2011年12月9日金曜日

身体論の拡張(試論)

先日、市川浩『〈身〉の構造』を読んだ。 こちら→(http://www.amazon.co.jp/%E3%80%88%E8%BA%AB%E3%80%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E8%BA%AB%E4%BD%93%E8%AB%96%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B8%82%E5%B7%9D-%E6%B5%A9/dp/4061590715/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1323417389&sr=8-1)です。  それについての、解説、要約などは省き、今回はそれ以来、少し考えたことを書くことにする。  まず、「身」とは皮膚で限られている、所謂「身体」とは異なったものであり、その在り方を簡潔に示すならば、「身体+その近傍」と提示することが出来る。「その近傍」という言い方で、曖昧に示したものについて、市川が「道具」もしくは「用具」を用いている例を使いながら、「身体論の拡張」について考察してみようと思う。  身体論を拡張させたもの、そこでの身体の在り方を「身」と表現しているが、「道具」も「身」概念の中に包摂されているものとして提示することが出来る。この時、「道具」は身体が外在化したものであるという位置付けを有している限りで「身」概念に包摂されている。この「外在化された身体」としての「道具」というところに、身体論の拡張の一つの可能性を見て取ることが出来る。  例えば、大工など、職人がその業のために道具を用いている場面が、その顕著な例であるし、より簡単に言うならば、携帯電話を使用しているとき、道具は「外在化した身体」として位置づけられているといえる。ここで、携帯電話はここ数年で、「ガラケー」もしくは「フィーチャーフォン」と呼ばれているものから「スマートフォン」への目覚しい発展を遂げているのだが、二つの携帯はそれぞれ異なった形で「外在化した身体」としての「道具」の位置を有している。それについて簡潔に述べておくことにしよう。まず、前者の場合、操作時に、私たちはボタンに対する「触覚」を頼りに、画面を見ることなく、文字を予想し、入力することになった。器用な人になれば、両手を使いことにより通常以上のスピードで入力することが可能であったり、自転車に乗りながらの操作も可能であった。これらの特徴を考えると、前者は「手の延長」だと考えられる。一方、後者はその機能では前者をはるかに凌駕しているが、操作の際に「触覚」に頼ることはほとんどの場合不可能である。しかし、その機能としてパソコン上のデータとの動機など、情報のストック、情報へのアクセスという点が特徴だと考えられ「脳の外在化」として捉えることが出来る。このように、それぞれ異なった仕方で、身体の一部と類似した特長を有している。そこで、次に、身体と道具の関係を考察することにしよう。  道具により外在化あるいは延長した身体は、その道具の能力により、「その近傍」を或る程度の自由度をもって伸縮させることが可能である。考察を具体的にするために、「ハンマー」を例として扱っていこうと思う。まず、ハンマーは身体にとっては道具であり、使用する対象であるが、「使用する」という行為自体は何か別のことを対象(目的)としている。このように使用することの対象であったハンマーは、「何かのため」に使用されるのであり、そこには別の対象(目的)がある。この時、ハンマーは身体と共に「何かのための道具の使用」という行為を成り立たせている。この時、ハンマーそれ自体は身体にとって、対象であり、同時に、共に行為を成立させる主体でもあり得る。  つまり、ハンマーは主体であると同時に対象(客体)であるので、「準=客体」であるとも考えることが出来るが、行為自体は道具と身体のよりよく一致していればいるほど、技術として熟練したものとなり、ハンマーは「身体の拡張したもの」であると同時に、身体と一体化することにより、身体を目的へと方向付けられたものとして「道具化」しているものとも考えられ、身体それ自体を「準=客体」にしている。  ここに、身体と道具の関係の二重性がある。  1)「拡張された身体」としての道具  2)「拡張された道具」としての身体  1)は道具の「身体化」、2)は身体の「道具化」という「身体が道具(ハンマー)を使用する」という行為において、身体の拡張に関して、二つの形式に基づく見方があるといえ、この二つの拡張形式は、身体と道具が相互に「準=客体化」し合っているものであり、この行為それ自体はこのような二重性の構造を孕んできるといえ、この「二重性の構造」それ自体が「身」であるということが出来る。 (メモ) ・身体―道具の関係を、主体―対象(客体)の関係に置き換えながら、その拡張、つまり「身」概念について考察を加えてみたが、これは二つの関係をミクロな視点か ら考察したものであるといえる。つまり、可能性としてはもっとマクロな視点からも考察することが出来る。さらに、身体にとっての道具、主体にとっての客体をもっと積極的に外在化させた場合の考察も可能であると思われるが、こちらに関しては、今のところ、これと言って思いつくものはない……

2011年7月20日水曜日

P・レヴィ『ヴァーチャルとはなにか?』

先日、提出したレポートです。
感想、意見がありましたらよろしくお願いします。



「胡蝶の夢」において、荘周と蝶の移行、物化を可能にしている関係とはどのようなものなのだろうか。ここでは、そのような関係を考察するために、ピエール・レヴィにおけるヴァーチャル化の議論を扱いながら、明らかにしていくことにする。
 まず、レヴィにおけるヴァーチャル化の議論を追う。まず、レヴィはドゥルーズの議論に寄りながら、可能なもの―リアルなもの、という枠組みに対して「ヴァーチャルなもの―アクチュアルなもの」という枠組みを対置させながら、その議論を展開している。
ヴァーチャルなものは、存在の欠如として考えられているようなものではなく、「問題提起的な複合体」であり、「どのようなものであれ存在者に伴って」おり、つねに解決の過程、つまりアクチュアル化を要求している。そうであるならば、アクチュアルなものは問題に対する解決である。レヴィは可能的なものは「未発の状態」であり、これは「何も変化することなく実現される」が、ヴァーチャルなものは制約、環境と共に自己を作り出し、発見する。
レヴィは、ヴァーチャル性とアクチュアル性とは単なる「二つの異なった存在様式」であり、彼の議論の中心はこれら「存在様式」の分析などでなく、互いの領域への移行、つまりヴァーチャル化とアクチュアル化 である。
だとすると、ヴァーチャル化とアクチュアル化というのはなんなのか。レヴィはまず、アクチュアル化について「創造であり、……一つの形態の発明」であり、「ヴァーチャルなものを養う真の生成」だとして、アクチュアルなものはヴァーチャルなものに対応しているとする。
これに対して、ヴァーチャル化を「アクチュアル化の逆の運動」だと定義する。アクチュアル化が問題に対する一つの解決(アクチュアル性)であるならば、ヴァーチャル化は問題提起であり、ヴァーチャルなものとアクチュアルなものは互いに往環運動を行いながら、ずれていくのだ。つまり、「同一性の変動」、「件の客体の存在論的重心の移動」である。
しかし、それでは荘周と蝶に生じた移行の関係を説明することはできない。そのためには、ヴァーチャルの領域を考察する必要がある。具体的に、ヴァーチャルなものの領域では、何が起きているのだろうか。先述したように、ヴァーチャル化はアクチュアル化(問題から解決へ)の逆の運動(解決から問題へ)というかたちで定義されている。これに加えて、私が提示したテーマとの関連で言えば、ヴァーチャル化は時間空間の在り方を新しいものとして、我々に提示してくる。 
 レヴィは「ヴァーチャル化の主要な諸様態の内の一つ」として「今ここからの離脱」を挙げており、彼はヴァーチャル化=脱領土化という形を用いている。一つの例として、彼は企業のヴァーチャル化を挙げている。そして、重量を持たないハイパーテキストは場所を持っていないとしている。ヴァーチャルなものの領域においては、指定された明確な場所はなく、かわりに「同時化」と言うことが関係性としての空間を構成しており、「連結」が時間という単位に置き換えられている。同時に存在しているものが常に空間を構成しているのであり、ヴァーチャルの領域においては、絶えず「そこの外に置かれる」ということが生じているのである。生命は各々固有の仕方で、固有の時間空間を構成しているのだ。このことは、時間と空間の複数性を前提としている。そして、このような時間空間が生じている場所がヴァーチャルなものの領域であり、この次元において、アナロジーが機能している。ヴァーチャルなものの領域におけるアナロジーの機能について、少し長いが、引用しておく。

 アナロジーでいえば、記録や伝達の色々なシステム(口承の伝統、エクリチュール、ビデオ録画、デジタルネットワーク)は、それぞれ異なる物語のリズムや速さや質を作り上げた。新しい設備の一つ一つが、社会技術的「機械」の一つ一つが、特定の空間時間を、特定の地図作製を、特有の音楽を、一種の弾力的で複雑な錯綜体に付け加えるのである。その錯綜体において、諸延長が覆い尽くされ、変形し、互いに接続し、諸持続が対立し、干渉し、呼応しあうのである。現代の空間の多数化は私たちを新たな様式を持つノマドにした。つまり、与えられた延長の内で放浪と移動という道に従う代わりに、あるネットワークから別のネットワークへと、ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへと、私たちは飛び移るのだ。異型発生を私たちに強制することで、私たちの足もとで空間は変容し、分岐しているのだ。(P・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』p.13)

このようにアナロジーの働く空間において、私たちは「ある近接性のシステムから別の近接性のシステム」へと飛び移る。ここから、荘周と蝶の考えることが出来るのではないだろうか。荘周から蝶へ、蝶から荘周への移行は、レヴィのいうところの「ある近接性のシステムから別の近接性のシステム」への移行ではないだろうか。荘周と蝶は、各々にとって固有の時間空間を構成している。蝶が環境とともに作りあげている世界は、荘周が環境とともに作り上げている世界とは異なっている。ここに、時間空間の複数性、複数化という事態が生じることになる。ヴァーチャル化することにより、私たちは明確な時間空間への定着と言うことから離れる。今もなく、ここもない。ヴァーチャル化は全ての時間を今にすることが可能であり、全てのそこをここにすることが可能なのである。明確に指定された「今ここ」を持たないが故に、ヴァーチャル化は脱領土化とも呼ばれ得るのである。脱領土化、ヴァーチャル化した新たな空間と新たな速度を以てして、私たちは「ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへ」と移行することが可能となる。
 このように考えると、ヴァーチャル化は問題提起をしつつ、その解決(アクチュアル性)として新たな関係を構築することを可能にしている。その構築のために、ヴァーチャルな領域においては、関係性(近接性のシステム)の再配分が行われているのだ。これが、レヴィがいう「飛び移る」ということではないだろうか。この「ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへ」ということが可能となるためには、二つのシステムは同次元に存在していなければならない。同一平面に存在しているような関係性がなければ、この移行は可能とはならないのではないだろうか。つまり、ヴァーチャル化はこのような同一平面を作る働きをしているのではないだろうか。ヴァーチャル化により、あらゆるものは、関係性0の並存関係におかれ、そこから再配分がなされ、新たな関係を構築し、新たにできた関係は固有の時間空間を形成するのだ。このようにして、荘周と蝶の移行はかのうなものとなるのであり、荘周である時、蝶である時、それぞれは各々に固有の世界を構築するのだ。
 レヴィはヴァーチャル化一般について語っている章の末尾で、以下のように語る。この一文を引用することで、私の言わんとしていることはより明確になるだろう。

ヴァーチャル化は、問題提起への移行であり、問題についての存在の移転であるので、必然的に、定義や規定、排除、包含そして排中律によって考えられる古典的アイデンティティを問題にする。だからこそ、ヴァーチャル化は常に異型発生的であり、他の何かになるものであり、他者を受け容れる過程なのである。(P・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』p.17)

異型発生的であるということは、レヴィにとっては創造的であるということに他ならず、ヴァーチャル化は創造の第一次の重要な条件であるように思われる。このヴァーチャルな領域については、セールがインターチェンジ、ノワーズと呼んでいる概念との親近性は明らかであるが、それについては別途、機会を設けたい。


参考文献

P・レヴィ 『ヴァーチャルとは何か?』昭和堂(2006)

2011年3月10日木曜日

Sábados

A C.G.

Afuera hay un ocaso, alhaja oscura
engastada en el tiempo,
y una honda ciudad ciega
de hombres que no te vieron.
La tarde calla o canta.
Alguien descrucifica los anhelos
clavados en el piano.
Siempre, la multitud de tu hermosura.

***

A despecho de tu desamor
tu hermosura
prodiga su milagro por el tiempo.
Está en ti la ventura
como la primavera en la hoja nueva.
Ya casi no soy nadie,
soy tan sólo ese anhelo
que se pierde en la tarde.
En ti está la delicia
como está la crueldad en las espadas.

***

Agravando la reja está la noche.
En la sala severa
se buscan como ciegos nuestras dos soledades.
Sobrevive a la tarde
la blancura gloriosa de tu carne.
En nuestro amor hay una pena
que se parece al alma.

***


que ayer sólo eras toda la hermosura
eres también todo el amor, ahora.

Jorge Luis Borges
Fervor de Buenos Aires (1923)


先日あげた、ボルヘス「土曜日」のスペイン語版です。
スペイン語は全くできないけど、音読していて、なんとなく綺麗だな、と思った。
邦訳をあげたので、ついでにスペイン語版もあげておこうと思います。

『ブエノスアイレスの熱情』のスペイン語版なら、このサイトにあるので、URLを貼っておきます。
http://www.escribirte.com.ar/obras/10.htm
気になる方は覗いてみてください。

2011年3月9日水曜日

ボルヘス「土曜日」

ボルヘスの詩集『ブエノスアイレスの熱情』から一つ。


土曜日   -C.Gに

〈時〉に嵌め込まれた色褪せた宝石、
そんな夕陽のまさに沈まんとする
低い家並みの忘我の街は、
君には目もくれなかった人々で一杯だ。
夕暮れは口を噤み、そして歌う。
囚われし憧れを
ピアノから解き放つのは誰か。
君の美しさは多様でしかも絶え間ない。

つれない君は
麗しく、
奇跡で〈時〉を満たしてくれる。
緑の若葉に春を知るように
幸せは君のなかにある。
何ものにも価しないこのわたしこそ、
夕暮れに消えてゆく
あの憧れにしかすぎぬ。
剣に惨さがあるように
君のなかには無上の喜びが。

格子窓を押さえつけ夜が訪れる。
質素な居間では盲者の手探りで
二人の孤独が求め合う。
白く輝く肉体のまま
黄昏を生き抜く君だ。
ふたりの愛には苦しみがあり、
それは魂に似通っている。

きのう美しさそのものだった
君は、
今では愛のすべてなのだ。

『ブエノスアイレスの熱情』水声社(2008)pp.96-98


ボルヘスは詩よりも、短編の方を多く読んでいたせいか、
珍しくキラキラした印象を受けた。他の詩を読んで、簡単な比較をしてみても、
この詩は綺麗な詩だと思う。ボルヘスの作品としても、詩としても。
描いている情景も、(邦訳ではあるが)言葉の使い方も。

以上のような感想以外に、特に何も用意していないが、たまには、
自分の好きなものをただ、簡潔に載せるのも良いかもと思った。