

2009年6月11日木曜日

根拠のない私

「根拠のない私」などライプニッツ哲学の原理の一つである充足理由律で一発解消。
「すべてのものには理由がある」これが充足理由律である。

今日、黒田アキについてのんびりと考えつつ、
ライプニッツへの片思いと梅雨入りに憂鬱になる。

しかし、ライプニッツについて考えていて根拠のない論を立てた。

ライプニッツを相互主義、折衷主義と形容することはよくある。
前者に関してはミッシェル・セール、後者に関してはラッセルがそうであったと思う。
僕の関心は特に前者の側である。
ライプニッツ哲学における諸原理、諸概念をそれぞれ相互的なものとしてみる。
その相互的な諸原理、諸概念が複雑な体系(システム)を形成する。
複雑なシステムを形成するのであるが、
出来上がった体系自体は非常にシンプルなものとして成り立っているように思う。

『モナドロジー』、『形而上学叙説』は形而上学の領域を中心にしている。
モナドという概念はその代表格であるとおもう。
しかし、形而上学の領域は現実の領域と何らかの相互性がなければならない。
もちろん「ならない」というのは、ライプニッツを相互主義と形容するならの話である。
先ほどあげた著作では形而上学の領域に属するであろうシステムが非常に簡潔に書かれている。
この簡潔さは複雑さと対応しているはずである。
これがおそらく現実、現象と呼ばれるものであろう。

つまり、現実の豊かさ、複雑さを肯定するための形而上学の体系の簡潔さ。
そうでなければいけないのではないだろうか。

先日、読んだ本に書いてあったことからの大雑把な拡大解釈である。
このシステムの大枠についてやるには、個々の原理、概念をつぶさに見なければいけない。
少しずつ観ていければと思う。

僕の好きな哲学者ミッシェル・セールの『自然契約』における、
一番好きな文章は相互主義者としてライプニッツを発展させ、
自らの哲学、思想を発展させたから言える一言なのだろう。

僕もいつかその一文をきちんと根拠とともに言えるようになりたい。

2009年6月3日水曜日

『失われた肌』

半月ほど前に渋谷にある「ヒューマントラストシネマ文化村通り」にて観てきました。
この映画にまつわる個人的な話はさておき……

主演のガエル・ガルシア・ベルナルが目的でした。
彼は『モーターサイクル・ダイアリーズ』以来、大好きな俳優です。

今回の映画は結婚11年目にして別れて別々になったはずの夫婦の物語。
こんな風に書くと単なる恋愛映画になってしまう。
そもそも、観た映画を忘れないように書いているつもりが、
批評のようになっていたらショックである。
書いている動機も、その内容もあくまでも“個人的なもの”なのである。

人は失恋し淋しさを感じるとき、
次の恋へと向かうときに何を求めているのだろうか。
そして、恋愛の最中にあっては何を求めるのだろうか。

理想の恋人か、付き合っていた相手、付き合っている相手の優しさなのだろうか。
そもそも、交際相手に求める条件でよく1位に挙げられている「優しさ」。
これを挙げている人を僕は恋愛において信用してはいない。

僕の個人的な嫌悪感はさておき、
人は愛情を暖かいものだと形容する。
それはきっと、幼き頃に抱かれていた母の、父の腕の暖かさであり、
好きな相手とつないだ手であり、抱きしめた肩であり、胸の暖かさである。
肌により愛情を感じ、包まれているという暖かさを感じる。

ならば、失恋とは相手の喪失であり、
同時に(相手の)肌の温もりの喪失でもある。
幼年期を過ぎ、少年、青年へと年をとるにつれて、
親の肌の暖かさを感じる機会は減り、なくなる。
それでも人はその「失われた肌」の暖かさを求める。そこから恋愛が始まる。
失恋して、立ち直る手段として新たな恋を見つけることに向かうのも肌の暖かさを取り戻すためである。

そんなことをこの映画を観て感じ、考えた。
すごく粗い考えではあるが、恋愛を考えるときに、直感も大事ではあるが、
経験的に感じていることのできる感覚の側面も大事であると思う。
単純な発想ではあるが、喪失したものの回復ということは色々な場面において見受けられる。

今回は映画と兼ね合わせて「恋愛」と「肌」を当てはめて考えてみた。