2010年1月22日金曜日

レポート[後期] 2

権力について――図表的モデルとオートポイエーシス・システムを手がかりに

M・セールはその著書である『自然契約』の中で「権力」について「どこにも反対勢力が見当たらないような決定機関を私は権力を呼ぶ」としている。具体的にセールは「どこにも反対勢力が見当たらないような決定機関」として「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」を挙げている。一体、何故上に挙げた三種類の人々はセールが指摘するような意味において「権力」と呼ばれうるのだろうか。
 まずセールは「そもそも彼らはどこで生きているのか」を問う。そして彼らの生活環境として実験室、役所、スタジオを挙げている。これら三つの環境はそれぞれ屋内を指している。屋内、それはセールが指摘するフランス語の「temps」の二つの意味――「流れ去ってゆく時間」と「空模様の天候」――において前者を掌握し、後者に裁定や決定を下そうとしており、天候としての「temps」が絶対に仕事に影響を及ぼさないような場所のことである。
 しかし、セールの詩的な文章のために、そして『自然契約』が自然とのある種の調和の締結を呼びかける内容であるために、ここで扱おうとしている「権力」について述べようとするには抽象的であり、不十分なように思われる。
 ここでようやく本題に話の内容を移すことにしよう。後期授業でフーコー、ドゥルーズそれぞれの視点から権力についての講義がなされたが、授業を通して一つの疑問が浮かんだ。それは多くの場面に関して権力や権力者などと言われているが、様々な分野(法律、経済、社会など)において共通の、もしくはそれぞれの分野に対して横断的な「権力」というものがあるのだろうか、というものである。この疑問について前期のレポートであるかったセールの図表的モデルとオートポイエーシス・システムを参考にして考えてみたいと思おう。そして先ほどあげたセールが「権力」として考えている三つの決定機関である「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」の特徴の「屋内」ということにそれぞれふたつのモデルから注目し、考察していくことにする。
 まず、図表的モデルの視点から考えてみることにしたい。注目すべき点は先ほどあげた「屋内」ということと「反対勢力が見当たらないような」ということである。ここでは最初に「反対勢力が見当たらないような」ということについてこれを「付け入る隙がない」というように受け取る。つまり、一つのモデルとして図表的モデルを用いるとき、頂点同士を線により結び付けるとき、他の線に余地を与えないような、そして他の頂点に対しても余地を与えていないようなモデルを考えることが必要である。決定された線に対して「反対勢力の見当たらないような」線とは頂点を結び付ける際に最も短い距離をとる線のことである。全てが最短距離をとるとは限らないとしても各々の線が最短距離もしくは限りなくそれに近いような線であることが求められる。さらに頂点同士は重なることなく密集しており、他の頂点があとから介在する余地を与えていないようなモデルが求められる。そしてこれらの線と頂点により形成された一つの図表的モデルは同時に一つの閉鎖性を示している必要がある。この図表的モデルが示している閉鎖性はセールが述べている「反対勢力が見当たらないような決定機関」の特徴である「屋内」ということに比喩としてイメージを譲る。このモデルにおいて諸線、諸頂点の配置やその密度などを決定するのは言表である。この言表は普通のものではなく特権的なつまり「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」の発言、論文、発表などである。彼らの言表は高密度の図表的モデルにおいてさらにその権力を増していくような役割を果たしている。
以上において、権力を俯瞰的に観たつもりではあるがこれでは横断的な「権力」があるのか、という私自身の疑問には何ら答えたことにはならない。そこで、オートポイエーシス・システムに論の中心を譲ることにして、考察したい。始めにオートポイエーシス・システムについて簡単に説明し、そこで説明されたシステムを実際に「権力」という枠組みの中で適応させていくことにする。
オートポイエーシス・システムの定義についてはマトゥラーナ、ヴァレラの著書である『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』引用したい。「オートポイエーシス・システムとは、構成素が構成素を産出するという産出(変形及び破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである」 としている 。ここで「有機的に」とされているがマトゥラーナ、ヴァレラが神経システムを念頭に置いていただけであり、システム論として考えるならば「構成素が構成素を産出する」ということが第一条件となってくる。システムと構成素の間には産出=産物の関係が成り立っており、どちらも産出するものであり産出されたものである。オートポイエーシス・システムにおいてはこの循環が重要となってくる。産出=産物の関係が循環することにより、円環状のシステムを形成し、その円環状のシステムによりつまりシステムが作動した結果として「境界」を「みずからの作動の範囲を区切り、みずから自身によって規定する」 のである。システムが作動し、作動が円環状になることによって初めて「境界」が出現するのであり、境界はあらかじめ導入されているものではなく、行為(作動)することにより帰結してくるのである。
構成素は構成素を産出するが、まったく異なる構成素を産出することは出来ない。例えば社会における構成素をコミュニケーションとするならば、コミュニケーションは別なコミュニケーションを新たな構成素として産出する。「コミュニケーションはコミュニケーションの連鎖として固有の位相領域を作」るのである。つまりシステムにおいて構成素が異なれば、それはもう全く別のシステムなのである。
以上でオートポイエーシス・システムについての大まかな説明に区切りをつけて、実際にこのシステムモデルを用いて「権力」について考察したい。まずは自身の疑問点として挙げた「横断的な権力」は存在するのか、に対して返答したい。私の答えは「ない」である。例えば経済、法律、学問などが同一領域に存在しているのならば、それらを横断するような「権力」を認めることは出来るだろうが、それらにおいて構成素が同一ということはなくシステムが異なることになり、別々の位相領域を各々が構成していることになる。しかし、だからと言って「横断的な権力」がないと結論付けるにはすこし早い気もする。なぜなら、一つのシステムに対して他のシステムはその「環境」として存在しており、影響を与える、及ぼす状態(「浸透」)の状態を認めることが出来る。しかし、ここではあえて「ない」として話を進めることにする。なぜならオートポイエーシス・システムが作動することによって初めて存在する(「行為存在論」的である)ように、あらかじめ措定されたような「権力」の有無が問題となるのではなく、「権力」においても作動しているか、効力、影響力を与えているのかということが問題となるはずである。なぜなら、その力を振るっていない「権力」は存在していないようなものだからだ。
再びここで「権力」の話からシステムの話に中心を移してもう一度「権力」について考えるための準備をする。ここでなぜ戻るかと言うと初めに引用したセールの文章に対して検討をしていきたいと思うからだ。図表的モデルでもその閉鎖性とセールが「反対勢力が見当たらないような決定機関」と屋内(=閉鎖性)を関連付けたことを考えると、このオートポイエーシス・システムに対しても閉鎖性つまり屋内であるということが当てはるかどうかを検討したい。
まず思い出してもらいたいが、オートポイエーシス・システムはその円環状の作動により一つの閉域を作り出すシステムであるのである種の閉鎖性をもっている。しかし、河本が注意を促すのは閉域があるからと言って内部・外部の関係における入力・出力ということは成り立たない、ということである。このシステム論においては産出ということと、外からの刺激に対する作用とは明確に区別されなくてはならないのである。つまり、オートポイエーシス・システムは観測者の視点を排除して「自分の構成要素を産出するという産出作動の循環のうちからみる限り、システムはただひたすらみずからの構成要素を産出し、その構成要素がシステムを構成し、そしてさらにシステムが構成要素を産出するという循環を繰り返すだけである」 。そうなると、閉鎖性は産出作動の循環による単なる結果により生じたものでしかない。だが、システムにおいて閉鎖性があるということはシステムが作動しているということであり、作動しているということは閉域を作り出すということである。この閉域を法律、経済、学問などの領域として考えることが出来るとなると、「権力」が閉鎖性(セールの言う天候から切り離されたという意味での「屋内」)を前提としているならば、「権力」があるつまり作動しているというためにはシステムの作動自体が前提されなければならない。つまりシステムが産出作動の循環として作動し、閉域(閉鎖性)が生じた結果として「権力」が発生する。
個々の領域においてもこのシステムは非常に柔軟であり、応用がきく。経済、法律、学問などの領域において同様にしてそれぞれの閉域(閉鎖性)が発生してセールの言う「権力」の条件ともいえる天候から切り離されているという意味での「屋内」が生まれる。この別々の領域において同様に作動システムがあるので、同様の作用として閉域から発生してくるものとしての「権力」を我々は横断的なものとして考えているのではないだろうか。オートポイエーシス・システムの作動は閉域の発生を介して「権力」を発生させる。ここではオートポイエーシス・システムがその境界を作動によって初めて示すように、「権力」もその作動によって初めて「ある」ということが出来るのである。
最後にもう一度、一つのシステムはその環境との「浸透」しあっている、つまり「相互浸透」状態により密接に関わり合いながら作動している(「連動」している)という状況を考えるならば、「横断的な権力」を考えることが出来るだろうが、ではそもそも「権力」というものはどのようにして生じてくるのかを問わなければならない。今回はその生じてくる場面をセールの文章における「屋内」ということをヒントに図表的モデル、オートポイエーシス・システムを用いて法律、経済、学問など一つの場面を想定しながら捉えようと試みた。私はやはり「静止した権力」はなく「権力」は常に作用しているものだと思う。





参考文献
M・セール 『自然契約』 法政大学出版局(1994)
河本英夫 『オートポイエーシス 第三世代システム』青土社(1995)
H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ
『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』国交社(1991)

レポート[前期]

「M・セールの「図表的モデル」を手掛かりにしたライプニッツの可能性」

 M・セールは『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』 において一つのモデルとして「図表的モデル」を提出している。今回はまずこのモデルへの考察、そしてライプニッツ哲学における出来事、可能性への適用を考えることにする。
 まず、セールはこののちに「図表的モデル」と呼ぶ「網の目の形で描き出された図」について「この図はある瞬間に(……)、複数の点(頂点)によって形成される。各点は、複数の分岐(道[辺])によって互いに結びつけられている」 としている。さらに、この「図表的モデル」を構成している各々の点(頂点)は「ひとつの命題や、決定された経験的な事物の集合の中の実際に定義し得るひとつの要素を表す」 とする。
 セールは「弁証法的論法」との比較において「図表的モデル」の特徴を顕著にさせていく。両者の特徴は一つのケースを想定して顕著にされていく。それは二つの命題、二つの頂点を考えた場合、一方から他方へと行く道についてである。前者の「弁証法的論法」においてそれは「単線的であり、道筋の単一性や単純性、……に特徴づけられている」のである。それとは逆に「図表的モデル」の方は「媒介的な道筋の多様性や複雑性で特徴づけられる」のである。「図表的モデル」においてはある点から他の点へと至る経路(道筋)は直線的な最短距離の道筋だけではなく、非常に多くの道筋をとることが可能である。さらには別の第3、第4……複数の点を通過することさえ可能である。経路の複数性、複数の点の通過可能性により、このモデルでは「多様性や複雑性」が確保されているのであり、この「多様性や複雑性」こそが比較対象である「弁証法的論法」にはない「図表的モデル」の特徴である。
 「図表的モデル」の簡略的な説明は以上のようである。このモデルをライプニッツ哲学における出来事や可能性を語るのに有効なモデルであると仮定して、実際にセールのモデルをライプニッツの概念を考えるために適用させていきたい。
 ここで、まず先にライプニッツの「出来事」、「可能性」についてセールの「図表的モデル」と同様に簡略的に示しておきたい。まず「出来事」であるがこれはライプニッツ哲学におけるひとつの有名な命題「全ての述語は主語のうちにある」という命題の述語である。アルノーとの往復書簡においてライプニッツは「述語または出来事」 という言い換えを行っている。さらには、主語と述語の関係などを論じるときにライプニッツが用いる例 をみることで「述語または出来事」という彼の想定がより強固なものとなるだろう。ここでの「出来事」とは属性ではなく、動詞のことである。おそらくライプニッツにとって属性は動詞つまり「出来事」によって導き出され得るものである。
 次に「可能性」についてであるが、簡潔に言うならば、ある命題に対してその対立命題を措定したときに、対立命題が矛盾しなければ、可能であるということが出来る。例えば、歴史的事実として「カエサルはルビコン河を渡った」が対立命題として「カエサルはルビコン河を渡らなかった」と言っても命題としては矛盾しない。事実として成立した出来事に対して措定された対立命題の無矛盾性によって可能性は確保される。このとき、命題としては矛盾さえ含んでいなければどんなことも可能であるが、単なる説明のしやすさのためか、ライプニッツは例として歴史的事実を常に持ちだしている。この点においてライプニッツの「可能性」を未来へ向けられた「~するこができる」ではなく、常に過去に向けられた「~することができた」である考えることが出来る。しかし、ライプニッツ哲学の諸概念は相互的なものとして考えなければならない 。「可能性」に関しても二通りの考え方が成立することに注意しなければならない 。
 簡略的にセールの「図表的モデル」、ライプニッツの「出来事」、「可能性」について論じた。ここから実際に後者二つをセールのモデルへ適用させていきたい。
 まず、セールの提出した「図表的モデル」における「点(頂点)」をライプニッツにおける「個体概念」として考えてみたとする。各々の「個体概念」を関係づけている「道筋」は何に当たるのだろうか。この「道筋」を「出来事」と考えてみることが可能である。「道筋」は多様であり、複雑である。ライプニッツにおいて「出来事」は無数の「可能世界」の中から選ばれた一つが現実化するが、他の「出来事」が生じた可能性もあるという点で多様である。さらに、「出来事」例えば「カエサルはルビコン河を渡った」というときこの命題には表れていない周囲の状況が悉く含まれている。例に挙げた命題においては「渡る」という「出来事」によって「カエサル」と「ルビコン河」が関係づけられている。しかし、この「出来事」は共時的、通時的に現実世界の全てと「カエサル」と「ルビコン河」を関係づけるという点において複雑である。だが「出来事」による共時的、通時的な複雑性を我々は認識することが出来ない。我々が認識できるのはライプニッツの言う「出来事」の極一部であり、この認識できる範囲の「出来事」、言い換えれば「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な「出来事」だけである。
 この限定的な「出来事」は「カエサル」や「私」によって認識されるわけだが、この特権性は「カエサル」や「私」という「点(頂点)」の特権性に基づくのではない。セールのモデルにおいて「いかなる点も他の点に対して特権的ではないし、いかなる点もいずれかの点に一方的に従属してはいない」 のである。この認識の特権性をセールのモデルにおいて考えるならば、特権性はチェスの駒の強さのように「駒全体の配置や、敵方の網の目とのかかわりにおけるその分布の複雑さをふまえた上で、ひとつの時点における駒の相互的な状況に応じて、可変的である」 ことにより生じる。この可変的、特権的状況において私が認識できる範囲、セールの言葉をかりるなら「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」は全体から切り取りが可能であるセールは言う。この切り取り可能ということをライプニッツに即して言うなら明確な表象のある認識ということができ、つまりは「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な認識である。
 今までは「点(頂点)」を「個体概念」として考察を行ってきたが、セールが提示するモデルにおける「点(頂点)」をライプニッツにおける「出来事」として考えることも可能であるように思われる。そして、「出来事」同士の相互的な関係づけの中で集合全体から切り取り可能である「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」を「個体概念」つまり一つの「実体」として考えることが出来る。
 セールの提示した「図表的モデル」について二通りの適用を示したが、今一つの問題があるように思う。それは「点(頂点)」の捉え方の問題である。この「点(頂点)」と「道筋(線)」の二重性についてセールは以下のように記述している。「ひとつの頂点はふたつまたはいくつかの道の交差点とみなすこができる。(……)これと相関的にひとつの道は、あらかじめ想定された二つの頂点の対応づけを起点にして形成された決定とみなすことができる」という二重性である。「点(頂点)」に関してドゥルーズは前者の立場をとっている 。この二重性により「点(頂点)」を「個体概念」または「出来事」と解釈することが可能である。
 最後にこの「図表的モデル」の目的は、諸命題や出来事の空間的展開の分布より「図表的モデル」の上に表れるひとつの状況、この状況は流動的で時間とともに全体的に変化する状況を形式的に示すことであるといえるのではないか。しかし、この形式的に示されたものは「多様性や複雑性」を含んでいる。この複雑性を「知と経験にとっての最良の補助者」とすることがセールにおける「図表的モデル」の目的である。この目的に多少なりとも即した形でライプニッツと関連付けることができていれば幸いである。

参考文献
M・セール 『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』法政大学出版局(1985)
G・ドゥルーズ 『記号と事件』河出書房新社(2007)

レポート[後期]

西田幾多郎『善の研究』における宗教観

 人々は宗教において何を求めているのだろうか。この問いの設定は適切ではないのかもしれない。少しややこしい言い方になるだろうがここで「人々」と言ったのは、何らかの宗教、神を信仰している人、つまり宗教に対して何かを求めている人、このような人たちが求めているものに何か共通項となるべき項があるのか、という問いの設定の仕方のほうが先に立てた問いよりも何か正確な気がする。この問いに答えるにあたって何ら指標のないままただ自らの中で解決を求めることよりも、先人の知恵として西田幾多郎を、中でも今回は焦点を『善の研究』にしぼり、考察していきたい。
 先の問いに対して西田は『善の研究』第4編宗教の冒頭において一つの答えを与えている。「宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命に就いての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを知覚すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと欲する要求である」 と述べている。ここで西田は「宗教的要求」とはあくまで「自己に対する要求」つまりは個人的なものであると述べている。西田がその内容として求めていることを細かく段階を追ってみるならば(1)自己の相対性、有限性の知覚、(2)「絶対無限の力」との合一、(3)「永遠の真生命」の獲得、以上3段階を設けることが可能であると思われる。
 ここで補足的ではあるが説明を付け加えておきたい。西田にとって「宗教的要求」は先にあげたようなものであり、現世における利益、安心などを目的としてはいけないとしている。安心に関しては宗教の結果として得られる状態であるとしても、それは目的ではなく、「往生を目的として念仏するのも真の宗教心」ではないとしている。「往生」はあくまで結果であり、念仏の目的ではない。ここで「悪人正機」を説く親鸞と門弟のやりとりが連想されるが今回は触れないことにしておく。
 話を本筋に戻すことにする。西田はその著作、今回でいえば『善の研究』において同じことをアプローチの角度などを変えながら執拗に繰り返し述べる、という筆記スタイルは晩年に至ってもさほど変化していない。つまり、西田の筆記スタイルからすれば彼の文章は常に彼が核心だと感じた所へと何度となく立ち戻り、多重円環的な文章となっている。『善の研究』においてはその核心は「主客未分の状態」、「主客合一の状態」、「意識本来の状態」などと呼ばれる「純粋経験」であり、「純粋経験」を発展させる力としての「或無意識統一力」、「統一的或者」である。そう考えるならば宗教について語られる第4編においても同様に「純粋経験」、「或無意識統一力(統一的或者)」へ立ち戻りながら、これらの概念が中心を成しながら西田の論が進んでいくことが予想される。気になる点に関して、西田の『善の研究』、特に第4編での論を中心に見ていくことにする。
 まず「宗教的要求」とはなにか、という疑問である。西田は「宗教的要求」のことを「意識統一の要求」や「宇宙と合一の要求」として「人心の最深最大の要求」、「生命そのものの要求」であるとしている。西田にとって「宗教的要求」とは普段「純粋経験」が分化発展した状態にある我々の「意識」がその根本的状態である「純粋経験」へと、つまりは「主客合一の状態」である意識の根底にある状態へと回帰することなのだと考え得る。「宗教的要求」の言い換えである要求の形容に使われている「意識統一」や「宇宙と合一」はどちらも我々の根本であるところの「純粋経験」を指していると解釈するならば、「宗教的要求」を「純粋経験」への回帰と解釈することに問題はないはずである。我々の意識の、広くは世界の根本であるところの「純粋経験」に対して我々の意識はその分化発展の一部であり、我々の意識、生命がその根本へと回帰しようとすること、つまり「主客未分の状態」である「純粋経験」において大なる統一を求めることは西田にとっては思想の「実践的意味」、思想の実現、実行である。
 次に西田は『善の研究』において宗教や神をどのように考えていたのだろうか。「宗教」に関しては「神と人との関係」と簡潔に述べているが、この関係を考える上で神の位置づけというのが重要になってくるのは言うまでもない。「神と人との関係」については全ての宗教において「神人同性」の関係が必要であるとしている。つまりは神と人はその本性を同じにしている関係であるが、この関係をより明確なものとするために「神」についての考察を行うことで、明確な位置を与えていくことにする。
 西田は「人」については「我々の個人的意識」を指すとしている。つまりは「純粋経験」の分化発展している状態、主客が分離しているところの我々の意識である。しかし、「神」については「宇宙の根本」と考えておくことが最も適当であるとしている。だが、これだけでは何ら明確にはなっていない。そこで西田は「神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直にこの実在の根底と考えるのである」 と述べている。宇宙と神の関係はそのまま「本体と現象の関係」であるということである。ここで西田の考える「神」の一つの特徴としていわゆる超越神ではなくスピノザの神のような内在神に近いということがわかる。「宇宙の根本」である「神」は、根本、根底において統一を求めている西田にとってやはり統一なのである。「我々は此二者の統一を考えずにはいられない、即ち此二者の根底に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。……而して此統一が即ち神である」 。ここで西田の言う「此二者」とは「自然と精神」のことである。両者は全く別々の実在としてあるのではなく、一つの統一の別々の見方なのである、というのが西田の主張である。「直接経験(純粋経験)」においては精神と物体の区別すらなく「物即心、心即物」なのである。西田が言う「神」とは自然と精神の根底であり、あらゆる区別のない状態(「主客未分の状態」)である「純粋経験」の根底なのである。西田の言葉を用いるならば「実在の根柢たる神とは、この直接経験(純粋経験)の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ」 ということになる。
 ここで再び西田の考える「宗教」における「神人同性の関係」が多少なりとも明確になったのではないだろうか。つまり、「神」は世界(宇宙)の外にいるような超越神ではなく、我々の意識現象の根柢たる「純粋経験(直接経験)」の根柢であるために我々とその本性を全く別にしているのではない。世界(宇宙)の中に我々同様に存在しており、その本性においては我々と全く異なることはない「神」なのである。この意味において「神」は「生命の源」なのであり「我は唯神に於いて生く」 ということになる。
 では、なぜ「宗教的要求」は神との合一を求めるのだろうか。宇宙の根本であり、我々の根本であるところの「神」に帰すると言ったとき、なぜ「帰する」というのか。それは西田が『善の研究』で考えている「神」は万物の目的であり、従って我々の目的でもあるということになる。目的である「神」へ到達するために、「純粋経験」へと到達し、宗教においてさらに「神」と合一する。このような段階がこの『善の研究』では踏まれているような全体構成になっているということも考えることが出来る。しかし、「神」は万物の目的であるので、我々の目的であるというところまでは、納得がいくがそこからなぜ「合一」ということになるのだろうか。
 西田は『善の研究』第4編において「最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる」と記している。自己の説明に関してその「最も根本なる説明」が自己にあるということだけではなく、「神」の表現であるところの「宇宙」の「最も根本的なる説明」も必ず自己においてなされる。そのためにまず「純粋経験」に、そして「神」へと到達していくこと、つまり「神」との合一が求められているのだと考えることが出来る。
 最後に不適切な形ではあるが私が提示した「宗教において何を求めるのか」という問いに対して返答しなければならない。答えとして二つを用意することが出来る。一つは真なる「宗教的要求」から結果として生じるに過ぎない、つまり派生的に副産物として得られる「安心」である。しかし、これは西田にとってこれに甘んじることは真の宗教ではない。二つ目として提示する答えは西田の意見に従ったものである。すなわち「絶対無限の力」である「神」と合一することにより得られる「永遠の真生命」つまりは自己の、そして宇宙の「最も根本なる説明」であるだろう。ここにおいて我々は自らの「生命の源」である神と合一しており、自らの、そして宇宙の「生命の源」との合一でもあるがために、そこでは「永遠の真生命」である「最も根本なる説明」を得ることが出来、これを欲しているのだと結論することが出来る。

参考文献
西田幾多郎 『西田幾多郎全集 第一巻』 岩波書店(2003)