2010年6月24日木曜日

『人間知性新論』序文 部分訳

部分過ぎて、話の流れがわからないので、
少しずつたしていきたいと思います。



・魂は、アリストテレスと『知性論』の著者に従うような、まだ書き込まれていない(タブラ・ラサ)であるところの書字板のように、全く空白なのかどうか。そして、そこ(魂)に刻まれた全てのものは単に諸感官(des sens)と経験に由来するのかどうか。あるいは魂は単に機会に応じて、諸々の外的対象が呼び覚ますような多くの諸概念(notions)と諸言説を本来的に含んでいるかどうかを知ることが問題(重要)である。

・ところで、一般的真理を堅固に(確認、批准)するような諸事例は、それがどんな数であれ、この同一の真理についての普遍的必然性を打ち立てるのに、十分ではない。

・論理学は、一方が自然神学を、他方が自然法学を形成するところの形而上学と道徳と共に、そのような真理(必然的真理)で満ちているのであり、したがって、それらの証明は生得的と呼ばれるような内的原理にのみ由来し得るのである。

・しかし、諸感官によって機会が与えられるような注意の力で、私達の中に、それら(諸法則)が発見されうるということで十分である。

・動物の(観念の)連合(consécution)は推論の影でしかない。すなわち、これは想像力(imagination)の連結、そして一つの象(image)から別の像への移行でしかない。

・というのは、理性のみが確実な規則を打ち立て得るし、少しも確かではなないような規則に不足しているようなものには、確実な規則に対して例外を設けることにより、(不足を)補うことができ、そしてついには、必然的な結論(結果:conséquence)の力において、ある(確実な)連関、動物が帰されるところの象の感覚可能な連関を試す必要なしに、しばしば出来事を予見する手段を与えるようなものを発見し得るのである。

・さて、反省とは私達の内にあるようなものへの注意に他ならず、諸感覚は私達が既に私達と共に持っているようなものを私達に与えることはないのである。

・そして、これらの対象は直接的であり、私達の知性に対して常に存在(現前)しているので……

・そのような理由で、諸観念と諸真理は傾向(des inclinations)、配置(des dispositions)、習慣(des habitude)、あるいは自然的潜在性(des virtualités)として、私達に生得的なのであって、作用(des actions)として生得的なのではない。とはいえ、これらの潜在性は、しばしば感覚不可能で、それ(この潜在性)に応じるような何らかの諸作用(quelques actions)を常に伴っているのである。

・したがって、私は、彼が私達の認識の二つの源泉、諸感官と反省を認めているのだから、この点に関して、彼の見解は、実際は私の見解、あるいは共通の見解とはことならない、と信じるに至ることができた。

・なぜなら、自然的に(本来的に、本性的に)作用なしの実体はあり得ず、運動なしの物体さえも、決してないのである。

・それ故、この微小表象は考えられていない程、より大きな効果(効力)を持っているのである。

・寄せ集めにおいては明晰だが、諸部分においては混雑している、この「曰くいいがたいもの」、これらの好み、多くの諸感官による(の)象を形成しているのは微小表象である。(私達を)取り巻く物体が私達になすような、無限、各々の存在が宇宙の他の全てのもの共に持っているこの連関(cette liaison)を包むようなこれらの印象を形成しているのも微小表象である。

・これらの微小表象に応じて(の結果として)、現在は未来で満ちており、過去を背負っているということ、全てのものは協働している(ヒポクラテスのいうような「万物同気」)こと、諸実体の最も小さなものにおいて、神の眼と同じほど鋭い眼は、宇宙の諸事物の全ての帰結(結果、実現、列:la suite)を読み取ることができると言うことが、まさに言われ得るのである。

・さらに、その(個体の)現在の状態との連結がなされたとき、これらの感覚不可能な表象は同一の個体を示し、構成している。その個体とは、感覚不可能な表象がこれらの個体の先行状態を保存しているような痕跡によって特徴づけられるのである。これらの感覚不可能な表象は、この個体そのものが、それ(感覚不可能な表象)を感覚しないとき、すなわち、もはやはっきりとした記憶がないとき、上位の精神により識別され得るのである。

・一言でいえば、感覚不可能な表象は自然科学における感覚不可能な粒子と同様に、精神学において、役に立つのである。

2010年6月17日木曜日

「夜」について

conti/nuit/é

もちろんContinuite(連続性)を切断しつつ「nuit」(夜)が現れ出ることをいう言葉である。
日常の連続を打ち破って、底のほうから、なにやらobscure(正体不明)の「夜」が立ち上がってくる。
その「夜」が宇宙への通路なのである。
(『水声通信』黒田アキ p.81)

最近、夜寝ることを拒んでいる。
一つの感情としての「恐怖」が原因である。
なぜ、「恐怖」を抱くのだろうか、何に対して。

夜寝ることを拒んでいるのは、夜が好き、寝る時間がもったいない、
といったこれらの理由によるものではない。
そのことだけは、はっきりと言っておこう。
では、それ以外に「夜」寝ることを拒んでいる、その理由とは何だろうか。
私なりに、ここ数日、そのことを考えるとき、常に頭にあるのは、黒田アキの作品、概念に対する、
小林康夫のコメントであり、上に引用した文章である。

そのことを念頭に置きつつ、話を進めていきたい。

私が「夜」寝ることを拒んでいる、恐怖により拒んでいる理由は、「朝」の到来である。
個人的な体験として、小説、映画、歌詞などで、二人(恋人同士、友人同士、親子は問わない)が、
砂浜に並んで、朝日が昇るのを見つめているシーンは、ほぼ「幸せ」なシーンとして描かれている。
そのようなシーンに対して、「正体不明」の恐怖を秘かに抱いてきた。
家族で行った初日の出、キャンプ場で眠れずに過ごして迎えた朝、夜通し飲み始発に乗り込む時の朝日、
これらには崇高なもの、暖かさを感じつつも、どこかにしこりとして「恐怖」が残っていたことを告白しよう。

では、「なぜ」なのだろうか。
一つとして同じ、そして一般的なる「夜」は存在しない。
それぞれが個別的な「夜」なのであり、どんな日常の平穏な流れの中にあっても、その都度「夜」なのである。
Continuite(連続性)を打ち破るものとして、「夜」が立ち上がってくる。
つまり、日常の連続は、「夜」によって切断される。
しかし、この「夜」による「切断」がなければ、そこに連続性があることを認識できないのではないだろうか。
「夜」が立ち上がることで、そこには「連続性」と「切断」が同時に現れてくることになるのではないだろうか。

そして、私が「恐怖」を抱く場面、つまり朝が訪れる瞬間には、
「夜」が日常を切断するのではなく、逆に「夜」が切断されるのである。
「宇宙への通路」であり、開かれたものとして「夜」が切断される。
こういうことが出来るのならば、「太陽」によって「夜」が日常から引き裂かれるのである。
そして、この瞬間は我々(少なくとも私)が「宇宙への通路」を失う瞬間なのである。

安定した、我々を包み込むような「日常」という大きな連続の中で、
私は「引き裂かれた」感覚、「切断」された感覚を「夜」の終わる瞬間に見てしまうのである。
この感覚は、自らの皮膚を「引き裂かれた」感覚に似たような「恐怖」を、
私の目の前に立ち上がらせるのである。

大切なものを失くした時の、好きな人を失った時の感覚と似ているのではないだろうか。
それらのものは(少なくとも)私にとっては、世界への、「宇宙への通路」のようなものである。
生命を育む、「宇宙への通路」である「夜」が「引き裂かれ」、「切断」される瞬間を、
目撃してしまうのは、個人的な体験として、私に「恐怖」という感情を抱かせる。

空間的な区切りであるならば、私は自らの些細な力によってでも、拒否することが可能である。
そして、自ら空間を「切断」することも可能である。
私たちはある程度の自由度をもって、空間を移動することが出来る。
しかし、時間においてはそうはいかない。私たちは不可逆の時間の中をただ進むしかないのである。
進む、という能動的な行為を行えているのかすら疑わしい。

空間と絶対的に異なる時間において、否応なく、我々にもたらされるこの「切断」を、
私はどのように受け止めるべきか、認めるべきなのだろうか。
少なくとも、それがわからない、今の私にとっては、この「夜」の「切断」は、
「連続性」を生みだし、「連続性」を切断するという二重の意味を持ちつつも、
「切断」の側面ばかりが、強調され、強烈なものとして、私の前に現れているのである。

このように、弱い私にとって、夜は愛しいものでもある。
小さなもの、弱いものが身を隠し、もしくは隠さずとも生きていけるのは、
全てが明らかになってしまう太陽の下において、ではなく、全てに等しく「闇」を与え、
私自身を隠すように包み込んでくれる「夜」において、ではないだろうか。