天使の居場所は何処か。
カッチャーリの文章はその問いに対する一つ目の回答から始まる。
「非在の場所が天使の次元である。天使の住居はどこでもない国、……、想像の世界にある。」
しかし、天使が呼びかけわれわれがそれに応えている、という状態から、
今ではわれわれが呼びかけ、天使がそれに応えることを欲している状態になっている。
なぜ、最初に天使の住居、居場所について書くことから始めているのだろうか。
きっと、天使とわれわれの関係を考えるためには、天使がどこにいるのか、考える必要があるのだろう。
話を巧く進めることができるかわからないが、書き始めることにしよう。
天使は私たちに何かを伝達する。
例えば、マリアへの受胎告知などが、天使の伝達にあたるだろう。
しかし、この告知はわれわれの感覚へと洩れてくるものではない。
「神秘を神秘としてあらわし、見えざるものを見えざるものとして」伝達するのである。
不可視である天使は、人間に自らが伝達するものをその瞬間のそのままの形において手渡す。
しかし、天使の住処であるどこでもない国を見るには、「その国になり変らねばならないだろう」。
つまり、「主客の次元が消失した合一という至高の観照」であり、
天使は「主体と客体がひとつのモナドを形成するような世界」にわれわれを導くのである。
モナドはそれ自身で完足しているが、それはモナドが一つの視点として宇宙の全てを、
各々の仕方によって表出しているからであって、そこには他の全てのモナドも含まれており、
宇宙に於いては、モナドは互いに表出され、表出しているのである。
この世界にあっては、実際には明確に主体、客体ということが難しくなる。
全ては主体であり、客体である。
ある表象に於いて判明でないことも、他の表象に於いては見れば、判明に読みとることも可能なのである。
モナドは互いに相互に照応可能な関係にあるのである。
この世界において、人間は不可視のものに触れる可能性を得る。
なぜなら、この世界では全てのことを知ることが理論的には可能であるし、
世界のそのままの姿を見ることさえ可能となる。
モナド同士が主体としてでもなく、客体としてでもなく振舞う宇宙のハーモニーは、
ポリフォニックな音楽である。
「いわば宇宙の類比的=象徴的直観、コルバンが言うところの存在の天使的次元、多声音楽は、唯一の原理の名の数々を構成する。その音楽的価値の頂上にあるのは、天球の音階でも完璧な反復でも永遠の旋回でもなく、天の典礼のリズムに交錯するさまざまな事物の共感である」とカッチャーリは語る。
「事物の共感」、ライプニッツで言えば全てが作用し合っている「協働」している世界だろう。
全ての事物は互いの響きに共感し合っている。
だからこそ、世界のバランスは崩れないのだろう。たとえ、それがギリギリの状態であっても。
むしろ、調和という言葉を色々なものの均衡状態と考える方が良いのかもしれない。
能動と受動、善と悪、美と醜の均衡状態。
しかし、美と醜に関しては個人的には均衡し合っているとは思わない。
世界の根底に、肯定を据え置くことが出来るならば、世界は全て抽象的な意味での「美」となるだろう。
肯定を置くと言う表現は語弊を招くかもしれない。
では、どう言い換えるべきか。
「世界を美的直観によって把握する」という表現の方が適しているのかもしれない。
理解ではなく、認識というよりは把握という、一挙に包み込むようなニュアンスである。
現段階での美的直観という語の使い方も非常に曖昧である。
全体を提示されているものとして、抽象的に、形式的に把握し、
世界をその組み合わせ的なヴァリアシオンとして考えるような世界観に基づくもの、
その程度にしてか、まだ考えていない。
これから、少しずつ詰めていきたい。
断片、一時終了。
2010年8月14日土曜日
2010年8月11日水曜日
前夜
ブリオッシュな君へ
今日は一つの文章を送ることにしよう。
言いたいことはたくさんあるが、まとまらない。
メールみたいに好き勝手書くわけにもいかない。(一応、ブログだから、ね)
今日はボルヘス『アトラス』の中からお気に入りの物を一つ。
砂漠
ピラミッドから三、四百メートルほど離れた場所で、
私は屈みこんで一握りの砂をつかんだ。
少しばかり遠くに移動して静かにそれをこぼし、小声で呟いた。
「わたしはサハラ砂漠の姿を変えようとしている」。
それはごく些細な出来事であったが、この気に利かない言葉も正鵠を射ており、
これを口にするために自分の全生涯は必要とされたのだ、とわたしは思った。
あの瞬間の記憶は、わたしのエジプト滞在でもっとも重みのあるものの一つであった。
どんな些細な出来事も、世界に何らかの影響を持っている。
世界は常に動いているのだ。変化しないものなどない。
形であれ、心であれ、それを望むのならば、君は小さな変化に、
小さな言葉に、小さな景色に、小さな感情に目を向ければ良い。
君は小さな所に、よく目が行くね。
よく見つけたものを「素敵」という言葉とともに、伝えてくれるね。
それを少し自分に、自分の感じていることに向けてみれば良い。
世界の出来事は、どんな小さな出来事でも、世界を作り上げているし、
「私」を作り上げている。
それは僕にとっての出来事か、世界中が知るような出来事か、それはちょっとした違い。
「出来事」に寄り添えば、ボルヘス的な意味で世界を変えることは可能だよ。
きっと、素敵な世界に変わるだろうね。
少し、早いけど、君の誕生日へ向けての断片です。
今日は一つの文章を送ることにしよう。
言いたいことはたくさんあるが、まとまらない。
メールみたいに好き勝手書くわけにもいかない。(一応、ブログだから、ね)
今日はボルヘス『アトラス』の中からお気に入りの物を一つ。
砂漠
ピラミッドから三、四百メートルほど離れた場所で、
私は屈みこんで一握りの砂をつかんだ。
少しばかり遠くに移動して静かにそれをこぼし、小声で呟いた。
「わたしはサハラ砂漠の姿を変えようとしている」。
それはごく些細な出来事であったが、この気に利かない言葉も正鵠を射ており、
これを口にするために自分の全生涯は必要とされたのだ、とわたしは思った。
あの瞬間の記憶は、わたしのエジプト滞在でもっとも重みのあるものの一つであった。
どんな些細な出来事も、世界に何らかの影響を持っている。
世界は常に動いているのだ。変化しないものなどない。
形であれ、心であれ、それを望むのならば、君は小さな変化に、
小さな言葉に、小さな景色に、小さな感情に目を向ければ良い。
君は小さな所に、よく目が行くね。
よく見つけたものを「素敵」という言葉とともに、伝えてくれるね。
それを少し自分に、自分の感じていることに向けてみれば良い。
世界の出来事は、どんな小さな出来事でも、世界を作り上げているし、
「私」を作り上げている。
それは僕にとっての出来事か、世界中が知るような出来事か、それはちょっとした違い。
「出来事」に寄り添えば、ボルヘス的な意味で世界を変えることは可能だよ。
きっと、素敵な世界に変わるだろうね。
少し、早いけど、君の誕生日へ向けての断片です。
2010年8月10日火曜日
ブリオッシュとコナトゥス

ブリオッシュな君へ。
少し長引用になるだろうが、ボルヘスから引用するのが、適切だろう。
だって、この二つの言葉を結びつけたのは君であり、
この二つの関係を気にしているのも君なのだが、今、君の手元にこの本はない。
もう一度、思い出してみよう。
地上に存在する新奇なものはいずれも天上の原型を反映している、と中国人らは考えている。
かつてそのように考えた者たちがあり、そう考えつづけている者たちがいる。
今や<何者>あるいは<何物>かは剣の原型、机の原型、ピンダロウス風の頌歌の原型、
三段論法の原型、砂時計の原型、時計の原型、地図の原型、望遠鏡の原型、天秤の原型を持っている。
スピノザは、すべてのものが自分の存在のうちに留まり続けたいと願っていると知った。
虎は虎でありたいと、石は石でありたいと望む。
原型であろうとしないものなど存在せず、時にはそれが実際に原型であることをわたしも知った。
相手の男あるいは女を自分の原型であると思うには、恋に落ちるだけで十分である。
マリア・コーダマがオウ・ブリオッシュ・ド・ラ・リュヌというパン屋でこの大きなブリオッシュを手にい れ、ホテルにいるわたしのところに持ってきて、これは<原型>ね、と言った。
彼女が正しいのはすぐに分かった。
読者よ、写真をよくご覧になった上で判断していただきたい。 (J・L・ボルヘス 『アトラス』)
最初に君から来たメールは「何で、ブリオッシュが原型なの?」だったね。
その時は、本が出張していて、手元になかったから、答えられなかったけど、
戻ってきて、読み返して、確かにブリオッシュは<原型>だとわかった。
ブリオッシュは、焼かれて、パンパンに膨れながらも、破裂することなく、
ブリオッシュであり続けている。だから、スピノザの話を持ってきているのだし、
これは実際に<原型>として存在しているんだろうね。
ここで、スピノザの話を少ししようと思います。
付け焼刃なので、申し訳ないです。
「スピノザは、すべてのものが自分の存在のうちに留まりつづけたいと願っていると知った。」
この一文が、どんな意味を持っているのだろうか。それを考えてみようと思う。
ボルヘスはスピノザの何処にそのような事を読みこんだのだろうか。
(スピノザに関しては先輩に幾つか質問して意見を伺ってみたりしました。)
最も有名な個所は『エチカ』第三部定理6である。該当箇所を引用しておこう。
おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執する。
さらに、スピノザはその証明の中で続けてこう言う。これも該当箇所を引用しておこう。
おのおのの物はできるだけ、または自己の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力する。
この努力にあたる単語が「コナトゥス conatus」である。
ドゥルーズは様態としての存在しているものの、本質としてこのコナトゥスを、
「力能の度」として定義している。
さらに、彼は「コナトゥス」に関して三つの規定をしているが、
この三つの中でボルヘスの主張を合致するものは第一の規定である。
「自己の有」への固執とは、自己(おそらく精神と身体の結合しているもの)を破壊したり、
消滅へと向かわせるようなものは含んでおらず、自己のできる範囲に於いて、
それを保持し更新していこうとする傾向、力能が「コナトゥス」であると言える。
「自己の及ぶかぎり」というのは、他の存在の様態と出会った時、
他の物の方が力能としてのコナトゥスが大きければ、自己の構成関係は破壊されてしまう。
コナトゥス同士の力関係により、破壊されたり、逆に、よりよく働いたりもするが、
コナトゥス自体はそれ自身の有を保持し、それに固執するのである。
ドゥルーズはスピノザのコナトゥスと、ライプニッツのそれとの違いを簡潔に述べている。
ライプニッツの場合は可能態から現実態へと向かうこの傾向をコナトゥスと呼び、
スピノザの場合には現実態としての存在の様態を上で見たように、保持し、固執する。
それはスピノザの哲学体系に於いて「すべての力能は、現実態であり、現に活動中の力としてはたらいている」のであり、現実存在へと移行しようとするものではなく、この現実において、
現実存在している現実態の力能として解釈されるならば、可能態から現実態へと働くものではなく、
現実態として働くものであり、その働きに関しては上で説明したとおりである。
まだまだ不十分ではあるが、大まかに話をまとめれば以上の様なことになるだろう。
そのもの(ボルヘスの言う<原型>)でありつづけようとしているもの、それが<原型>なのである。
(同語反復になっているけど……)
このボルヘスの文章は愛で満ちている、と思う。
これもまた一つの「コナトゥス」だろう。
コナトゥスは互いの構成関係が合一をみるような場合、喜びの情念が生じるのであり、
喜びの情念を抱く場合、
「私たちの力能はひろがって、相手の力能と一体となり、愛する対象とひとつに結び合う」のである。
ボルヘスは、パン屋でブリオッシュを見つけて、喜んで持ってきたであろう、
マリア・コーダマと恋におちているのであろう。
つまり、ボルヘスにとってのマリア・コーダマは、互いに<原型>であるのだろう。
「コナトゥス」は「本質というものの肯定的な捉え方」に関わっているのであり、
存在に於いては、これは「本質の肯定」である。
だからこそ、ボルヘスは「ブリオッシュ」という文章の最後を、
読者に、賛同を求める文章で締めているのではないだろうか。
自らと、自らの<原型>であるマリア、両者への肯定、彼らの構成関係と合一をみるような、
対象、つまり、愛によって対象と結ばれることを願っているのではないだろうか。
断片
「ヴァリアシオン」としての「視点」。
モナドについてライプニッツは街を眺める「視点」の比喩を使うことがある。
各々の「視点」は全て異なっており、街を全て眺めることが出来るわけではない。
それが可能なのは神のみである。
モナドは神の取りうる視点として、想像されたということもできる。
神の取りうる視点のヴァリアシオンとして、各々モナドは存在するのである。
そこで、世界の多様性は神の視点の多さに、つまり無限に存在しているモナド、
ということになるかのように思われるが、
単にモナドの数ということでは、それらモナドがバラバラに存在していても、
構わないかのように思われてしまう。
モナドはその中に、他のモナドとの関係も含んでいるのであれば、
視点としての、ヴァリアシオンとしてのモナド同士も、
何らかの仕方で関係づけられなければならない。
関係づけの方法に関しては、一旦脇に置くとして、
視点としてのモナドは、各々の仕方で宇宙を表象しているのであるが、
この視点はあくまでも一つのモナドが、同一の宇宙を各々の仕方で表象しているということにとどまる。
多様性はこれを基礎として導き出されるだろう。
単純実体に於いて、多様なものとして含まれているその宇宙の表現が、
表現同士が掛け合わされるのである。
異なった眺望が幾倍にもなるように、視点としてのモナドが表象している宇宙も幾倍にも掛け合わされる。
そこでは、一つ一つの宇宙の表象は異なっていながらも、同一の対象を表現しているのである。
それはモナドの表現の仕方が異なるのであり、この方法の多様性が、
モナドの多様性であり、宇宙自体の多様性であるともいえるかもしれない。
ライプニッツにおいて、重要になるのは「足されるもの」としての視点、モナドではなく、
「掛け合わされるもの」としての視点、モナドなのである。
ここで、総体や全体といった語は、足し算により求められた最大量としてあるのではなく、
掛け合わせにより、つまりは組み合わせにより求められた最大量ということになるのである。
そして、この組み合わせはより少ないものにより行われることが求められる。
つまり、「最少費用による、最大効果」ということが重要である。
そのとき、より多様なものを求めるならば、足し算を行うよりも、掛け算を行うことにより、
その最大量を求めることの方が、より多様なものとして、組み合わせを提示できるはずである。
モナドについてライプニッツは街を眺める「視点」の比喩を使うことがある。
各々の「視点」は全て異なっており、街を全て眺めることが出来るわけではない。
それが可能なのは神のみである。
モナドは神の取りうる視点として、想像されたということもできる。
神の取りうる視点のヴァリアシオンとして、各々モナドは存在するのである。
そこで、世界の多様性は神の視点の多さに、つまり無限に存在しているモナド、
ということになるかのように思われるが、
単にモナドの数ということでは、それらモナドがバラバラに存在していても、
構わないかのように思われてしまう。
モナドはその中に、他のモナドとの関係も含んでいるのであれば、
視点としての、ヴァリアシオンとしてのモナド同士も、
何らかの仕方で関係づけられなければならない。
関係づけの方法に関しては、一旦脇に置くとして、
視点としてのモナドは、各々の仕方で宇宙を表象しているのであるが、
この視点はあくまでも一つのモナドが、同一の宇宙を各々の仕方で表象しているということにとどまる。
多様性はこれを基礎として導き出されるだろう。
単純実体に於いて、多様なものとして含まれているその宇宙の表現が、
表現同士が掛け合わされるのである。
異なった眺望が幾倍にもなるように、視点としてのモナドが表象している宇宙も幾倍にも掛け合わされる。
そこでは、一つ一つの宇宙の表象は異なっていながらも、同一の対象を表現しているのである。
それはモナドの表現の仕方が異なるのであり、この方法の多様性が、
モナドの多様性であり、宇宙自体の多様性であるともいえるかもしれない。
ライプニッツにおいて、重要になるのは「足されるもの」としての視点、モナドではなく、
「掛け合わされるもの」としての視点、モナドなのである。
ここで、総体や全体といった語は、足し算により求められた最大量としてあるのではなく、
掛け合わせにより、つまりは組み合わせにより求められた最大量ということになるのである。
そして、この組み合わせはより少ないものにより行われることが求められる。
つまり、「最少費用による、最大効果」ということが重要である。
そのとき、より多様なものを求めるならば、足し算を行うよりも、掛け算を行うことにより、
その最大量を求めることの方が、より多様なものとして、組み合わせを提示できるはずである。
2010年8月9日月曜日
手掛かり、つまりはメモ
ライプニッツは『モナドロジー』§15において「欲求」という概念、作用を提出する。
これをライプニッツ自身の説明をかりて言えば、
「一つの表象から他の表象への変化もしくは推移を起こす内的原理」であるとしている。
これら表象は一つ一つは完全に表象として明晰判明なものとして、
全体に達しているとは限らない。いや、むしろ達していないのである。
つまりは一つの表象は被造物にとっては混雑した表象としてあるのである。
「その表象から何かを得て新たな表象に到達」するのである。
もし、人間が自らの表象の全体を判明に認識することが出来るならば、
それは神と同様の視点を手に入れたことになるのであり、
世界についての新たな認識としての新たな表象はいらないのである。
一つの表象を細かく、無限に見ていくことになるのであり、
そこに於いて全てを判明に認識しているならば、新たな表象を獲得する必要はないのである。
人間の表象が混雑であるが故に、人間は新たな表象を手に入れ、
世界をより良く見ようとするのではないだろうか。
人間の表象が混雑であるのはこれが、単純実体における「多」のことである。
表象自体が単純実体に於いて多を含みかつ表現している推移的状態であるので、
この多について、全てを判明に認識することが出来ないのならば、神の視点に立つことはない。
つまり、人間が判明に認識できるのは表象のごく一部の塊に於いて判明であるものである。
ライプニッツはこの「単純実体における多」を、「変化するものの細部」であるという。
この「変化するものの細部」が存在していることにより、モナドは多様であり、特殊である。
これは変化の原理、内的原理により生じている自然的変化とともにモナドの中にあるのである。
そして、この変化の原理、内的原理がその変化の一つ一つにおいて、
「変化するものの細部」を含んでいるということが出来る。
この内的原理により、モナドは特殊化するのであり、多様化していると言える。
とは言え、モナド同士の差異はその内的規定によるものであるので、
内的原理による特殊化、多様化はそのア・ポステリオリな証明の方法であると考えることが出来る。
なぜなら、モナド同士はその差異を内的規定により持っていることになるが、
それとは逆に特殊化、多様化しているもの、それも外的規定外にその源泉を求めるならば、
それは内的規定ということになるだろう。
「変化するものの細部」、「単純実体における多」としてモナドが含んでいるものは、
様々な「状態の変化」であり、他のモナドとの「関係」である。
この、モナドが潜在的に含んでいるであろう「状態の変化」、「関係」については、
まだまだ考える必要がある。
特に関係については、何との関係か、どのような関係かということを考えなければならない。
例えば、モナド同士の関係であるならば、
各々完足的であるモナド同士は神を媒介してしか関係を持つことがなく、
適合ということに従っている、つまり調和しているということになるが、
それだけでは何かが欠けているような気がする。
まだまだ、考える点は山ほどある。
少しずつ、丁寧に考えて積み上げていきたい。
これをライプニッツ自身の説明をかりて言えば、
「一つの表象から他の表象への変化もしくは推移を起こす内的原理」であるとしている。
これら表象は一つ一つは完全に表象として明晰判明なものとして、
全体に達しているとは限らない。いや、むしろ達していないのである。
つまりは一つの表象は被造物にとっては混雑した表象としてあるのである。
「その表象から何かを得て新たな表象に到達」するのである。
もし、人間が自らの表象の全体を判明に認識することが出来るならば、
それは神と同様の視点を手に入れたことになるのであり、
世界についての新たな認識としての新たな表象はいらないのである。
一つの表象を細かく、無限に見ていくことになるのであり、
そこに於いて全てを判明に認識しているならば、新たな表象を獲得する必要はないのである。
人間の表象が混雑であるが故に、人間は新たな表象を手に入れ、
世界をより良く見ようとするのではないだろうか。
人間の表象が混雑であるのはこれが、単純実体における「多」のことである。
表象自体が単純実体に於いて多を含みかつ表現している推移的状態であるので、
この多について、全てを判明に認識することが出来ないのならば、神の視点に立つことはない。
つまり、人間が判明に認識できるのは表象のごく一部の塊に於いて判明であるものである。
ライプニッツはこの「単純実体における多」を、「変化するものの細部」であるという。
この「変化するものの細部」が存在していることにより、モナドは多様であり、特殊である。
これは変化の原理、内的原理により生じている自然的変化とともにモナドの中にあるのである。
そして、この変化の原理、内的原理がその変化の一つ一つにおいて、
「変化するものの細部」を含んでいるということが出来る。
この内的原理により、モナドは特殊化するのであり、多様化していると言える。
とは言え、モナド同士の差異はその内的規定によるものであるので、
内的原理による特殊化、多様化はそのア・ポステリオリな証明の方法であると考えることが出来る。
なぜなら、モナド同士はその差異を内的規定により持っていることになるが、
それとは逆に特殊化、多様化しているもの、それも外的規定外にその源泉を求めるならば、
それは内的規定ということになるだろう。
「変化するものの細部」、「単純実体における多」としてモナドが含んでいるものは、
様々な「状態の変化」であり、他のモナドとの「関係」である。
この、モナドが潜在的に含んでいるであろう「状態の変化」、「関係」については、
まだまだ考える必要がある。
特に関係については、何との関係か、どのような関係かということを考えなければならない。
例えば、モナド同士の関係であるならば、
各々完足的であるモナド同士は神を媒介してしか関係を持つことがなく、
適合ということに従っている、つまり調和しているということになるが、
それだけでは何かが欠けているような気がする。
まだまだ、考える点は山ほどある。
少しずつ、丁寧に考えて積み上げていきたい。
2010年8月8日日曜日
表面について。
物事には表面がある。
人間でいえば、皮膚といえるような領域を指しても良いかもしれない。
ノート、本で言えば一つのページであると言えるのかもしれない。
ノート、本に関して言えば、その表面には文字が書かれている、
あるいは、文字を、記録を書きこむことが可能である。
書きこまれた文字は何を示すのだろうか。
個人的な日記であれば、筆者の内面的な葛藤の過程であったり、その日の出来事であったりするだろう。
本に関しては、例えば、哲学書であれば何か筆者の哲学が書きこまれている。
文学作品について言えば、現実を描こうとしていたり、素敵な物語を、風景を描こうとしていると言えるのかもしれない。
しかし、これらのどれについても筆者以外に人間が読み、中身を読みとろうとする行為に於いては、
我々はその表面をなぞるように、流れるようにして読む、ということだけでは不十分である。
それはあくまでも、「表面」でしかなく、文字の羅列でしかない。
文字の羅列には意味はない。
文字の並びに意味が生じるのは、置かれた文字同士の配置により生じる。
配置ということも、何らかの対象を表現するための法則に基づいて、
ひらがなを、カタカナを、漢字を、アルファベットを配置しなければならず、
これらの配置を組み合わせ的に行うことにより、限られた文字たちは、
自由度を増し、無限に自らを表現することが可能となるのである。
つまり、文字は無限に組み合わせにより、自らを無限に表現しているのである。
文字の組み合わせによる無限の表現の一つの現実化したものとしての作品であり、哲学書であり、一個人の日記ということになるのである。
文字の配置は自らを無限に読みこむ可能性を提示する。
たとえば、「私」の心情や、考え方によっても、読み方が異なる。
いつ、どこで、などという状況によっても左右される。
同一の書物であっても、複数回読めば、それと同じだけの読み方が存在することが可能なのである。
書物は自らの形式を変えることなく、読み手次第で自らを複雑化するのである。
しかし、こうした書物との複数回の出会いは表面に於いては現れない。
書物は深読みすることを要求している。これは文学、哲学に話を限定してのことである。
深読みという行為は、書物から多くのもを引き出そうとする行為であり、
我々の書物に対する態度であり、何よりも、読み手自らを対象としての書物の中へと潜り込むという行為である。
書物の読解に関して、書物に潜り込むことは、筆者の世界観に浸ることであり、
それと同化することであり、より深い理解を要求するための一つの手続きであると言えるだろう。
だが、対象と同化するだけでは不十分である。潜り込み、と私が呼んでいる行為は、
あくまでも、一つの「手続き」なのであって、目的ではない。
では、目的は何だろうか。
潜り込みという行為自体は対象と同一化することにより、
ある意味に於いては自らを対象化していると言える。しかし、この同化、対象化、ということもまた目的ではなく、一つの過程であり、潜り込みと同様に一つの「手続き」なのである。
では、目的とは何だろうか。
潜り込んだ主体としての読み手は、対象について考えるため、より深く理解するために、
そして、より多くのものを引き出そうとするが故に、潜り込むが、対象と同化したまま、
つまり自らを対象化した状態にとどまっていてはだめなのである。
あくまでも、我々は主体として思惟という行為を行うのであるから、
我々は再び主体の状態に戻ってこなくてはならない。
では、主体に戻ってきた主体はそのまま主体にとどまるべきかどうか、と問われたならば、
潜り込みにおいて、つまり対象との同化、主体の対象化において実現されるべきは、
要するに目的は、主体-対象間の交通の自由化であると言えるだろう。
主体は自由に対象化することが出来る、そのための通路を開く行為の第一の手続きとして、
「潜り込み」という行為があるのだと私は考えている。が、これはあくまでも、現段階での話である。
この「潜り込み」という行為、つまり主体の対象化ということは何も哲学や文学に限ったことではない。
その射程は芸術という行為や、人間同士の関係を考える上でも適応可能な一つの行為である。
まだ、大まかにしか記述することのできないこの「潜り込み」、「主体の対象化」という行為、
これらに概念という名を与えるにはまだ早すぎる。
現段階においては主体側からのみのアプローチだが、
この作用を客体側からの働きかけを持ちこむことにより、二重化する必要があるように思われる。
たとえば、セールの質料形相論における質料が形相のアルファベットを誘導できるように、
典型的構造を付与することが出来るような、対象の側の働きがあるはずだからである。
人間でいえば、皮膚といえるような領域を指しても良いかもしれない。
ノート、本で言えば一つのページであると言えるのかもしれない。
ノート、本に関して言えば、その表面には文字が書かれている、
あるいは、文字を、記録を書きこむことが可能である。
書きこまれた文字は何を示すのだろうか。
個人的な日記であれば、筆者の内面的な葛藤の過程であったり、その日の出来事であったりするだろう。
本に関しては、例えば、哲学書であれば何か筆者の哲学が書きこまれている。
文学作品について言えば、現実を描こうとしていたり、素敵な物語を、風景を描こうとしていると言えるのかもしれない。
しかし、これらのどれについても筆者以外に人間が読み、中身を読みとろうとする行為に於いては、
我々はその表面をなぞるように、流れるようにして読む、ということだけでは不十分である。
それはあくまでも、「表面」でしかなく、文字の羅列でしかない。
文字の羅列には意味はない。
文字の並びに意味が生じるのは、置かれた文字同士の配置により生じる。
配置ということも、何らかの対象を表現するための法則に基づいて、
ひらがなを、カタカナを、漢字を、アルファベットを配置しなければならず、
これらの配置を組み合わせ的に行うことにより、限られた文字たちは、
自由度を増し、無限に自らを表現することが可能となるのである。
つまり、文字は無限に組み合わせにより、自らを無限に表現しているのである。
文字の組み合わせによる無限の表現の一つの現実化したものとしての作品であり、哲学書であり、一個人の日記ということになるのである。
文字の配置は自らを無限に読みこむ可能性を提示する。
たとえば、「私」の心情や、考え方によっても、読み方が異なる。
いつ、どこで、などという状況によっても左右される。
同一の書物であっても、複数回読めば、それと同じだけの読み方が存在することが可能なのである。
書物は自らの形式を変えることなく、読み手次第で自らを複雑化するのである。
しかし、こうした書物との複数回の出会いは表面に於いては現れない。
書物は深読みすることを要求している。これは文学、哲学に話を限定してのことである。
深読みという行為は、書物から多くのもを引き出そうとする行為であり、
我々の書物に対する態度であり、何よりも、読み手自らを対象としての書物の中へと潜り込むという行為である。
書物の読解に関して、書物に潜り込むことは、筆者の世界観に浸ることであり、
それと同化することであり、より深い理解を要求するための一つの手続きであると言えるだろう。
だが、対象と同化するだけでは不十分である。潜り込み、と私が呼んでいる行為は、
あくまでも、一つの「手続き」なのであって、目的ではない。
では、目的は何だろうか。
潜り込みという行為自体は対象と同一化することにより、
ある意味に於いては自らを対象化していると言える。しかし、この同化、対象化、ということもまた目的ではなく、一つの過程であり、潜り込みと同様に一つの「手続き」なのである。
では、目的とは何だろうか。
潜り込んだ主体としての読み手は、対象について考えるため、より深く理解するために、
そして、より多くのものを引き出そうとするが故に、潜り込むが、対象と同化したまま、
つまり自らを対象化した状態にとどまっていてはだめなのである。
あくまでも、我々は主体として思惟という行為を行うのであるから、
我々は再び主体の状態に戻ってこなくてはならない。
では、主体に戻ってきた主体はそのまま主体にとどまるべきかどうか、と問われたならば、
潜り込みにおいて、つまり対象との同化、主体の対象化において実現されるべきは、
要するに目的は、主体-対象間の交通の自由化であると言えるだろう。
主体は自由に対象化することが出来る、そのための通路を開く行為の第一の手続きとして、
「潜り込み」という行為があるのだと私は考えている。が、これはあくまでも、現段階での話である。
この「潜り込み」という行為、つまり主体の対象化ということは何も哲学や文学に限ったことではない。
その射程は芸術という行為や、人間同士の関係を考える上でも適応可能な一つの行為である。
まだ、大まかにしか記述することのできないこの「潜り込み」、「主体の対象化」という行為、
これらに概念という名を与えるにはまだ早すぎる。
現段階においては主体側からのみのアプローチだが、
この作用を客体側からの働きかけを持ちこむことにより、二重化する必要があるように思われる。
たとえば、セールの質料形相論における質料が形相のアルファベットを誘導できるように、
典型的構造を付与することが出来るような、対象の側の働きがあるはずだからである。
2010年7月13日火曜日
とりあえず
『人間知性新論』第Ⅱ巻
C1「観念一般が論じられ、人間の魂が常に思惟しているかどうかが機械に応じて吟味される」
P「諸観念が生得的かどうかを吟味した後で、諸観念の本性と差異を考察しましょう。観念が思惟の対象であるというのは確かですよね。」
T「あなたが観念は内的直接的対象であり、この対象は本性の表出あるいは諸事物の性質の表出であるということ付け加えてくれるのであれば、私はそのことを認めましょう。もし、観念が思惟の形相であるならば、観念に応じる諸々の現実的思惟とともに生じたり終わったりするでしょう。しかし観念が対象であるならば、諸々の思惟の以前以後にあり得るだろう。諸々の可感的外的対象は媒介的でしかないのです。なぜなら、諸々の可感的外的対象は直接的に魂に作用し得ないのです。神のみが直接的外的対象であるのです。魂そのものはその(魂の)内的直接的対象であると言われうるのです。しかし、それは魂が諸観念あるいは諸事物に応じるようなものを含んでいる限りにおいてのことです。というのは、諸々の判明な観念が神の表現であるところで、諸々の雑然とした観念が宇宙の表現であるところで、魂は小さな宇宙なのだからです。」
P「最初、魂はあらゆる文字のない、いかなる観念もないタブラ・ラサであると仮定した方々は、どのように魂がたまたま諸観念を受け取るのか、そしてどのような手段によって魂はこの驚くべき観念の量を得るのか、と尋ねております。それに対して彼らは一言で、経験からだと応えます。」
T「それについてそれほど語られているところのこのタブラ・ラサは、私の見解では、自然が少しも許容しない虚構であり、哲学者の不完全な諸概念においてのみ確立されるような虚構でしかないのです。それは空虚、原子、そして絶対的静止ないし、一つの全体のそれら(諸部分)の間の二つの部分の各々の静止のようなものであり、あるいはいかなる形相もなしに着想(理解)された第一質料のようなものである。いかなる多様性も閉じ込めていない一様な諸事物は、時間、空間そして他の純粋数学の諸存在のような抽象化でしかない。その部分が静止している物体はなく、他のいかなる実体から自らを識別するようなものを持っていないような実体はない。人間の魂は他の諸々の魂と異なるだけではなく、さらにそれら(諸々の魂)の間でも異なるのである。とはいえ、差異は少しも種差と呼ばれているようなそれら(諸々の魂)の本性ではありません。私が持っていると信じている論証に従えば、あらゆる実体的事物は、それが魂であれ身体であれ、他の実体的事物に各々に対する固有な関係を持っている。そして、内的規定によりある実体的事物は他の実体的事物とは常に異ならなければならない。それはこのタブラ・ラサについてよく語るような人々が、それ(タブラ・ラサ)から諸観念が取り除いた後で、彼らの第一質料に対して何も残しておかないスコラの哲学者たちのように、それ(タブラ・ラサ)に残っているようなものについて言うことが出来ないという人々については言うまでもない。
たぶん人は、哲学者のこのタブラ・ラサは、魂は自然的に本来的には裸の能力しか持っていない、と言いたいのだと、私に反駁するだろう。しかし、何らかの現勢(actes)のない能力、一言でいえばスコラの純粋態勢(les pures puissances)は同様に虚構であり、それは自然が少しもすることのない、抽象化の産物においてのみ得られるような虚構なのです。というのは、かつて、この世おいて、現勢を与えることのない単なる態勢を含んでいるある能力はどこで発見されるのだろうか?常に、行為への、そして他の行為と言うよりはむしろある行為への際立った傾向(disposition)がある。傾向(disposition)に加えて、同時に各々の主体において、無数の傾向(tendance)あるような行為への傾向(tendance)がある。そして、この傾向(tendance)は何らかの努力(effet)なしにはありえない。経験は必要なものである。私はこのことを、魂がこれこれの思惟に対して決定されるために、我々の中にある諸観念に魂が用心するために、認める。しかし、経験と諸感官(les sens)が諸観念から与えることの出来るような方法とは?魂は窓を持っているのか、魂は板に似ているのか?魂は蝋のようなものなのか?魂についてこのように考える全てのものは、実際は、魂を物体的なものにしているということは明白なことである。人は、諸感官に由来しないようなものは魂においては何もないという、哲学者たちの間で認められたこの公理でもって、私に反対するだろう。しかし、魂そのものと、この感情(ses affections)を例外としなければならない。――知解においてなかったものは、知性においてもない。知性そのものを除いては。―― つまり、魂は、存在、実体、一、同一、原因、表象、理性、そして諸感官が与えることのできないそれ以外の多くの概念(d’autre notion)を含んでいる。このことは、この固有の本性に基づく精神の反省において諸観念の大部分の起源を探究した人間知性論のあなたたちの著者と十分に一致します。」
P「それ故、私はこの熟達した著者に対して、あなたが全ての観念は感覚(sensation)あるいは反省により生じると言うことに同意してくれることを期待します。すなわち、私達が外的で感覚可能な対象に基づき、あるいは私達の魂の内的操作に基づき成すような観察により生じると言うことをです。」
T「私達がそれだけをあまりに立ち止まっているところの論争を回避するために、私はあなたに前もって以下のことを表明しておきます。それは、あなたが、諸観念はこの原因のどちらか一方から私達に生じると言う時、私はそのことをそれらの現実的表象として理解します。と言うのは、私は諸観念が判明なものについての何かを持っている限りにおいて、そのことに気づかれる前に、私達においてあるということを明らかにしたと信じているからである、ということです。」
P「その後で、いつ魂が表象に似始めるのか、諸観念に対して現実的に思惟し始めるのかと言われなければならないのか、みていきましょう。私は、魂が常に思惟していること、現実的思惟は、現実的延長が物体から不可分であるのと同様に、魂から不可分であると主張するような意見があることを良く知っています。しかし、私は物体が常に運動においてあること以上に、魂が常に思惟していることが必然的であるということしか概念できない。諸観念の表象は魂に属するのは、運動が物体に属するようなものである。このことは、少なくとも私には大いに合理的であるように思えるし、その点について私はあなたたちの意見(sentiment)を知ることが出来てとてもうれしいのです。」
T「あなたはそのことについて言いましたね。行為は物体以上に魂に結びつけられたものではない。魂における思惟のない状態と物体における絶対的静止は等しく自然に反していることのように思われ、世界において前代未聞のことのように思われるのです。一旦、作用においてあるだろう実体は常にそうである(作用においてある)のです。というのは、全ての印象はとどまり、単に他の新しいものと混じり合ったものであるからです。物体を打つ時、そこでむしろ液体におけるような無限に多くの渦が引き起こされ、決定されるのです。というのは、実際は、全ての固いもの(solide)は流動性の度合いを持っており、全ての流動的なものは固さの度合いを持っているのです。そして、この内的な渦を完全に止めるための手段はないのです。つまり、今では、もし物体が決して静止においてないのだとしたら、それに応じるような魂もまた決して表象なしではあり得ないということが信じられているのです。」
P「しかし、おそらく、彼は決して眠ることも、まどろむこともない、と言うのは彼の完全性において無限であるような万物の創造者であり保管人の利点です。どんな有限な存在に対しても少しも適していないようなもの、あるいは少なくとも人間の魂のようなある存在にも適していないようなものなのです。」
T「私達が眠り、休止するということ、神がそれをまぬかれているということは確かなことです。しかし、私達は寝ている時に、どんな表象を持っていないという結果には少しもならない。もし人がそこに良く用心するならば、むしろ全く反対のものがあります。」
P「私達において、思惟する態勢(puissance)を持っているような何かがあるが、そこで私達が常に現勢(acte)を持っているということにはならない。」
T「真の態勢(puissance)は決して単なる可能性ではない。常に傾向(la tendance)と行為がある。」
P「しかし、魂は常に思惟している、というこの命題はそれ自身によって明らかではない。」
T「私もまたそのようなことは少しも言っていない。それ(この命題)を見つけるための若干の注意と推論が必要である。一般大衆は空気圧、あるいは地球の丸さと同様に、この命題にほとんど気づいていません。」
P「私は昨晩、思惟していたかどうかを疑います。これは事実についての一つの疑問であり、感覚可能な諸経験によってそこのことを決めなければならない。」
T「ある人がそのことを不条理なものとして論じるとは言え、表象不可能な物体と不可視的な運動があるということが証明されたように、そのことは決定されるのです。少しも引き立てられていない無数の表象についても、同様である。その表象とは、自らを意識的に表象し、あるいは自らを思い出す程十分に自らを区別していないようなものである。しかし、表象はある結果によって、自らを識別させるのである。」
P「我々の寝ている間に、私達は魂が存在していることを感じることが出来ないので、魂が存在することをやめたという私達が弁護したことに対して反論したある著者がいました。しかし、この反論は奇妙な懸念にのみ由来するのです。というのは、我々は人間の中に魂が少しもないということを言うことはなく、それは眠っている間に魂が存在していることを感じることはないが、人間は自らを意識的に表象することなしに思惟することは出来ないということ言っているだけです。」
T「私はこの反論を含んでいる本を読んだことはありませんが、思惟が意識されていないということから、そのために思惟がやむということにはならないと、あなたに対して反論するだけと言うことは間違いではない。なぜなら、さもなければ、同じ理由によって、意識的に表象されていない間、魂はないということが言われうるからです。そして、この反論を拒むために、思惟について、特に、意識的に表象されるということが、思惟にとって本質的であるということを、示さなければならない。」
P「ある事物が思惟し得ること、ある事物が思惟することを少しも感じないことを概念することは容易なことではないです。」
T「疑いなく、そこには巧みな人たちを困惑させたような、問題と困難の核心がある。しかし、ここにその核心から脱する手段がある。その手段とは、私達は、同時に多くの事物を思惟するが、私達は最も区別された思惟にしか用心することはない、と言うことを考察しなければならないのである。そして、事物は別な仕方で進むことは出来ないのである。と言うのは、もし私達が全てのものに対して用心するならば、同時に無数の事物について注意して思惟しなければならないのです。(無数の事物とは)私達が感覚するような全てのものであり、私達の感官に基づいて印象を与えるようなものです。私は更に次のように言います。私達の過去の全ての思惟について何かが残っており、そこではいかなるものも、完全に忘れられることは決してない。つまり、私達が夢を見ることなく寝ている時、私達が何らかの衝撃、転倒、症状、あるいは他の事件によって茫然としている時、私達において、無数の混雑した小さな諸感覚(sentiment)が形成される。そして死でさえ、動物の魂に基づく他の効果(effet)を作ることは出来ない。それは疑いなく、遅かれ早かれ区別された表象を取り戻さなければならない。というのは、全てのものは自然における秩序によって進展するからである。しかしながら、私はこの混雑した状態において、魂は快楽も苦痛もなくあるだろうことを知っています。というのは、これ(快楽、苦痛)は顕著な表象に属するからです。」
P「今私達が関わっている人々、すなわち、魂は常に思惟していると信じているデカルト派の人々は、人間とは異なる全ての動物に対して、それら(人間とは異なる全ての動物)に認識し、思惟するような魂を与えることなく、生命を一致させたこと、そして、デカルト派の人々は、魂は身体に結びつけられることなしに思惟し得ると言うことにいかなる困難も発見しなかったのは本当のことですよね。」
T「私としては、私は他の見解を持っています。というのは、彼ら(デカルト主義者)が魂は常に思惟しているというようなものおいて、デカルト主義者たちの見解を持っていますが、私は他の二つの点において、そのこと(デカルト主義者たちの見解)を持っていないからです。私は、動物は不滅の魂を持っているということ、人間の魂あるいは他の全てのもの達の魂は何らかの物体なしには決してあり得ないということを信じています。その証拠には神のみが、純粋な現勢(acte)であるものとして、それから(何らかの身体)から、完全に免れている、と述べます。」
P「もし、あなたがデカルト主義者たちの見解を持っているならば、私はカストルあるいはポルクスの身体は、常に生き生きとしているとはいえ、ある時は魂とともに、ある時は魂なしに存在し得るし、魂もまたある時はそのような身体において、ある時は、その身体の外に存在し得るので、カストルとポルクスは唯一つの魂しか持たないということが仮定され得る。その魂とは交代で眠っている、そして目覚めている二人の人間の身体において、交互に働くであろうものである。つまり、そういう訳で、それ(魂)はカストルとヘラクレスがそうであり得るほど、判明な二人の人間(deux personnes)に働きかけるでしょう。」
T「今度は私がより現実的に見える他の仮定を提出する番です。何らかの隔たり、あるいは何らかの大きな変化の後で、人が総体的な忘却に陥り得ることが常に同意されなければならないと言うことは本当ではないだろうか?スレーダンは死ぬ前に、覚えていた全てのことを忘れたそうです。つまり、この悲しい出来事のたくさんの他の事例がある。そのような人間が若返り、全く新たに、一から学ぶことが出来るとしたら、この人(スレーダン)は、別の人間であるだろうか。それ故に、同一の人間を精確に成しているのは記憶ではありません。しかしながら、これらの身体の一方において記憶に生じるようなことなしに、他方において記憶に関係づける、これらの異なった身体を交互に突き動かすようなある魂の虚構は、物体なしの空間とか、運動なしの物体のような哲学者の不完全な観念に由来する諸事物の本性に反するようなこれらの虚構の一つである。そして、それはもう少し深く理解すれば消えてしまうようなものです。というのも、各々の魂は全ての先の印象を保存しているということ、今話したような仕方により、魂は半ば区別されるようなことはないということを、知らなければなりません。つまり、各々の実体における未来は過去との完全な連関を持っている。これは個体の同一性を作るようなものである。にもかかわらず、私達の現在の思惟に貢献するような現在と過去の印象の多様性のために、記憶は少しも必要ではなく、必ずしも可能ですらないのです。というのも、私は少なくとも混雑した何らかの結果がないような、あるいは次の思惟とともに混ざり合った何らかの名残がないような思惟が人間の中にあると言うことを少しも信じていないのです。諸事物は大いに忘うるのですが、もし、しかるべく連れ戻されるならば、はるか昔のことからでも同様に再び思い出されるでしょう。」
P「いかなる夢もみることなくたまたま眠るような人々は、それらの思惟は作用(action)においてあるということを決して確信することは出来ない。」
T「たとえ夢をみていないとしても、眠っている間、何らかの弱い感覚(sentiment)がないということはないです。目覚めでさえそのことを示しています。そして目覚めることが容易であればある程、外で起きていることについての感覚(sestiment)を持っているのです。けれども、この感覚(sentiment)は常に目覚めの原因となるほど、十分に強いものではありません。」
P「この瞬間に、眠っている人間において魂が思惟ていると概念すること、次の瞬間、起きている人間においてもまた思惟している、と概念することは、魂がそれを思い出すことなしには、確かに難しいことのように思われます。」
T「このことは概念しやすいだけではなく、同様のことは、起きている間、毎日のように観察されるように思われます。というのも、私達は常に、私達の眼あるいは耳を刺激するような対象を持っているのです。それ故に、魂はそこにおいて、それに注意することなく、同様に結びつけられているのです。なぜなら、私達の注意は、その作用が繰り返される時、あるいはいくつかの他の理由により、対象が自分にそれ(注意?対象?)をもたらすのに十分に強くなるまで、他の対象に対して隠されているのである。これはあたかもこの対象に対して個別的な眠りのようなものであり、この眠りは、私達の注意が全ての対象に対して一斉に止んだ時、全体的なものとなるのである。それ(注意)が分割される時、眠る方法についても同様である。」
P「青少年期において勉強に専念し、十分に恵まれた記憶を持っていたので、熱病になる前には、いかなる夢も持つことはなかったということを実際に知っています。彼が私に話してくれた時、彼は熱病から治ったばかりで、25、26歳のときでした。」
T「もっと年をとった研究者で、いかなる夢も決して見たことのない人について、同様のことを聞いたことがあります。しかし、魂の表象の永遠性に基づかなければならないと言うことは夢だけに基づくものではありません。なぜなら、まさに眠っている時、どのようにして魂は外で起きていることについての何らかの表象を持つのか、と言うことを私は既に見せたからです。」
P「しばしば思惟し、少しも思惟されたものを覚えていない、これは役に立たない仕方で思惟しているということです。」
T「全ての印象はそれらの効果(effet)を持っているが、全ての効果は常に顕著であるとは限らないのです。あっちではなく、こっちを向くとき、これはまさに、しばしば私が気付いていないような小さな印象の連鎖によるのであり、この連鎖とはある運動を少しばかり困難な他の運動にするのである。意図的でない私達の全ての行為(actions)は諸々の微小表象の協力の結果であり、さらに、私達の熟考(nos deliberations)において多くの影響を持っている私達の習慣と情熱である。というのも、これらの習慣は徐々に生じるのであって、したがって、諸々の微小表象なしに顕著なこれらの配置(ces dispositions)に達することは少しもないのである。道徳においてこれらの効果を否定するような人たちは、自然科学において感覚不可能な粒子を否定するような悪い教養のある人々をまねているのである、ということを私は既に指摘した。そして、それにもかかわらず、そこで自由について語る人々の間には、均衡を傾かせるようなこれらの感覚不可能な印象に用心せず、道徳的行為において、二つの牧場の中間にいるビュリダンのロバのように、全くの無差別を想像している人がいることを私は見てきました。そして、これは私が、後で、より十分に語るものです。それにもかかわらず、私はこれらの印象は強いることなく、傾けると言うことを認めます。」
P「おそらく、思惟しており目覚めている人において、彼の身体は何らかの事物に関わっており、記憶は脳の痕跡によって保存されているが、その人が活動していない(眠っている)時、魂は魂自身においては別として、自らの思惟をもっている、と言われるかもしれない。」
T「いずれにしても、私はそのことについて言うどころではない。なぜなら、私は身体と魂の間に、常に、厳密な照応(corerespondance)があると信じており、そして、私は、目覚めていようが寝ていようが、自分が気付いていないような身体からの印象を、魂がそこについて相似しているものを持っていることを証明するために利用するからである。私は、そのうえ、血液の循環に応じ、それでもそれについて少しも意識されていないような内臓の全ての内的な運動に応じているような魂において、何かしら起こると言うことを述べる。それはあたかも、水車の側に住んでいる人が、それ(水車)が成す音に少しも気が付いていないようなものである。確かに、寝ている間、あるいは起きている間に、魂がそれから少しも接触されておらず、身体において、作用されることが少しもないような諸印象があるならば、あたかも魂がそれ(諸々の身体的印象)を受け続けるために、ある形象と大きさを必要としているように、諸々の身体的印象が魂と身体の結合に対して限定を設けなければならない。魂が非物体的かどうか少しも支持できないような人は、と言うのは非物体的な実体と質料のこれこれの変様の間には釣り合いは少しもないのである。一言でいえば、これは、魂においては、魂がそれに気づくようないかなる表象もないと信じてしまう誤謬の大きな源泉である。」
P「私達が思い出すような夢の大半は常軌を逸した、不十分に結びつけられたものである。それ故に、魂は身体に対して理性的に思惟する能力を持っていなければならず、どんな理性的なこれらの独り言もとどめておかないということが、言われるはずだ。」
T「身体は、理性的、あるいは非理性的な魂についての全ての思惟に応じるのである。そして、夢は目覚めているよう人の思惟と同様に、脳におけるそれらの痕跡をも持っている。」
P「あなたは魂が常に、実際に思惟していると確信しているのだから、私はあなたが私に、それらは、身体に結び付く前に子供の魂の内にあるような、あるいはまさに感覚(sessation)の手段により、魂がいかなる観念を受け取らない前にその結合があるうちは諸観念であると言ってくれることを望みます。」
T「私達の原則によって、あなたを満足させることは容易です。魂の表象は常に、本性的に身体の構成に対応しています。経験をほとんど持たないような人々に生じるように、多くの雑然とした運動、脳においてほとんど識別されていない運動がある時、(諸事物の秩序に従がえば)魂の思惟は、もはや判明ではあり得ません。しかしながら、魂は決して感覚(sensation)の助けを失うことはありません。なぜなら、魂は常にその身体を表出し、この身体は常に周囲の無数の仕方により打たれています。しかし、周囲を取り巻くものとはしばしば雑然とした印象のみを与えるのです。」
P「しかしまた、『知性論』の著者が成すのとは別の問題がここにあります。私は(彼が言うように)大変な自信とともに、人間の魂あるいは(同じようなことだが)、人間は常に思惟しているということを主張する人々がどのようにそのことを知るのかを私に言ってくれたら良いのに、と。」
T「私は、魂において私達が気付くことがない何かが起こっていることを否定するために、より多くの信用が必要かどうかわかりません。と言うのは、注目すべきものは際立ってはいない諸部分の複合でなければなりません。思惟も運動も、何ものも一挙に生じることはあり得ません。要するに、それは、今日あたかも誰かが感覚不可能な粒子を私達がどのように認識するのか、と尋ねるようなものです。」
P「私達に魂は常に思惟しているといった人々が、既に私達に人間は常に思惟していると言ったことを私は憶えていません。」
T「それは彼らが切り離された魂についてもそのことを理解しているからです。しかしながら、彼らは結合の間中、常に人間が思惟していると、容易に認めるにも関わらず。魂は決してあらゆる身体(物体)から切り離されていないと考えている私はと言えば、人間は常に思惟し、思惟するだろうと絶対的に言われ得ることを私は信じています。」
P「身体(物体)は諸部分を持つことのない延長である、ある事物はそれ(ある事物)が思惟していることに気づくことなしに思惟すると言うこと、それは平等に理解可能であるように思われる二つの主張です。」
T「申し訳ありませんが、あなたが、それ(魂)が意識的に表象していないものが魂においては何もないと言うならば、これは、私達の第一の討論(第一巻の生得観念について)により既に支配されているような原理についての繰り返しだと言わなければなりません。そこで人は生得観念と生得的な真理を壊すために、(原理についての繰り返しを)利用したいと望んだでしょう。もし、私達がこの原理を承認するならば、私達は経験と理性に反すると思うばかりではなく、私達は理由なしに私達の見解を放棄するでしょう。私はこの見解を十分に理解しやすいものだと信じています。しかし、有能であるような、私達の論敵は、その点について彼らがかくもしばしば、かくも積極的に進展させるようなものについて証拠を示したことがないばかりでなく、彼らに反対のことを示すことは容易です。即ち、私達が私達の全ての思惟について、常に、明白に反省することは可能ではありません、と言うことです。さもなければ、精神は、決して新しい思惟に移行することが出来ずに、各々の反省について、無限に反省することになるでしょう。例えば、現在の感覚(sentiment)に気がつくとき、私は常に、私がそれ(現在の感覚)について思惟していることを思惟しなければならず、そして、更にそれ(思惟していることを思惟していること)について思惟していることを思惟しなければならず、したがって無限に。しかし、私はこれら全ての反省について反省することをやめなければならず、そして要するに、人がそれについて思惟することなく、移行させるような何らかの思惟がなければならないのです。さもなければ、人は常に同一のものに止まることになるでしょう。」
P「しかし、全く同様に、そこにおいて空腹に気づくことなく空腹であると言う時、人間は常に空腹であるということを主張する根拠があるだろうか?」
T「多くの差異があります。つまり、空腹は常に自存している訳ではない個別的な理由を持っているのです。しかしながら、飢えている時でも、絶えずそれ(空腹)について考えている訳ではないと言うことも、また本当のことです。しかし、空腹について考えている時、人はそれ(空腹)に気が付いています。と言うのは、これは非常に顕著な配置(disposition)だからです。つまり、胃には常に刺激があるが、それ(刺激)は空腹の原因となるためには、十分に強くならなければならないのです。同一の区別が常に思惟一般と顕著な思惟との間に成されなければならないのです。こうして、私達の見解をあざけるために生じたものは、私達の見解を堅固にするのに役に立つのです。」
P「今や、人間がその思惟においていつから観念を持ち始めるのか、と言うことが尋ねられ得るでしょう。そして、それは人が何らかの感覚(sensation)を持つや否やだと応えられなければならないように思われます。」
T「私も同じ見解です。しかし、それはやや特殊な原理によります。というのは、私達は観念なしに、思惟なしに、そして同様に感覚(sensation)なしにあることは決してないのです、と私は信じているからです。私は単に観念と思惟の間を区別するだけです。と言うのは、私達は常に、感官とは無関係に、純粋あるいは判明な諸観念を持っているのである。しかし、思惟は常に何らかの感覚(sensation)に応じているのです。」
P「しかし、精神が複合観念を形成する時は能動的であるのに、認識の基礎あるいは素材である単純観念の表象においては単に受動的なのです。」
T「全ての単純観念の表象に関して、精神が単に受動的であるということが、どうしてそういうことがあり得るのだろうか。なぜなら、あなた自身の告白に従えば、その表象が反省に由来するところの単純観念があるのであり、少なくとも精神は自分自身に反省という諸思惟を与えているのです。と言うのは、反省するのはそれ(精神)自身ですからね。精神がそれら(思惟)を拒否し得るかどうか、これは別問題です。そして、疑いなく、何らかの機会が精神をそのように至らせるとき、精神をそこから反らすような何らかの理由なしに、そうあること(精神が反省についての思惟を断ること)はおそらくあり得ません。」
P「ここまで、私達は一緒に公然と討論してきたようです。今度は、私達は諸観念の詳細へと進もうとしているのだから、私はより意見が一致すること、私達が何らかの特徴においてのみ異なる、ということを期待しています。」
T「私が真であると見なした諸見解を学識豊かな人たちが認めてくれると嬉しいのですが。というのも、彼らはそれら(私が真だと見なした諸見解)を強調することができ、それら(私が真だと見なした諸見解)を白日の下にさらすことが出来るからです。」
とりあえず、あげてみましたが、まだ直していない個所などがあるので、
手を加えていこうと思っています。
何か指摘のある方、どしどしお願いします。
C1「観念一般が論じられ、人間の魂が常に思惟しているかどうかが機械に応じて吟味される」
P「諸観念が生得的かどうかを吟味した後で、諸観念の本性と差異を考察しましょう。観念が思惟の対象であるというのは確かですよね。」
T「あなたが観念は内的直接的対象であり、この対象は本性の表出あるいは諸事物の性質の表出であるということ付け加えてくれるのであれば、私はそのことを認めましょう。もし、観念が思惟の形相であるならば、観念に応じる諸々の現実的思惟とともに生じたり終わったりするでしょう。しかし観念が対象であるならば、諸々の思惟の以前以後にあり得るだろう。諸々の可感的外的対象は媒介的でしかないのです。なぜなら、諸々の可感的外的対象は直接的に魂に作用し得ないのです。神のみが直接的外的対象であるのです。魂そのものはその(魂の)内的直接的対象であると言われうるのです。しかし、それは魂が諸観念あるいは諸事物に応じるようなものを含んでいる限りにおいてのことです。というのは、諸々の判明な観念が神の表現であるところで、諸々の雑然とした観念が宇宙の表現であるところで、魂は小さな宇宙なのだからです。」
P「最初、魂はあらゆる文字のない、いかなる観念もないタブラ・ラサであると仮定した方々は、どのように魂がたまたま諸観念を受け取るのか、そしてどのような手段によって魂はこの驚くべき観念の量を得るのか、と尋ねております。それに対して彼らは一言で、経験からだと応えます。」
T「それについてそれほど語られているところのこのタブラ・ラサは、私の見解では、自然が少しも許容しない虚構であり、哲学者の不完全な諸概念においてのみ確立されるような虚構でしかないのです。それは空虚、原子、そして絶対的静止ないし、一つの全体のそれら(諸部分)の間の二つの部分の各々の静止のようなものであり、あるいはいかなる形相もなしに着想(理解)された第一質料のようなものである。いかなる多様性も閉じ込めていない一様な諸事物は、時間、空間そして他の純粋数学の諸存在のような抽象化でしかない。その部分が静止している物体はなく、他のいかなる実体から自らを識別するようなものを持っていないような実体はない。人間の魂は他の諸々の魂と異なるだけではなく、さらにそれら(諸々の魂)の間でも異なるのである。とはいえ、差異は少しも種差と呼ばれているようなそれら(諸々の魂)の本性ではありません。私が持っていると信じている論証に従えば、あらゆる実体的事物は、それが魂であれ身体であれ、他の実体的事物に各々に対する固有な関係を持っている。そして、内的規定によりある実体的事物は他の実体的事物とは常に異ならなければならない。それはこのタブラ・ラサについてよく語るような人々が、それ(タブラ・ラサ)から諸観念が取り除いた後で、彼らの第一質料に対して何も残しておかないスコラの哲学者たちのように、それ(タブラ・ラサ)に残っているようなものについて言うことが出来ないという人々については言うまでもない。
たぶん人は、哲学者のこのタブラ・ラサは、魂は自然的に本来的には裸の能力しか持っていない、と言いたいのだと、私に反駁するだろう。しかし、何らかの現勢(actes)のない能力、一言でいえばスコラの純粋態勢(les pures puissances)は同様に虚構であり、それは自然が少しもすることのない、抽象化の産物においてのみ得られるような虚構なのです。というのは、かつて、この世おいて、現勢を与えることのない単なる態勢を含んでいるある能力はどこで発見されるのだろうか?常に、行為への、そして他の行為と言うよりはむしろある行為への際立った傾向(disposition)がある。傾向(disposition)に加えて、同時に各々の主体において、無数の傾向(tendance)あるような行為への傾向(tendance)がある。そして、この傾向(tendance)は何らかの努力(effet)なしにはありえない。経験は必要なものである。私はこのことを、魂がこれこれの思惟に対して決定されるために、我々の中にある諸観念に魂が用心するために、認める。しかし、経験と諸感官(les sens)が諸観念から与えることの出来るような方法とは?魂は窓を持っているのか、魂は板に似ているのか?魂は蝋のようなものなのか?魂についてこのように考える全てのものは、実際は、魂を物体的なものにしているということは明白なことである。人は、諸感官に由来しないようなものは魂においては何もないという、哲学者たちの間で認められたこの公理でもって、私に反対するだろう。しかし、魂そのものと、この感情(ses affections)を例外としなければならない。――知解においてなかったものは、知性においてもない。知性そのものを除いては。―― つまり、魂は、存在、実体、一、同一、原因、表象、理性、そして諸感官が与えることのできないそれ以外の多くの概念(d’autre notion)を含んでいる。このことは、この固有の本性に基づく精神の反省において諸観念の大部分の起源を探究した人間知性論のあなたたちの著者と十分に一致します。」
P「それ故、私はこの熟達した著者に対して、あなたが全ての観念は感覚(sensation)あるいは反省により生じると言うことに同意してくれることを期待します。すなわち、私達が外的で感覚可能な対象に基づき、あるいは私達の魂の内的操作に基づき成すような観察により生じると言うことをです。」
T「私達がそれだけをあまりに立ち止まっているところの論争を回避するために、私はあなたに前もって以下のことを表明しておきます。それは、あなたが、諸観念はこの原因のどちらか一方から私達に生じると言う時、私はそのことをそれらの現実的表象として理解します。と言うのは、私は諸観念が判明なものについての何かを持っている限りにおいて、そのことに気づかれる前に、私達においてあるということを明らかにしたと信じているからである、ということです。」
P「その後で、いつ魂が表象に似始めるのか、諸観念に対して現実的に思惟し始めるのかと言われなければならないのか、みていきましょう。私は、魂が常に思惟していること、現実的思惟は、現実的延長が物体から不可分であるのと同様に、魂から不可分であると主張するような意見があることを良く知っています。しかし、私は物体が常に運動においてあること以上に、魂が常に思惟していることが必然的であるということしか概念できない。諸観念の表象は魂に属するのは、運動が物体に属するようなものである。このことは、少なくとも私には大いに合理的であるように思えるし、その点について私はあなたたちの意見(sentiment)を知ることが出来てとてもうれしいのです。」
T「あなたはそのことについて言いましたね。行為は物体以上に魂に結びつけられたものではない。魂における思惟のない状態と物体における絶対的静止は等しく自然に反していることのように思われ、世界において前代未聞のことのように思われるのです。一旦、作用においてあるだろう実体は常にそうである(作用においてある)のです。というのは、全ての印象はとどまり、単に他の新しいものと混じり合ったものであるからです。物体を打つ時、そこでむしろ液体におけるような無限に多くの渦が引き起こされ、決定されるのです。というのは、実際は、全ての固いもの(solide)は流動性の度合いを持っており、全ての流動的なものは固さの度合いを持っているのです。そして、この内的な渦を完全に止めるための手段はないのです。つまり、今では、もし物体が決して静止においてないのだとしたら、それに応じるような魂もまた決して表象なしではあり得ないということが信じられているのです。」
P「しかし、おそらく、彼は決して眠ることも、まどろむこともない、と言うのは彼の完全性において無限であるような万物の創造者であり保管人の利点です。どんな有限な存在に対しても少しも適していないようなもの、あるいは少なくとも人間の魂のようなある存在にも適していないようなものなのです。」
T「私達が眠り、休止するということ、神がそれをまぬかれているということは確かなことです。しかし、私達は寝ている時に、どんな表象を持っていないという結果には少しもならない。もし人がそこに良く用心するならば、むしろ全く反対のものがあります。」
P「私達において、思惟する態勢(puissance)を持っているような何かがあるが、そこで私達が常に現勢(acte)を持っているということにはならない。」
T「真の態勢(puissance)は決して単なる可能性ではない。常に傾向(la tendance)と行為がある。」
P「しかし、魂は常に思惟している、というこの命題はそれ自身によって明らかではない。」
T「私もまたそのようなことは少しも言っていない。それ(この命題)を見つけるための若干の注意と推論が必要である。一般大衆は空気圧、あるいは地球の丸さと同様に、この命題にほとんど気づいていません。」
P「私は昨晩、思惟していたかどうかを疑います。これは事実についての一つの疑問であり、感覚可能な諸経験によってそこのことを決めなければならない。」
T「ある人がそのことを不条理なものとして論じるとは言え、表象不可能な物体と不可視的な運動があるということが証明されたように、そのことは決定されるのです。少しも引き立てられていない無数の表象についても、同様である。その表象とは、自らを意識的に表象し、あるいは自らを思い出す程十分に自らを区別していないようなものである。しかし、表象はある結果によって、自らを識別させるのである。」
P「我々の寝ている間に、私達は魂が存在していることを感じることが出来ないので、魂が存在することをやめたという私達が弁護したことに対して反論したある著者がいました。しかし、この反論は奇妙な懸念にのみ由来するのです。というのは、我々は人間の中に魂が少しもないということを言うことはなく、それは眠っている間に魂が存在していることを感じることはないが、人間は自らを意識的に表象することなしに思惟することは出来ないということ言っているだけです。」
T「私はこの反論を含んでいる本を読んだことはありませんが、思惟が意識されていないということから、そのために思惟がやむということにはならないと、あなたに対して反論するだけと言うことは間違いではない。なぜなら、さもなければ、同じ理由によって、意識的に表象されていない間、魂はないということが言われうるからです。そして、この反論を拒むために、思惟について、特に、意識的に表象されるということが、思惟にとって本質的であるということを、示さなければならない。」
P「ある事物が思惟し得ること、ある事物が思惟することを少しも感じないことを概念することは容易なことではないです。」
T「疑いなく、そこには巧みな人たちを困惑させたような、問題と困難の核心がある。しかし、ここにその核心から脱する手段がある。その手段とは、私達は、同時に多くの事物を思惟するが、私達は最も区別された思惟にしか用心することはない、と言うことを考察しなければならないのである。そして、事物は別な仕方で進むことは出来ないのである。と言うのは、もし私達が全てのものに対して用心するならば、同時に無数の事物について注意して思惟しなければならないのです。(無数の事物とは)私達が感覚するような全てのものであり、私達の感官に基づいて印象を与えるようなものです。私は更に次のように言います。私達の過去の全ての思惟について何かが残っており、そこではいかなるものも、完全に忘れられることは決してない。つまり、私達が夢を見ることなく寝ている時、私達が何らかの衝撃、転倒、症状、あるいは他の事件によって茫然としている時、私達において、無数の混雑した小さな諸感覚(sentiment)が形成される。そして死でさえ、動物の魂に基づく他の効果(effet)を作ることは出来ない。それは疑いなく、遅かれ早かれ区別された表象を取り戻さなければならない。というのは、全てのものは自然における秩序によって進展するからである。しかしながら、私はこの混雑した状態において、魂は快楽も苦痛もなくあるだろうことを知っています。というのは、これ(快楽、苦痛)は顕著な表象に属するからです。」
P「今私達が関わっている人々、すなわち、魂は常に思惟していると信じているデカルト派の人々は、人間とは異なる全ての動物に対して、それら(人間とは異なる全ての動物)に認識し、思惟するような魂を与えることなく、生命を一致させたこと、そして、デカルト派の人々は、魂は身体に結びつけられることなしに思惟し得ると言うことにいかなる困難も発見しなかったのは本当のことですよね。」
T「私としては、私は他の見解を持っています。というのは、彼ら(デカルト主義者)が魂は常に思惟しているというようなものおいて、デカルト主義者たちの見解を持っていますが、私は他の二つの点において、そのこと(デカルト主義者たちの見解)を持っていないからです。私は、動物は不滅の魂を持っているということ、人間の魂あるいは他の全てのもの達の魂は何らかの物体なしには決してあり得ないということを信じています。その証拠には神のみが、純粋な現勢(acte)であるものとして、それから(何らかの身体)から、完全に免れている、と述べます。」
P「もし、あなたがデカルト主義者たちの見解を持っているならば、私はカストルあるいはポルクスの身体は、常に生き生きとしているとはいえ、ある時は魂とともに、ある時は魂なしに存在し得るし、魂もまたある時はそのような身体において、ある時は、その身体の外に存在し得るので、カストルとポルクスは唯一つの魂しか持たないということが仮定され得る。その魂とは交代で眠っている、そして目覚めている二人の人間の身体において、交互に働くであろうものである。つまり、そういう訳で、それ(魂)はカストルとヘラクレスがそうであり得るほど、判明な二人の人間(deux personnes)に働きかけるでしょう。」
T「今度は私がより現実的に見える他の仮定を提出する番です。何らかの隔たり、あるいは何らかの大きな変化の後で、人が総体的な忘却に陥り得ることが常に同意されなければならないと言うことは本当ではないだろうか?スレーダンは死ぬ前に、覚えていた全てのことを忘れたそうです。つまり、この悲しい出来事のたくさんの他の事例がある。そのような人間が若返り、全く新たに、一から学ぶことが出来るとしたら、この人(スレーダン)は、別の人間であるだろうか。それ故に、同一の人間を精確に成しているのは記憶ではありません。しかしながら、これらの身体の一方において記憶に生じるようなことなしに、他方において記憶に関係づける、これらの異なった身体を交互に突き動かすようなある魂の虚構は、物体なしの空間とか、運動なしの物体のような哲学者の不完全な観念に由来する諸事物の本性に反するようなこれらの虚構の一つである。そして、それはもう少し深く理解すれば消えてしまうようなものです。というのも、各々の魂は全ての先の印象を保存しているということ、今話したような仕方により、魂は半ば区別されるようなことはないということを、知らなければなりません。つまり、各々の実体における未来は過去との完全な連関を持っている。これは個体の同一性を作るようなものである。にもかかわらず、私達の現在の思惟に貢献するような現在と過去の印象の多様性のために、記憶は少しも必要ではなく、必ずしも可能ですらないのです。というのも、私は少なくとも混雑した何らかの結果がないような、あるいは次の思惟とともに混ざり合った何らかの名残がないような思惟が人間の中にあると言うことを少しも信じていないのです。諸事物は大いに忘うるのですが、もし、しかるべく連れ戻されるならば、はるか昔のことからでも同様に再び思い出されるでしょう。」
P「いかなる夢もみることなくたまたま眠るような人々は、それらの思惟は作用(action)においてあるということを決して確信することは出来ない。」
T「たとえ夢をみていないとしても、眠っている間、何らかの弱い感覚(sentiment)がないということはないです。目覚めでさえそのことを示しています。そして目覚めることが容易であればある程、外で起きていることについての感覚(sestiment)を持っているのです。けれども、この感覚(sentiment)は常に目覚めの原因となるほど、十分に強いものではありません。」
P「この瞬間に、眠っている人間において魂が思惟ていると概念すること、次の瞬間、起きている人間においてもまた思惟している、と概念することは、魂がそれを思い出すことなしには、確かに難しいことのように思われます。」
T「このことは概念しやすいだけではなく、同様のことは、起きている間、毎日のように観察されるように思われます。というのも、私達は常に、私達の眼あるいは耳を刺激するような対象を持っているのです。それ故に、魂はそこにおいて、それに注意することなく、同様に結びつけられているのです。なぜなら、私達の注意は、その作用が繰り返される時、あるいはいくつかの他の理由により、対象が自分にそれ(注意?対象?)をもたらすのに十分に強くなるまで、他の対象に対して隠されているのである。これはあたかもこの対象に対して個別的な眠りのようなものであり、この眠りは、私達の注意が全ての対象に対して一斉に止んだ時、全体的なものとなるのである。それ(注意)が分割される時、眠る方法についても同様である。」
P「青少年期において勉強に専念し、十分に恵まれた記憶を持っていたので、熱病になる前には、いかなる夢も持つことはなかったということを実際に知っています。彼が私に話してくれた時、彼は熱病から治ったばかりで、25、26歳のときでした。」
T「もっと年をとった研究者で、いかなる夢も決して見たことのない人について、同様のことを聞いたことがあります。しかし、魂の表象の永遠性に基づかなければならないと言うことは夢だけに基づくものではありません。なぜなら、まさに眠っている時、どのようにして魂は外で起きていることについての何らかの表象を持つのか、と言うことを私は既に見せたからです。」
P「しばしば思惟し、少しも思惟されたものを覚えていない、これは役に立たない仕方で思惟しているということです。」
T「全ての印象はそれらの効果(effet)を持っているが、全ての効果は常に顕著であるとは限らないのです。あっちではなく、こっちを向くとき、これはまさに、しばしば私が気付いていないような小さな印象の連鎖によるのであり、この連鎖とはある運動を少しばかり困難な他の運動にするのである。意図的でない私達の全ての行為(actions)は諸々の微小表象の協力の結果であり、さらに、私達の熟考(nos deliberations)において多くの影響を持っている私達の習慣と情熱である。というのも、これらの習慣は徐々に生じるのであって、したがって、諸々の微小表象なしに顕著なこれらの配置(ces dispositions)に達することは少しもないのである。道徳においてこれらの効果を否定するような人たちは、自然科学において感覚不可能な粒子を否定するような悪い教養のある人々をまねているのである、ということを私は既に指摘した。そして、それにもかかわらず、そこで自由について語る人々の間には、均衡を傾かせるようなこれらの感覚不可能な印象に用心せず、道徳的行為において、二つの牧場の中間にいるビュリダンのロバのように、全くの無差別を想像している人がいることを私は見てきました。そして、これは私が、後で、より十分に語るものです。それにもかかわらず、私はこれらの印象は強いることなく、傾けると言うことを認めます。」
P「おそらく、思惟しており目覚めている人において、彼の身体は何らかの事物に関わっており、記憶は脳の痕跡によって保存されているが、その人が活動していない(眠っている)時、魂は魂自身においては別として、自らの思惟をもっている、と言われるかもしれない。」
T「いずれにしても、私はそのことについて言うどころではない。なぜなら、私は身体と魂の間に、常に、厳密な照応(corerespondance)があると信じており、そして、私は、目覚めていようが寝ていようが、自分が気付いていないような身体からの印象を、魂がそこについて相似しているものを持っていることを証明するために利用するからである。私は、そのうえ、血液の循環に応じ、それでもそれについて少しも意識されていないような内臓の全ての内的な運動に応じているような魂において、何かしら起こると言うことを述べる。それはあたかも、水車の側に住んでいる人が、それ(水車)が成す音に少しも気が付いていないようなものである。確かに、寝ている間、あるいは起きている間に、魂がそれから少しも接触されておらず、身体において、作用されることが少しもないような諸印象があるならば、あたかも魂がそれ(諸々の身体的印象)を受け続けるために、ある形象と大きさを必要としているように、諸々の身体的印象が魂と身体の結合に対して限定を設けなければならない。魂が非物体的かどうか少しも支持できないような人は、と言うのは非物体的な実体と質料のこれこれの変様の間には釣り合いは少しもないのである。一言でいえば、これは、魂においては、魂がそれに気づくようないかなる表象もないと信じてしまう誤謬の大きな源泉である。」
P「私達が思い出すような夢の大半は常軌を逸した、不十分に結びつけられたものである。それ故に、魂は身体に対して理性的に思惟する能力を持っていなければならず、どんな理性的なこれらの独り言もとどめておかないということが、言われるはずだ。」
T「身体は、理性的、あるいは非理性的な魂についての全ての思惟に応じるのである。そして、夢は目覚めているよう人の思惟と同様に、脳におけるそれらの痕跡をも持っている。」
P「あなたは魂が常に、実際に思惟していると確信しているのだから、私はあなたが私に、それらは、身体に結び付く前に子供の魂の内にあるような、あるいはまさに感覚(sessation)の手段により、魂がいかなる観念を受け取らない前にその結合があるうちは諸観念であると言ってくれることを望みます。」
T「私達の原則によって、あなたを満足させることは容易です。魂の表象は常に、本性的に身体の構成に対応しています。経験をほとんど持たないような人々に生じるように、多くの雑然とした運動、脳においてほとんど識別されていない運動がある時、(諸事物の秩序に従がえば)魂の思惟は、もはや判明ではあり得ません。しかしながら、魂は決して感覚(sensation)の助けを失うことはありません。なぜなら、魂は常にその身体を表出し、この身体は常に周囲の無数の仕方により打たれています。しかし、周囲を取り巻くものとはしばしば雑然とした印象のみを与えるのです。」
P「しかしまた、『知性論』の著者が成すのとは別の問題がここにあります。私は(彼が言うように)大変な自信とともに、人間の魂あるいは(同じようなことだが)、人間は常に思惟しているということを主張する人々がどのようにそのことを知るのかを私に言ってくれたら良いのに、と。」
T「私は、魂において私達が気付くことがない何かが起こっていることを否定するために、より多くの信用が必要かどうかわかりません。と言うのは、注目すべきものは際立ってはいない諸部分の複合でなければなりません。思惟も運動も、何ものも一挙に生じることはあり得ません。要するに、それは、今日あたかも誰かが感覚不可能な粒子を私達がどのように認識するのか、と尋ねるようなものです。」
P「私達に魂は常に思惟しているといった人々が、既に私達に人間は常に思惟していると言ったことを私は憶えていません。」
T「それは彼らが切り離された魂についてもそのことを理解しているからです。しかしながら、彼らは結合の間中、常に人間が思惟していると、容易に認めるにも関わらず。魂は決してあらゆる身体(物体)から切り離されていないと考えている私はと言えば、人間は常に思惟し、思惟するだろうと絶対的に言われ得ることを私は信じています。」
P「身体(物体)は諸部分を持つことのない延長である、ある事物はそれ(ある事物)が思惟していることに気づくことなしに思惟すると言うこと、それは平等に理解可能であるように思われる二つの主張です。」
T「申し訳ありませんが、あなたが、それ(魂)が意識的に表象していないものが魂においては何もないと言うならば、これは、私達の第一の討論(第一巻の生得観念について)により既に支配されているような原理についての繰り返しだと言わなければなりません。そこで人は生得観念と生得的な真理を壊すために、(原理についての繰り返しを)利用したいと望んだでしょう。もし、私達がこの原理を承認するならば、私達は経験と理性に反すると思うばかりではなく、私達は理由なしに私達の見解を放棄するでしょう。私はこの見解を十分に理解しやすいものだと信じています。しかし、有能であるような、私達の論敵は、その点について彼らがかくもしばしば、かくも積極的に進展させるようなものについて証拠を示したことがないばかりでなく、彼らに反対のことを示すことは容易です。即ち、私達が私達の全ての思惟について、常に、明白に反省することは可能ではありません、と言うことです。さもなければ、精神は、決して新しい思惟に移行することが出来ずに、各々の反省について、無限に反省することになるでしょう。例えば、現在の感覚(sentiment)に気がつくとき、私は常に、私がそれ(現在の感覚)について思惟していることを思惟しなければならず、そして、更にそれ(思惟していることを思惟していること)について思惟していることを思惟しなければならず、したがって無限に。しかし、私はこれら全ての反省について反省することをやめなければならず、そして要するに、人がそれについて思惟することなく、移行させるような何らかの思惟がなければならないのです。さもなければ、人は常に同一のものに止まることになるでしょう。」
P「しかし、全く同様に、そこにおいて空腹に気づくことなく空腹であると言う時、人間は常に空腹であるということを主張する根拠があるだろうか?」
T「多くの差異があります。つまり、空腹は常に自存している訳ではない個別的な理由を持っているのです。しかしながら、飢えている時でも、絶えずそれ(空腹)について考えている訳ではないと言うことも、また本当のことです。しかし、空腹について考えている時、人はそれ(空腹)に気が付いています。と言うのは、これは非常に顕著な配置(disposition)だからです。つまり、胃には常に刺激があるが、それ(刺激)は空腹の原因となるためには、十分に強くならなければならないのです。同一の区別が常に思惟一般と顕著な思惟との間に成されなければならないのです。こうして、私達の見解をあざけるために生じたものは、私達の見解を堅固にするのに役に立つのです。」
P「今や、人間がその思惟においていつから観念を持ち始めるのか、と言うことが尋ねられ得るでしょう。そして、それは人が何らかの感覚(sensation)を持つや否やだと応えられなければならないように思われます。」
T「私も同じ見解です。しかし、それはやや特殊な原理によります。というのは、私達は観念なしに、思惟なしに、そして同様に感覚(sensation)なしにあることは決してないのです、と私は信じているからです。私は単に観念と思惟の間を区別するだけです。と言うのは、私達は常に、感官とは無関係に、純粋あるいは判明な諸観念を持っているのである。しかし、思惟は常に何らかの感覚(sensation)に応じているのです。」
P「しかし、精神が複合観念を形成する時は能動的であるのに、認識の基礎あるいは素材である単純観念の表象においては単に受動的なのです。」
T「全ての単純観念の表象に関して、精神が単に受動的であるということが、どうしてそういうことがあり得るのだろうか。なぜなら、あなた自身の告白に従えば、その表象が反省に由来するところの単純観念があるのであり、少なくとも精神は自分自身に反省という諸思惟を与えているのです。と言うのは、反省するのはそれ(精神)自身ですからね。精神がそれら(思惟)を拒否し得るかどうか、これは別問題です。そして、疑いなく、何らかの機会が精神をそのように至らせるとき、精神をそこから反らすような何らかの理由なしに、そうあること(精神が反省についての思惟を断ること)はおそらくあり得ません。」
P「ここまで、私達は一緒に公然と討論してきたようです。今度は、私達は諸観念の詳細へと進もうとしているのだから、私はより意見が一致すること、私達が何らかの特徴においてのみ異なる、ということを期待しています。」
T「私が真であると見なした諸見解を学識豊かな人たちが認めてくれると嬉しいのですが。というのも、彼らはそれら(私が真だと見なした諸見解)を強調することができ、それら(私が真だと見なした諸見解)を白日の下にさらすことが出来るからです。」
とりあえず、あげてみましたが、まだ直していない個所などがあるので、
手を加えていこうと思っています。
何か指摘のある方、どしどしお願いします。
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