2012年5月12日土曜日

考え中……(1)

前に「ここ半年ほど考えている問題」と書いたが、メモなんかを見ているとどうやら「一年ほど」考えているらしい。
何を考えているかというと、「離散」についてである。離散性、離散的なもの、離散化……
最初は単にキーワードの一つとしてしか考えていなかったが、修論に取り組む中で、ライプニッツ(私の専門です)の哲学における「離散」の問題はかなり重要なのでは、と考えるようになった。

 というのも、ライプニッツはデ・フォルダー宛書簡で「現実的なもののうちには離散量、すなわちモナドあるいは単純実体の多数性しかない」と書いている。おそらくではあるが、このような一文を受けてM・セール(こちらも専門です)は『ライプニッツのシステムとその数学的モデル』において「諸モナドの多様性とは離散的多様性だ」と書いている。連続律(「自然は決して飛躍しない」)を認めているライプニッツの哲学は、しばしば、調和的状態、連続性などへとその視線の多くが注がれているが、まず問うべきは「離散」のほうであると思う。ライプニッツ自身『人間知性新論』では「連続量は、その大きさについての判明な認識を持つには離散量に訴えなければならない」としており、要するに彼の哲学において「連続量(連続性)」が重要であるならば、まず「離散量(離散性)」について考えなければならない。これが「離散」を単なるキーワード以上のものとして考えようとした第一歩である。

 しばらくは「離散性」と「連続性」についてばかり考えていたが、特にここ最近、それでは「不十分だ」と考えるようになった。それまでは整数をモデルにして「離散性」と「連続性」について考えていたが、これでは各々を別々に考えているだけで、両者の関連しか気にしていなかったからだ。しかし、デ・ボス宛書簡でのやり取りの中心となっている問題、実体的紐帯や支配的モナドの問題も当然重要ではあるが、私は「複合実体」が問題であると思っている。つまり単純実体のみが「真のユニテ」として認められているにもかかわらず、複合実体もユニテとして認められているのはなぜか、という問題だ。離散や連続と関連付けてこの問題を簡略的に以下のようにまとめることができる。

1)離散的状態としてのモナド=単純実体の多数性
2)多数のモナドの連続化=複合化
3)複合実体が形成されたことによるユニテ(一性あるいは統一性)=連続性の獲得

 というように連続性の獲得が目的であり、その達成で終わってしまっている。この状況が、感覚(これは個人的なものだが)と合わない。問題としては単純実体どうしの関係という以上のような目的もあるだろうが、複合実体(例えば、人間)どうしの関係ということを考えるべきでは、と思っていた。そこから、複合実体どうしの「関係」を軸にし、離散と連続を考えられるだろう。


―閑話―

 たとえば、震災以後、「絆」とか「がんばろう日本」というような一体感を感じさせ、一丸となろうという言葉や行動をいくつか見ることができる。
しかし、「絆」といっても、いつでもどこでも同じような強度で繋がっているわけでもないだろうし、そもそも「絆」、人やものとの「つながり」は強度の強弱があり、斑で不均質なものだと思う。離散と連続の問題を考えることで、この辺りのことを明確にできると予想している。

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