本日の授業にて「パノプティコン」の名が挙がった。
細かな話は夢うつつであったので覚えていないということにする。
石田衣良『うつくしい子ども』に出てくる学校の構造がイメージする限り、
「パノプティコン」である。
(小学校だったので)6学年にそれぞれ4クラスあると仮定する。
クラス毎にA~Dまでのアルファベットをふる。
1年~6年までのAクラス、1年~6年までのBクラス…とDクラスまで振り分け、
AクラスはA棟、BクラスはB棟…と同様に振り分ける。
各クラスは同学年であっても交流が最小限になるようにするため、
それぞれの棟の行き来が出来ないようにする。
もし、行き来をする場合は中の教員棟を通過しなければならない。
これだけではさっぱりなのでもう一つ『ハリー・ポッター』を持ち出す。
『ハリー・ポッター』でも寮同志の交流は授業、食事など最小限に留められており、
同学年の横の繋がりよりも、縦の繋がりの方が強い。
ここでは各寮の関係は競争相手、つまり敵対関係にある。
なぜ、同じ学校内であるのにも関わらず敵対関係にあるのだろうか。
彼らは寮対抗で年間の優秀な寮を決める、という戦いの中におかれている。
一人の生活態度、成績などが点数の加減に関わってくるのである。
悪い態度をとったと判断された場合は減点となり、逆は加点となる。
ここでは生活の規範を守るか否かということが点数の加減に関わっている。
彼らホグワーツで生活している生徒寮の為に規範を守るべきものとして強制されている。
このとき、見つからなければと悪戯するものがいるがそれは極めて少数派であり、
大半は常に規範を守って生活するようになっている。
このとき、彼らの中では「見ている」という点数の判断をする教師の見えざる権力を
知らず知らずのうちに自らと密接なものとして内面化しているのである。
見えざる権力を内面化することを前提として、彼らの生活は行われるが、
それをごまかす要素としての得点制を導入し、ゲーム感覚を装うことにより、
この内面化はより強固なものとなるが、それは知らず知らずのうちに行われていることである。
2009年11月6日金曜日
2009年9月9日水曜日
体を引きずりながら
実際、引きずられているのは心の方だ。
今まで、すっきりと別れたことがなく、その都度、引きずるものが増える。
友人、先輩と会話したい気がするが、したくない気もする。
ライプニッツ、西田幾多郎、M・セールは好きで研究したいが、
勉強は苦手である。
好きだから努力とはいわないだろう。
それにしても、引きずっているものが多い気がする。
それを気づかれないようにしていると、自分にいくつもの役を課しているので、
どの役で、誰に接すれば良いか判断するので、自分は多面的である。
「自分探し」をしきりに叫ぶ学部に在籍していたし、
それを声高に叫び、半ば強制的にこちらにも要求してくるような人々もいた。
こうやっていろいろなものを引きずり、
必要以上にそれぞれを重大な事のようにみている。
だから、動かなくなったのだと思う。
今まで、すっきりと別れたことがなく、その都度、引きずるものが増える。
友人、先輩と会話したい気がするが、したくない気もする。
ライプニッツ、西田幾多郎、M・セールは好きで研究したいが、
勉強は苦手である。
好きだから努力とはいわないだろう。
それにしても、引きずっているものが多い気がする。
それを気づかれないようにしていると、自分にいくつもの役を課しているので、
どの役で、誰に接すれば良いか判断するので、自分は多面的である。
「自分探し」をしきりに叫ぶ学部に在籍していたし、
それを声高に叫び、半ば強制的にこちらにも要求してくるような人々もいた。
こうやっていろいろなものを引きずり、
必要以上にそれぞれを重大な事のようにみている。
だから、動かなくなったのだと思う。
2009年9月7日月曜日
距離の問題
最初に言っておくが、別に数学の話ではない。
「距離=数学」の発想は数学嫌いの発想かもしれない。
最近、友人、後輩との会話でよく出てくる話について少し書きたい。
「好きには好きの悩みがある」
とても贅沢な、幸せな悩みかもしれないが、
悩みである以上、悶々としたり、悩むことの苦痛もある。
好きでやってきたこととの距離をようやく3年ほどたった今、ふと考えだした。
むしろ、他のやりたいこと、やらなければならないこと、そして一番好きなこと。
この3つとの関わり方(距離感)にふと悩んでみた。
「少し書きたい」と言いつつも、いざ文章で説明するのも難しい。
とにかく言いたいのは「好きには好きの悩みがある」ということだ。
もう一つは人との距離感である。
学校が休みのせいか、日常の会話が激減。人と話をするのに緊張する。
話し始めなど、何を話して良いのか悩む。
話をふってもらえればしゃべりだすが、一旦しゃべりだすとものすごい勢いでしゃべる。
特に自分の好きな分野に関しては、ほっておいてもしゃべり続ける。
後は単純に友人、先輩との距離感である。
結局それがわからなくなり、6,7月は勉強会にもいかなくなった。
そんな状況を未だに引きずっている。
書きたかったことはとりあえずこんな感じである。
一番良くない書きっぱなしであるが、書いている本人がよくわかっていないのでしょうがない。
「距離=数学」の発想は数学嫌いの発想かもしれない。
最近、友人、後輩との会話でよく出てくる話について少し書きたい。
「好きには好きの悩みがある」
とても贅沢な、幸せな悩みかもしれないが、
悩みである以上、悶々としたり、悩むことの苦痛もある。
好きでやってきたこととの距離をようやく3年ほどたった今、ふと考えだした。
むしろ、他のやりたいこと、やらなければならないこと、そして一番好きなこと。
この3つとの関わり方(距離感)にふと悩んでみた。
「少し書きたい」と言いつつも、いざ文章で説明するのも難しい。
とにかく言いたいのは「好きには好きの悩みがある」ということだ。
もう一つは人との距離感である。
学校が休みのせいか、日常の会話が激減。人と話をするのに緊張する。
話し始めなど、何を話して良いのか悩む。
話をふってもらえればしゃべりだすが、一旦しゃべりだすとものすごい勢いでしゃべる。
特に自分の好きな分野に関しては、ほっておいてもしゃべり続ける。
後は単純に友人、先輩との距離感である。
結局それがわからなくなり、6,7月は勉強会にもいかなくなった。
そんな状況を未だに引きずっている。
書きたかったことはとりあえずこんな感じである。
一番良くない書きっぱなしであるが、書いている本人がよくわかっていないのでしょうがない。
2009年8月20日木曜日
無題
俺は絶望したのだよ。世界にか?自分にか?
何に絶望したのか、それは問題ではないのだよ。
いや待て、問題かもしれない。考えてみるとするか。どうせ時間はあるのだ。それこそ絶望するくらい。
俺は若い頃は世界に絶望していた。今の状況を見ればわかるだろ?
内紛やテロみたいな表面化した暴力は絶えないし、経済格差なんてものや、見えない暴力なんてものがテレビに画面から滲み出てその辺に蔓延しているだろ?
ましてや俺はゲバラやレーニン、マルクスなんかが好きなんだ。大して読んだこともないが、好きなんだ。
だが、彼らほど世界つまり今の現状を打破し、改善しようとする意志がない。自分にそんな力がないことを悟った気でいたもんだ。
でも、興味はあったんだ。意志や力とは全く違うが、知りたいと思ってたんだ。だって、宗教や戦争について学んだ知識をしゃべっている知識人はカッコよく見えるだろう?
だから、俺も勉強したかったんだ。特に宗教に興味があったんだ。「俺、宗教について勉強してるんだ」って言ったらカッコよく聞こえるだろ?ついでに俺も3割増しくらいでかっこよく見えればと思ってたんだ。至って不純な動機だよ。本当に苦しんでいるって言われてる人たちを食い物にしようとしてたんだからな。
実際に少しかじった。結局は哲学を勉強してるし、これからも続けたいって思ってんだ。
あくまで自分の欲求に従ったまでだよ。だから、人の為とか、平和云々みたいな大層なものはない。何て言ったっけ、そうだ、大義名分ってやつはないよ。
もう3年近くねちねち考えているんだが、今度は世界じゃなく自分に絶望している気がするんだ。
結局は自分への絶望に気づきたくないから、世界の悲惨な状況のせいにしてただけな気がし出したんだ。
「こんな時代に生まれた自分はかわいそうだ」ってことにしてしまえば、楽だもんな。
もし、自分への絶望みたいなもんに気づいていたら俺は5、6年前には確実に死んでただろうからね。
うまいこと責任転嫁してたんだよ。自己保存に本能がうまく向いていたんだろうな。
でも、今の状態はもっとひどいもんだよ。自分なり世界に絶望してんじゃなく、自分とか世界を嫌悪してんだから悲惨さ。俺自身を殺すほどの力も持ってなければ、明るさで満ちている生を歩かせてくれるほどの力も持ってないんだから。そうだな、空中ブランコみたいなもんだよ。常に重力によって下に引っ張られているが、ブランコと自分の筋肉を使ってそれに逆らって飛ぼうとしてるようなもんだってことだよ。
個性だ、アイデンティティとか言われてるから余計に自分を嫌悪してんだろうな。けど、そんなもんはあるのかい?俺にはよくわからん。最近の関心は体系や形式ってことだからな。それ自体に意味はなく、点と線でつくられる一つの状況によって与えられるもんだからな。
結局は自分に絶望することも世界に絶望することもおなじことなんだろうよ。
自己の外部化したやつが世界みたいなもんだろうし、世界を内部化したもんが自己みたいなもんだろう、って思ってんだ。
これが、今考えてる一応の結論だ、どうだ?
「お前はいろいろぼかして話しているが、そもそもお前に言っている「絶望」ってやつはどんなものなんだい?」
それには俺は答えられない。
俺が考えてたのは俺が絶望しているのは自分に対してなのか、世界に対してなのかだからな。
でも、最近読んでる本で面白いことを書いてる奴がいたんだよ。
ヘンリー・ミラーって奴の『北回帰線』って本の一節で奴は絶対の絶望に目覚めて救われたってかいてあったんだよ。変な奴だよ。でも、奴は「生 Life」に執着してたらしいってのが気に入ってんだよ。
何に絶望したのか、それは問題ではないのだよ。
いや待て、問題かもしれない。考えてみるとするか。どうせ時間はあるのだ。それこそ絶望するくらい。
俺は若い頃は世界に絶望していた。今の状況を見ればわかるだろ?
内紛やテロみたいな表面化した暴力は絶えないし、経済格差なんてものや、見えない暴力なんてものがテレビに画面から滲み出てその辺に蔓延しているだろ?
ましてや俺はゲバラやレーニン、マルクスなんかが好きなんだ。大して読んだこともないが、好きなんだ。
だが、彼らほど世界つまり今の現状を打破し、改善しようとする意志がない。自分にそんな力がないことを悟った気でいたもんだ。
でも、興味はあったんだ。意志や力とは全く違うが、知りたいと思ってたんだ。だって、宗教や戦争について学んだ知識をしゃべっている知識人はカッコよく見えるだろう?
だから、俺も勉強したかったんだ。特に宗教に興味があったんだ。「俺、宗教について勉強してるんだ」って言ったらカッコよく聞こえるだろ?ついでに俺も3割増しくらいでかっこよく見えればと思ってたんだ。至って不純な動機だよ。本当に苦しんでいるって言われてる人たちを食い物にしようとしてたんだからな。
実際に少しかじった。結局は哲学を勉強してるし、これからも続けたいって思ってんだ。
あくまで自分の欲求に従ったまでだよ。だから、人の為とか、平和云々みたいな大層なものはない。何て言ったっけ、そうだ、大義名分ってやつはないよ。
もう3年近くねちねち考えているんだが、今度は世界じゃなく自分に絶望している気がするんだ。
結局は自分への絶望に気づきたくないから、世界の悲惨な状況のせいにしてただけな気がし出したんだ。
「こんな時代に生まれた自分はかわいそうだ」ってことにしてしまえば、楽だもんな。
もし、自分への絶望みたいなもんに気づいていたら俺は5、6年前には確実に死んでただろうからね。
うまいこと責任転嫁してたんだよ。自己保存に本能がうまく向いていたんだろうな。
でも、今の状態はもっとひどいもんだよ。自分なり世界に絶望してんじゃなく、自分とか世界を嫌悪してんだから悲惨さ。俺自身を殺すほどの力も持ってなければ、明るさで満ちている生を歩かせてくれるほどの力も持ってないんだから。そうだな、空中ブランコみたいなもんだよ。常に重力によって下に引っ張られているが、ブランコと自分の筋肉を使ってそれに逆らって飛ぼうとしてるようなもんだってことだよ。
個性だ、アイデンティティとか言われてるから余計に自分を嫌悪してんだろうな。けど、そんなもんはあるのかい?俺にはよくわからん。最近の関心は体系や形式ってことだからな。それ自体に意味はなく、点と線でつくられる一つの状況によって与えられるもんだからな。
結局は自分に絶望することも世界に絶望することもおなじことなんだろうよ。
自己の外部化したやつが世界みたいなもんだろうし、世界を内部化したもんが自己みたいなもんだろう、って思ってんだ。
これが、今考えてる一応の結論だ、どうだ?
「お前はいろいろぼかして話しているが、そもそもお前に言っている「絶望」ってやつはどんなものなんだい?」
それには俺は答えられない。
俺が考えてたのは俺が絶望しているのは自分に対してなのか、世界に対してなのかだからな。
でも、最近読んでる本で面白いことを書いてる奴がいたんだよ。
ヘンリー・ミラーって奴の『北回帰線』って本の一節で奴は絶対の絶望に目覚めて救われたってかいてあったんだよ。変な奴だよ。でも、奴は「生 Life」に執着してたらしいってのが気に入ってんだよ。
2009年7月28日火曜日
国外退去
1週間ほど実家に帰省していました。
妹が高3で最後の大会なので、応援に行きました。
(妹は野球部のマネージャーですが……)
気づけばベスト8です。
東海地方はまだ梅雨は明けておらず、
試合は度々順延となっており、大変なようです。
それはさておき、
中学時代の友人に会い、特に仲の良くない同級生たちの話を聞きました。
気づけば結婚、出産、離婚。
これだから田舎は嫌である。
することが他にないのであろう。
地元は好きだし、田舎は好きである。
なにせ18年間、がっつり育ってきたのだから当然かもしれない。
しかし、同級生の話を聞くと吐き気がする。
22歳で家庭を持つって……子供がいるって……
きっと、すごいことなのだろう……
自分が半ば諦めていることを嫌悪してきた奴らが手に入れているのかと思うと、腹が立つ。
若くしての結婚については「田舎にはすることがない」というのが一般的だろう。
ないなら、東京なり、京都なりに出れば良いだけの話である。
そんなことをイライラ考えながら、東京へ戻ってきた。
しかし、東京は東京で吐き気を覚える。
食事は相変わらずだし、夏バテ、日にあたったのが原因かもしれない。
実家、地元だけではなく日本にいるのも嫌になりつつある。
嫌になったので、なんか海に飛び込みたくなったがあいにく近くに海はない。残念。
勉強頑張って早く海外に行きたい。
そんなことを言えば、先輩はふざけて「就労ビザ切れてないの?」とか、
「不法入国だろ?」というだろう……
妹が高3で最後の大会なので、応援に行きました。
(妹は野球部のマネージャーですが……)
気づけばベスト8です。
東海地方はまだ梅雨は明けておらず、
試合は度々順延となっており、大変なようです。
それはさておき、
中学時代の友人に会い、特に仲の良くない同級生たちの話を聞きました。
気づけば結婚、出産、離婚。
これだから田舎は嫌である。
することが他にないのであろう。
地元は好きだし、田舎は好きである。
なにせ18年間、がっつり育ってきたのだから当然かもしれない。
しかし、同級生の話を聞くと吐き気がする。
22歳で家庭を持つって……子供がいるって……
きっと、すごいことなのだろう……
自分が半ば諦めていることを嫌悪してきた奴らが手に入れているのかと思うと、腹が立つ。
若くしての結婚については「田舎にはすることがない」というのが一般的だろう。
ないなら、東京なり、京都なりに出れば良いだけの話である。
そんなことをイライラ考えながら、東京へ戻ってきた。
しかし、東京は東京で吐き気を覚える。
食事は相変わらずだし、夏バテ、日にあたったのが原因かもしれない。
実家、地元だけではなく日本にいるのも嫌になりつつある。
嫌になったので、なんか海に飛び込みたくなったがあいにく近くに海はない。残念。
勉強頑張って早く海外に行きたい。
そんなことを言えば、先輩はふざけて「就労ビザ切れてないの?」とか、
「不法入国だろ?」というだろう……
2009年7月18日土曜日
見送り
「行ってきます」
小、中、高に通った12年間、僕は家族に向かって言っていた。
何気ない挨拶だが、この一言で父はネクタイを結びながら「気を付けてな」の一言を、
母は「忘れ物は?」の一言を、祖父母は「行ってらっしゃい」の一言をそれぞれが僕に言う。
本当に何気ない挨拶である。学校で友人に会い「おはよう」と言うようなものである。
意味のない形式的なものかもしれない。
出かける際の「行ってきます」を意識したのは中学に上がったばかりのころである。
ある事件をきっかけに1週間ではあるが不登校になった。
父は最初二日は休みをとり、一緒に当時好きだったジャッキー・チェンの映画などを観てくれた。
それ以外の日に何をしていたかは覚えていない。
きっと、朝起きて、ご飯を食べる、支度をする、テレビ、昼ごはん、テレビ、夕ご飯、寝る。
こな流れだろう。先輩たちがゲームを持ってうちに遊びに来てくれた。007のゲームだった。
プロテインまで持ってきてくれた。
担任と学年主任が来りもした。「つらいだろうが、学校に来てくれ」そんな感じだった。
学年主任には市民病院の緊急外来で会っていたが、彼はその時は何も気づいていなかっただろう。
気づく要素などないのだ。風邪でもないのに38度を超える熱と全身の痛み。
ただ緊急外来にいるだけでは急な風邪と区別はつかないし、何もわからないはずなのだ。
無事に帰ってこなかった息子が心配なのだろう。父や母が僕や姉、妹の見送りを欠かしたことはない。
妹はいつもそれをすり抜けようと必死になって出かけていた。
「行ってきます」
そんな親の気持ちを何となく感じていたのか、自分を奮い立たせるために自分に誓いを立てていたのか。
どちらでもあるだろうし、そうではないかもしれない。
「行って―来ます」
出かける私は、無事に帰ってくることを約束しながら靴を履き、体育着と弁当、読書用の本、筆箱、
そのくらいしか入っていないカバンを背負っていたのである。
今回は僕は見送る立場である。
いや、見送ることすらできない。何もできないのである。
出来たところで、大した役にも立たず、かといって問題があるわけでもない。
ただ、「いってらっしゃい」の一言に「行ってきます」といってくれ。
そして、「おかえっり」の一言に「ただいま、いってきました」と言ってくれ。
きっと自信とともに「おかえり」は言える。
だから、笑顔とともに「只今、行って―来ました」といってくれ。
僕はただ待つだけの人間じゃない。成長して帰ってくる君に見合う、それ以上の成長はして見せる。
僕だって男だ。カッコ悪いところばかり見せるわけにはいかない。
だから、悲しくなるようなことは言わないでくれ。
「いってきます」その一言だけでいい。十分である。
小、中、高に通った12年間、僕は家族に向かって言っていた。
何気ない挨拶だが、この一言で父はネクタイを結びながら「気を付けてな」の一言を、
母は「忘れ物は?」の一言を、祖父母は「行ってらっしゃい」の一言をそれぞれが僕に言う。
本当に何気ない挨拶である。学校で友人に会い「おはよう」と言うようなものである。
意味のない形式的なものかもしれない。
出かける際の「行ってきます」を意識したのは中学に上がったばかりのころである。
ある事件をきっかけに1週間ではあるが不登校になった。
父は最初二日は休みをとり、一緒に当時好きだったジャッキー・チェンの映画などを観てくれた。
それ以外の日に何をしていたかは覚えていない。
きっと、朝起きて、ご飯を食べる、支度をする、テレビ、昼ごはん、テレビ、夕ご飯、寝る。
こな流れだろう。先輩たちがゲームを持ってうちに遊びに来てくれた。007のゲームだった。
プロテインまで持ってきてくれた。
担任と学年主任が来りもした。「つらいだろうが、学校に来てくれ」そんな感じだった。
学年主任には市民病院の緊急外来で会っていたが、彼はその時は何も気づいていなかっただろう。
気づく要素などないのだ。風邪でもないのに38度を超える熱と全身の痛み。
ただ緊急外来にいるだけでは急な風邪と区別はつかないし、何もわからないはずなのだ。
無事に帰ってこなかった息子が心配なのだろう。父や母が僕や姉、妹の見送りを欠かしたことはない。
妹はいつもそれをすり抜けようと必死になって出かけていた。
「行ってきます」
そんな親の気持ちを何となく感じていたのか、自分を奮い立たせるために自分に誓いを立てていたのか。
どちらでもあるだろうし、そうではないかもしれない。
「行って―来ます」
出かける私は、無事に帰ってくることを約束しながら靴を履き、体育着と弁当、読書用の本、筆箱、
そのくらいしか入っていないカバンを背負っていたのである。
今回は僕は見送る立場である。
いや、見送ることすらできない。何もできないのである。
出来たところで、大した役にも立たず、かといって問題があるわけでもない。
ただ、「いってらっしゃい」の一言に「行ってきます」といってくれ。
そして、「おかえっり」の一言に「ただいま、いってきました」と言ってくれ。
きっと自信とともに「おかえり」は言える。
だから、笑顔とともに「只今、行って―来ました」といってくれ。
僕はただ待つだけの人間じゃない。成長して帰ってくる君に見合う、それ以上の成長はして見せる。
僕だって男だ。カッコ悪いところばかり見せるわけにはいかない。
だから、悲しくなるようなことは言わないでくれ。
「いってきます」その一言だけでいい。十分である。
2009年7月16日木曜日
なんとなく
レポートを書いたので載せてみた。
きっと改行とか、日本語とか、ロジックの関係で読みにくいと思います。
何かあれば指摘してくださると助かります。
なんて荒いレポートだろう、と嘆いています。
M・セールの「図表的モデル」を手掛かりにしたライプニッツの可能性」
M・セールは『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』 において一つのモデルとして「図表的モデル」を提出している。今回はまずこのモデルへの考察、そしてライプニッツ哲学における出来事、可能性への適用を考えることにする。
まず、セールはこののちに「図表的モデル」と呼ぶ「網の目の形で描き出された図」について「この図はある瞬間に(……)、複数の点(頂点)によって形成される。各点は、複数の分岐(道[辺])によって互いに結びつけられている」 としている。さらに、この「図表的モデル」を構成している各々の点(頂点)は「ひとつの命題や、決定された経験的な事物の集合の中の実際に定義し得るひとつの要素を表す」 とする。
セールは「弁証法的論法」との比較において「図表的モデル」の特徴を顕著にさせていく。両者の特徴は一つのケースを想定して顕著にされていく。それは二つの命題、二つの頂点を考えた場合、一方から他方へと行く道についてである。前者の「弁証法的論法」においてそれは「単線的であり、道筋の単一性や単純性、……に特徴づけられている」のである。それとは逆に「図表的モデル」の方は「媒介的な道筋の多様性や複雑性で特徴づけられる」のである。「図表的モデル」においてはある点から他の点へと至る経路(道筋)は直線的な最短距離の道筋だけではなく、非常に多くの道筋をとることが可能である。さらには別の第3、第4……複数の点を通過することさえ可能である。経路の複数性、複数の点の通過可能性により、このモデルでは「多様性や複雑性」が確保されているのであり、この「多様性や複雑性」こそが比較対象である「弁証法的論法」にはない「図表的モデル」の特徴である。
「図表的モデル」の簡略的な説明は以上のようである。このモデルをライプニッツ哲学における出来事や可能性を語るのに有効なモデルであると仮定して、実際にセールのモデルをライプニッツの概念を考えるために適用させていきたい。
ここで、まず先にライプニッツの「出来事」、「可能性」についてセールの「図表的モデル」と同様に簡略的に示しておきたい。まず「出来事」であるがこれはライプニッツ哲学におけるひとつの有名な命題「全ての述語は主語のうちにある」という命題の述語である。アルノーとの往復書簡においてライプニッツは「述語または出来事」 という言い換えを行っている。さらには、主語と述語の関係などを論じるときにライプニッツが用いる例 をみることで「述語または出来事」という彼の想定がより強固なものとなるだろう。ここでの「出来事」とは属性ではなく、動詞のことである。おそらくライプニッツにとって属性は動詞つまり「出来事」によって導き出され得るものである。
次に「可能性」についてであるが、簡潔に言うならば、ある命題に対してその対立命題を措定したときに、対立命題が矛盾しなければ、可能であるということが出来る。例えば、歴史的事実として「カエサルはルビコン河を渡った」が対立命題として「カエサルはルビコン河を渡らなかった」と言っても命題としては矛盾しない。事実として成立した出来事に対して措定された対立命題の無矛盾性によって可能性は確保される。このとき、命題としては矛盾さえ含んでいなければどんなことも可能であるが、単なる説明のしやすさのためか、ライプニッツは例として歴史的事実を常に持ちだしている。この点においてライプニッツの「可能性」を未来へ向けられた「~するこができる」ではなく、常に過去に向けられた「~することができた」である考えることが出来る。しかし、ライプニッツ哲学の諸概念は相互的なものとして考えなければならない 。「可能性」に関しても二通りの考え方が成立することに注意しなければならない 。
簡略的にセールの「図表的モデル」、ライプニッツの「出来事」、「可能性」について論じた。ここから実際に後者二つをセールのモデルへ適用させていきたい。
まず、セールの提出した「図表的モデル」における「点(頂点)」をライプニッツにおける「個体概念」として考えてみたとする。各々の「個体概念」を関係づけている「道筋」は何に当たるのだろうか。この「道筋」を「出来事」と考えてみることが可能である。「道筋」は多様であり、複雑である。ライプニッツにおいて「出来事」は無数の「可能世界」の中から選ばれた一つが現実化するが、他の「出来事」が生じた可能性もあるという点で多様である。さらに、「出来事」例えば「カエサルはルビコン河を渡った」というときこの命題には表れていない周囲の状況が悉く含まれている。例に挙げた命題においては「渡る」という「出来事」によって「カエサル」と「ルビコン河」が関係づけられている。しかし、この「出来事」は共時的、通時的に現実世界の全てと「カエサル」と「ルビコン河」を関係づけるという点において複雑である。だが「出来事」による共時的、通時的な複雑性を我々は認識することが出来ない。我々が認識できるのはライプニッツの言う「出来事」の極一部であり、この認識できる範囲の「出来事」、言い換えれば「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な「出来事」だけである。
この限定的な「出来事」は「カエサル」や「私」によって認識されるわけだが、この特権性は「カエサル」や「私」という「点(頂点)」の特権性に基づくのではない。セールのモデルにおいて「いかなる点も他の点に対して特権的ではないし、いかなる点もいずれかの点に一方的に従属してはいない」 のである。この認識の特権性をセールのモデルにおいて考えるならば、特権性はチェスの駒の強さのように「駒全体の配置や、敵方の網の目とのかかわりにおけるその分布の複雑さをふまえた上で、ひとつの時点における駒の相互的な状況に応じて、可変的である」 ことにより生じる。この可変的、特権的状況において私が認識できる範囲、セールの言葉をかりるなら「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」は全体から切り取りが可能であるセールは言う。この切り取り可能ということをライプニッツに即して言うなら明確な表象のある認識ということができ、つまりは「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な認識である。
今までは「点(頂点)」を「個体概念」として考察を行ってきたが、セールが提示するモデルにおける「点(頂点)」をライプニッツにおける「出来事」として考えることも可能であるように思われる。そして、「出来事」同士の相互的な関係づけの中で集合全体から切り取り可能である「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」を「個体概念」つまり一つの「実体」として考えることが出来る。
セールの提示した「図表的モデル」について二通りの適用を示したが、今一つの問題があるように思う。それは「点(頂点)」の捉え方の問題である。この「点(頂点)」と「道筋(線)」の二重性についてセールは以下のように記述している。「ひとつの頂点はふたつまたはいくつかの道の交差点とみなすこができる。(……)これと相関的にひとつの道は、あらかじめ想定された二つの頂点の対応づけを起点にして形成された決定とみなすことができる」という二重性である。「点(頂点)」に関してドゥルーズは前者の立場をとっている 。この二重性により「点(頂点)」を「個体概念」または「出来事」と解釈することが可能である。
最後にこの「図表的モデル」の目的は、諸命題や出来事の空間的展開の分布より「図表的モデル」の上に表れるひとつの状況、この状況は流動的で時間とともに全体的に変化する状況を形式的に示すことであるといえるのではないか。しかし、この形式的に示されたものは「多様性や複雑性」を含んでいる。この複雑性を「知と経験にとっての最良の補助者」とすることがセールにおける「図表的モデル」の目的である。この目的に多少なりとも即した形でライプニッツと関連付けることができていれば幸いである。
参考文献
M・セール 『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』法政大学出版局(1985)
G・ドゥルーズ 『記号と事件』河出書房新社(2007)
きっと改行とか、日本語とか、ロジックの関係で読みにくいと思います。
何かあれば指摘してくださると助かります。
なんて荒いレポートだろう、と嘆いています。
M・セールの「図表的モデル」を手掛かりにしたライプニッツの可能性」
M・セールは『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』 において一つのモデルとして「図表的モデル」を提出している。今回はまずこのモデルへの考察、そしてライプニッツ哲学における出来事、可能性への適用を考えることにする。
まず、セールはこののちに「図表的モデル」と呼ぶ「網の目の形で描き出された図」について「この図はある瞬間に(……)、複数の点(頂点)によって形成される。各点は、複数の分岐(道[辺])によって互いに結びつけられている」 としている。さらに、この「図表的モデル」を構成している各々の点(頂点)は「ひとつの命題や、決定された経験的な事物の集合の中の実際に定義し得るひとつの要素を表す」 とする。
セールは「弁証法的論法」との比較において「図表的モデル」の特徴を顕著にさせていく。両者の特徴は一つのケースを想定して顕著にされていく。それは二つの命題、二つの頂点を考えた場合、一方から他方へと行く道についてである。前者の「弁証法的論法」においてそれは「単線的であり、道筋の単一性や単純性、……に特徴づけられている」のである。それとは逆に「図表的モデル」の方は「媒介的な道筋の多様性や複雑性で特徴づけられる」のである。「図表的モデル」においてはある点から他の点へと至る経路(道筋)は直線的な最短距離の道筋だけではなく、非常に多くの道筋をとることが可能である。さらには別の第3、第4……複数の点を通過することさえ可能である。経路の複数性、複数の点の通過可能性により、このモデルでは「多様性や複雑性」が確保されているのであり、この「多様性や複雑性」こそが比較対象である「弁証法的論法」にはない「図表的モデル」の特徴である。
「図表的モデル」の簡略的な説明は以上のようである。このモデルをライプニッツ哲学における出来事や可能性を語るのに有効なモデルであると仮定して、実際にセールのモデルをライプニッツの概念を考えるために適用させていきたい。
ここで、まず先にライプニッツの「出来事」、「可能性」についてセールの「図表的モデル」と同様に簡略的に示しておきたい。まず「出来事」であるがこれはライプニッツ哲学におけるひとつの有名な命題「全ての述語は主語のうちにある」という命題の述語である。アルノーとの往復書簡においてライプニッツは「述語または出来事」 という言い換えを行っている。さらには、主語と述語の関係などを論じるときにライプニッツが用いる例 をみることで「述語または出来事」という彼の想定がより強固なものとなるだろう。ここでの「出来事」とは属性ではなく、動詞のことである。おそらくライプニッツにとって属性は動詞つまり「出来事」によって導き出され得るものである。
次に「可能性」についてであるが、簡潔に言うならば、ある命題に対してその対立命題を措定したときに、対立命題が矛盾しなければ、可能であるということが出来る。例えば、歴史的事実として「カエサルはルビコン河を渡った」が対立命題として「カエサルはルビコン河を渡らなかった」と言っても命題としては矛盾しない。事実として成立した出来事に対して措定された対立命題の無矛盾性によって可能性は確保される。このとき、命題としては矛盾さえ含んでいなければどんなことも可能であるが、単なる説明のしやすさのためか、ライプニッツは例として歴史的事実を常に持ちだしている。この点においてライプニッツの「可能性」を未来へ向けられた「~するこができる」ではなく、常に過去に向けられた「~することができた」である考えることが出来る。しかし、ライプニッツ哲学の諸概念は相互的なものとして考えなければならない 。「可能性」に関しても二通りの考え方が成立することに注意しなければならない 。
簡略的にセールの「図表的モデル」、ライプニッツの「出来事」、「可能性」について論じた。ここから実際に後者二つをセールのモデルへ適用させていきたい。
まず、セールの提出した「図表的モデル」における「点(頂点)」をライプニッツにおける「個体概念」として考えてみたとする。各々の「個体概念」を関係づけている「道筋」は何に当たるのだろうか。この「道筋」を「出来事」と考えてみることが可能である。「道筋」は多様であり、複雑である。ライプニッツにおいて「出来事」は無数の「可能世界」の中から選ばれた一つが現実化するが、他の「出来事」が生じた可能性もあるという点で多様である。さらに、「出来事」例えば「カエサルはルビコン河を渡った」というときこの命題には表れていない周囲の状況が悉く含まれている。例に挙げた命題においては「渡る」という「出来事」によって「カエサル」と「ルビコン河」が関係づけられている。しかし、この「出来事」は共時的、通時的に現実世界の全てと「カエサル」と「ルビコン河」を関係づけるという点において複雑である。だが「出来事」による共時的、通時的な複雑性を我々は認識することが出来ない。我々が認識できるのはライプニッツの言う「出来事」の極一部であり、この認識できる範囲の「出来事」、言い換えれば「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な「出来事」だけである。
この限定的な「出来事」は「カエサル」や「私」によって認識されるわけだが、この特権性は「カエサル」や「私」という「点(頂点)」の特権性に基づくのではない。セールのモデルにおいて「いかなる点も他の点に対して特権的ではないし、いかなる点もいずれかの点に一方的に従属してはいない」 のである。この認識の特権性をセールのモデルにおいて考えるならば、特権性はチェスの駒の強さのように「駒全体の配置や、敵方の網の目とのかかわりにおけるその分布の複雑さをふまえた上で、ひとつの時点における駒の相互的な状況に応じて、可変的である」 ことにより生じる。この可変的、特権的状況において私が認識できる範囲、セールの言葉をかりるなら「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」は全体から切り取りが可能であるセールは言う。この切り取り可能ということをライプニッツに即して言うなら明確な表象のある認識ということができ、つまりは「カエサルはルビコン河を渡った」のように命題化可能な認識である。
今までは「点(頂点)」を「個体概念」として考察を行ってきたが、セールが提示するモデルにおける「点(頂点)」をライプニッツにおける「出来事」として考えることも可能であるように思われる。そして、「出来事」同士の相互的な関係づけの中で集合全体から切り取り可能である「限定されているけれども局所的によく組織だてられている集合部分」を「個体概念」つまり一つの「実体」として考えることが出来る。
セールの提示した「図表的モデル」について二通りの適用を示したが、今一つの問題があるように思う。それは「点(頂点)」の捉え方の問題である。この「点(頂点)」と「道筋(線)」の二重性についてセールは以下のように記述している。「ひとつの頂点はふたつまたはいくつかの道の交差点とみなすこができる。(……)これと相関的にひとつの道は、あらかじめ想定された二つの頂点の対応づけを起点にして形成された決定とみなすことができる」という二重性である。「点(頂点)」に関してドゥルーズは前者の立場をとっている 。この二重性により「点(頂点)」を「個体概念」または「出来事」と解釈することが可能である。
最後にこの「図表的モデル」の目的は、諸命題や出来事の空間的展開の分布より「図表的モデル」の上に表れるひとつの状況、この状況は流動的で時間とともに全体的に変化する状況を形式的に示すことであるといえるのではないか。しかし、この形式的に示されたものは「多様性や複雑性」を含んでいる。この複雑性を「知と経験にとっての最良の補助者」とすることがセールにおける「図表的モデル」の目的である。この目的に多少なりとも即した形でライプニッツと関連付けることができていれば幸いである。
参考文献
M・セール 『コミュニケーション 〈ヘルメスⅠ〉』法政大学出版局(1985)
G・ドゥルーズ 『記号と事件』河出書房新社(2007)
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