2012年5月7日月曜日

「客体」の機能

最近、P・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』(2006,昭和堂)を読み返している。 セールの「準=客体」を理解するうえでも分かりやすい箇所があったので、その辺りについて少し。 レヴィが読者をいざなうように「まず、観客席から湧き上がる音を聞いてみよう」(p.159)。
同じチームのサポーターたちはほとんど全員一斉に、同じ時に同じことを叫ぶ。個々人の行為はほとんど区別できず、物語や記憶を成すような絡み合いに達することはなく、不可逆的な分岐に行き着くことはない。(p.159)
さらに、レヴィは読者の視点を「今度はグランドの上を見てみよう」(p.159)と誘う。
各々のプレーヤーは、他のプレーヤーとは、はっきりと区別される行動を果たしている。しかしながら、全ての行動は協調を目指していて、呼応し合おうと試み、他のプレーヤーとの関係によって一人一人が意味を成そうとしている。プレーヤーたちの諸行動は、サポーターたちのそれとは反対に、集合的な物語の中で生じ、それぞれが違った仕方で未決定の部分の流れを導くのである。(p.159)
 二つの引用文から、サポーターとプレーヤーという二つの集団の相違が明らかになる。サポーターにおいて「個々人の行為はほとんど区別」されていないのに対して、プレーヤーの行為は「他のプレーターとは、はっきりと区別され」ている。プレーヤーの行為は個々別々に区別されているのと同時に、一体感をもっており「協調を目指してい」る。この「協調」は他のプレーヤーとの間の「呼応」の試み、関係によって実現される。プレーヤーの行為は「集合的な物語」、つまりゲームの構築(過程)においてこそ、意味をなすが、この構築自体は行為がアクチュアル化するたびに「集合的な物語=ゲーム」を構築しているので、「集合的な物語」とそれを構築する個々のプレーヤーの行為はどちらも共に「暫定的なもの」である。このような行為と「集合的な物語」の関係を成立させているものは何か。
諸能力と諸行動とを自発的にこのような協働となすことはボールによってのみ可能となるのである。……。プレーヤーたちの生き生きとした統一は、内在的な絆―客体の周囲で組織される。(p.160)
 ということになる(ここで、レヴィ、そして「準=客体」を語るときにセールがイメージしているのはラグビーやサッカーなどのゲームである)。ボールの位置に応じて、各プレーヤーは各々の役割に見合った配置をとらなければならず、ラグビー、サッカーともにこの「ボール」を巡ってのゲームなので、個人の能力、行動はボールを巡る全体の「協働」へと向けられている。このようにして、扱われる対象でありつつも、ネットワークを構築する対象(=客体)こそがセールが「準=客体」と呼んでいるものであり、レヴィが「絆―客体」と呼んでいるものに他ならない。これまでの引用文から「準=客体」としてのボールの働きを見て取ることができる。 1)個々のプレーヤーの自発的な行為を「協調」へと向けられた「協働」としつつも、これら行為一つ一つを区別し、各プレーヤーを「個的な主体」にしている。 2)各々の行為を「協調」へと向けることで、「プレーヤーたちの生き生きとした統一」を形成することで「集合的な主体」を作り上げている。これにより、敵と味方を区別し、ゲーム全体を構築するものとして働いている。 さらに、レヴィからの引用を加えることで、「絆―客体」ということがよりよく分かるだろう。
巧妙な人たち、プレーヤーたちはボールを、個々の主体の間を巡るインデックスとし、各々が各々を指し示すことを可能とする媒介物とすると同時に、主要な客体、集合的主体の動的な絆とするのである。(p.161)
 ボール、客体とは「各々が各々を指し示すことを可能にする媒介物」であると同時に、「主要な客体、集合的主体の動的な絆」という二つの側面を持ったものである。

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