2010年6月24日木曜日

『人間知性新論』序文 部分訳

部分過ぎて、話の流れがわからないので、
少しずつたしていきたいと思います。



・魂は、アリストテレスと『知性論』の著者に従うような、まだ書き込まれていない(タブラ・ラサ)であるところの書字板のように、全く空白なのかどうか。そして、そこ(魂)に刻まれた全てのものは単に諸感官(des sens)と経験に由来するのかどうか。あるいは魂は単に機会に応じて、諸々の外的対象が呼び覚ますような多くの諸概念(notions)と諸言説を本来的に含んでいるかどうかを知ることが問題(重要)である。

・ところで、一般的真理を堅固に(確認、批准)するような諸事例は、それがどんな数であれ、この同一の真理についての普遍的必然性を打ち立てるのに、十分ではない。

・論理学は、一方が自然神学を、他方が自然法学を形成するところの形而上学と道徳と共に、そのような真理(必然的真理)で満ちているのであり、したがって、それらの証明は生得的と呼ばれるような内的原理にのみ由来し得るのである。

・しかし、諸感官によって機会が与えられるような注意の力で、私達の中に、それら(諸法則)が発見されうるということで十分である。

・動物の(観念の)連合(consécution)は推論の影でしかない。すなわち、これは想像力(imagination)の連結、そして一つの象(image)から別の像への移行でしかない。

・というのは、理性のみが確実な規則を打ち立て得るし、少しも確かではなないような規則に不足しているようなものには、確実な規則に対して例外を設けることにより、(不足を)補うことができ、そしてついには、必然的な結論(結果:conséquence)の力において、ある(確実な)連関、動物が帰されるところの象の感覚可能な連関を試す必要なしに、しばしば出来事を予見する手段を与えるようなものを発見し得るのである。

・さて、反省とは私達の内にあるようなものへの注意に他ならず、諸感覚は私達が既に私達と共に持っているようなものを私達に与えることはないのである。

・そして、これらの対象は直接的であり、私達の知性に対して常に存在(現前)しているので……

・そのような理由で、諸観念と諸真理は傾向(des inclinations)、配置(des dispositions)、習慣(des habitude)、あるいは自然的潜在性(des virtualités)として、私達に生得的なのであって、作用(des actions)として生得的なのではない。とはいえ、これらの潜在性は、しばしば感覚不可能で、それ(この潜在性)に応じるような何らかの諸作用(quelques actions)を常に伴っているのである。

・したがって、私は、彼が私達の認識の二つの源泉、諸感官と反省を認めているのだから、この点に関して、彼の見解は、実際は私の見解、あるいは共通の見解とはことならない、と信じるに至ることができた。

・なぜなら、自然的に(本来的に、本性的に)作用なしの実体はあり得ず、運動なしの物体さえも、決してないのである。

・それ故、この微小表象は考えられていない程、より大きな効果(効力)を持っているのである。

・寄せ集めにおいては明晰だが、諸部分においては混雑している、この「曰くいいがたいもの」、これらの好み、多くの諸感官による(の)象を形成しているのは微小表象である。(私達を)取り巻く物体が私達になすような、無限、各々の存在が宇宙の他の全てのもの共に持っているこの連関(cette liaison)を包むようなこれらの印象を形成しているのも微小表象である。

・これらの微小表象に応じて(の結果として)、現在は未来で満ちており、過去を背負っているということ、全てのものは協働している(ヒポクラテスのいうような「万物同気」)こと、諸実体の最も小さなものにおいて、神の眼と同じほど鋭い眼は、宇宙の諸事物の全ての帰結(結果、実現、列:la suite)を読み取ることができると言うことが、まさに言われ得るのである。

・さらに、その(個体の)現在の状態との連結がなされたとき、これらの感覚不可能な表象は同一の個体を示し、構成している。その個体とは、感覚不可能な表象がこれらの個体の先行状態を保存しているような痕跡によって特徴づけられるのである。これらの感覚不可能な表象は、この個体そのものが、それ(感覚不可能な表象)を感覚しないとき、すなわち、もはやはっきりとした記憶がないとき、上位の精神により識別され得るのである。

・一言でいえば、感覚不可能な表象は自然科学における感覚不可能な粒子と同様に、精神学において、役に立つのである。

2010年6月17日木曜日

「夜」について

conti/nuit/é

もちろんContinuite(連続性)を切断しつつ「nuit」(夜)が現れ出ることをいう言葉である。
日常の連続を打ち破って、底のほうから、なにやらobscure(正体不明)の「夜」が立ち上がってくる。
その「夜」が宇宙への通路なのである。
(『水声通信』黒田アキ p.81)

最近、夜寝ることを拒んでいる。
一つの感情としての「恐怖」が原因である。
なぜ、「恐怖」を抱くのだろうか、何に対して。

夜寝ることを拒んでいるのは、夜が好き、寝る時間がもったいない、
といったこれらの理由によるものではない。
そのことだけは、はっきりと言っておこう。
では、それ以外に「夜」寝ることを拒んでいる、その理由とは何だろうか。
私なりに、ここ数日、そのことを考えるとき、常に頭にあるのは、黒田アキの作品、概念に対する、
小林康夫のコメントであり、上に引用した文章である。

そのことを念頭に置きつつ、話を進めていきたい。

私が「夜」寝ることを拒んでいる、恐怖により拒んでいる理由は、「朝」の到来である。
個人的な体験として、小説、映画、歌詞などで、二人(恋人同士、友人同士、親子は問わない)が、
砂浜に並んで、朝日が昇るのを見つめているシーンは、ほぼ「幸せ」なシーンとして描かれている。
そのようなシーンに対して、「正体不明」の恐怖を秘かに抱いてきた。
家族で行った初日の出、キャンプ場で眠れずに過ごして迎えた朝、夜通し飲み始発に乗り込む時の朝日、
これらには崇高なもの、暖かさを感じつつも、どこかにしこりとして「恐怖」が残っていたことを告白しよう。

では、「なぜ」なのだろうか。
一つとして同じ、そして一般的なる「夜」は存在しない。
それぞれが個別的な「夜」なのであり、どんな日常の平穏な流れの中にあっても、その都度「夜」なのである。
Continuite(連続性)を打ち破るものとして、「夜」が立ち上がってくる。
つまり、日常の連続は、「夜」によって切断される。
しかし、この「夜」による「切断」がなければ、そこに連続性があることを認識できないのではないだろうか。
「夜」が立ち上がることで、そこには「連続性」と「切断」が同時に現れてくることになるのではないだろうか。

そして、私が「恐怖」を抱く場面、つまり朝が訪れる瞬間には、
「夜」が日常を切断するのではなく、逆に「夜」が切断されるのである。
「宇宙への通路」であり、開かれたものとして「夜」が切断される。
こういうことが出来るのならば、「太陽」によって「夜」が日常から引き裂かれるのである。
そして、この瞬間は我々(少なくとも私)が「宇宙への通路」を失う瞬間なのである。

安定した、我々を包み込むような「日常」という大きな連続の中で、
私は「引き裂かれた」感覚、「切断」された感覚を「夜」の終わる瞬間に見てしまうのである。
この感覚は、自らの皮膚を「引き裂かれた」感覚に似たような「恐怖」を、
私の目の前に立ち上がらせるのである。

大切なものを失くした時の、好きな人を失った時の感覚と似ているのではないだろうか。
それらのものは(少なくとも)私にとっては、世界への、「宇宙への通路」のようなものである。
生命を育む、「宇宙への通路」である「夜」が「引き裂かれ」、「切断」される瞬間を、
目撃してしまうのは、個人的な体験として、私に「恐怖」という感情を抱かせる。

空間的な区切りであるならば、私は自らの些細な力によってでも、拒否することが可能である。
そして、自ら空間を「切断」することも可能である。
私たちはある程度の自由度をもって、空間を移動することが出来る。
しかし、時間においてはそうはいかない。私たちは不可逆の時間の中をただ進むしかないのである。
進む、という能動的な行為を行えているのかすら疑わしい。

空間と絶対的に異なる時間において、否応なく、我々にもたらされるこの「切断」を、
私はどのように受け止めるべきか、認めるべきなのだろうか。
少なくとも、それがわからない、今の私にとっては、この「夜」の「切断」は、
「連続性」を生みだし、「連続性」を切断するという二重の意味を持ちつつも、
「切断」の側面ばかりが、強調され、強烈なものとして、私の前に現れているのである。

このように、弱い私にとって、夜は愛しいものでもある。
小さなもの、弱いものが身を隠し、もしくは隠さずとも生きていけるのは、
全てが明らかになってしまう太陽の下において、ではなく、全てに等しく「闇」を与え、
私自身を隠すように包み込んでくれる「夜」において、ではないだろうか。

2010年5月13日木曜日

NE LⅡ C2

第Ⅱ巻 2節 「単純観念について」

P:それ故に私は単純観念と複合観念があるということをあなたが承知してくれることを期待しています。このように、蝋における暖かさと柔らかさと氷における冷たさは諸々の単純観念を供給してくれます。というのも、魂はそこにおいて、様々な諸観念において区別され得ないような一様な概念(conception uniforme)を持つからである。

T:これら可感的観念は見かけにおいては単純であると言われうることを私は信じています。なぜなら、雑然としているので、それら(可感的観念)はそれら(可感的観念)が含むようなものを区別する方法を精神に対して少しも与えることがないからです。
それは丸く現れるような遠い諸事物と同様です。なぜなら、そこにおいて何らかの雑然とした印象は受け取られるとしても、角はそこ(現れとして丸いもの)から見分けられることはないからです。
例えば、緑は青と黄色の混じり合ったものから一度に生じると言うことは明らかである。同様に、緑の観念はこの二つの観念(青の観念と黄色の観念)が複合したものであるということも信じられ得る。
そして、それにもかかわらず、緑の観念は青の観念、あるいは熱さの観念と同じくらい単純に我々に現れるのである。
この青の観念と熱さの観念は現れにおいてのみ同様に単純だということは信じられるべきである。それにもかかわらず、私はこの単純なものという諸観念が扱われることに容易に同意する。なぜなら、少なくとも我々の統覚(apperception)はこれら(諸々の単純観念)を分離することは出来ず、それら(諸々の単純観念)がより理解可能なものになるのに応じて、他の経験と理性によりそれらの分析に至らなければならないのです。


P=フィラレート(ロック)
T=テオフィル(ライプニッツ)

あげてみたのは良いものの、恥ずかしい……
ご指摘があればコメントをお願いします。

2010年5月11日火曜日

部分訳

この説が導入する実体の諸々の統一性において、そして原初的実体によるそれら(諸事物)の予定調和において、私は諸事物の諸々の真の原理を発見する。そこにおいて私は驚くべき単一性と一様性を発見する。従って、完全性の程度を除けば、常に至る所で同じことである。(p. 56)


要するに、私が動物の諸々の魂とそれらの感覚がいかに人間の諸々の魂の不死性を少しも損なうことがないのか、あるいはむしろあらゆる魂が不死であると理解すること以上に私達の自然的不死を確立し得るものはどうしてないのかと私が理解したのはこの説について熟考したからである。それにもかかわらず、危惧すべき輪廻があるということはない。なぜなら、諸々の魂だけではなく、さらに動物も生きたままであり、感覚したままであり、活動したままであるし、あり続けるでしょう。既にあなたに言ったことに従えば、至る所でここと同じであり、どこでも常に私達においてと同じである。(p. 57)


ライプニッツ『人間知性新論』の第一章の部分訳です。
論文に関係あるとかではなく、単に気になった箇所です。
ページ数はブラウンシュビック版のものです。

2010年4月16日金曜日

実感なきまま

実感なきまま日常は進む。
いや、むしろ日常生活の方が実感というものを感じ取れるのではないだろうか。
不勉強さ、労働、満腹感……何かを現実として感じ取ること、
それはやはり日常の強みというのではないだろうか。

そこに「非日常的な出来事」つまり「事件」と名付けるならば、
「事件」はその強烈さゆえに、その駆け抜けるスピードの速さゆえに、
「実感」を感じさせることはない。

「事件」は云々……


修論を来年書くにしても、テーマは早いうちに決めたほうがよい。
それは私が読解に必要な力が人より劣るからである。
劣ることを言い訳にはできないし、そこに胡坐をかくのも駄目である。
今年は血反吐を吐くくらい出来たら良いなと思うし、力、語学力が何よりも課題なのは当の前にわかっている。
わかっていることを実行しないのは愚の骨頂であるだろう。

今年の努力次第であるが、修論のテーマを考えてみた。

表向きは「ライプニッツの観念、認識」のあたりで書きたいということになっているが、
実際は「ライプニッツにおける天使の身体とは」ということについて書きたい。

そう、ふと思った。

2010年2月6日土曜日

レポート[後期]3

スピノザ『エチカ』第二部定義4について

 スピノザは『エチカ』第二部定義4において「十全な観念 とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する」 と記している。ここでスピノザが示そうとしている「十全な観念」とはどのようなものなのだろうか。
 まず、引用文中にある「真の観念」についてスピノザは第一部公理6で「真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならぬ」 としている。では、観念と対象の一致とはどういうことだろうか。
 第二部定理7において「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一」であることを第一部公理4より証明している。さらに備考において「思惟する実体と延長した実体は同一の実体」であるので、同様にして「延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されている」だけであるとしている。つまり「思惟する実体と延長した実体」および「延長の様態とその様態の観念」はそれぞれ「同型性」 をもっていることになる。
 この「同型性」は人間精神と人間身体についても当てはめることが出来る。第二部定理11においてまずは人間精神を構成する最初のものは「現実に存在するある個物の観念」であると述べたうえで、第二部定理13において「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」のである。つまり第二部公理4により我々は身体が様々な仕方で刺激されることを感じているが、もし身体が人間精神の対象でないとしたら「身体の変状の観念」が人間精神の中にないことが「同型性」によりわかる。なので「身体の変状の観念」があるということは人間精神の対象は「現実に存在する身体」であるということになる。
 しかし、「身体の変状の観念」よってのみ人間精神は自らの身体と外部の物体を現実に存在するものとして知覚しており、さらにそれらの本性を含んではいるが「十全な認識」を含んでいないのである。スピノザの「認識」についてドゥルーズは「観念の自己定立、観念の「開展」すなわり発展」であるとしている 。「身体の変状の観念」によって得られる認識は「非十全な認識」であり、その認識を構成している観念は「非十全な観念」であるということが言えるだろう。
 では十全ないしは非十全な観念を含む十全ないしは非十全な認識の区別を手掛かりにして、両者の区別を行うことにする。
 第二部定理25、27においてスピノザが「人間身体のおのおのの変状の観念」は外部の物体についても、人間身体そのものについても「十全な認識」を含んでいないというとき、第二部定理28で述べているように「単に人間精神に関連している限り」において「十全な認識」ではなく「混乱したもの」となっている。というのも、外部の物体の、そして人間身体(を組織する部分)の「十全な認識」は「神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中にある」ので、原因としての神へ辿り着くには他の多くの観念をさかのぼっていくという作業が無限に続き、人間精神に関連している場合にはこの観念の無限連鎖の一部しか知覚できず、「前提のない結論のようなもの」であり「混乱した観念」である、とスピノザは結論付けている。
 では、なぜこのような無限連鎖は「前提のない結論のようなもの」であり「混乱した観念」であるのか。第二部定理29の系においてスピノザは自らの身体、外部の物体について「十全な認識」を持ち得ない場合として「自然の共通の秩序に従って知覚する場合」を挙げている。この場合は「自然的条件」の下での知覚する場合、「外部から決定さ」れた場合であり、「物との偶然的接触に基づいて」知覚する場合である。外部から決定された場合については第二部定理40の備考2にいて説明されている。そこにおいては我々が多くのものを知覚する手段が記されており、「非十全な認識」は「第一種の認識」に由来する。つまりは感覚と記号による認識であり、これは「表象」と呼ばれる。そして第二部定理26の系の証明において「人間精神がその身体の変状の観念により外部の物体を考察する時、我々は精神が物を表象すると言う。……精神は外部の物体を表象する限りその十全な認識を有しえない」としている。「表象」や「第一種の認識」は観念の無限連鎖が起こるために、人間精神はそれを「前提のない結論のようなもの」としてしか認識できず、このような場合「人間精神が物を部分的にあるいは非十全的に知覚する」のである。
 つまり「非十全な観念」とは「標徴〔記号〕としての観念」であり、「おのずから開展〔=説明〕」されるのではなく、外部の物体との偶然的接触による身体の変状により開展=説明される。そして標徴=記号として「私たちの現在」、「痕跡からのがれられない私たちの無力」、外部の物体の現前、そして外部の物体が「私たちにもたらす結果」を「指示しているにすぎない」のである。
 では、「十全な認識」、「十全な観念」とは、を考えるために、まずは認識(第二種、第三種の認識)について述べることにする。なぜなら、「第二種の認識(=「理性」)」と「第三種の認識(=「直観知」)」はどちらも「十全な観念」を含んでいるからである。
 この二つの認識は先に見たように「第一種の認識」は「非十全な観念」しか含んでいないのに対して、「十全な観念」を含んでいるという点において区別され、必然的に真であり、真偽の区別を我々に教えてくれるものである。「第二種の認識」と「第三種の認識」は真偽の区別、「真なるものと偽なるもの」についての「十全な観念」を含んでいるからである。では、「第二種の認識」と「第三種の認識」はどのように区別されるのだろうか。
 「第二種の認識」は「共通概念」あるいは「十全な観念」を有しているものである。「共通概念」については第二部定理37において「すべてのものに共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるもの」であり、「決して個物の本質を構成しない」ものであるとしている。「共通概念」とはドゥルーズが「まずそれが身体または物体相互に共通ななにかを表すところからきている」と指摘しているように参照箇所として「補助定理2」が挙げられている。「共通概念」がなぜ「個物の本質」を構成しないのかについてはスピノザ指定しているように第二部定義2を見れば明らかである。
 第二部において「第三種の認識」については「我々はこれを直観知と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質の十全な観念から事物の本質の十全な認識へ進むもの」とだけ記されている。
 「非十全な認識」と「十全な認識」の違いは「非十全な観念」を含んでいるか「十全な観念」を含んでいるかである。「第二種の認識」である「理性」においてその機能として与えられているのは第二部定理44における「事物を偶然としてではなく必然として観想すること」であり、同定理の系1において事物を「偶然として観想する」ことは「第一種の認識」である「表象」にのみ依存しているとある。つまり「十全な観念」の有無で区別される「第一種の認識」と「第二種の認識」の違いは事物を偶然として観想するか、必然として観想するかである。感覚、記号による漠然たる経験、知性による秩序づけのない「記憶や習慣の秩序」にしたがった認識、つまり「事物を偶然として」観想するのではなく、事物を「必然として」観想する、必然性の認識である。必然性の認識とは「記憶や習慣の秩序」にしたがい連鎖、連結を形作る「非十全な観念」として事物を認識すること、特に事物を時間に関して偶然なものとして「表象」するのではなく、「永遠の相のもとに知覚する」こと、つまり「それ自身においてあるとおりに」知覚することである。事物の必然性の認識は、第一部定理16によりそこから「無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならぬ」ものである「神の本性の必然性」の認識に他ならないからである。
 ここでもう一度、第二部定義4を確認し、論を「十全な観念」に戻していきたい。「十全な観念とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことである」とされている。「真の観念」のように対象と一致しているだけでは「十全な観念」ではなく、「それ自体で考察され」なければならない。ここで「それ自体で」考察されるとは先にみた「それ自身においてあるとおりに」ということである。さらに「真の観念の特質」を有しているのだから、第一部公理6における「真の観念」と同様に対象と一致していなければならない。しかし、スピノザは「十全な観念」に関して「外的」ではなく「内的」であることを強調しているならば、対象との一致についても「内的」であるはずだ。対象との一致と言った場合に第二部定理7が思い出される。つまり「延長の様態とその様態の観念」の一致、つまり「延長属性と思惟属性」の「同型性」である。この場合、「延長の様態とその様態の観念」は「同一の必然性」をもって生じている。
 我々の持ち得る観念は「延長の様態の観念」だけではない。第二部定理20、21において説明されているように現実に存在する身体を対象とした観念により構成される人間精神の観念、つまり「観念の観念」もある。「十全な観念」が「真の観念の特質」を有している限り、対象と一致しなければならないので、神の中にある「観念」とその観念つまり「観念の観念」も一致していなければならない。第二部定理43の証明においてスピノザは観念Aの例を持ち出す 。第二部定理21の備考より「精神の観念と精神自身は同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずる」である。これは「延長の様態とその様態の観念」のときと同様に「同一の必然性」をもって生じている。つまり「精神の観念と精神自身」は「観念とその対象」として一致している。つまり「真の観念の特質」を有している。そして、「精神の観念と精神自身」は同一属性において考えられているので、「それ自体で」考察されている。
 「真の観念」が対象と一致している観念である時、二通りの一致が考えられるのではないか。一つは「延長属性と思惟属性」での一致であり、他方は「思惟属性同士」での一致である。後者において「人間精神の本性によって説明される限りにおいて」神に帰すことのできる観念が「十全な観念」であるのではないか。そして、「十全な観念」は必然的に真である認識を特徴づけるものであるというが出来るのではないだろうか。






参考文献
スピノザ 『エチカ』(上巻) 岩波文庫、1951
G・ドゥルーズ 『スピノザ 実践の哲学』 平凡社、2002
上野修 『スピノザの世界 神あるいは自然』 講談社現代新書、2005
ピエール=フランソワ・モロー 『スピノザ入門』 白水社、2008
小林道夫(責任編集) 『哲学の歴史』(第5巻) 中央公論社、2007
 松田克進「スピノザ」参照

2010年1月22日金曜日

レポート[後期] 2

権力について――図表的モデルとオートポイエーシス・システムを手がかりに

M・セールはその著書である『自然契約』の中で「権力」について「どこにも反対勢力が見当たらないような決定機関を私は権力を呼ぶ」としている。具体的にセールは「どこにも反対勢力が見当たらないような決定機関」として「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」を挙げている。一体、何故上に挙げた三種類の人々はセールが指摘するような意味において「権力」と呼ばれうるのだろうか。
 まずセールは「そもそも彼らはどこで生きているのか」を問う。そして彼らの生活環境として実験室、役所、スタジオを挙げている。これら三つの環境はそれぞれ屋内を指している。屋内、それはセールが指摘するフランス語の「temps」の二つの意味――「流れ去ってゆく時間」と「空模様の天候」――において前者を掌握し、後者に裁定や決定を下そうとしており、天候としての「temps」が絶対に仕事に影響を及ぼさないような場所のことである。
 しかし、セールの詩的な文章のために、そして『自然契約』が自然とのある種の調和の締結を呼びかける内容であるために、ここで扱おうとしている「権力」について述べようとするには抽象的であり、不十分なように思われる。
 ここでようやく本題に話の内容を移すことにしよう。後期授業でフーコー、ドゥルーズそれぞれの視点から権力についての講義がなされたが、授業を通して一つの疑問が浮かんだ。それは多くの場面に関して権力や権力者などと言われているが、様々な分野(法律、経済、社会など)において共通の、もしくはそれぞれの分野に対して横断的な「権力」というものがあるのだろうか、というものである。この疑問について前期のレポートであるかったセールの図表的モデルとオートポイエーシス・システムを参考にして考えてみたいと思おう。そして先ほどあげたセールが「権力」として考えている三つの決定機関である「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」の特徴の「屋内」ということにそれぞれふたつのモデルから注目し、考察していくことにする。
 まず、図表的モデルの視点から考えてみることにしたい。注目すべき点は先ほどあげた「屋内」ということと「反対勢力が見当たらないような」ということである。ここでは最初に「反対勢力が見当たらないような」ということについてこれを「付け入る隙がない」というように受け取る。つまり、一つのモデルとして図表的モデルを用いるとき、頂点同士を線により結び付けるとき、他の線に余地を与えないような、そして他の頂点に対しても余地を与えていないようなモデルを考えることが必要である。決定された線に対して「反対勢力の見当たらないような」線とは頂点を結び付ける際に最も短い距離をとる線のことである。全てが最短距離をとるとは限らないとしても各々の線が最短距離もしくは限りなくそれに近いような線であることが求められる。さらに頂点同士は重なることなく密集しており、他の頂点があとから介在する余地を与えていないようなモデルが求められる。そしてこれらの線と頂点により形成された一つの図表的モデルは同時に一つの閉鎖性を示している必要がある。この図表的モデルが示している閉鎖性はセールが述べている「反対勢力が見当たらないような決定機関」の特徴である「屋内」ということに比喩としてイメージを譲る。このモデルにおいて諸線、諸頂点の配置やその密度などを決定するのは言表である。この言表は普通のものではなく特権的なつまり「学者、行政府の役人、ジャーナリスト」の発言、論文、発表などである。彼らの言表は高密度の図表的モデルにおいてさらにその権力を増していくような役割を果たしている。
以上において、権力を俯瞰的に観たつもりではあるがこれでは横断的な「権力」があるのか、という私自身の疑問には何ら答えたことにはならない。そこで、オートポイエーシス・システムに論の中心を譲ることにして、考察したい。始めにオートポイエーシス・システムについて簡単に説明し、そこで説明されたシステムを実際に「権力」という枠組みの中で適応させていくことにする。
オートポイエーシス・システムの定義についてはマトゥラーナ、ヴァレラの著書である『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』引用したい。「オートポイエーシス・システムとは、構成素が構成素を産出するという産出(変形及び破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである」 としている 。ここで「有機的に」とされているがマトゥラーナ、ヴァレラが神経システムを念頭に置いていただけであり、システム論として考えるならば「構成素が構成素を産出する」ということが第一条件となってくる。システムと構成素の間には産出=産物の関係が成り立っており、どちらも産出するものであり産出されたものである。オートポイエーシス・システムにおいてはこの循環が重要となってくる。産出=産物の関係が循環することにより、円環状のシステムを形成し、その円環状のシステムによりつまりシステムが作動した結果として「境界」を「みずからの作動の範囲を区切り、みずから自身によって規定する」 のである。システムが作動し、作動が円環状になることによって初めて「境界」が出現するのであり、境界はあらかじめ導入されているものではなく、行為(作動)することにより帰結してくるのである。
構成素は構成素を産出するが、まったく異なる構成素を産出することは出来ない。例えば社会における構成素をコミュニケーションとするならば、コミュニケーションは別なコミュニケーションを新たな構成素として産出する。「コミュニケーションはコミュニケーションの連鎖として固有の位相領域を作」るのである。つまりシステムにおいて構成素が異なれば、それはもう全く別のシステムなのである。
以上でオートポイエーシス・システムについての大まかな説明に区切りをつけて、実際にこのシステムモデルを用いて「権力」について考察したい。まずは自身の疑問点として挙げた「横断的な権力」は存在するのか、に対して返答したい。私の答えは「ない」である。例えば経済、法律、学問などが同一領域に存在しているのならば、それらを横断するような「権力」を認めることは出来るだろうが、それらにおいて構成素が同一ということはなくシステムが異なることになり、別々の位相領域を各々が構成していることになる。しかし、だからと言って「横断的な権力」がないと結論付けるにはすこし早い気もする。なぜなら、一つのシステムに対して他のシステムはその「環境」として存在しており、影響を与える、及ぼす状態(「浸透」)の状態を認めることが出来る。しかし、ここではあえて「ない」として話を進めることにする。なぜならオートポイエーシス・システムが作動することによって初めて存在する(「行為存在論」的である)ように、あらかじめ措定されたような「権力」の有無が問題となるのではなく、「権力」においても作動しているか、効力、影響力を与えているのかということが問題となるはずである。なぜなら、その力を振るっていない「権力」は存在していないようなものだからだ。
再びここで「権力」の話からシステムの話に中心を移してもう一度「権力」について考えるための準備をする。ここでなぜ戻るかと言うと初めに引用したセールの文章に対して検討をしていきたいと思うからだ。図表的モデルでもその閉鎖性とセールが「反対勢力が見当たらないような決定機関」と屋内(=閉鎖性)を関連付けたことを考えると、このオートポイエーシス・システムに対しても閉鎖性つまり屋内であるということが当てはるかどうかを検討したい。
まず思い出してもらいたいが、オートポイエーシス・システムはその円環状の作動により一つの閉域を作り出すシステムであるのである種の閉鎖性をもっている。しかし、河本が注意を促すのは閉域があるからと言って内部・外部の関係における入力・出力ということは成り立たない、ということである。このシステム論においては産出ということと、外からの刺激に対する作用とは明確に区別されなくてはならないのである。つまり、オートポイエーシス・システムは観測者の視点を排除して「自分の構成要素を産出するという産出作動の循環のうちからみる限り、システムはただひたすらみずからの構成要素を産出し、その構成要素がシステムを構成し、そしてさらにシステムが構成要素を産出するという循環を繰り返すだけである」 。そうなると、閉鎖性は産出作動の循環による単なる結果により生じたものでしかない。だが、システムにおいて閉鎖性があるということはシステムが作動しているということであり、作動しているということは閉域を作り出すということである。この閉域を法律、経済、学問などの領域として考えることが出来るとなると、「権力」が閉鎖性(セールの言う天候から切り離されたという意味での「屋内」)を前提としているならば、「権力」があるつまり作動しているというためにはシステムの作動自体が前提されなければならない。つまりシステムが産出作動の循環として作動し、閉域(閉鎖性)が生じた結果として「権力」が発生する。
個々の領域においてもこのシステムは非常に柔軟であり、応用がきく。経済、法律、学問などの領域において同様にしてそれぞれの閉域(閉鎖性)が発生してセールの言う「権力」の条件ともいえる天候から切り離されているという意味での「屋内」が生まれる。この別々の領域において同様に作動システムがあるので、同様の作用として閉域から発生してくるものとしての「権力」を我々は横断的なものとして考えているのではないだろうか。オートポイエーシス・システムの作動は閉域の発生を介して「権力」を発生させる。ここではオートポイエーシス・システムがその境界を作動によって初めて示すように、「権力」もその作動によって初めて「ある」ということが出来るのである。
最後にもう一度、一つのシステムはその環境との「浸透」しあっている、つまり「相互浸透」状態により密接に関わり合いながら作動している(「連動」している)という状況を考えるならば、「横断的な権力」を考えることが出来るだろうが、ではそもそも「権力」というものはどのようにして生じてくるのかを問わなければならない。今回はその生じてくる場面をセールの文章における「屋内」ということをヒントに図表的モデル、オートポイエーシス・システムを用いて法律、経済、学問など一つの場面を想定しながら捉えようと試みた。私はやはり「静止した権力」はなく「権力」は常に作用しているものだと思う。





参考文献
M・セール 『自然契約』 法政大学出版局(1994)
河本英夫 『オートポイエーシス 第三世代システム』青土社(1995)
H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ
『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』国交社(1991)