2012年5月27日日曜日

『愛と経済のロゴス』勉強会用メモ(3)

2.貨幣から「増殖」へ

 具体的なことは、後で追うとして、「贈与→交換」という流れの一端が見えたのではないか。そこで、もう一つ、気になっている「貨幣」という問題、これが『愛と経済のロゴス』のなかで、どのように扱われているのか、ということを確認しておきたい。
 その前に、一つ書いておきたい事がある。先日、ブログのなかで、テーマの一つとして「貨幣」を設定した(http://le-monde-com-possible.blogspot.jp/ )。しかし、考えれば考えるほど、私が考えている問題としては不十分であると思うようになった。というのも、貨幣を問題として設定すると、「富の増殖」という問題を考えるのが難しくなっていった。そこで、問題として貨幣を手がかりに「富」あるいはその「増殖」を設定しなおし、そうすると『愛と経済のロゴス』の後半(「増殖の秘密」以降の章)を読みやすくなるのでは、と思う。

 「貨幣」を手がかりに、といったので、「富の増殖」という問題を考える前に、「貨幣」について簡潔に整理しておくことにしよう。

 交換では、贈与で働いていた人格性の力や霊力などのすべてが、抑圧され、排除され、切り落とされてしまいます。贈与の全過程を動かしていた複雑な階層性が、均質な価値量の流れていく水路のような単純な構造に、つくりかえられてしまう中から「貨幣」が出現します。(pp.48-49)
 ここで書かれている内容は、先ほど贈与の去勢により交換が生じる、といっていたことと同様のことを説明している。複雑で不均質な「贈与」を単純化し、均質化したところに交換が生じ、さらには「貨幣」が生じる(個人的には、この辺りも気になっているので、具体的に均質化の過程について、あとで書こうと思います)。『愛と経済のロゴス』のなかで、「交換―贈与―純粋交換」というのが「ボロメオの結び目」として示され、「贈与」とよばれているものは「交換の原理」と「贈与の原理」の接している領域で生じている事実であり、反対側では純粋贈与とも接している。前者の領域では商品あるいはモノの扱いが問題となっているのに対して、後者の領域では「純粋生産」、「増殖」が問題として取り扱われることになる(p.51,68,139)。とすると、私が問題にしている「富の増殖」は「贈与―純粋贈与」が接する領域で生じている事実だということになる。
 「贈与―純粋贈与」の接する領域では、どのような事態が生じているのか。そこで、「純粋贈与は、贈与の循環がおこなわれる円環を飛び出してしまったところにあらわれる」(p.63)という純粋贈与の特徴を思い出していただきたい。そうすると、p.77で記されている図を理解しやすくなる。この図のなかで、純粋贈与が「垂直的に」贈与を通過していくというのは、純粋贈与が贈与の領域に留まるものではなく、「記憶されることを望んでいない」ものであり、「目に見えない力によってなされる」ものであることを示している。この領域で生じる「増殖」という事態は、マオリ原住民の「ハウの哲学」によって説明されている事態に他ならない(pp.66-67)。このように純粋贈与が世界を「垂直的に」横切っていくとき、世界には何かが生まれる、という事態を説明するために、『愛と経済のロゴス』では議論が「魔術」へと進んでいく(中沢氏は「魔術」への言及から、宗教と芸術をつないでおり、このテーマが「経済」から派生したことを考慮するならば、三つの領域がつながれていることになる)。
 「増殖」というテーマに関して、魔術との関連を述べる程度にとどめ、まとめを一旦終える。このテーマは後日改めて、これまで読んだ本との関連の中でまとめ、考察を展開できればと思う。

『愛と経済のロゴス』勉強会用メモ(2)

6月10日(日)、東京女子大学でおこなわれる勉強会用の個人的なメモです。興味のある方はぜひいらしてください。詳細な情報は主催の近藤光博先生のブログにありますので、こちら(http://lizliz.tea-nifty.com/ )をご覧ください。


1. 交換と贈与

 『愛と経済のロゴス』(http://ow.ly/baV0k)を読んで考えたことを書く前に、まず、私がどのように読んだのか、この点を少し書いておこうと思う。あくまでも、「どう読んだか」であって、その点に絞った限りでのまとめという形になると思う。
 本のタイトルにある「愛」、「経済」、「ロゴス」の三つがどのように結びつくのか、をみることから始めたい。「経済の現象」も「愛」もこれを突き動かしているのは「人間の欲望」であるという点で融合しあっており、この二つは「一つの「全体性」をそなえた現象」だが、この「全体性」を担保しているものがこの本の中での「ロゴス」に与えられた役割である。このような「ロゴス」、つまり愛と経済をまとめて扱うような学問はないが、この問題を文学が扱ってきた、ということから『小僧の神様』の話が始まる。この話の中から、「一つの「全体性」をそなえた現象」としての経済を理解するための指標として「交換」、「贈与」、「純粋贈与」が登場するので、ここで、この三つの指標の特徴を列挙しておく。
 まず、諸品社会を支配しているものとして「交換の原理」が説明されており、その特徴は以下のようになります。

1.(交換の原理において交換されるもの)「商品はモノである」。
2.「ほぼ同じ価値をもつとみなされるモノ同士が、交換される」。
3.「モノの価値は確定的であろうとつとめている」。

 これは『愛と経済のロゴス』(pp.35-36)をまとめたものです。もう少し、詳しく見てみることにします。まず、一つ目「商品はモノである」が意味しているのは、その商品をつくった人、所有していた人の感情や人格を(出来るかぎり)含んでいないことが好ましい、という状態です。そういうものが含まれていればいるほど、商品社会の「等価交換」という原則にそって商品が流れていくことが、困難になると考えられているからだ。この理由については、「贈与」との関連でも何度か言及されていることだ。二つ目「等価のモノ同士が交換される」というのは、交換において過不足が生じたとき、それが補われ、「等価交換」として成立しなければ、売った人、あるいは買った人のどちらかに「負い目」が生じてしまう。負い目を生じさせないためにも、共通尺度として「貨幣」などが発明された、と考えられている。三つ目「モノの価値は確定的であろうとつとめている」とは、「モノの価値」が計算可能であることを意味しています、というのも、モノの価値が何らかの尺度で決定できないならば、二つ目の等価交換も成立しないことになる。一つ目との関連で言えば、この本のなかでは「人格」、「感情」などが含まれていると、それらが計算可能でないので、確定的な「価値」が設定できない、と言える。
 このように整理してみると、「交換の原理」の三つの特徴は、どれも「贈与」の特徴を否定した形で提示されている、とみなすことができるのではないか。しかし、そもそも「贈与」の原理の特徴とはどのようなものなのか。「交換の原理」と同様に該当箇所(pp.38-39)から、引用しておく。

1.「贈り物はモノではない」。
2.「お返しは適当な間隔をおいておこなわなければならない」。
3.「モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている」。

 以上のように特徴が列挙されている。先ほどと同様に、贈与の三つの特徴についてもう少し詳しく見ていくことにしよう。一つ目「贈り物はモノではない」というとき、先ほどみたように「モノ」と表記されているものは「商品」であり、これには人の人格や感情は含まれていない(それが望ましい)。ということは、反対に、「贈り物」には人格や感情などが含まれている、ということになる。「贈与」という行為では、モノの移動を通して人格や感情などの「何か」を感じることが目的の一つと考えられる。二つ目「お返しは適当な間隔をおいておこなわなければならない」は、これは贈り物を受け取ってから、お返しをするまでの間、送り手と受け取り手の間に関係(友情や信頼)が持続していた(持続している)証拠として、すぐに返してはいけない、ということだ。三つ目「モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている」とは、贈り物が他のものと比較できなければできないほど、贈り物として「最高のジャンルに属する」と書かれており、価値の計算や確定を行おうとすると、そこからすり抜けてしまうものがあり、それがモノを媒介に動いている、というのが特徴として挙げられている。
 このように整理すると、「交換の原理」と「贈与の原理」の特徴は(二つ目同士は少し異なるが)、お互いの否定という形としてみなすこともできるのではないか。『愛と経済のロゴス』で中心となっている話題の一つはこの二つの原理がどのように関連しているのかであり、次にこの点を少しまとめてみよう。

 まず、両者の関係についてこの本のなかでは「贈与は交換の母体でもあります」(p.43)、といわれているように贈与を交換に先行する原理としてみなしている。では、贈与から交換への移行はどのように行われたのか。この点に関しては、網野善彦『無縁・公界・楽』(http://ow.ly/baUZh)、『日本中世に何が起きたのか』(http://ow.ly/baUYH)などを参照したほうがより詳しく見ることができるが、ここでは、『愛と経済のロゴス』に即してみていこうと思う。
 先ほど、引用したように贈与が「交換の母体」ならば、そこからどのようにして「交換」が生じるのか、この過程を見ていくことが必要となる。そこで、もう一度、贈与の特徴を見ていくことにしよう。等価交換の法則に支配された社会の側から見たとき、「贈与」は「商品としての痕跡をできるだけ消去しておこうと」し、「これは交換の原理の支配下にはないものです」と示すためで、このようにすることで贈り物の価値は「不確定なもの」になっていく。贈与では、「できるだけ価値を不確定にしておく必要が」あるのだ(p.37)。逆に、「交換の原理」では、贈り物に含まれているもの(人格や感情)をできるだけ排除しておくことが必要となる。この本のなかでは贈り物は一種の「中間的対象」と呼ばれ、そこに含まれている人格、感情などの徹底的な排除、つまり「贈り物を去勢したところに、交換が出現する」ということになる。特徴としては一方が他方を否定した形とみなすことができるが、「交換は贈与の中から発生することができます。その逆はありえません」(p.51)ということになる。
 この点が個人的に『愛と経済のロゴス』の読書を通じて、気になっている点の一つです。つまり、「贈与→交換」の発生の過程、それにもう一つ貨幣という問題を付け加えた「市場経済→資本主義」という移行過程ですが、この点についてでは先ほど挙げた網野善彦の著作と桜井英治『贈与の歴史学』(http://ow.ly/baVq5) という本を中心に、後で述べることにする。







―おまけ―

 先ほど、「経済」を「一つの「全体性」をそなえた現象」だという見解、それを理解するための指標として「交換」、「贈与」、「純粋贈与」という三つがあるとしたが、これまで「純粋贈与」については一切触れていないので、交換、贈与のときと同様に、その特徴を挙げておくことにする。

1.「純粋贈与は、贈与の循環がおこなわれる円環を飛び出してしまったところにあらわれる」。
2.「純粋贈与はモノを受け取ることを否定してしまう」。
3.「純粋贈与では、贈ったことも贈られたことも、一切が記憶されることを望んでいない」。
4.「純粋贈与は目に見えない力によってなされる」。
 「純粋贈与」の特徴はこのように整理されている(p.63)。ところで、この本のなかで「純粋贈与」と呼ばれているものが何を指しているのか、その点を説明しておかなければならない。贈与は「贈り物―返礼」の循環によって、円環(贈り物の循環)を作り出しているが、この円環が途切れる「事故」が生じたとき、その「事故現場」には贈与とも交換とも異なり、贈与の円環に回収されきらない「異質な原理」が顔をのぞかせ、それが中沢氏が「純粋贈与」と呼んでいるものに他ならない(pp.62-63,「コルヌコピアが聖杯に変わるとき」(pp.113-115)参照)。近年の中沢氏の活動を見ていると、この「純粋贈与」が一つ、鍵になっていると思います(「「純粋贈与」とは「自然」の別名であるのです」(p.72))。

2012年5月18日金曜日

『愛と経済のロゴス』勉強会用メモ(1)

中沢新一の著書を読んでいこう、という勉強会(USTでも公開しています)にひっそりと参加させていただいています。
春休みなどをはさみ、しばらくお休みしていましたが、次回はカイエソバージュⅢ『愛と経済のロゴス』を扱うことになりました。

6月9日(日本女子大学)17:00~です。
情報は主催の近藤光博先生のブログに詳しくあがっています。
→http://lizliz.tea-nifty.com/

参加していただくメンバーが豪華なだけに、いつも発言を控えておりますが、せっかく本も読んでいるし、
色々と考えている(つもり)ので、勉強会にむけて、自分なりの考えを書いていこうと思います。



今回あつかう『愛と経済のロゴス』ですが、まず自分なりの問題というか、テーマを設定してみました。
二つあり、1)経済、とりわけ資本主義(≠市場主義)、2)貨幣、という非常に抽象的ですが、この辺りからアプローチしていきたいと思います。
もちろん、この二つ以外にも論点はありますが、これが自分としては枠組としても、関心との関連を考慮しても面白い、と思います。

この二つにアプローチするために、『愛と経済のロゴス』を中心に、いくつか課題図書を設けてみました。

ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』
網野善彦『無縁・公界・楽』
マルセル・モース『贈与論』

以上、三冊(『愛と経済のロゴス』も入れると四冊)です。
不定期ですが、勉強会までに、一冊ずつまとめて、意見を書いていこうと思いますが、今日はまず、全体像(?)を話しておこうと思います。

『愛と経済のロゴス』が提示していようとしている「世界観」(これは勉強会でもキーワードになっています)は、
「交換―贈与―純粋贈与」が相互に関係しながら生じてくるダイナミックな運動、そこから生じるもの、大まかには、これだと思います。

そこで私が設定した問題、1)資本主義(「経済」といったほうが良いかもしれません)、これと関連して2)貨幣が生じてきます。
これらが問題としてどのように生じてくるのか、そのあたりは、後日まとめておこうと思いますので、とりあえずは生じてくるのだと思ってください。
モース『贈与論』は直接、言及、引用されているので、この本との関連は読んでいただければ、一目瞭然ですが、残りの二冊の関連を明確にしておく必要があります。

「交換―贈与―純粋贈与」の間の相互作用という関係についての分析は、「交換―贈与」と「贈与―純粋贈与」という二つの関係に焦点をあて、行われています。
この二つの関係の説明は、経済との関連で考えられていますし、経済と関連している、ということは市場や資本主義などとも関連してくるテーマとなり得ます。
ちょうど、17日に中沢新一・安冨歩を中心に「無縁」の勉強会が開催され、参加させていただけることになったので、久しぶりに網野善彦『無縁・公界・楽』を読み返していたのですが、そこで「無縁」もしくは「無縁所」が「市」と関連していること、無縁と有縁がダイナミックな運動を行っていること、このことが繰り返し述べられています。ということは、無縁と経済(市)の発生は関連しているとみることができ、この関連を考えていたとき、「商品」、「貨幣」とは何か、という問題が発生し、それを考えるための手がかりの一つとして網野氏の著作を位置づけることができる、と思ったのです。

また詳しく書こうとは思いますが、この辺りまでは読んだことのある人なら、関連性を見出すことはできますし、私が何を考えようとしているのか、その辺りまで見通すこともできるのでは、と思います。とすると、レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』、この一冊が妙に浮いているように感じられることでしょう。しかし、この本の中には「経済のヴァーチャル化」という章が存在しており、この本は私の今の研究テーマとも密接に関連しているので、個人的な興味という観点から関連付け手います。それだけではなく、もちろん親和性もあると思います。たとえば、「ヴァーチャル化」は「アクチュアル化」と共に、ダイナミックな運動を展開させているというレヴィの見解に基づき、「ダイナミックな運動」ということを介して、『愛と経済のロゴス』と『ヴァーチャルとは何か?』を(パワープレイでしょうが)おそらく結びつけて語ることもできる。そして、自身で設定した「貨幣」という問題を考える上でも、有効な思想を引き出せると思っています。
これは確認の必要性がありますが、レヴィは「貨幣」自体は富ではなく「富のヴァーチャル化」として考えている箇所があったはずです。このとりわけ、現代特有の「ヴァーチャル化」という考え方は「経済」というダイナミックな運動と「貨幣」という設定された問題に答える上でも、非常に有効な概念だと予想しています。

非常に、抽象的かつ大雑把な流れではありますが、『愛と経済のロゴス』勉強会までの私の研究計画です。
もし、興味のある方はいらっしゃって下さっても(もちろん)結構ですし、USTでみて頂いても結構です。そのための一つの手がかり、足がかりとしてこれから書いていこうと思うまとめが役立てば……と思っています(当然、自分の研究のためでもありますが)。

2012年5月12日土曜日

考え中……(2)

そもそも、「離散」とは何か、そこから考えなければならない。
一つの目安としてM・セール、N・ファルーキの編纂した『Le Trésor』という科学辞典から、「離散」の項(pp.278-279)を翻訳してみた。
十分に検討しないといけないが、一応あげておこうと思う(図は省略してます)。


 諸々の点の集合は、これらの点の各々が他の諸点から分離されているならば、≪離散 discret≫といわれる。例えば、実数の集合は連続である(図2)のに、整数の集合は離散的である(図1)。
距離空間(すなわちそれに基づいて≪距離 distance≫の概念が明確である空間)において、点Mは、少なくとも他の諸々の点がそれの距離rに対してある厳密に正の実数rがあるとき、分離されている。同等だがより単純な定義は≪球 boule≫の概念を用いる。中心Mと半径rからなる球は、Mに対する距離がr以下の諸々の点の集合である。その距離がrに対して正確に同等であるとき(すなわち中心Mと半径rからなる球面の諸々の点)あるいは同等ではない諸々の点の集合の中に含まれることによって≪閉球 boule fermée≫あるいは≪開球 boule ouverte≫が語られうる。この概念を用いることにより、点Mのみを含んでいる開球があるならば、点Mは分離されていると言われうる(図3)(ここでは、形容詞≪開 ouverte≫が重要である。というのも中心Mと半径0からなる閉球は、すべての場合で、点Mが分離されていようとなかろうと、点Mしか含んでいないからだ)。言い換えれば、点Mしか含んでいない集合が開球であるならば、点Mは分離されているのだ。それゆえ、すべての単集合 singletons (すなわち唯一の元を含んでいるすべての集合)が開球であるならば、集合は離散である。
位相空間(トポロジーの項を参照)は、それに応じて距離の概念は定義されてはいないが、その代わりに開集合の概念が定義されている空間なのだ。このような空間において、距離の概念が整理されていないので、開球の概念もまた整理されていないのだ。そのとき、もし点Mだけを含む集合があるならば、言い換えれば、点Mだけを含む集合が開集合であるならば、点Mは分離されている。それゆえに、すべての単集合が開集合であるならば、集合は離散である、といわれうる。
すべての諸部分を開集合とみなすことで、任意の集合に≪離散的トポロジー topologie discréte≫と呼ばれる位相空間の構造を備えさせるのだ。そのとき、すべての集合は開集合であるので、この集合は位相にとって離散的なのだ。


この内容理解のために、数学の本をいくつか読んでみようと思う。

考え中……(1)

前に「ここ半年ほど考えている問題」と書いたが、メモなんかを見ているとどうやら「一年ほど」考えているらしい。
何を考えているかというと、「離散」についてである。離散性、離散的なもの、離散化……
最初は単にキーワードの一つとしてしか考えていなかったが、修論に取り組む中で、ライプニッツ(私の専門です)の哲学における「離散」の問題はかなり重要なのでは、と考えるようになった。

 というのも、ライプニッツはデ・フォルダー宛書簡で「現実的なもののうちには離散量、すなわちモナドあるいは単純実体の多数性しかない」と書いている。おそらくではあるが、このような一文を受けてM・セール(こちらも専門です)は『ライプニッツのシステムとその数学的モデル』において「諸モナドの多様性とは離散的多様性だ」と書いている。連続律(「自然は決して飛躍しない」)を認めているライプニッツの哲学は、しばしば、調和的状態、連続性などへとその視線の多くが注がれているが、まず問うべきは「離散」のほうであると思う。ライプニッツ自身『人間知性新論』では「連続量は、その大きさについての判明な認識を持つには離散量に訴えなければならない」としており、要するに彼の哲学において「連続量(連続性)」が重要であるならば、まず「離散量(離散性)」について考えなければならない。これが「離散」を単なるキーワード以上のものとして考えようとした第一歩である。

 しばらくは「離散性」と「連続性」についてばかり考えていたが、特にここ最近、それでは「不十分だ」と考えるようになった。それまでは整数をモデルにして「離散性」と「連続性」について考えていたが、これでは各々を別々に考えているだけで、両者の関連しか気にしていなかったからだ。しかし、デ・ボス宛書簡でのやり取りの中心となっている問題、実体的紐帯や支配的モナドの問題も当然重要ではあるが、私は「複合実体」が問題であると思っている。つまり単純実体のみが「真のユニテ」として認められているにもかかわらず、複合実体もユニテとして認められているのはなぜか、という問題だ。離散や連続と関連付けてこの問題を簡略的に以下のようにまとめることができる。

1)離散的状態としてのモナド=単純実体の多数性
2)多数のモナドの連続化=複合化
3)複合実体が形成されたことによるユニテ(一性あるいは統一性)=連続性の獲得

 というように連続性の獲得が目的であり、その達成で終わってしまっている。この状況が、感覚(これは個人的なものだが)と合わない。問題としては単純実体どうしの関係という以上のような目的もあるだろうが、複合実体(例えば、人間)どうしの関係ということを考えるべきでは、と思っていた。そこから、複合実体どうしの「関係」を軸にし、離散と連続を考えられるだろう。


―閑話―

 たとえば、震災以後、「絆」とか「がんばろう日本」というような一体感を感じさせ、一丸となろうという言葉や行動をいくつか見ることができる。
しかし、「絆」といっても、いつでもどこでも同じような強度で繋がっているわけでもないだろうし、そもそも「絆」、人やものとの「つながり」は強度の強弱があり、斑で不均質なものだと思う。離散と連続の問題を考えることで、この辺りのことを明確にできると予想している。

2012年5月7日月曜日

「客体」の機能

最近、P・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』(2006,昭和堂)を読み返している。 セールの「準=客体」を理解するうえでも分かりやすい箇所があったので、その辺りについて少し。 レヴィが読者をいざなうように「まず、観客席から湧き上がる音を聞いてみよう」(p.159)。
同じチームのサポーターたちはほとんど全員一斉に、同じ時に同じことを叫ぶ。個々人の行為はほとんど区別できず、物語や記憶を成すような絡み合いに達することはなく、不可逆的な分岐に行き着くことはない。(p.159)
さらに、レヴィは読者の視点を「今度はグランドの上を見てみよう」(p.159)と誘う。
各々のプレーヤーは、他のプレーヤーとは、はっきりと区別される行動を果たしている。しかしながら、全ての行動は協調を目指していて、呼応し合おうと試み、他のプレーヤーとの関係によって一人一人が意味を成そうとしている。プレーヤーたちの諸行動は、サポーターたちのそれとは反対に、集合的な物語の中で生じ、それぞれが違った仕方で未決定の部分の流れを導くのである。(p.159)
 二つの引用文から、サポーターとプレーヤーという二つの集団の相違が明らかになる。サポーターにおいて「個々人の行為はほとんど区別」されていないのに対して、プレーヤーの行為は「他のプレーターとは、はっきりと区別され」ている。プレーヤーの行為は個々別々に区別されているのと同時に、一体感をもっており「協調を目指してい」る。この「協調」は他のプレーヤーとの間の「呼応」の試み、関係によって実現される。プレーヤーの行為は「集合的な物語」、つまりゲームの構築(過程)においてこそ、意味をなすが、この構築自体は行為がアクチュアル化するたびに「集合的な物語=ゲーム」を構築しているので、「集合的な物語」とそれを構築する個々のプレーヤーの行為はどちらも共に「暫定的なもの」である。このような行為と「集合的な物語」の関係を成立させているものは何か。
諸能力と諸行動とを自発的にこのような協働となすことはボールによってのみ可能となるのである。……。プレーヤーたちの生き生きとした統一は、内在的な絆―客体の周囲で組織される。(p.160)
 ということになる(ここで、レヴィ、そして「準=客体」を語るときにセールがイメージしているのはラグビーやサッカーなどのゲームである)。ボールの位置に応じて、各プレーヤーは各々の役割に見合った配置をとらなければならず、ラグビー、サッカーともにこの「ボール」を巡ってのゲームなので、個人の能力、行動はボールを巡る全体の「協働」へと向けられている。このようにして、扱われる対象でありつつも、ネットワークを構築する対象(=客体)こそがセールが「準=客体」と呼んでいるものであり、レヴィが「絆―客体」と呼んでいるものに他ならない。これまでの引用文から「準=客体」としてのボールの働きを見て取ることができる。 1)個々のプレーヤーの自発的な行為を「協調」へと向けられた「協働」としつつも、これら行為一つ一つを区別し、各プレーヤーを「個的な主体」にしている。 2)各々の行為を「協調」へと向けることで、「プレーヤーたちの生き生きとした統一」を形成することで「集合的な主体」を作り上げている。これにより、敵と味方を区別し、ゲーム全体を構築するものとして働いている。 さらに、レヴィからの引用を加えることで、「絆―客体」ということがよりよく分かるだろう。
巧妙な人たち、プレーヤーたちはボールを、個々の主体の間を巡るインデックスとし、各々が各々を指し示すことを可能とする媒介物とすると同時に、主要な客体、集合的主体の動的な絆とするのである。(p.161)
 ボール、客体とは「各々が各々を指し示すことを可能にする媒介物」であると同時に、「主要な客体、集合的主体の動的な絆」という二つの側面を持ったものである。