2009年5月28日木曜日

恐怖

勉強をしていることに恐怖する。
先が見えないとか、生きていけるのかとか、
当たり前のことに対してもそうである。

しかし、知ることへの恐怖というかおびえもある。
知ってしまっていいのか?
人間は知ることを欲するというが、本当にそうなのだろうか?
知ることを恐怖し、拒絶している人もいるだろう。
そう考えると、知ることが怖いことであるようにも感じる。

先日、友人を捕まえて長々と電話した中で「希望/不安(絶望)」と「孤独/愛」は表裏一体。
この構造があるのではと話をしていたが、
知ることも善悪の二面性があるのだろう。
よくある議論のように二面性を語ることは下らないことのように思える。

話はかわるが、社会人の友人との距離感が難しい。
高校時代の友人が仕事を辞めたと聞き、直接は聞いてないので、
何気ないメールをしてみたが、返信がない。
彼はものすごく迷惑をかけたが、よき理解者の一人である。だから心配である。
しかし、友人に対して思いやりを持ち、心配している自分に何か優越感を感じているのかもしれない。
辞めた友人を見下している訳でもなく、馬鹿にしている訳でもない。
ただ、同情している自分に対して優越感を感じている。
社会人の友人の多くは自分のこういう面に気づいているのかもしれない。

きっと忙しいのだろう。そう思うことで自分を慰めると同時に、
負けるもんかと鼓舞させている。

久しぶりに人に会うとき、成長していない自分を見せるのは嫌である。
急成長を望めるほどの才能もない。鈍牛の如く一歩ずつ進んでいくしかない。

2009年5月26日火曜日

一日を4単語で

すごしてしまいました。
他大学院の授業がありましたが、最近の変な体調のせいで
寝過ごし、諦めて大学へ向かい図書館でラテン語のお勉強。

辞書を引くのは早くなりましたが、
翻訳をするとき、単語同士をくっつけるのが難しい……
文法もフランス語のときと同様後回しになっているので、何とかしたい。
月曜日の発表、パソコンにログインできず、印刷のシステムもわからず、
30分遅刻……それでも、先生は優しく授業終了後に話していると、
「今度、卒論を見せてください」と恐怖の一言を。

僕の好きな本を書いている方も快く卒論を見てくれると言ってくださっていたのですが、
怖くて未だに送っていません。愛想尽かされてしまっているんだろうとさらに恐怖する。

今日一日を振り返って、4単語というか4会話しかしていない。

1、コンビニでタバコの番号を指定する。
2、そのお礼に「ありがとうございます」と返す。
3、スーパーでカードを持っているか聞かれ「持ってません」と返答。
4、お箸はお付けしますか、と聞かれ「大丈夫です」と返す。

以上、今日の会話でした。
授業に行けば、先輩が二人出ているので会って、会話やら、鯛焼きを食べるやら、
あったかもしれませんが、今日は話したくない日だったので、登校拒否をしました。
勉強の基本は授業。
そんなことを言っている人もしましたが、
とりあえず今日だけは耳をふさいでおきます。

今日はレバニラ炒めを買ってきて食べたので、明日は元気になっているかと思います。
明日になれば普通に人と会話できるといいな、と思います。

友人を捕まえての会話もなんか申し訳ないので、
「飲み会」という名目を借りてお話でも……

ここ数カ月で話し相手が一気に減り、ちょっとさみしいですが、
福永武彦に励まされ、孤独もいいものだと思い込み、一人宙を漂う毎日です。

2009年5月25日月曜日

『椿三十郎』

勉学に励むとともに、映画や文学にも触れようと思った。
先日、日記に書いた姉の結婚式(披露宴)の最後の演目は、
兄の父の演武でした。しかも居合!!

その最後の型が黒澤明の『椿三十郎』で三船敏郎演じる椿三十郎が、
仲代達矢演じる敵を切るシーンでした。

そんなこともあり観てみました。
三船敏郎はかっこいい。映画も面白い。

ストーリーは省略します。観てください。


観ていると、熱意をもった若者に方向性、知恵を与える三船。
まるで、プラトン『国家』の洞窟の比喩に出てくる哲学者。
哲学者が光の中へ導くのを拒否する人もいる。
人は世界を見たくないのである。

しかし、映画の中の若者は変革への意志がある。彼らは光の中へ導かれるのを望んでいる。
ただそれだけなら、啓蒙を促すような映画の類である。
そして、そんな映画もよくある。環境問題を危惧するような映画やらなんやら。

ここで若者だけではなく、導き手である三船も問題となる。
彼は「鞘のない刀」と呼ばれ、自身もそうであるという。
最後の場面において若者たちに向け「大人しく鞘に収まっていろよ」と忠告する。
だから、三船演じる椿は仕えることや、とどまることはできない。
そうでないと、自身が刀となり、周りを切ってしまうからである、と思う。

幽閉されていた偉い人(名前は忘れたが、自称「馬面」である)は、
自身は不正を暴くために色々と証拠を集めていたが、
若者たちはそれを知らずに行動しようとしていた。そして、多くの犠牲を出した。
若者たちは当然、上司である「馬面」に謝る。
それを「馬面」は「君たちが謝ることはない」と返し続けて
「私に人望がなかっただけだ」と返す。これこそ懐の深さだと単純に思ってしまう。

織田裕二が主演で椿三十郎がリメイクされた。
そちらがどうなっているのかも気になる。

それにしても、何かと哲学や政治思想につなげて考えるのは悪い癖かもしれない。
だが、最後のシーンの三船のかっこよさ、これを見ただけでも満足である。

2009年5月22日金曜日

空腹とともに

今日はライプニッツの勉強会だったが、
体調不良を理由に早退をした。
中学時代からたまに使う逃走手段である。

大学院に入り2カ月くらい経ちます。
先輩方にお世話になりながら、語学を中心に勉強しています。
しかし、学部時代の最後1年半を基準にしてもわかるように、
勉強していない部類に入る。確実に。

今日は講義とラテン語(聴講)の授業に出席。
確かに夏バテ気味で体調は悪いが、勉強会に出れないほどではない。
出なかったのには理由がある。

先輩たちと勉強をしていると先輩たちは一致している意見でも、
僕の中ではちょっと違う気がする。
そんなことがよくあるのだ。自分が勉強していないだけかもしれない。
本日出席した講義でライプニッツの話が出てきたが、
そちらのほうが意見は合う。僕の考えていたことに近い。

先輩達はライプニッツを古典として研究していらっしゃる方で、二人とも優秀である。
ラテン語、フランス語、知識量のどれをとっても優秀である。
講義の先生はまだ若いドゥルーズの研究者。

僕の考え方はミッシェル・セールの影響もあるので、
時代的にもドゥルーズに近いものがあるだろう。
卒業論文の内容も正統なライプニッツ解釈から外れている部分を書きたかった。
直感的に考察を加え、解釈や意味を限定していくことで開放したかったのだ。



それならば、ライプニッツとセールをしっかりと勉強してみようかしらん。

2009年5月19日火曜日

兄弟が増えました。

先日、姉の結婚式がありました。
金曜日に渋谷で映画を観た後、千葉へ直行しました。

土曜日は朝から大忙し。
母と妹はホテル内の美容院へ行き、母は着付け、父もモーニングを着て……
私はスーツを着るだけ。支度だけなら15分程度でした。
(その内半分は髪型……)

カメラ担当の私はとにかく暇でした。
親戚のおばさん達には「わからなかったよ~」を連呼されました。

挙式はチャペルで行われました。
扉があき、姉がヴァージンロードに登場。
姉の隣に立っていた父は既に泣いておりました。

祖母は大泣き、祖父も久しぶりにお酒を飲んでいたし、
いとこが10年ぶりくらいに全員そろったし……

何よりも小さい頃あこがれていた“兄”ができました。
今までも兄弟のように接してくれていましたが、この日からは本当の兄弟です。

そして、2次会、3次会と参加しました。
兄の友人、姉の友人。多くの人たちが祝ってくれていました。
姉の友人には地元で何度か会っている方もおり、構ってもらいました。
3次会のカラオケには到着直後に「弟からのプレゼント」という名目で歌わされました。
兄の地元の友人で一人ものすごく気の合う方と話していたりと楽しかった。

この日一日で何人もの兄、姉ができた気がします。
とても、幸せそうなみんなの写真がうまく撮れていればいいのですが、これだけが心配です。

2009年5月15日金曜日

ロンリー論理

いきなり下らないタイトルで初めてしまいましたが、今のテンションを考慮してください。
僕が現実逃避のため爆発的睡眠状態にあるとき、友人かメールが届いており、「哲学において、論理的であることの重要性ってどの程度とかれているもんなの??」とのことです。僕は論理学を専攻しているわけでも、きちんと勉強したわけでもないので、応答できる範囲で応答します。

応答するといっても、自分の範囲に近づけるしかない……ライプニッツ!!
この時点で所謂ネタバレ兼オチですね。それでは始めてみたいと思います。
ライプニッツは論理学をしっかりとやった人です。天才ですから、現代論理学に通じている部分もあると論理学の先生が以前学会のときに言っておりました。そのくらい天才であり発想の豊かな人です。
彼の時代はホワイトヘッドにより「天才の世紀」と名付けられた17世紀です。同時代にはデカルト、スピノザ、アルノー、マルブランシュとまさに天才という名のふさわしい面子がそろっています。
時代背景を考慮すると、神にしても、思考にしても確実なもの、揺るがないものが真理の基盤として求められていたと思います。大雑把すぎますが、きちんと読んでいないのでここは流してください。
何らかの基盤として確実なもの、揺るがないものをどこに求めたのか、デカルトの場合は以前からあった懐疑論を省察することで「思惟するわれ」といわれるものへと導きます。デカルトは偉大な数学者でもあったので、数学的思考と哲学的思考は全く別物ではないはずです。
スピノザは主著「エチカ」の記述方法は数学のような厳密な体系を目指して、数学の証明のようにして書かれています。このような記述方法はライプニッツにも影響を与えているようにも思います。

さて、ライプニッツですが、ライプニッツは偉大な数学者でもあり、論理学も当然やっていました。ライプニッツ哲学の重要な原理に「矛盾律」があります。「AはnonAではない」当たり前のことです。さらに矛盾律は同一律の言い換えである、つまり「AはAである」、こちらも当たり前です。前者を「A≠nonA」、後者を「A=A」と記号で表記できます。この表記は論理学の本を立ち読みでぱらぱらとめくっても見当たるような表記方法だと思います。さらに良く見てみると数学の記号を用いています。ライプニッツは数学における真理を必然的真理、永遠真理と呼び高く評価しています。とすると数学的に表記できる矛盾律、同一律そして論理学全体にある種信頼を寄せていたのだと思います。このように表記することでこれらの原理は書くなものとなるでしょう。

さらに「個体概念」についても論理学の領域で説明がされることがあります。「述語が主語に内在する」と言ったときや、可能性を確保するためには命題「カエサルはルビコン河を渡った」という命題に対して、対立命題「カエサルはルビコン河を渡らなかった」というように論理命題として矛盾しない命題を措定することができれば可能性を認めることができるとしている。ここではカエサルが実際には渡っているという現実世界の事実に反する命題であっても問題はない。あくまで無矛盾性が問われているのは対立命題それ自体に矛盾が含まれているかどうかという論理学における命題の問題なのである。これにはさらにいろいろと分析などもっとしっかりした根拠があるのだがこのあたりで止めておきたいと思う。

話を元の質問に戻して考えてみよう。哲学における論理的であることの重要性とはおそらく数学的に表記できるという確実性である、つまり少し大袈裟にいえば間違いなく真理を記述する方法であると言えるだろう。そして、ライプニッツに関しては論理学の領域で話をすることの利便性も考えられるはずである。記号操作、例題の提示、少ない論述で定義などを行うなどである。

質問の答えになっていなく、十分な内容でもないかもしれない。全部読んで実のない話だと思ったら罵詈雑言は甘んじて受け入れます……

2009年5月10日日曜日

憧れ

顔も名前も全く知らない人を羨ましいと思った。
すごいと思った。

夜中の静かな住宅街の帰り道は考えていることを残酷な方向へともっていく。
残酷な現実をより堅固に作り上げていく。

憧れなのか、悔しさなのか。
どうしようもないことなど百も承知である。

百の前向きな発言をしても、
一言の事実が僕を後退させる。

そもそも前を向けとか、きっといい人が……、誰かがきっと……
前ってどこ?目のついてるほうを見れば良いの?
きっといい人がって誰?
誰かがきっとって、誰でも良いわけじゃないんですよ。

どんなに凹んでも勉学だけは自分の能力に絶望しても、
僕を裏切ることは絶対にしない。
だから、また頑張ろうと思う。

2009年5月9日土曜日

「可能性」について(講義のまとめ)

先日出た講義はベルクソン、ドゥルーズの可能性について行われた。
ライプニッツを下敷きにして「可能性」について少し考えていた自分としては触発された。

決定論VS可能性

まずはこの対立への懐疑から始まる。
簡潔にいえば、すべてが必然的である世界に対して、
選択することによって世界を構成する可能性。
しかし、可能性を選ぶということは、選択肢の中ら一つのものがある種「必然的」に生じてくる。
選択するものの中には必然的に現実化するものがあるのである。
つまり、決定論に対抗すべく導入された可能性こそが決定論へと陥れる原因である。

これに対抗すべく考えられたのが、
措定されている可能性ではなく「可能性の創造」である。
ある出来事が生じた地点へと回帰して、そこに別の可能性があった、
という創造を行うことにより可能性を創造、確保することである。

これは私が以前より考えていたライプニッツの可能性、
つまり「事後的可能性」に通じているのでは、と考えられる。
ライプニッツの可能性はある出来事つまり命題として成立したことにたいして、
その対立命題を立てることにより可能性は成立する。
ライプニッツの命題は現実か単なる命題かを問わず事後的になる。
可能性の確保についてライプニッツは対立命題を作るだけで十分であるとしている。


久しぶりにまじめなことを書いて疲れた……