2010年8月15日日曜日

断片

『ショーシャンクの空』はとても有名な映画である。

この映画のワンシーン、主人公のアンディーが届いた本、レコードの中から、
「フィガロの結婚」を選び、方喪失から無断でかけるシーンがある。

囚人たちも、看守たちも、空を見上げ、音楽に耳を、体を傾ける。

有名なシーンである。


このシーンは魂が、事物が共感している。
音楽という、一つの事件に対して、魂が、事物が一斉に音楽の方へと向かう。
この瞬間に、長いこと動かずにいた人々の魂が一斉に動き出す。
一つの魂が動き、それに応じて他の魂が動く。
魂の振動は身体という事物を伝い、空気を伝い、他の身体へと入り、
その身体に宿る魂を振動させる。そして、全ての事物が、魂が、一斉に振動する。
このとき、ショーシャンク刑務所には一つの自由が立ち現れる。
各々の自由ではなく、一つの自由だ。
魂と事物としての身体の共感、協働。魂同士の共感、協働。事物同士の共感、協働。
全てのものが、勝手気ままに動く事が自由ではなく、
全ての物が共感に基づいて、共に働く、つまり協働していることが自由なのだと思う。
そのとき、個々の事物は勝手気ままに、刺激に対して振動しているのかもしれないが、
全ての事物は一つの刺激に対する共感に基づいて、振動している。
そう考えるならば、個々の事物が自由であると同時に、
全体として、一つの自由が成立している、ということが出来るのかもしれない。


昨日、カッチャーリについて書いていた時、「事物の共感」ということを、
引用文中で見かけた気がする。
たまたま、今日観ていた映画で、同じような事を考えることになったので書いてみた。


上に書いたシーンの後に、食堂でアンディーは心を石に喩える。
石は記憶を持つ。その固さゆえに。
丸い石も、ゴツゴツとしている石も、記憶つまりは歴史を持っている。
色々な所を転がり、その表面に傷をつける。溝が出来る。これらは石の歴史である。
ゴツゴツとしている石は、雨に打たれれば、川の中を転がれば、
角が取れていき、丸くなる。丸くなった石の表面には傷もなく、
滑らかな感触がある。しかし、丸くなるためには多くの傷を負うという、経験があり、
無数の経験をその表面に刻んでいる石は、歴史を持っているのである。

魂もそうだろう。事物もそうだろう。
傷を持つものは歴史を持っているのである。



断片、一時終了。

2010年8月14日土曜日

断片

天使の居場所は何処か。
カッチャーリの文章はその問いに対する一つ目の回答から始まる。
「非在の場所が天使の次元である。天使の住居はどこでもない国、……、想像の世界にある。」
しかし、天使が呼びかけわれわれがそれに応えている、という状態から、
今ではわれわれが呼びかけ、天使がそれに応えることを欲している状態になっている。

なぜ、最初に天使の住居、居場所について書くことから始めているのだろうか。
きっと、天使とわれわれの関係を考えるためには、天使がどこにいるのか、考える必要があるのだろう。
話を巧く進めることができるかわからないが、書き始めることにしよう。

天使は私たちに何かを伝達する。
例えば、マリアへの受胎告知などが、天使の伝達にあたるだろう。
しかし、この告知はわれわれの感覚へと洩れてくるものではない。
「神秘を神秘としてあらわし、見えざるものを見えざるものとして」伝達するのである。
不可視である天使は、人間に自らが伝達するものをその瞬間のそのままの形において手渡す。

しかし、天使の住処であるどこでもない国を見るには、「その国になり変らねばならないだろう」。
つまり、「主客の次元が消失した合一という至高の観照」であり、
天使は「主体と客体がひとつのモナドを形成するような世界」にわれわれを導くのである。
モナドはそれ自身で完足しているが、それはモナドが一つの視点として宇宙の全てを、
各々の仕方によって表出しているからであって、そこには他の全てのモナドも含まれており、
宇宙に於いては、モナドは互いに表出され、表出しているのである。
この世界にあっては、実際には明確に主体、客体ということが難しくなる。
全ては主体であり、客体である。
ある表象に於いて判明でないことも、他の表象に於いては見れば、判明に読みとることも可能なのである。
モナドは互いに相互に照応可能な関係にあるのである。

この世界において、人間は不可視のものに触れる可能性を得る。
なぜなら、この世界では全てのことを知ることが理論的には可能であるし、
世界のそのままの姿を見ることさえ可能となる。

モナド同士が主体としてでもなく、客体としてでもなく振舞う宇宙のハーモニーは、
ポリフォニックな音楽である。
「いわば宇宙の類比的=象徴的直観、コルバンが言うところの存在の天使的次元、多声音楽は、唯一の原理の名の数々を構成する。その音楽的価値の頂上にあるのは、天球の音階でも完璧な反復でも永遠の旋回でもなく、天の典礼のリズムに交錯するさまざまな事物の共感である」とカッチャーリは語る。

「事物の共感」、ライプニッツで言えば全てが作用し合っている「協働」している世界だろう。
全ての事物は互いの響きに共感し合っている。
だからこそ、世界のバランスは崩れないのだろう。たとえ、それがギリギリの状態であっても。
むしろ、調和という言葉を色々なものの均衡状態と考える方が良いのかもしれない。
能動と受動、善と悪、美と醜の均衡状態。
しかし、美と醜に関しては個人的には均衡し合っているとは思わない。
世界の根底に、肯定を据え置くことが出来るならば、世界は全て抽象的な意味での「美」となるだろう。
肯定を置くと言う表現は語弊を招くかもしれない。
では、どう言い換えるべきか。
「世界を美的直観によって把握する」という表現の方が適しているのかもしれない。
理解ではなく、認識というよりは把握という、一挙に包み込むようなニュアンスである。

現段階での美的直観という語の使い方も非常に曖昧である。
全体を提示されているものとして、抽象的に、形式的に把握し、
世界をその組み合わせ的なヴァリアシオンとして考えるような世界観に基づくもの、
その程度にしてか、まだ考えていない。
これから、少しずつ詰めていきたい。



断片、一時終了。

2010年8月11日水曜日

前夜

ブリオッシュな君へ

今日は一つの文章を送ることにしよう。
言いたいことはたくさんあるが、まとまらない。
メールみたいに好き勝手書くわけにもいかない。(一応、ブログだから、ね)

今日はボルヘス『アトラス』の中からお気に入りの物を一つ。


 砂漠

 ピラミッドから三、四百メートルほど離れた場所で、
 私は屈みこんで一握りの砂をつかんだ。
 少しばかり遠くに移動して静かにそれをこぼし、小声で呟いた。
 「わたしはサハラ砂漠の姿を変えようとしている」。
 それはごく些細な出来事であったが、この気に利かない言葉も正鵠を射ており、
 これを口にするために自分の全生涯は必要とされたのだ、とわたしは思った。
 あの瞬間の記憶は、わたしのエジプト滞在でもっとも重みのあるものの一つであった。


どんな些細な出来事も、世界に何らかの影響を持っている。
世界は常に動いているのだ。変化しないものなどない。
形であれ、心であれ、それを望むのならば、君は小さな変化に、
小さな言葉に、小さな景色に、小さな感情に目を向ければ良い。

君は小さな所に、よく目が行くね。
よく見つけたものを「素敵」という言葉とともに、伝えてくれるね。
それを少し自分に、自分の感じていることに向けてみれば良い。

世界の出来事は、どんな小さな出来事でも、世界を作り上げているし、
「私」を作り上げている。
それは僕にとっての出来事か、世界中が知るような出来事か、それはちょっとした違い。
「出来事」に寄り添えば、ボルヘス的な意味で世界を変えることは可能だよ。

きっと、素敵な世界に変わるだろうね。

少し、早いけど、君の誕生日へ向けての断片です。

2010年8月10日火曜日

ブリオッシュとコナトゥス



ブリオッシュな君へ。

少し長引用になるだろうが、ボルヘスから引用するのが、適切だろう。
だって、この二つの言葉を結びつけたのは君であり、
この二つの関係を気にしているのも君なのだが、今、君の手元にこの本はない。
もう一度、思い出してみよう。


地上に存在する新奇なものはいずれも天上の原型を反映している、と中国人らは考えている。
かつてそのように考えた者たちがあり、そう考えつづけている者たちがいる。
今や<何者>あるいは<何物>かは剣の原型、机の原型、ピンダロウス風の頌歌の原型、
三段論法の原型、砂時計の原型、時計の原型、地図の原型、望遠鏡の原型、天秤の原型を持っている。
スピノザは、すべてのものが自分の存在のうちに留まり続けたいと願っていると知った。
虎は虎でありたいと、石は石でありたいと望む。
原型であろうとしないものなど存在せず、時にはそれが実際に原型であることをわたしも知った。
相手の男あるいは女を自分の原型であると思うには、恋に落ちるだけで十分である。
マリア・コーダマがオウ・ブリオッシュ・ド・ラ・リュヌというパン屋でこの大きなブリオッシュを手にい れ、ホテルにいるわたしのところに持ってきて、これは<原型>ね、と言った。
彼女が正しいのはすぐに分かった。
読者よ、写真をよくご覧になった上で判断していただきたい。 (J・L・ボルヘス 『アトラス』)

最初に君から来たメールは「何で、ブリオッシュが原型なの?」だったね。
その時は、本が出張していて、手元になかったから、答えられなかったけど、
戻ってきて、読み返して、確かにブリオッシュは<原型>だとわかった。

ブリオッシュは、焼かれて、パンパンに膨れながらも、破裂することなく、
ブリオッシュであり続けている。だから、スピノザの話を持ってきているのだし、
これは実際に<原型>として存在しているんだろうね。

ここで、スピノザの話を少ししようと思います。
付け焼刃なので、申し訳ないです。
「スピノザは、すべてのものが自分の存在のうちに留まりつづけたいと願っていると知った。」
この一文が、どんな意味を持っているのだろうか。それを考えてみようと思う。

ボルヘスはスピノザの何処にそのような事を読みこんだのだろうか。
(スピノザに関しては先輩に幾つか質問して意見を伺ってみたりしました。)
最も有名な個所は『エチカ』第三部定理6である。該当箇所を引用しておこう。

おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執する。

さらに、スピノザはその証明の中で続けてこう言う。これも該当箇所を引用しておこう。

おのおのの物はできるだけ、または自己の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力する。

この努力にあたる単語が「コナトゥス conatus」である。
ドゥルーズは様態としての存在しているものの、本質としてこのコナトゥスを、
「力能の度」として定義している。
さらに、彼は「コナトゥス」に関して三つの規定をしているが、
この三つの中でボルヘスの主張を合致するものは第一の規定である。

「自己の有」への固執とは、自己(おそらく精神と身体の結合しているもの)を破壊したり、
消滅へと向かわせるようなものは含んでおらず、自己のできる範囲に於いて、
それを保持し更新していこうとする傾向、力能が「コナトゥス」であると言える。
「自己の及ぶかぎり」というのは、他の存在の様態と出会った時、
他の物の方が力能としてのコナトゥスが大きければ、自己の構成関係は破壊されてしまう。
コナトゥス同士の力関係により、破壊されたり、逆に、よりよく働いたりもするが、
コナトゥス自体はそれ自身の有を保持し、それに固執するのである。

ドゥルーズはスピノザのコナトゥスと、ライプニッツのそれとの違いを簡潔に述べている。
ライプニッツの場合は可能態から現実態へと向かうこの傾向をコナトゥスと呼び、
スピノザの場合には現実態としての存在の様態を上で見たように、保持し、固執する。
それはスピノザの哲学体系に於いて「すべての力能は、現実態であり、現に活動中の力としてはたらいている」のであり、現実存在へと移行しようとするものではなく、この現実において、
現実存在している現実態の力能として解釈されるならば、可能態から現実態へと働くものではなく、
現実態として働くものであり、その働きに関しては上で説明したとおりである。

まだまだ不十分ではあるが、大まかに話をまとめれば以上の様なことになるだろう。
そのもの(ボルヘスの言う<原型>)でありつづけようとしているもの、それが<原型>なのである。
(同語反復になっているけど……)

このボルヘスの文章は愛で満ちている、と思う。
これもまた一つの「コナトゥス」だろう。
コナトゥスは互いの構成関係が合一をみるような場合、喜びの情念が生じるのであり、
喜びの情念を抱く場合、
「私たちの力能はひろがって、相手の力能と一体となり、愛する対象とひとつに結び合う」のである。
ボルヘスは、パン屋でブリオッシュを見つけて、喜んで持ってきたであろう、
マリア・コーダマと恋におちているのであろう。
つまり、ボルヘスにとってのマリア・コーダマは、互いに<原型>であるのだろう。

「コナトゥス」は「本質というものの肯定的な捉え方」に関わっているのであり、
存在に於いては、これは「本質の肯定」である。
だからこそ、ボルヘスは「ブリオッシュ」という文章の最後を、
読者に、賛同を求める文章で締めているのではないだろうか。

自らと、自らの<原型>であるマリア、両者への肯定、彼らの構成関係と合一をみるような、
対象、つまり、愛によって対象と結ばれることを願っているのではないだろうか。

断片

「ヴァリアシオン」としての「視点」。

モナドについてライプニッツは街を眺める「視点」の比喩を使うことがある。
各々の「視点」は全て異なっており、街を全て眺めることが出来るわけではない。
それが可能なのは神のみである。
モナドは神の取りうる視点として、想像されたということもできる。
神の取りうる視点のヴァリアシオンとして、各々モナドは存在するのである。

そこで、世界の多様性は神の視点の多さに、つまり無限に存在しているモナド、
ということになるかのように思われるが、
単にモナドの数ということでは、それらモナドがバラバラに存在していても、
構わないかのように思われてしまう。
モナドはその中に、他のモナドとの関係も含んでいるのであれば、
視点としての、ヴァリアシオンとしてのモナド同士も、
何らかの仕方で関係づけられなければならない。
関係づけの方法に関しては、一旦脇に置くとして、
視点としてのモナドは、各々の仕方で宇宙を表象しているのであるが、
この視点はあくまでも一つのモナドが、同一の宇宙を各々の仕方で表象しているということにとどまる。
多様性はこれを基礎として導き出されるだろう。
単純実体に於いて、多様なものとして含まれているその宇宙の表現が、
表現同士が掛け合わされるのである。

異なった眺望が幾倍にもなるように、視点としてのモナドが表象している宇宙も幾倍にも掛け合わされる。
そこでは、一つ一つの宇宙の表象は異なっていながらも、同一の対象を表現しているのである。
それはモナドの表現の仕方が異なるのであり、この方法の多様性が、
モナドの多様性であり、宇宙自体の多様性であるともいえるかもしれない。

ライプニッツにおいて、重要になるのは「足されるもの」としての視点、モナドではなく、
「掛け合わされるもの」としての視点、モナドなのである。
ここで、総体や全体といった語は、足し算により求められた最大量としてあるのではなく、
掛け合わせにより、つまりは組み合わせにより求められた最大量ということになるのである。
そして、この組み合わせはより少ないものにより行われることが求められる。
つまり、「最少費用による、最大効果」ということが重要である。
そのとき、より多様なものを求めるならば、足し算を行うよりも、掛け算を行うことにより、
その最大量を求めることの方が、より多様なものとして、組み合わせを提示できるはずである。

2010年8月9日月曜日

手掛かり、つまりはメモ

ライプニッツは『モナドロジー』§15において「欲求」という概念、作用を提出する。
これをライプニッツ自身の説明をかりて言えば、
「一つの表象から他の表象への変化もしくは推移を起こす内的原理」であるとしている。

これら表象は一つ一つは完全に表象として明晰判明なものとして、
全体に達しているとは限らない。いや、むしろ達していないのである。
つまりは一つの表象は被造物にとっては混雑した表象としてあるのである。
「その表象から何かを得て新たな表象に到達」するのである。
もし、人間が自らの表象の全体を判明に認識することが出来るならば、
それは神と同様の視点を手に入れたことになるのであり、
世界についての新たな認識としての新たな表象はいらないのである。
一つの表象を細かく、無限に見ていくことになるのであり、
そこに於いて全てを判明に認識しているならば、新たな表象を獲得する必要はないのである。
人間の表象が混雑であるが故に、人間は新たな表象を手に入れ、
世界をより良く見ようとするのではないだろうか。

人間の表象が混雑であるのはこれが、単純実体における「多」のことである。
表象自体が単純実体に於いて多を含みかつ表現している推移的状態であるので、
この多について、全てを判明に認識することが出来ないのならば、神の視点に立つことはない。
つまり、人間が判明に認識できるのは表象のごく一部の塊に於いて判明であるものである。

ライプニッツはこの「単純実体における多」を、「変化するものの細部」であるという。
この「変化するものの細部」が存在していることにより、モナドは多様であり、特殊である。
これは変化の原理、内的原理により生じている自然的変化とともにモナドの中にあるのである。
そして、この変化の原理、内的原理がその変化の一つ一つにおいて、
「変化するものの細部」を含んでいるということが出来る。
この内的原理により、モナドは特殊化するのであり、多様化していると言える。
とは言え、モナド同士の差異はその内的規定によるものであるので、
内的原理による特殊化、多様化はそのア・ポステリオリな証明の方法であると考えることが出来る。

なぜなら、モナド同士はその差異を内的規定により持っていることになるが、
それとは逆に特殊化、多様化しているもの、それも外的規定外にその源泉を求めるならば、
それは内的規定ということになるだろう。

「変化するものの細部」、「単純実体における多」としてモナドが含んでいるものは、
様々な「状態の変化」であり、他のモナドとの「関係」である。

この、モナドが潜在的に含んでいるであろう「状態の変化」、「関係」については、
まだまだ考える必要がある。
特に関係については、何との関係か、どのような関係かということを考えなければならない。
例えば、モナド同士の関係であるならば、
各々完足的であるモナド同士は神を媒介してしか関係を持つことがなく、
適合ということに従っている、つまり調和しているということになるが、
それだけでは何かが欠けているような気がする。

まだまだ、考える点は山ほどある。
少しずつ、丁寧に考えて積み上げていきたい。

2010年8月8日日曜日

表面について。

物事には表面がある。
人間でいえば、皮膚といえるような領域を指しても良いかもしれない。
ノート、本で言えば一つのページであると言えるのかもしれない。
ノート、本に関して言えば、その表面には文字が書かれている、
あるいは、文字を、記録を書きこむことが可能である。
書きこまれた文字は何を示すのだろうか。
個人的な日記であれば、筆者の内面的な葛藤の過程であったり、その日の出来事であったりするだろう。
本に関しては、例えば、哲学書であれば何か筆者の哲学が書きこまれている。
文学作品について言えば、現実を描こうとしていたり、素敵な物語を、風景を描こうとしていると言えるのかもしれない。

しかし、これらのどれについても筆者以外に人間が読み、中身を読みとろうとする行為に於いては、
我々はその表面をなぞるように、流れるようにして読む、ということだけでは不十分である。
それはあくまでも、「表面」でしかなく、文字の羅列でしかない。
文字の羅列には意味はない。
文字の並びに意味が生じるのは、置かれた文字同士の配置により生じる。
配置ということも、何らかの対象を表現するための法則に基づいて、
ひらがなを、カタカナを、漢字を、アルファベットを配置しなければならず、
これらの配置を組み合わせ的に行うことにより、限られた文字たちは、
自由度を増し、無限に自らを表現することが可能となるのである。

つまり、文字は無限に組み合わせにより、自らを無限に表現しているのである。
文字の組み合わせによる無限の表現の一つの現実化したものとしての作品であり、哲学書であり、一個人の日記ということになるのである。
文字の配置は自らを無限に読みこむ可能性を提示する。
たとえば、「私」の心情や、考え方によっても、読み方が異なる。
いつ、どこで、などという状況によっても左右される。
同一の書物であっても、複数回読めば、それと同じだけの読み方が存在することが可能なのである。
書物は自らの形式を変えることなく、読み手次第で自らを複雑化するのである。

しかし、こうした書物との複数回の出会いは表面に於いては現れない。
書物は深読みすることを要求している。これは文学、哲学に話を限定してのことである。
深読みという行為は、書物から多くのもを引き出そうとする行為であり、
我々の書物に対する態度であり、何よりも、読み手自らを対象としての書物の中へと潜り込むという行為である。
書物の読解に関して、書物に潜り込むことは、筆者の世界観に浸ることであり、
それと同化することであり、より深い理解を要求するための一つの手続きであると言えるだろう。
だが、対象と同化するだけでは不十分である。潜り込み、と私が呼んでいる行為は、
あくまでも、一つの「手続き」なのであって、目的ではない。

では、目的は何だろうか。

潜り込みという行為自体は対象と同一化することにより、
ある意味に於いては自らを対象化していると言える。しかし、この同化、対象化、ということもまた目的ではなく、一つの過程であり、潜り込みと同様に一つの「手続き」なのである。

では、目的とは何だろうか。

潜り込んだ主体としての読み手は、対象について考えるため、より深く理解するために、
そして、より多くのものを引き出そうとするが故に、潜り込むが、対象と同化したまま、
つまり自らを対象化した状態にとどまっていてはだめなのである。
あくまでも、我々は主体として思惟という行為を行うのであるから、
我々は再び主体の状態に戻ってこなくてはならない。
では、主体に戻ってきた主体はそのまま主体にとどまるべきかどうか、と問われたならば、
潜り込みにおいて、つまり対象との同化、主体の対象化において実現されるべきは、
要するに目的は、主体-対象間の交通の自由化であると言えるだろう。
主体は自由に対象化することが出来る、そのための通路を開く行為の第一の手続きとして、
「潜り込み」という行為があるのだと私は考えている。が、これはあくまでも、現段階での話である。

この「潜り込み」という行為、つまり主体の対象化ということは何も哲学や文学に限ったことではない。
その射程は芸術という行為や、人間同士の関係を考える上でも適応可能な一つの行為である。
まだ、大まかにしか記述することのできないこの「潜り込み」、「主体の対象化」という行為、
これらに概念という名を与えるにはまだ早すぎる。

現段階においては主体側からのみのアプローチだが、
この作用を客体側からの働きかけを持ちこむことにより、二重化する必要があるように思われる。
たとえば、セールの質料形相論における質料が形相のアルファベットを誘導できるように、
典型的構造を付与することが出来るような、対象の側の働きがあるはずだからである。