2012年5月27日日曜日

『愛と経済のロゴス』勉強会用メモ(2)

6月10日(日)、東京女子大学でおこなわれる勉強会用の個人的なメモです。興味のある方はぜひいらしてください。詳細な情報は主催の近藤光博先生のブログにありますので、こちら(http://lizliz.tea-nifty.com/ )をご覧ください。


1. 交換と贈与

 『愛と経済のロゴス』(http://ow.ly/baV0k)を読んで考えたことを書く前に、まず、私がどのように読んだのか、この点を少し書いておこうと思う。あくまでも、「どう読んだか」であって、その点に絞った限りでのまとめという形になると思う。
 本のタイトルにある「愛」、「経済」、「ロゴス」の三つがどのように結びつくのか、をみることから始めたい。「経済の現象」も「愛」もこれを突き動かしているのは「人間の欲望」であるという点で融合しあっており、この二つは「一つの「全体性」をそなえた現象」だが、この「全体性」を担保しているものがこの本の中での「ロゴス」に与えられた役割である。このような「ロゴス」、つまり愛と経済をまとめて扱うような学問はないが、この問題を文学が扱ってきた、ということから『小僧の神様』の話が始まる。この話の中から、「一つの「全体性」をそなえた現象」としての経済を理解するための指標として「交換」、「贈与」、「純粋贈与」が登場するので、ここで、この三つの指標の特徴を列挙しておく。
 まず、諸品社会を支配しているものとして「交換の原理」が説明されており、その特徴は以下のようになります。

1.(交換の原理において交換されるもの)「商品はモノである」。
2.「ほぼ同じ価値をもつとみなされるモノ同士が、交換される」。
3.「モノの価値は確定的であろうとつとめている」。

 これは『愛と経済のロゴス』(pp.35-36)をまとめたものです。もう少し、詳しく見てみることにします。まず、一つ目「商品はモノである」が意味しているのは、その商品をつくった人、所有していた人の感情や人格を(出来るかぎり)含んでいないことが好ましい、という状態です。そういうものが含まれていればいるほど、商品社会の「等価交換」という原則にそって商品が流れていくことが、困難になると考えられているからだ。この理由については、「贈与」との関連でも何度か言及されていることだ。二つ目「等価のモノ同士が交換される」というのは、交換において過不足が生じたとき、それが補われ、「等価交換」として成立しなければ、売った人、あるいは買った人のどちらかに「負い目」が生じてしまう。負い目を生じさせないためにも、共通尺度として「貨幣」などが発明された、と考えられている。三つ目「モノの価値は確定的であろうとつとめている」とは、「モノの価値」が計算可能であることを意味しています、というのも、モノの価値が何らかの尺度で決定できないならば、二つ目の等価交換も成立しないことになる。一つ目との関連で言えば、この本のなかでは「人格」、「感情」などが含まれていると、それらが計算可能でないので、確定的な「価値」が設定できない、と言える。
 このように整理してみると、「交換の原理」の三つの特徴は、どれも「贈与」の特徴を否定した形で提示されている、とみなすことができるのではないか。しかし、そもそも「贈与」の原理の特徴とはどのようなものなのか。「交換の原理」と同様に該当箇所(pp.38-39)から、引用しておく。

1.「贈り物はモノではない」。
2.「お返しは適当な間隔をおいておこなわなければならない」。
3.「モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている」。

 以上のように特徴が列挙されている。先ほどと同様に、贈与の三つの特徴についてもう少し詳しく見ていくことにしよう。一つ目「贈り物はモノではない」というとき、先ほどみたように「モノ」と表記されているものは「商品」であり、これには人の人格や感情は含まれていない(それが望ましい)。ということは、反対に、「贈り物」には人格や感情などが含まれている、ということになる。「贈与」という行為では、モノの移動を通して人格や感情などの「何か」を感じることが目的の一つと考えられる。二つ目「お返しは適当な間隔をおいておこなわなければならない」は、これは贈り物を受け取ってから、お返しをするまでの間、送り手と受け取り手の間に関係(友情や信頼)が持続していた(持続している)証拠として、すぐに返してはいけない、ということだ。三つ目「モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている」とは、贈り物が他のものと比較できなければできないほど、贈り物として「最高のジャンルに属する」と書かれており、価値の計算や確定を行おうとすると、そこからすり抜けてしまうものがあり、それがモノを媒介に動いている、というのが特徴として挙げられている。
 このように整理すると、「交換の原理」と「贈与の原理」の特徴は(二つ目同士は少し異なるが)、お互いの否定という形としてみなすこともできるのではないか。『愛と経済のロゴス』で中心となっている話題の一つはこの二つの原理がどのように関連しているのかであり、次にこの点を少しまとめてみよう。

 まず、両者の関係についてこの本のなかでは「贈与は交換の母体でもあります」(p.43)、といわれているように贈与を交換に先行する原理としてみなしている。では、贈与から交換への移行はどのように行われたのか。この点に関しては、網野善彦『無縁・公界・楽』(http://ow.ly/baUZh)、『日本中世に何が起きたのか』(http://ow.ly/baUYH)などを参照したほうがより詳しく見ることができるが、ここでは、『愛と経済のロゴス』に即してみていこうと思う。
 先ほど、引用したように贈与が「交換の母体」ならば、そこからどのようにして「交換」が生じるのか、この過程を見ていくことが必要となる。そこで、もう一度、贈与の特徴を見ていくことにしよう。等価交換の法則に支配された社会の側から見たとき、「贈与」は「商品としての痕跡をできるだけ消去しておこうと」し、「これは交換の原理の支配下にはないものです」と示すためで、このようにすることで贈り物の価値は「不確定なもの」になっていく。贈与では、「できるだけ価値を不確定にしておく必要が」あるのだ(p.37)。逆に、「交換の原理」では、贈り物に含まれているもの(人格や感情)をできるだけ排除しておくことが必要となる。この本のなかでは贈り物は一種の「中間的対象」と呼ばれ、そこに含まれている人格、感情などの徹底的な排除、つまり「贈り物を去勢したところに、交換が出現する」ということになる。特徴としては一方が他方を否定した形とみなすことができるが、「交換は贈与の中から発生することができます。その逆はありえません」(p.51)ということになる。
 この点が個人的に『愛と経済のロゴス』の読書を通じて、気になっている点の一つです。つまり、「贈与→交換」の発生の過程、それにもう一つ貨幣という問題を付け加えた「市場経済→資本主義」という移行過程ですが、この点についてでは先ほど挙げた網野善彦の著作と桜井英治『贈与の歴史学』(http://ow.ly/baVq5) という本を中心に、後で述べることにする。







―おまけ―

 先ほど、「経済」を「一つの「全体性」をそなえた現象」だという見解、それを理解するための指標として「交換」、「贈与」、「純粋贈与」という三つがあるとしたが、これまで「純粋贈与」については一切触れていないので、交換、贈与のときと同様に、その特徴を挙げておくことにする。

1.「純粋贈与は、贈与の循環がおこなわれる円環を飛び出してしまったところにあらわれる」。
2.「純粋贈与はモノを受け取ることを否定してしまう」。
3.「純粋贈与では、贈ったことも贈られたことも、一切が記憶されることを望んでいない」。
4.「純粋贈与は目に見えない力によってなされる」。
 「純粋贈与」の特徴はこのように整理されている(p.63)。ところで、この本のなかで「純粋贈与」と呼ばれているものが何を指しているのか、その点を説明しておかなければならない。贈与は「贈り物―返礼」の循環によって、円環(贈り物の循環)を作り出しているが、この円環が途切れる「事故」が生じたとき、その「事故現場」には贈与とも交換とも異なり、贈与の円環に回収されきらない「異質な原理」が顔をのぞかせ、それが中沢氏が「純粋贈与」と呼んでいるものに他ならない(pp.62-63,「コルヌコピアが聖杯に変わるとき」(pp.113-115)参照)。近年の中沢氏の活動を見ていると、この「純粋贈与」が一つ、鍵になっていると思います(「「純粋贈与」とは「自然」の別名であるのです」(p.72))。

0 件のコメント:

コメントを投稿