2011年12月9日金曜日

身体論の拡張(試論)

先日、市川浩『〈身〉の構造』を読んだ。 こちら→(http://www.amazon.co.jp/%E3%80%88%E8%BA%AB%E3%80%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E8%BA%AB%E4%BD%93%E8%AB%96%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B8%82%E5%B7%9D-%E6%B5%A9/dp/4061590715/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1323417389&sr=8-1)です。  それについての、解説、要約などは省き、今回はそれ以来、少し考えたことを書くことにする。  まず、「身」とは皮膚で限られている、所謂「身体」とは異なったものであり、その在り方を簡潔に示すならば、「身体+その近傍」と提示することが出来る。「その近傍」という言い方で、曖昧に示したものについて、市川が「道具」もしくは「用具」を用いている例を使いながら、「身体論の拡張」について考察してみようと思う。  身体論を拡張させたもの、そこでの身体の在り方を「身」と表現しているが、「道具」も「身」概念の中に包摂されているものとして提示することが出来る。この時、「道具」は身体が外在化したものであるという位置付けを有している限りで「身」概念に包摂されている。この「外在化された身体」としての「道具」というところに、身体論の拡張の一つの可能性を見て取ることが出来る。  例えば、大工など、職人がその業のために道具を用いている場面が、その顕著な例であるし、より簡単に言うならば、携帯電話を使用しているとき、道具は「外在化した身体」として位置づけられているといえる。ここで、携帯電話はここ数年で、「ガラケー」もしくは「フィーチャーフォン」と呼ばれているものから「スマートフォン」への目覚しい発展を遂げているのだが、二つの携帯はそれぞれ異なった形で「外在化した身体」としての「道具」の位置を有している。それについて簡潔に述べておくことにしよう。まず、前者の場合、操作時に、私たちはボタンに対する「触覚」を頼りに、画面を見ることなく、文字を予想し、入力することになった。器用な人になれば、両手を使いことにより通常以上のスピードで入力することが可能であったり、自転車に乗りながらの操作も可能であった。これらの特徴を考えると、前者は「手の延長」だと考えられる。一方、後者はその機能では前者をはるかに凌駕しているが、操作の際に「触覚」に頼ることはほとんどの場合不可能である。しかし、その機能としてパソコン上のデータとの動機など、情報のストック、情報へのアクセスという点が特徴だと考えられ「脳の外在化」として捉えることが出来る。このように、それぞれ異なった仕方で、身体の一部と類似した特長を有している。そこで、次に、身体と道具の関係を考察することにしよう。  道具により外在化あるいは延長した身体は、その道具の能力により、「その近傍」を或る程度の自由度をもって伸縮させることが可能である。考察を具体的にするために、「ハンマー」を例として扱っていこうと思う。まず、ハンマーは身体にとっては道具であり、使用する対象であるが、「使用する」という行為自体は何か別のことを対象(目的)としている。このように使用することの対象であったハンマーは、「何かのため」に使用されるのであり、そこには別の対象(目的)がある。この時、ハンマーは身体と共に「何かのための道具の使用」という行為を成り立たせている。この時、ハンマーそれ自体は身体にとって、対象であり、同時に、共に行為を成立させる主体でもあり得る。  つまり、ハンマーは主体であると同時に対象(客体)であるので、「準=客体」であるとも考えることが出来るが、行為自体は道具と身体のよりよく一致していればいるほど、技術として熟練したものとなり、ハンマーは「身体の拡張したもの」であると同時に、身体と一体化することにより、身体を目的へと方向付けられたものとして「道具化」しているものとも考えられ、身体それ自体を「準=客体」にしている。  ここに、身体と道具の関係の二重性がある。  1)「拡張された身体」としての道具  2)「拡張された道具」としての身体  1)は道具の「身体化」、2)は身体の「道具化」という「身体が道具(ハンマー)を使用する」という行為において、身体の拡張に関して、二つの形式に基づく見方があるといえ、この二つの拡張形式は、身体と道具が相互に「準=客体化」し合っているものであり、この行為それ自体はこのような二重性の構造を孕んできるといえ、この「二重性の構造」それ自体が「身」であるということが出来る。 (メモ) ・身体―道具の関係を、主体―対象(客体)の関係に置き換えながら、その拡張、つまり「身」概念について考察を加えてみたが、これは二つの関係をミクロな視点か ら考察したものであるといえる。つまり、可能性としてはもっとマクロな視点からも考察することが出来る。さらに、身体にとっての道具、主体にとっての客体をもっと積極的に外在化させた場合の考察も可能であると思われるが、こちらに関しては、今のところ、これと言って思いつくものはない……

2011年7月20日水曜日

P・レヴィ『ヴァーチャルとはなにか?』

先日、提出したレポートです。
感想、意見がありましたらよろしくお願いします。



「胡蝶の夢」において、荘周と蝶の移行、物化を可能にしている関係とはどのようなものなのだろうか。ここでは、そのような関係を考察するために、ピエール・レヴィにおけるヴァーチャル化の議論を扱いながら、明らかにしていくことにする。
 まず、レヴィにおけるヴァーチャル化の議論を追う。まず、レヴィはドゥルーズの議論に寄りながら、可能なもの―リアルなもの、という枠組みに対して「ヴァーチャルなもの―アクチュアルなもの」という枠組みを対置させながら、その議論を展開している。
ヴァーチャルなものは、存在の欠如として考えられているようなものではなく、「問題提起的な複合体」であり、「どのようなものであれ存在者に伴って」おり、つねに解決の過程、つまりアクチュアル化を要求している。そうであるならば、アクチュアルなものは問題に対する解決である。レヴィは可能的なものは「未発の状態」であり、これは「何も変化することなく実現される」が、ヴァーチャルなものは制約、環境と共に自己を作り出し、発見する。
レヴィは、ヴァーチャル性とアクチュアル性とは単なる「二つの異なった存在様式」であり、彼の議論の中心はこれら「存在様式」の分析などでなく、互いの領域への移行、つまりヴァーチャル化とアクチュアル化 である。
だとすると、ヴァーチャル化とアクチュアル化というのはなんなのか。レヴィはまず、アクチュアル化について「創造であり、……一つの形態の発明」であり、「ヴァーチャルなものを養う真の生成」だとして、アクチュアルなものはヴァーチャルなものに対応しているとする。
これに対して、ヴァーチャル化を「アクチュアル化の逆の運動」だと定義する。アクチュアル化が問題に対する一つの解決(アクチュアル性)であるならば、ヴァーチャル化は問題提起であり、ヴァーチャルなものとアクチュアルなものは互いに往環運動を行いながら、ずれていくのだ。つまり、「同一性の変動」、「件の客体の存在論的重心の移動」である。
しかし、それでは荘周と蝶に生じた移行の関係を説明することはできない。そのためには、ヴァーチャルの領域を考察する必要がある。具体的に、ヴァーチャルなものの領域では、何が起きているのだろうか。先述したように、ヴァーチャル化はアクチュアル化(問題から解決へ)の逆の運動(解決から問題へ)というかたちで定義されている。これに加えて、私が提示したテーマとの関連で言えば、ヴァーチャル化は時間空間の在り方を新しいものとして、我々に提示してくる。 
 レヴィは「ヴァーチャル化の主要な諸様態の内の一つ」として「今ここからの離脱」を挙げており、彼はヴァーチャル化=脱領土化という形を用いている。一つの例として、彼は企業のヴァーチャル化を挙げている。そして、重量を持たないハイパーテキストは場所を持っていないとしている。ヴァーチャルなものの領域においては、指定された明確な場所はなく、かわりに「同時化」と言うことが関係性としての空間を構成しており、「連結」が時間という単位に置き換えられている。同時に存在しているものが常に空間を構成しているのであり、ヴァーチャルの領域においては、絶えず「そこの外に置かれる」ということが生じているのである。生命は各々固有の仕方で、固有の時間空間を構成しているのだ。このことは、時間と空間の複数性を前提としている。そして、このような時間空間が生じている場所がヴァーチャルなものの領域であり、この次元において、アナロジーが機能している。ヴァーチャルなものの領域におけるアナロジーの機能について、少し長いが、引用しておく。

 アナロジーでいえば、記録や伝達の色々なシステム(口承の伝統、エクリチュール、ビデオ録画、デジタルネットワーク)は、それぞれ異なる物語のリズムや速さや質を作り上げた。新しい設備の一つ一つが、社会技術的「機械」の一つ一つが、特定の空間時間を、特定の地図作製を、特有の音楽を、一種の弾力的で複雑な錯綜体に付け加えるのである。その錯綜体において、諸延長が覆い尽くされ、変形し、互いに接続し、諸持続が対立し、干渉し、呼応しあうのである。現代の空間の多数化は私たちを新たな様式を持つノマドにした。つまり、与えられた延長の内で放浪と移動という道に従う代わりに、あるネットワークから別のネットワークへと、ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへと、私たちは飛び移るのだ。異型発生を私たちに強制することで、私たちの足もとで空間は変容し、分岐しているのだ。(P・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』p.13)

このようにアナロジーの働く空間において、私たちは「ある近接性のシステムから別の近接性のシステム」へと飛び移る。ここから、荘周と蝶の考えることが出来るのではないだろうか。荘周から蝶へ、蝶から荘周への移行は、レヴィのいうところの「ある近接性のシステムから別の近接性のシステム」への移行ではないだろうか。荘周と蝶は、各々にとって固有の時間空間を構成している。蝶が環境とともに作りあげている世界は、荘周が環境とともに作り上げている世界とは異なっている。ここに、時間空間の複数性、複数化という事態が生じることになる。ヴァーチャル化することにより、私たちは明確な時間空間への定着と言うことから離れる。今もなく、ここもない。ヴァーチャル化は全ての時間を今にすることが可能であり、全てのそこをここにすることが可能なのである。明確に指定された「今ここ」を持たないが故に、ヴァーチャル化は脱領土化とも呼ばれ得るのである。脱領土化、ヴァーチャル化した新たな空間と新たな速度を以てして、私たちは「ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへ」と移行することが可能となる。
 このように考えると、ヴァーチャル化は問題提起をしつつ、その解決(アクチュアル性)として新たな関係を構築することを可能にしている。その構築のために、ヴァーチャルな領域においては、関係性(近接性のシステム)の再配分が行われているのだ。これが、レヴィがいう「飛び移る」ということではないだろうか。この「ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへ」ということが可能となるためには、二つのシステムは同次元に存在していなければならない。同一平面に存在しているような関係性がなければ、この移行は可能とはならないのではないだろうか。つまり、ヴァーチャル化はこのような同一平面を作る働きをしているのではないだろうか。ヴァーチャル化により、あらゆるものは、関係性0の並存関係におかれ、そこから再配分がなされ、新たな関係を構築し、新たにできた関係は固有の時間空間を形成するのだ。このようにして、荘周と蝶の移行はかのうなものとなるのであり、荘周である時、蝶である時、それぞれは各々に固有の世界を構築するのだ。
 レヴィはヴァーチャル化一般について語っている章の末尾で、以下のように語る。この一文を引用することで、私の言わんとしていることはより明確になるだろう。

ヴァーチャル化は、問題提起への移行であり、問題についての存在の移転であるので、必然的に、定義や規定、排除、包含そして排中律によって考えられる古典的アイデンティティを問題にする。だからこそ、ヴァーチャル化は常に異型発生的であり、他の何かになるものであり、他者を受け容れる過程なのである。(P・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』p.17)

異型発生的であるということは、レヴィにとっては創造的であるということに他ならず、ヴァーチャル化は創造の第一次の重要な条件であるように思われる。このヴァーチャルな領域については、セールがインターチェンジ、ノワーズと呼んでいる概念との親近性は明らかであるが、それについては別途、機会を設けたい。


参考文献

P・レヴィ 『ヴァーチャルとは何か?』昭和堂(2006)

2011年3月10日木曜日

Sábados

A C.G.

Afuera hay un ocaso, alhaja oscura
engastada en el tiempo,
y una honda ciudad ciega
de hombres que no te vieron.
La tarde calla o canta.
Alguien descrucifica los anhelos
clavados en el piano.
Siempre, la multitud de tu hermosura.

***

A despecho de tu desamor
tu hermosura
prodiga su milagro por el tiempo.
Está en ti la ventura
como la primavera en la hoja nueva.
Ya casi no soy nadie,
soy tan sólo ese anhelo
que se pierde en la tarde.
En ti está la delicia
como está la crueldad en las espadas.

***

Agravando la reja está la noche.
En la sala severa
se buscan como ciegos nuestras dos soledades.
Sobrevive a la tarde
la blancura gloriosa de tu carne.
En nuestro amor hay una pena
que se parece al alma.

***


que ayer sólo eras toda la hermosura
eres también todo el amor, ahora.

Jorge Luis Borges
Fervor de Buenos Aires (1923)


先日あげた、ボルヘス「土曜日」のスペイン語版です。
スペイン語は全くできないけど、音読していて、なんとなく綺麗だな、と思った。
邦訳をあげたので、ついでにスペイン語版もあげておこうと思います。

『ブエノスアイレスの熱情』のスペイン語版なら、このサイトにあるので、URLを貼っておきます。
http://www.escribirte.com.ar/obras/10.htm
気になる方は覗いてみてください。

2011年3月9日水曜日

ボルヘス「土曜日」

ボルヘスの詩集『ブエノスアイレスの熱情』から一つ。


土曜日   -C.Gに

〈時〉に嵌め込まれた色褪せた宝石、
そんな夕陽のまさに沈まんとする
低い家並みの忘我の街は、
君には目もくれなかった人々で一杯だ。
夕暮れは口を噤み、そして歌う。
囚われし憧れを
ピアノから解き放つのは誰か。
君の美しさは多様でしかも絶え間ない。

つれない君は
麗しく、
奇跡で〈時〉を満たしてくれる。
緑の若葉に春を知るように
幸せは君のなかにある。
何ものにも価しないこのわたしこそ、
夕暮れに消えてゆく
あの憧れにしかすぎぬ。
剣に惨さがあるように
君のなかには無上の喜びが。

格子窓を押さえつけ夜が訪れる。
質素な居間では盲者の手探りで
二人の孤独が求め合う。
白く輝く肉体のまま
黄昏を生き抜く君だ。
ふたりの愛には苦しみがあり、
それは魂に似通っている。

きのう美しさそのものだった
君は、
今では愛のすべてなのだ。

『ブエノスアイレスの熱情』水声社(2008)pp.96-98


ボルヘスは詩よりも、短編の方を多く読んでいたせいか、
珍しくキラキラした印象を受けた。他の詩を読んで、簡単な比較をしてみても、
この詩は綺麗な詩だと思う。ボルヘスの作品としても、詩としても。
描いている情景も、(邦訳ではあるが)言葉の使い方も。

以上のような感想以外に、特に何も用意していないが、たまには、
自分の好きなものをただ、簡潔に載せるのも良いかもと思った。

2010年12月26日日曜日

鈴の音の響きの先に 1

 忽ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下ろしたが、どこで鳴いているか影も形も見えぬ。只声だけが明 らかに聞こえる。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれな い様な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、又鳴 き暮さなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀は屹度雲 の中で死ぬに相違ない。登り詰めた挙句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、 只声だけが空の裡に残るのかも知れない。(夏目漱石『草枕』p.8)

今回の私の文章はどうしてもこの一文から始めたかったので、少し長くなってしまったが、一段落まるまる引いてくることにした。この一文を引いた理由はいくつかある。この文を初めて目にしたのは、グレン・グールドがラヂオで朗読したということを知って、本棚に置いてあった『草枕』(新潮文庫)を手に取り、さっそくこの一文を探した時であった。その後、機会あってミシェル・セール『生成』(法政大学出版局)の勉強会に向けて、取り組んでいる時に、ふと『草枕』のこの部分が思い浮かんだ。思い付き、体よく言って直観でしかないこの感覚をどうにか繋げよう、そう思い今出来る範囲で二つの本を、海を隔てた二つの国をどうにか結ぶことは出来ないだろうかと思ったのである。
まさに、問題は対象をどのように切り取るのか、どのように結び付けるのか、という点にあるだろう。「まさに」と言ったのは、私が『生成』を読む時に気になっていた点がノワーズや「基調の響き le bruit de fond」から対象がどのようにして生成してくるのか、つまりどのように切り取られるのか、ということであったからだ。

『生成』の中で、セールは認識論のモデルとして聴覚を提案し、採用している。聴覚は我々の感覚器官の中で、最も能動的で豊かなものであるというのがセールの見解だが、これは至極正しいと思われる。目を閉じれば視覚作用を抑えることが出来、鼻を摘まんでしまえば嗅覚を抑えることが出来る。しかし、聴覚は耳をふさいでも何らかの音が聞こえるのであり、私たちが寝ている時でさえも、働き続けている。休むことなく働いている感覚器官と言えるならば、最も能動的な感覚器官として、認識論のモデルとして聴覚を用いることに異論はないだろう。
『草枕』の主人公は画工であるにも関わらず、この作品の中には聴覚により主人公が見た風景、情景というものがよく登場してくるように思う。これは私の興味のせいで、偏りのある意見かもしれない。しかし、それでもやはり聴覚を通して感じた風景というものの表現の仕方が美しいという感覚を拭い去ることは出来ないだろう。気になるようであれば、是非一読の上、感想をお聞かせ願いたい。

 この『草枕』と『生成』という時代も場所も離れた書物を自然、芸術、聴覚ということを鎹にしながら、どうにか繋げることが出来れば幸いである。もちろん、読みの浅い部分などが多々あると思われるし、表現の仕方などに対して費やされるであろう語句の少なさを考えると恥ずかしい試みであるあるが、どう受け取られるか、それを知りたいという冒険心、何よりも何か文章を届けたいと言う願いという二点において大目に見ていただければ幸いである。

 まず、冒頭にある『草枕』からの引用を思い出すきっかけになった一文を『生成』から引いてくることにする。「老人は騒音の中で死に、私たちは騒音の中で死ぬだろう」(筆者訳)というこの一文である。雲雀は雲の中で死に、私たちは騒音の中で死ぬ。この二つの表現がこの二つの作品を繋げる鎹であると思ったのである。では、それをもう少し具体的に見ていくことにしたい。
 雲雀の鳴き声を聞いた主人公は「雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ」と考え、続けて「魂の活動が声にあらわれたもの」とも言っている。おそらく、魂は震えているのだろう、それとともにおそらく存在を震えている、揺れ動いているのだろう。その振動が私たちの質料を伝わり、空気を振動させており、空気の振動は音、この場合は雲雀の声として主人公の魂をも振動させているのだろう。8月15日付のブログでは『ショーシャンクの空に』の劇中で「フィガロの結婚」のレコードをかけるシーンに対して、同じようなことを書いた。一方、セールは「おそらく存在は静止状態にあるのでもなく、運動状態にあるのでもなく、おそらく揺さぶられているのだ」と述べている。ざわめきは空間の至る所で侵入しており、私たちの体中を占領しているのであり、それ自体背景を持たないものとしての「基調の響き」であり、「存在の基調」であるとしている。
「基調の響き」はノワーズでもある。そこでは様々なものが生成し、溶け込んでいくのである。騒音の中で、老人は死に、私たちも死ぬのであるが、「ノワズゥな美女はノワーズの中で生まれ、生まれつつある自然はノワーズの中で始まる」のである。「基調の響き」、ノワーズは対象が生成する場(そこから浮かび上がってくる場)であり、そこへと飲み込まれていく場でもあるのだ。では、『草枕』との関係において、「基調の響き」、ノワーズをどのように考えるべきなのだろうか。

セールは『生成』において次のように語っている。「多は開かれていて、それから常に生まれている最中である自然が生まれる」としており、ここで言われている「多」とはカオスであり、私たちが明確な対象を切り取ることが出来ないような、対象が浮き上がる背景であるようなノワーズであり、「基調の響き」なのである。ノワーズ、「基調の響き」はここでは「自然(ピュシス)」として語られている。この「自然」を背景から、対象へと引き上げて、扱ったものが(おそらく)『自然契約』だろう。ここにおいて、世界=「無償の贈与者」、つまり自然がなければ、美は存在しないとセールは語っている。つまり、自然は美の源泉でもあるのだ。漱石がその言葉の多くを(風景としての)自然を美しいものとして語ることに割いており、『草枕』においても自然は美の源泉であるように語られている。
『草枕』と『生成』において、自然が(後者においてはあらゆるものの源泉であると言っても過言ではないように思われる)美の源泉として語られているが、どのようにして、対象を切り取り、動かすのかということ、つまり主体と対象(客体)の関係ということも主題としてあるように思われる。

 緻密な証明あるいは濃密な詩を生むために、言語の中を泳ぎ、迷ったように、その騒音へと潜り込む必要が ある。(筆者訳)

セールが多くの著作で提示する認識論における主体と対象(客体)の関係を、芸術論として解釈をしていくとすれば、対象へと、そして対象の生成する場(=ノワーズ)へと潜り込んでいく必要がある。漱石ならば、これを「同化」と言うだろう。それは『草枕』において詩人や画客の楽しみと言うものは物に帰着するのではなく、物と同化することであり、「その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ」(『草枕』p.77)のだと言っている。つまり、セールが「その騒音へと潜り込む」こととしていること、つまり対象が生成するその背景へと潜り込むこと、そこにおいて私たちは対象そのものであり、背景の中の一つの音なのである。対象そのものであるが故に、私を樹立する余地などないのである。
ここで、漱石が「同化」と言っていることは、「対象化(客体化)」ということである。しかし、「物そのものになり済ました」ままでは、おそらく芸術活動と言うものを行うことは不可能であるだろう。例え、何かにとり憑かれたように制作に打ち込むにしても、芸術活動においては、主体として振る舞うことが要求される。「物そのものになり済ました」状態から、一歩退くことが必要である。これについて、漱石は以下のように語る。

 こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、その物を、おのが前に据えつけ  て、その感じから一歩退いて有体に落ち着いて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。 (『草枕』p.38)

漱石はこれを「第三者の地位」と言っている。しかし、私はこれを「主体のずれ、あるいはずれた主体(主体´)」と呼びたい。対象化した主体は、一度、対象を経由してもう一度主体に帰ってこなければならず、その時の主体は単なる主体ではなく、対象を経由したものとして、最初の主体からずれている。
一方、主体についてセールは「私がある対象、ある主題について考えている時、もし私が本当にそれらについて考えているならば、私がこの主題であり、この対象であるということはいかなる疑いをも生じさせない」のである、私は「誰でもない人 personne」である、という。セールは「誰でもない人」としてバレーの踊り手を例に挙げる。「誰でもない人」は「誰でもあり得る人」なのであり、その点でバレーの踊り手は変幻自在のプロメテウスなのである。彼は多義性と複数性を持ち合わせている。彼は何を見せる、表現しているのだろうか。「彼(踊り手)は、全可能性を、リズムによって時間の全可能性を、空間における不不在と現前の全可能性を見させるために、もはや何物でもないということに耐えられるように、自己を砕いた」のであり、彼の踊りは空間にすら痕跡、記憶をとどめることはないのである。
このような「何ものでもない人、何も持たない人は通過し、道を譲る」のである。こうして運動が生まれ、時間が生じるのである。踊りとは、場所を譲りながら、白いページを残すことである。では、「誰でもない人」、踊り手のステップがどうして問題なのだろうか。「道を譲る人々、場所を譲る人々は、彼らの譲渡により、過程を開始する」のである。

これは漱石のいう一歩退く、と言うこととは異なるだろうが、ここに漱石とセールの芸術に対する違いが生まれる。まず、漱石は芝居を楽しむ余裕のために「第三者の地位」へと一歩退くことを必要とする。しかし、セールにおいて、踊り手の運動は時間を形成するのであり、ノワーズが占領するべき新たな領土を発見するのである。そして、傑作は「時間の源泉」であり、雑音で震えていると言う。セールは「認識は、第一に、恐怖を与えるものであり、それは私たちの方に押し寄せてくる」としており、認識の根底に恐怖を置いている。




つづく。

2010年12月9日木曜日

断片

私の中に、一つの記憶がある。

小学生だった頃、いとこが一同に実家に集合するのである。
みんなで仏間で雑魚寝をし、昼間は出かけたり、ゲームをして遊んだりしていた。

一つの秘密として、夜中、大人たちが寝た後、隠しておいたお菓子を取り出し、
懐中電灯の灯りだけを頼りに、みんなで、何を話すともなく、お菓子を食べるたものだ。


いとこは大体二泊三日で泊まりに来ていたので、
この秘密の儀式をいつ決行するのかは、子供たちの間で取り決めたサインのみが合図であった。
このサインは軍隊の暗号や、独特の学問用語、恋人たちの秘密のやり取りの合図の様なものだ。
それらと同様に、必要以上に多くの人物の介入を阻止する。

たしか、セールが「コミュニカシオンを阻害する全ての物をノワーズとする」というようなことを何処かに記していた。コミュニカシオンには共通言語や文法規則、同じ意味で理解しようとすることなどが前提として含まれている。しかし、周囲の騒音や、偏見や感情の高揚などはこのコミュニカシオンの前提を破壊しかねない。つまり、これらのものはコミュニカシオンにとってはノワーズなのである。

会話をしようとしている二人、意志疎通を図ろうとしている者たちにとって、ノワーズは共通の敵として現前している。これに、われわれが気がついているかどうかはまた別の話であるが、われわれはこれらを極力排除したうえで、コミュニカシオンを行おうとするし、行いたいと望むことだろう。

子供時代にいとこたちと取り決めた合図は、子供の目的を遂行するとき、ノワーズとなる親たちに情報を漏らさないためのものだ。目的の遂行のために必要なコミュニカシオンを最低限のものにし、そこから極力ノワーズを排除しようと努めた結果、この目的はしばしば成功した。

失敗した時はといえば、一日遊び通して、疲れて、みんなで朝までぐっすりと寝てしまった時だけだろう。
そもそも、親たちは気がついていなかったのだろか。いや、お菓子のごみを見たり、何かを楽しみにする子供の目、合図を使うという怪しい行動をみて、私たちの計画に気づいていただろう。しかし、それを見過ごしてくれていたはずである。子供たちの秘密の遊びに対して、親はそれを阻害することなく、むしろ成功へと運ばせようとしていたのではないだろうか。

親たちにどんな意図があったのかは分からないし、ましてやそれに気づいていたかどうかすら確認したわけではないので、定かではない。
しかし、どんな形であれ、子供たちの秘密のコミュニカシオンは成功し、コミュニカシオンを道具とした私たちの目的も成功したのである。

ノワーズの中から、自分たちに必要は情報を選び分けることを(まだ)知らなかった子供時代。
それでも、ノワーズを極力減らそうと自分たちで合図という秘密の言語を作り上げた。
一種のふるい分けという行為を私たちは子供のころに、本能的に行っていたのではないだろうか。
それが本能的な行為だとしても、今ではそのことに気づいているので、私たちはそれを意図的に行うことが出来る。もちろん、全面的とは言えず、部分的なものであるだろうが。

ノワーズを避けることではなく、そこから必要な、有効なものを選び取るすべをそれなりに心得ているだろうし、学んできているだろう。どんなにノワーズが多くなろうとも、私たちはある程度はコミュニカシオンを成功させることが出来るのではないだろうか。

それでもなお、ノワーズはとても大きく、広く、小さく、狭い。つまり、ほぼ到る所にある。
そこをうまく泳ぐことが出来なkれば、私たちは交通不可能な状態に陥ってしまう。

巧く泳ぎ、泳ぎ切り、メッセージを運ぶ術を身につける必要があるのではないだろうか。


ふと、そんなことを思った。

2010年11月5日金曜日

断片

修士論文にて、ライプニッツの連続律を扱おうと考えている。
もともと、微小表象の問題を扱うため、質料(第一質料)の問題を扱うために、
連続律について考察し、言及することの必要性を感じたからである。

しかし、連続律について考えていると、つまるところ「関係 relation」の問題に突き当たる。
連続とは一つの関係(づけられ方)であると考えることが出来る。

連続と言うときライプニッツが前提としているのは複合的であること、つまり分割可能性であると思う。
ある任意の塊(物体、質料)が分割可能であることと、それが複合的であるということは同じである。
『結合法論』や『数学の形而上学的基礎』などにおける「全体-部分」の関係の説明を見れば、
このように考えることに無理はないだろう。

だが、ある任意の物体に依らない連続性というものがあるのではないだろうか。
一言でいえば「離散的な」ものの連続性(関係づけ)の問題である。
これは無限に分割可能とはいえ、ある程度の大きさを持っている質料同士が、
連続(関係)することにより、複合されたものを構成している。
個々の物質同士を離散的であると考えることもできる。
更に拡大して言うならば「見かけ上全く関係のないようにみえるもの」同士が、
どのように関係しているのか、という問題にもなる。



関係に関して、ライプニッツは二種類の区別を設けいているが、『結合法論』と『人間知性新論』では、
その区分の仕方は異なっている。
前者における関係はunio(結合、統合)かconvenientia(適合)の二つである。
(詳細は省略)
後者における関係はcomparaison(比較)に基づくもの、concour(協働)に基づくものの二つである。

この関係の区分についてはきちんと考える必要性がある。
ことどちらの区分においても後者(適合、協働)というものが離散的連続性(離散的関係性)を考える上で、
非常に重要であると思われる。
しかし、ここで注意すべき点は、注意して適合と協働という関係を扱わなくては、
それらの関係においてあらゆるものが予定調和へと即座に還元されてしまうという点である。


離散的、ということをライプニッツが表立って、明確に言っている箇所を私は見つけたことがない。
つまり離散的連続性をライプニッツにおいて考えるには「かくあるべし」という、
予測の様なものが必要となる。
だからこそ、取り扱いには注意が必要となる。
しかし、これは非常に面白いテーマだと思うので、修士論文の裏テーマとして扱いたい。


途切れ途切れだが、以上。
断片、終了。