2012年6月9日土曜日

『愛と経済のロゴス』勉強会用メモ(6)

―まとめ―

 レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』を手引きに、現代経済の特徴を「ヴァーチャル化」という概念にみてきた。そこで、『愛と経済のロゴス』を読んで以降、考えていたことをまとめとして、書いていこうと思う。
 『愛と経済のロゴス』では経済が交換、贈与、純粋贈与のダイナミズムとして記述されているが、私たちが日常的におこなっている経済活動は交換と贈与の二つの領域を中心に行われている。そこで、交換と贈与に先立ち、経済の根幹を成しているものとして「所有」があると思う。というのも、交換、贈与にはそれに先立ち、それぞれの対象となるモノ―これは商品でも貨幣でも構わない―を「所有」していなければ、それらの行為は開始されず、経済のダイナミズムが作動していることを見ることは難しいのではないだろうか。そこで、今回は経済の根幹を成している概念だと私が思っている「所有」とレヴィの考察により現代経済の特徴とみなされた「ヴァーチャル化」という二つの概念について、考察していくことにしよう。

―「所有」について―

 『愛と経済のロゴス』では、「増殖」は原初的には「生命」の増殖と考えられている。生命の生成消滅を考察する中で、ケネー、フィジオクラシーへと論は展開していく。純粋贈与と増殖がどのようにかかわっているのか、それは中沢は以下のように語っている。

 純粋贈与の力線が現実の世界に交差するとき、生命の増殖はおこるのですが、いったん世界の内部に出現したその力線がふたたびもとの潜在空間の中に立ち戻っていくとき、生まれた生命は消滅を体験しなければなりません。(『愛と経済のロゴス』p.85)

 このような増殖は古くは儀礼としておこなわれていたが、それには「密教」的な側面と「顕教」的な側面が存在している。とりわけ、この本では密教的な側面、洞窟での儀礼という魔術的な側面を強調しながら語られている。増殖の秘密であるこの密教的な儀礼と「所有」はどのように関係しているのだろうか。
 話は飛躍するが、シャーマン、族長たちが一種のアジールとみなされていたというとき、彼らは各々の仕方で自然、無縁を体現している。これは部分的な代理ともみなすことができるのかもしれないが、そのものになりきる、といったほうが良いと思われるので、「体現」ということにする。彼らは「無縁の原理」を体現していることにより、その原理を、自然の力の一部を「所有」しているとみなすことができるのではないだろうか。経済の中には「増殖の秘密」である純粋贈与の痕跡が刻まれているもの、それを体現しているものが入り込んでいる、と私は考えている。
 そして、経済のダイナミズムの指標である「交換」、「贈与」に先立つものとして「所有」ということがなければ、それら二つの指標は成立しないのではないだろうか。何かを「所有」しているので、それらを交換したり、贈与したりすることができる。

―「ヴァーチャル化」と「所有」―

 何度となく繰り返しているが、ここで、「ヴァーチャル化」の諸特徴を再度挙げておくことにする。1)脱領土化、「いまここ」というあり方からの離脱、2)公共性、匿名性への移行、特異性からの逸脱、3)メビウス効果、さまざまな領域の反転、の以上三つの点を挙げることができる。とりわけ、1)と2)の特徴を見る限り、「ヴァーチャル化」と「所有」という二つの概念は対を成しているように思われる。というのも、何かをどこかへ帰属させることがなければ、「所有」は成立せず、それとは反対に特定のあり方からの逸脱を促しているのが、「ヴァーチャル化」と区別することができる。ヴァーチャル化を特徴とする現代経済において、「所有」が何を意味するのか、まずはこの点からみていく事にしよう。
 ヴァーチャル化を特徴とする現代経済―仮にこれを「ヴァーチャル経済」と呼ぶことにする―において、「所有」の在り方は、従来とは大きく変化している、みなすことができる。というのも、ヴァーチャル経済における経済的財や資源のあり方が変わっているからだ、といえる。それについて、レヴィは以下のように記している。

 鍵となる新たな資源は、古典派経済学の概念や推論とは正反対である二つの法則によって支配されている。すなわち、それら資源を消費することは、それらを破壊せず、それらを売却することはそれらを失わせないということである。(p.64)
 「古典派経済学の概念や推論」では、資源の消費は破壊を、売却は失うことを意味していたのに対して、「新しい資源」つまり「情報と知識」では、正反対のことが生じている、というのだ。資源として「所有」していたもの消費すれば、それらは破壊され、売却すれば失う、という「所有」しているもの移動が生じているのに対して、「情報と知識」では私がそれらを所有したままで相手、しかも同時に複数の相手が所有しているということが成立する。つまり「ヴァーチャル経済」では「所有」の在り方が変化しており、それは一方が所有していれば、他方は所有していない、というあり方から、同時に複数の主体による「情報と知識」の所有が可能となっており、資源の「共有可能性」が特徴となっている。
 これは「ヴァーチャル経済」の特徴の「脱領土化」ということからも分かることだが、「所有」では特定の「いまここ」に結び付けられた在り方をしていたが、そこからの逸脱を促すヴァーチャル化、あるいは脱領土化では特定の「いまここ」に結び付けられていないので、至る所に、同時に存在することも可能となる。「所有」から「共有(あるいは共有可能性)」という在り方へと移行した現代経済においては、その移行に伴うようにして「価値」の在り方も変化している。

 領土的権利から流動的(フロー)権利への移行そして、交換価値から使用価値への移行である。(p.78)

 私たちは柔軟性のない領土的所有から脱領土的な変動への報酬という移行に言及し、交換価値の経済から使用価値の経済への変化を取り上げた。(p.80)
 「領土的権利」、「領土的所有」から「流動的権利」、「脱領土的な変動」への移行により、ものの「価値」は交換されることよりも、その「使用」に対して認められるようになった。つまり、誰か一人が「所有」している場合、その所有物の交換価値は高いかも知れないが、使用価値は低いのに対して、複数人により「共有」されていれば、必然的に「使用価値」が高くなる。そして、現代経済の主要な経済的財は「情報と知識」であり、それらは共有可能なので、現代経済の価値の比重は「交換価値」よりも「使用価値」にあり、それを特徴とみなすことができる。



「まとめ」としながらも、引用しようとしていた箇所が見つからなかったりしたので、なんともまとまりのない文章になってしまった。
とりわけ「所有」についての箇所は全く考察されていないことを、正直に言っておく。

2012年6月8日金曜日

『愛と経済のロゴス』勉強会用メモ(5)

『愛と経済のロゴス』では、経済のダイナミズムを交換、贈与、純粋贈与という三つの指標とそれらの相互作用により生じたインターフェイスを見つめることで描き出そうとしている。P・レヴィがおこなった考察を手がかりに、これまでのブログでは中沢新一が行ったものとは別の側面からアプローチしてきた。ここで、もう少し、別のアプローチをしてみようと思う。そこで、今回は「富の増殖」という点を考察してみようと思う。『愛と経済のロゴス』において、この問題は第三章「増殖の秘密」以降で扱われており、もしかしたら、いまさら何かを付け加えたり、別の視点から眺める必要性はないかもしれない。しかし、あえて不満を挙げるならば、第三章「増殖での秘密」での考察だ、と私は答える。この章以降で、「中沢節」が一気に加速していると思うと同時に、一番気をつけなければならない箇所であるとも思う。最近、勉強会のために読み返していて、この章でいきなり「魔術」の話になっていることに、すこし怪しさ(?)を感じたが、この章以降の話の加速は読んでいて面白い。
 そこで、勉強会用メモをブログで書くにあたり、「増殖の秘密」を自分なりに考えてみようと思った。もう少し前置きを続けさせて頂く。このブログで考えるのはレヴィ『ヴァーチャルとは何か?』を中心にした「増殖の秘密」であり、何の増殖かという問いには「富の増殖」と応えておく。ノートにメモしたことを参照しながら書いていくので、展開に飛躍などがあると思うが、その際は指摘していただければ幸いである。

 前回の記事では、貨幣から情報と知識へと話を展開させながら、経済が全体性を備えた運動である、つまり「経済のダイナミズム」を見てきた。前回の内容を踏まえつつ、「貨幣」から話を始めることにする。貨幣はそこに刻まれている情報が極端に少なく、記号化しているため、物々交換における商品よりも流動性が高く、その特徴は公共性、匿名性だとした。公共性、匿名性という特徴はM・セールからの引用や『生成』における「ペルソンヌ」への考察などを見れば、レヴィの主張をよりよく理解することができる。セールによれば、空白という無限定である貨幣は容易に交換することができる、ということになるが、その貨幣以上に容易に交換できるものが「情報と知識」であり、それは「富を生産する主要な源泉」となりつつあり、「経済的な財のなかで今後最も重要になっていく」(pp.62-63)。
 セール『生成』での指摘のように、貨幣の流動性はそこに刻印されている情報の少なさに由来しているとするならば、「貨幣における情報」は限りなくゼロに近いものであり、(極端に)記号化されたものだと考えることができ、例えば100円玉に刻印された情報としての「100円という価値」ということになり、この場合は「交換価値」(だけ?)ということになる。このように、「貨幣における情報」が一定の地理的範囲で共有されているので、私たちは容易に買い物をすることができ(貨幣の「公共性」)、交換における貨幣の流動性は物々交換における商品のそれ以上だ(貨幣の「匿名性」)といえる。前回の記事、少しばかりの「+α」を前提にして、富の増殖を考えてみたいと思う。そこで、まずレヴィからの二つの引用が意味していることは何か、考えることにする。

情報と知識は今後、富を生産する主要な源泉となる。(p.62)
情報と知識は経済的な財の中で今後最も重要になっていく。(p.63)

 一つ目の引用では「情報と知識」は「富を生産する主要な源泉」とみなされており、二つ目では「情報と知識」の「経済的な財」としての重要性が主張されている。この二つが意味することを、できるだけ丁寧に追うことにする。
 まず、一つ目の引用から「情報と富の関係とは?」という問いを設定する。この問いが意味するのは、情報は富の源泉だというのが引用文中の主張だが、情報はどのように富を生産するのか、ということだ。そこで、情報と富の関係を考えるために、貨幣の話から離れ、商品を例に挙げることにしよう。
 前回のまとめで貨幣の特徴は匿名性であり、セールによれば貨幣は「無限定=空白」という特徴を持つ。極端に情報が少ないので、価値としては安定した交換が可能となる。貨幣の価値自体は記号化され、安定的なので、外国の貨幣に換金する場合を除けば、ほとんどない。それとは異なり、商品には貨幣以上の情報が付いており、これにより価値が左右される。例えば、「完全無農薬」、「○○作」、「高級素材使用」などの情報が付加されればされるほど、商品はより多くの特異性をまとうことにより、限定され、価値は変化していく。この場合、付加される情報は商品に対して「肯定的な」ものだが、当然、「中古」、「生産国○○」などの情報により「否定的な」ものが付加され、価値が下がる場合もある。「肯定的な情報」であろうと「否定的な情報」であろうと、それらが付加されることにより、商品は「より限定されたもの」となり、特異性を身にまとっていくことになる。このように、情報による限定により、価値あるいは富が生み出されるのではないだろうか。このとき、物質的なものは、情報が多重に刻印される「質料的媒介」とみなすことができる。
 商品に関する情報が多すぎると、全てを考慮に入れることはできないので、私たちは商品を購入することはできない―逆に、少なすぎても、決め手にかけてしまうので購入にはたどり着かない―。とすると、貨幣という物質それ自体に何らかの価値があるのではなく、それに伴う「情報」に価値がある、といえるのではないだろうか。そして、このことは前回の記事で書いた「物質的/非物質的」なものにかんするレヴィの考察にも通じるが、情報による価値は、それが「非物質的」だから、ではなくそれが「脱領土化されている」という点にある。このように、価値は脱領土化という性質をもっている情報により生じており、先に引用文の内容を理解できるのではないか。そして、さらに、

お金は富ではなく、それのヴァーチャル性である。(p.166)

 というレヴィの主張も理解できる。貨幣は―お米でも、金塊でも何でも良いだろうが―富ではなく、それがヴァーチャル化されたものという在り方をしているので、「富のヴァーチャル性」だ、ということになる。ここで、ヴァーチャル化の特徴をおさらいしておくと、1)脱領土化、2)公共性、匿名性への移行、3)メビウス効果、が挙げられる。貨幣の流動性はこのようにヴァーチャル化の諸特徴から導き出されている。
 貨幣への考察に始まり、それに価値を与えているものとしての情報、「経済的財」としての情報と知識を経て、前回の記事とあわせて、再び、「経済のダイナミズム」へと戻ってきた。

2012年6月6日水曜日

『愛と経済のロゴス』勉強会用メモ(4)

『愛と経済のロゴス』において、中沢新一はまず冒頭で「経済」という活動が「愛」と同様、人間の欲望に基づくダイナミックな運動だと指摘している(pp.12-15)。彼の主張とは少し異なるかもしれないが、経済という活動のダイナミズムをP・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』の考察をもとにみていく事にしよう。
 そこで、レヴィはまず、

出来事の秩序にあるものは全て、アクチュアル化とヴァーチャル化とのダイナミズムに属しているのである。(p.68)

 と述べているが、この主張がどのようにしてなされているのか、この点から見ていこう。この主張が登場するのは第四章「経済のヴァーチャル化」であり、すこし遠回りになるが『愛と経済のロゴス』との関連を考慮し、この章全体の議論も追うことにしたい。レヴィは現代の経済の特徴が「脱領土化」であり、「ヴァーチャル化」だと指摘している。これは人や物の移動、流通という「輸送サービス」が経済活動のほぼ半分を占めている、ということから導かれた主張である。彼の論の展開にしたがい、「金融という事例」を検討してみることにしよう。
 この「金融活動」について、レヴィはそれが「世界的経済の脈打つ心臓」であり、「ヴァーチャル化の台頭の最も特徴的な活動の一つ」と考えており、というのも土地などの「具体的な事物」である不動財よりも「貨幣」という動財がその活動を支えているからであり、そのようなものとしての「貨幣」に、ヴァーチャル化の特徴を見ているからだ。それについて、彼は以下のように語っている。

 貨幣(とより複雑な金融の手段)の発明と発展において、ヴァーチャル化の特質をよく示すものは、単にそれがここや今にしばられていないということ、つまり脱領土化であるというだけでない。それは同時に公共性や匿名性への移行、分配と交換の可能性、諸個人間の交渉や力関係の絶え間ない作用が、非人格的なメカニズムによって部分的な代用であるという性質もまたそうである。(pp.59-60)

 貨幣はヴァーチャル化の特性として1)脱領土化、2)公共性、匿名性への移行、3)「分配と交換の可能性」、4)非人格的なメカニズムによる部分的な代用、を備えている。物々交換において移動するモノよりも、貨幣はより高い流動性を持っていることは貨幣経済の発展をみれば容易に理解できるだろうが、現在の経済は貨幣よりも流動性の高いモノの出現により、「金銭と情報が次第に等価なものとなっていく」のだ。


―補足―

 貨幣経済の発展についての言及は網野善彦『無縁・公界・楽』、『日本中世に何が起きたか』、桜井英治『贈与の歴史学』を参考にしている。どちらも、日本・中世における貨幣経済の発展を考察しているが、このような発展が生じたのは日本に限ったことではない。この点については、後日、機会があれば書くことにする。

―補足2―

 貨幣は交換が容易である、というレヴィの主張が「匿名性」と関連付けられていることについて、これはセール『生成』でより詳しく見ることができる。セールは文字のぎっしりと詰まったページは「相互に交換することはない」が、空白のページは「意味を持たないので」容易に交換可能だとしている。特異性をもたないものである「空白のページ」、そこにセールは「貨幣」の特徴を見ている。セールは『生成』において「貨幣」(それから情報)について、以下のように述べている。

 貨幣は無限定であり、普遍的等価物として、それは全てであり、空白の意味として、それは何物でもない。
 空白の意味として、情報は普遍的等価物としてのその場所を占めつつある。(p.62)
 貨幣の流動性は、それが「空白=匿名性」により担保されている。貨幣と情報は、どちらも匿名性という特徴を備えているので、容易に交換される。とすると、貨幣と情報(さらにレヴィは「知識」を付け加えている)への考察が必要となる。


・情報と知識

 では、「情報」あるいは「知識」と経済はどのように関連してくるのだろうか。先ほど、金銭と情報が等価になっていく、と引用した、その点に関する議論を追っていくことにしよう。

 観光、通信、金融といった本来のヴァーチャル化のセクターを越えて、今日、活動の全体はまず情報と知識という非常に特別な経済的財に依存している。
 実際、情報と知識は今後、富を生産する主要な源泉となるのだ。(p.62)
 情報と知識の周辺状況は著しく変化した。レヴィは、私たちと「情報と知識」との関係は70年代以降、根本的に新しくなった、と指摘している。では、どのように。情報と知識は、70年代以降、今までそれらが持っていた「刷新のサイクル」が、「より短い刷新のサイクル」へと変化したからだ。「知識の秩序」はそれ自身が「新たな技術あるいは新たな社会経済的な布置」を要求するのではなく、逆にそれらにより再検討の対象となっているのだ。知の在り方じたいが変化したのだろう。

 私たちは活動の背景を構成しているような安定した知識の活用というあり方から、永続的な修習、今後は前景へと浮かんでくるような知識のただ中での連続的な航海へと移ったのだ。(p.62)
 レヴィは情報と知識について、「経済的な財の中で今後最も重要になっていく」と述べている。そこで、情報と知識はどのような「経済的特性」を得ているのだろうか。
 最初の回答としてレヴィが想定するのは、情報と知識が「非物質的」な財にかかわっている、というものだ。この命題を検討するに当たり、「実体の形而上学」、事物には「物質的」なものと「非物質的」なものがある、ということが前提となっている。この前提に基づいて考察すると、「純粋に物質的な財の中には第一質料しかみつからない」ので、「結局のところ非物質的な次元によって価値がある」ということになる(p.65)。かといって、「非物質的」な情報と「物質的」な支持体を分離することはできない。どんな情報も、それを記録するための「物質的」な「登録のあらゆる場」がなくてはならないのだ。ここまでくれば、中沢新一が指摘するような経済のダイナミズムをレヴィへの考察から見出すには、次の引用をみれば、一目瞭然だろう。

 正確には、知識と情報は「非物質的」なのではなく脱領土化されているのである。特権的な支持体に排他的に結びつけられるようなあり方から離れ、それは旅をすることができるのである。しかし情報と知識はそれ以上に「物質的」なのではない!物質的とか非物質的とかいう二項対立は実体や事物にとってしか価値をもたないのに対し、情報と知識は出来事ないし過程の秩序にあるのだ。(p.66)
 経済活動が、貨幣、情報と知識の考察を経て、冒頭で引用した出来事のダイナミズムへと戻ってきた。

2012年6月4日月曜日

メモメモ

勉強会用のメモはサボってしまっているけど、木曜日までには書いてしまいたい。
その前に、論文関連のメモを少し……

「離散」と「連続」ということを、ライプニッツ哲学の中で認めること、
それによって、私は「何」を言いたいのか。離散と連続があります、では「だから?」という質問をされたら、終わりになってしまう。
もう少し「先」を考えておかないといけない。

現実的に生きている次元は、離散と連続で構成されている、と私は感じている。
このように言ったとき、離散を「ゆるい連続」、「希薄な連続」、「濃度の薄い連続」と言ってもいいし、形容詞を逆転させて「離散」の側から言っても差し支えない、と思っている。これらの前提は何を意味しているのだろうか。

完全な「離散」と完全な「連続」を想定して、説明しておく必要性がある。
その中間が「現実的に生きている次元」なのでは、という予想(?)。この次元は「不均質」だと思う。それが何を意味しているのか。

まだまだ、詰めておかなくてはいけないことが山ほどある。
「離散と連続」をテーマに、2万字以内の論文を5、6本考えていて、全部ライプニッツ、セールを中心にしたもの。
このテーマはここ一年くらい考えてきたことで、ようやく(なんとなく)まとまりそうだけど、「何か」が欠けている気がする。