2010年12月26日日曜日

鈴の音の響きの先に 1

 忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下ろしたが、どこで鳴いているか影も形も見えぬ。只声だけが明 らかに聞こえる。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれな い様な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、又鳴 き暮さなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀は屹度雲 の中で死ぬに相違ない。登り詰めた挙句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、 只声だけが空の裡に残るのかも知れない。(夏目漱石『草枕』p.8)

今回の私の文章はどうしてもこの一文から始めたかったので、少し長くなってしまったが、一段落まるまる引いてくることにした。この一文を引いた理由はいくつかある。この文を初めて目にしたのは、グレン・グールドがラヂオで朗読したということを知って、本棚に置いてあった『草枕』(新潮文庫)を手に取り、さっそくこの一文を探した時であった。その後、機会あってミシェル・セール『生成』(法政大学出版局)の勉強会に向けて、取り組んでいる時に、ふと『草枕』のこの部分が思い浮かんだ。思い付き、体よく言って直観でしかないこの感覚をどうにか繋げよう、そう思い今出来る範囲で二つの本を、海を隔てた二つの国をどうにか結ぶことは出来ないだろうかと思ったのである。
まさに、問題は対象をどのように切り取るのか、どのように結び付けるのか、という点にあるだろう。「まさに」と言ったのは、私が『生成』を読む時に気になっていた点がノワーズや「基調の響き le bruit de fond」から対象がどのようにして生成してくるのか、つまりどのように切り取られるのか、ということであったからだ。

『生成』の中で、セールは認識論のモデルとして聴覚を提案し、採用している。聴覚は我々の感覚器官の中で、最も能動的で豊かなものであるというのがセールの見解だが、これは至極正しいと思われる。目を閉じれば視覚作用を抑えることが出来、鼻を摘まんでしまえば嗅覚を抑えることが出来る。しかし、聴覚は耳をふさいでも何らかの音が聞こえるのであり、私たちが寝ている時でさえも、働き続けている。休むことなく働いている感覚器官と言えるならば、最も能動的な感覚器官として、認識論のモデルとして聴覚を用いることに異論はないだろう。
『草枕』の主人公は画工であるにも関わらず、この作品の中には聴覚により主人公が見た風景、情景というものがよく登場してくるように思う。これは私の興味のせいで、偏りのある意見かもしれない。しかし、それでもやはり聴覚を通して感じた風景というものの表現の仕方が美しいという感覚を拭い去ることは出来ないだろう。気になるようであれば、是非一読の上、感想をお聞かせ願いたい。

 この『草枕』と『生成』という時代も場所も離れた書物を自然、芸術、聴覚ということを鎹にしながら、どうにか繋げることが出来れば幸いである。もちろん、読みの浅い部分などが多々あると思われるし、表現の仕方などに対して費やされるであろう語句の少なさを考えると恥ずかしい試みであるあるが、どう受け取られるか、それを知りたいという冒険心、何よりも何か文章を届けたいと言う願いという二点において大目に見ていただければ幸いである。

 まず、冒頭にある『草枕』からの引用を思い出すきっかけになった一文を『生成』から引いてくることにする。「老人は騒音の中で死に、私たちは騒音の中で死ぬだろう」(筆者訳)というこの一文である。雲雀は雲の中で死に、私たちは騒音の中で死ぬ。この二つの表現がこの二つの作品を繋げる鎹であると思ったのである。では、それをもう少し具体的に見ていくことにしたい。
 雲雀の鳴き声を聞いた主人公は「雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ」と考え、続けて「魂の活動が声にあらわれたもの」とも言っている。おそらく、魂は震えているのだろう、それとともにおそらく存在を震えている、揺れ動いているのだろう。その振動が私たちの質料を伝わり、空気を振動させており、空気の振動は音、この場合は雲雀の声として主人公の魂をも振動させているのだろう。8月15日付のブログでは『ショーシャンクの空に』の劇中で「フィガロの結婚」のレコードをかけるシーンに対して、同じようなことを書いた。一方、セールは「おそらく存在は静止状態にあるのでもなく、運動状態にあるのでもなく、おそらく揺さぶられているのだ」と述べている。ざわめきは空間の至る所で侵入しており、私たちの体中を占領しているのであり、それ自体背景を持たないものとしての「基調の響き」であり、「存在の基調」であるとしている。
「基調の響き」はノワーズでもある。そこでは様々なものが生成し、溶け込んでいくのである。騒音の中で、老人は死に、私たちも死ぬのであるが、「ノワズゥな美女はノワーズの中で生まれ、生まれつつある自然はノワーズの中で始まる」のである。「基調の響き」、ノワーズは対象が生成する場(そこから浮かび上がってくる場)であり、そこへと飲み込まれていく場でもあるのだ。では、『草枕』との関係において、「基調の響き」、ノワーズをどのように考えるべきなのだろうか。

セールは『生成』において次のように語っている。「多は開かれていて、それから常に生まれている最中である自然が生まれる」としており、ここで言われている「多」とはカオスであり、私たちが明確な対象を切り取ることが出来ないような、対象が浮き上がる背景であるようなノワーズであり、「基調の響き」なのである。ノワーズ、「基調の響き」はここでは「自然(ピュシス)」として語られている。この「自然」を背景から、対象へと引き上げて、扱ったものが(おそらく)『自然契約』だろう。ここにおいて、世界=「無償の贈与者」、つまり自然がなければ、美は存在しないとセールは語っている。つまり、自然は美の源泉でもあるのだ。漱石がその言葉の多くを(風景としての)自然を美しいものとして語ることに割いており、『草枕』においても自然は美の源泉であるように語られている。
『草枕』と『生成』において、自然が(後者においてはあらゆるものの源泉であると言っても過言ではないように思われる)美の源泉として語られているが、どのようにして、対象を切り取り、動かすのかということ、つまり主体と対象(客体)の関係ということも主題としてあるように思われる。

 緻密な証明あるいは濃密な詩を生むために、言語の中を泳ぎ、迷ったように、その騒音へと潜り込む必要が ある。(筆者訳)

セールが多くの著作で提示する認識論における主体と対象(客体)の関係を、芸術論として解釈をしていくとすれば、対象へと、そして対象の生成する場(=ノワーズ)へと潜り込んでいく必要がある。漱石ならば、これを「同化」と言うだろう。それは『草枕』において詩人や画客の楽しみと言うものは物に帰着するのではなく、物と同化することであり、「その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ」(『草枕』p.77)のだと言っている。つまり、セールが「その騒音へと潜り込む」こととしていること、つまり対象が生成するその背景へと潜り込むこと、そこにおいて私たちは対象そのものであり、背景の中の一つの音なのである。対象そのものであるが故に、私を樹立する余地などないのである。
ここで、漱石が「同化」と言っていることは、「対象化(客体化)」ということである。しかし、「物そのものになり済ました」ままでは、おそらく芸術活動と言うものを行うことは不可能であるだろう。例え、何かにとり憑かれたように制作に打ち込むにしても、芸術活動においては、主体として振る舞うことが要求される。「物そのものになり済ました」状態から、一歩退くことが必要である。これについて、漱石は以下のように語る。

 こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、その物を、おのが前に据えつけ  て、その感じから一歩退いて有体に落ち着いて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。 (『草枕』p.38)

漱石はこれを「第三者の地位」と言っている。しかし、私はこれを「主体のずれ、あるいはずれた主体(主体´)」と呼びたい。対象化した主体は、一度、対象を経由してもう一度主体に帰ってこなければならず、その時の主体は単なる主体ではなく、対象を経由したものとして、最初の主体からずれている。
一方、主体についてセールは「私がある対象、ある主題について考えている時、もし私が本当にそれらについて考えているならば、私がこの主題であり、この対象であるということはいかなる疑いをも生じさせない」のである、私は「誰でもない人 personne」である、という。セールは「誰でもない人」としてバレーの踊り手を例に挙げる。「誰でもない人」は「誰でもあり得る人」なのであり、その点でバレーの踊り手は変幻自在のプロメテウスなのである。彼は多義性と複数性を持ち合わせている。彼は何を見せる、表現しているのだろうか。「彼(踊り手)は、全可能性を、リズムによって時間の全可能性を、空間における不不在と現前の全可能性を見させるために、もはや何物でもないということに耐えられるように、自己を砕いた」のであり、彼の踊りは空間にすら痕跡、記憶をとどめることはないのである。
このような「何ものでもない人、何も持たない人は通過し、道を譲る」のである。こうして運動が生まれ、時間が生じるのである。踊りとは、場所を譲りながら、白いページを残すことである。では、「誰でもない人」、踊り手のステップがどうして問題なのだろうか。「道を譲る人々、場所を譲る人々は、彼らの譲渡により、過程を開始する」のである。

これは漱石のいう一歩退く、と言うこととは異なるだろうが、ここに漱石とセールの芸術に対する違いが生まれる。まず、漱石は芝居を楽しむ余裕のために「第三者の地位」へと一歩退くことを必要とする。しかし、セールにおいて、踊り手の運動は時間を形成するのであり、ノワーズが占領するべき新たな領土を発見するのである。そして、傑作は「時間の源泉」であり、雑音で震えていると言う。セールは「認識は、第一に、恐怖を与えるものであり、それは私たちの方に押し寄せてくる」としており、認識の根底に恐怖を置いている。




つづく。

2010年12月9日木曜日

断片

私の中に、一つの記憶がある。

小学生だった頃、いとこが一同に実家に集合するのである。
みんなで仏間で雑魚寝をし、昼間は出かけたり、ゲームをして遊んだりしていた。

一つの秘密として、夜中、大人たちが寝た後、隠しておいたお菓子を取り出し、
懐中電灯の灯りだけを頼りに、みんなで、何を話すともなく、お菓子を食べるたものだ。


いとこは大体二泊三日で泊まりに来ていたので、
この秘密の儀式をいつ決行するのかは、子供たちの間で取り決めたサインのみが合図であった。
このサインは軍隊の暗号や、独特の学問用語、恋人たちの秘密のやり取りの合図の様なものだ。
それらと同様に、必要以上に多くの人物の介入を阻止する。

たしか、セールが「コミュニカシオンを阻害する全ての物をノワーズとする」というようなことを何処かに記していた。コミュニカシオンには共通言語や文法規則、同じ意味で理解しようとすることなどが前提として含まれている。しかし、周囲の騒音や、偏見や感情の高揚などはこのコミュニカシオンの前提を破壊しかねない。つまり、これらのものはコミュニカシオンにとってはノワーズなのである。

会話をしようとしている二人、意志疎通を図ろうとしている者たちにとって、ノワーズは共通の敵として現前している。これに、われわれが気がついているかどうかはまた別の話であるが、われわれはこれらを極力排除したうえで、コミュニカシオンを行おうとするし、行いたいと望むことだろう。

子供時代にいとこたちと取り決めた合図は、子供の目的を遂行するとき、ノワーズとなる親たちに情報を漏らさないためのものだ。目的の遂行のために必要なコミュニカシオンを最低限のものにし、そこから極力ノワーズを排除しようと努めた結果、この目的はしばしば成功した。

失敗した時はといえば、一日遊び通して、疲れて、みんなで朝までぐっすりと寝てしまった時だけだろう。
そもそも、親たちは気がついていなかったのだろか。いや、お菓子のごみを見たり、何かを楽しみにする子供の目、合図を使うという怪しい行動をみて、私たちの計画に気づいていただろう。しかし、それを見過ごしてくれていたはずである。子供たちの秘密の遊びに対して、親はそれを阻害することなく、むしろ成功へと運ばせようとしていたのではないだろうか。

親たちにどんな意図があったのかは分からないし、ましてやそれに気づいていたかどうかすら確認したわけではないので、定かではない。
しかし、どんな形であれ、子供たちの秘密のコミュニカシオンは成功し、コミュニカシオンを道具とした私たちの目的も成功したのである。

ノワーズの中から、自分たちに必要は情報を選び分けることを(まだ)知らなかった子供時代。
それでも、ノワーズを極力減らそうと自分たちで合図という秘密の言語を作り上げた。
一種のふるい分けという行為を私たちは子供のころに、本能的に行っていたのではないだろうか。
それが本能的な行為だとしても、今ではそのことに気づいているので、私たちはそれを意図的に行うことが出来る。もちろん、全面的とは言えず、部分的なものであるだろうが。

ノワーズを避けることではなく、そこから必要な、有効なものを選び取るすべをそれなりに心得ているだろうし、学んできているだろう。どんなにノワーズが多くなろうとも、私たちはある程度はコミュニカシオンを成功させることが出来るのではないだろうか。

それでもなお、ノワーズはとても大きく、広く、小さく、狭い。つまり、ほぼ到る所にある。
そこをうまく泳ぐことが出来なkれば、私たちは交通不可能な状態に陥ってしまう。

巧く泳ぎ、泳ぎ切り、メッセージを運ぶ術を身につける必要があるのではないだろうか。


ふと、そんなことを思った。