2010年7月13日火曜日

とりあえず

『人間知性新論』第Ⅱ巻

C1「観念一般が論じられ、人間の魂が常に思惟しているかどうかが機械に応じて吟味される」


P「諸観念が生得的かどうかを吟味した後で、諸観念の本性と差異を考察しましょう。観念が思惟の対象であるというのは確かですよね。」

T「あなたが観念は内的直接的対象であり、この対象は本性の表出あるいは諸事物の性質の表出であるということ付け加えてくれるのであれば、私はそのことを認めましょう。もし、観念が思惟の形相であるならば、観念に応じる諸々の現実的思惟とともに生じたり終わったりするでしょう。しかし観念が対象であるならば、諸々の思惟の以前以後にあり得るだろう。諸々の可感的外的対象は媒介的でしかないのです。なぜなら、諸々の可感的外的対象は直接的に魂に作用し得ないのです。神のみが直接的外的対象であるのです。魂そのものはその(魂の)内的直接的対象であると言われうるのです。しかし、それは魂が諸観念あるいは諸事物に応じるようなものを含んでいる限りにおいてのことです。というのは、諸々の判明な観念が神の表現であるところで、諸々の雑然とした観念が宇宙の表現であるところで、魂は小さな宇宙なのだからです。」

P「最初、魂はあらゆる文字のない、いかなる観念もないタブラ・ラサであると仮定した方々は、どのように魂がたまたま諸観念を受け取るのか、そしてどのような手段によって魂はこの驚くべき観念の量を得るのか、と尋ねております。それに対して彼らは一言で、経験からだと応えます。」

T「それについてそれほど語られているところのこのタブラ・ラサは、私の見解では、自然が少しも許容しない虚構であり、哲学者の不完全な諸概念においてのみ確立されるような虚構でしかないのです。それは空虚、原子、そして絶対的静止ないし、一つの全体のそれら(諸部分)の間の二つの部分の各々の静止のようなものであり、あるいはいかなる形相もなしに着想(理解)された第一質料のようなものである。いかなる多様性も閉じ込めていない一様な諸事物は、時間、空間そして他の純粋数学の諸存在のような抽象化でしかない。その部分が静止している物体はなく、他のいかなる実体から自らを識別するようなものを持っていないような実体はない。人間の魂は他の諸々の魂と異なるだけではなく、さらにそれら(諸々の魂)の間でも異なるのである。とはいえ、差異は少しも種差と呼ばれているようなそれら(諸々の魂)の本性ではありません。私が持っていると信じている論証に従えば、あらゆる実体的事物は、それが魂であれ身体であれ、他の実体的事物に各々に対する固有な関係を持っている。そして、内的規定によりある実体的事物は他の実体的事物とは常に異ならなければならない。それはこのタブラ・ラサについてよく語るような人々が、それ(タブラ・ラサ)から諸観念が取り除いた後で、彼らの第一質料に対して何も残しておかないスコラの哲学者たちのように、それ(タブラ・ラサ)に残っているようなものについて言うことが出来ないという人々については言うまでもない。

たぶん人は、哲学者のこのタブラ・ラサは、魂は自然的に本来的には裸の能力しか持っていない、と言いたいのだと、私に反駁するだろう。しかし、何らかの現勢(actes)のない能力、一言でいえばスコラの純粋態勢(les pures puissances)は同様に虚構であり、それは自然が少しもすることのない、抽象化の産物においてのみ得られるような虚構なのです。というのは、かつて、この世おいて、現勢を与えることのない単なる態勢を含んでいるある能力はどこで発見されるのだろうか?常に、行為への、そして他の行為と言うよりはむしろある行為への際立った傾向(disposition)がある。傾向(disposition)に加えて、同時に各々の主体において、無数の傾向(tendance)あるような行為への傾向(tendance)がある。そして、この傾向(tendance)は何らかの努力(effet)なしにはありえない。経験は必要なものである。私はこのことを、魂がこれこれの思惟に対して決定されるために、我々の中にある諸観念に魂が用心するために、認める。しかし、経験と諸感官(les sens)が諸観念から与えることの出来るような方法とは?魂は窓を持っているのか、魂は板に似ているのか?魂は蝋のようなものなのか?魂についてこのように考える全てのものは、実際は、魂を物体的なものにしているということは明白なことである。人は、諸感官に由来しないようなものは魂においては何もないという、哲学者たちの間で認められたこの公理でもって、私に反対するだろう。しかし、魂そのものと、この感情(ses affections)を例外としなければならない。――知解においてなかったものは、知性においてもない。知性そのものを除いては。―― つまり、魂は、存在、実体、一、同一、原因、表象、理性、そして諸感官が与えることのできないそれ以外の多くの概念(d’autre notion)を含んでいる。このことは、この固有の本性に基づく精神の反省において諸観念の大部分の起源を探究した人間知性論のあなたたちの著者と十分に一致します。」

P「それ故、私はこの熟達した著者に対して、あなたが全ての観念は感覚(sensation)あるいは反省により生じると言うことに同意してくれることを期待します。すなわち、私達が外的で感覚可能な対象に基づき、あるいは私達の魂の内的操作に基づき成すような観察により生じると言うことをです。」

T「私達がそれだけをあまりに立ち止まっているところの論争を回避するために、私はあなたに前もって以下のことを表明しておきます。それは、あなたが、諸観念はこの原因のどちらか一方から私達に生じると言う時、私はそのことをそれらの現実的表象として理解します。と言うのは、私は諸観念が判明なものについての何かを持っている限りにおいて、そのことに気づかれる前に、私達においてあるということを明らかにしたと信じているからである、ということです。」

P「その後で、いつ魂が表象に似始めるのか、諸観念に対して現実的に思惟し始めるのかと言われなければならないのか、みていきましょう。私は、魂が常に思惟していること、現実的思惟は、現実的延長が物体から不可分であるのと同様に、魂から不可分であると主張するような意見があることを良く知っています。しかし、私は物体が常に運動においてあること以上に、魂が常に思惟していることが必然的であるということしか概念できない。諸観念の表象は魂に属するのは、運動が物体に属するようなものである。このことは、少なくとも私には大いに合理的であるように思えるし、その点について私はあなたたちの意見(sentiment)を知ることが出来てとてもうれしいのです。」

T「あなたはそのことについて言いましたね。行為は物体以上に魂に結びつけられたものではない。魂における思惟のない状態と物体における絶対的静止は等しく自然に反していることのように思われ、世界において前代未聞のことのように思われるのです。一旦、作用においてあるだろう実体は常にそうである(作用においてある)のです。というのは、全ての印象はとどまり、単に他の新しいものと混じり合ったものであるからです。物体を打つ時、そこでむしろ液体におけるような無限に多くの渦が引き起こされ、決定されるのです。というのは、実際は、全ての固いもの(solide)は流動性の度合いを持っており、全ての流動的なものは固さの度合いを持っているのです。そして、この内的な渦を完全に止めるための手段はないのです。つまり、今では、もし物体が決して静止においてないのだとしたら、それに応じるような魂もまた決して表象なしではあり得ないということが信じられているのです。」

P「しかし、おそらく、彼は決して眠ることも、まどろむこともない、と言うのは彼の完全性において無限であるような万物の創造者であり保管人の利点です。どんな有限な存在に対しても少しも適していないようなもの、あるいは少なくとも人間の魂のようなある存在にも適していないようなものなのです。」

T「私達が眠り、休止するということ、神がそれをまぬかれているということは確かなことです。しかし、私達は寝ている時に、どんな表象を持っていないという結果には少しもならない。もし人がそこに良く用心するならば、むしろ全く反対のものがあります。」

P「私達において、思惟する態勢(puissance)を持っているような何かがあるが、そこで私達が常に現勢(acte)を持っているということにはならない。」
 
T「真の態勢(puissance)は決して単なる可能性ではない。常に傾向(la tendance)と行為がある。」

P「しかし、魂は常に思惟している、というこの命題はそれ自身によって明らかではない。」

T「私もまたそのようなことは少しも言っていない。それ(この命題)を見つけるための若干の注意と推論が必要である。一般大衆は空気圧、あるいは地球の丸さと同様に、この命題にほとんど気づいていません。」

P「私は昨晩、思惟していたかどうかを疑います。これは事実についての一つの疑問であり、感覚可能な諸経験によってそこのことを決めなければならない。」

T「ある人がそのことを不条理なものとして論じるとは言え、表象不可能な物体と不可視的な運動があるということが証明されたように、そのことは決定されるのです。少しも引き立てられていない無数の表象についても、同様である。その表象とは、自らを意識的に表象し、あるいは自らを思い出す程十分に自らを区別していないようなものである。しかし、表象はある結果によって、自らを識別させるのである。」

P「我々の寝ている間に、私達は魂が存在していることを感じることが出来ないので、魂が存在することをやめたという私達が弁護したことに対して反論したある著者がいました。しかし、この反論は奇妙な懸念にのみ由来するのです。というのは、我々は人間の中に魂が少しもないということを言うことはなく、それは眠っている間に魂が存在していることを感じることはないが、人間は自らを意識的に表象することなしに思惟することは出来ないということ言っているだけです。」

T「私はこの反論を含んでいる本を読んだことはありませんが、思惟が意識されていないということから、そのために思惟がやむということにはならないと、あなたに対して反論するだけと言うことは間違いではない。なぜなら、さもなければ、同じ理由によって、意識的に表象されていない間、魂はないということが言われうるからです。そして、この反論を拒むために、思惟について、特に、意識的に表象されるということが、思惟にとって本質的であるということを、示さなければならない。」

P「ある事物が思惟し得ること、ある事物が思惟することを少しも感じないことを概念することは容易なことではないです。」

T「疑いなく、そこには巧みな人たちを困惑させたような、問題と困難の核心がある。しかし、ここにその核心から脱する手段がある。その手段とは、私達は、同時に多くの事物を思惟するが、私達は最も区別された思惟にしか用心することはない、と言うことを考察しなければならないのである。そして、事物は別な仕方で進むことは出来ないのである。と言うのは、もし私達が全てのものに対して用心するならば、同時に無数の事物について注意して思惟しなければならないのです。(無数の事物とは)私達が感覚するような全てのものであり、私達の感官に基づいて印象を与えるようなものです。私は更に次のように言います。私達の過去の全ての思惟について何かが残っており、そこではいかなるものも、完全に忘れられることは決してない。つまり、私達が夢を見ることなく寝ている時、私達が何らかの衝撃、転倒、症状、あるいは他の事件によって茫然としている時、私達において、無数の混雑した小さな諸感覚(sentiment)が形成される。そして死でさえ、動物の魂に基づく他の効果(effet)を作ることは出来ない。それは疑いなく、遅かれ早かれ区別された表象を取り戻さなければならない。というのは、全てのものは自然における秩序によって進展するからである。しかしながら、私はこの混雑した状態において、魂は快楽も苦痛もなくあるだろうことを知っています。というのは、これ(快楽、苦痛)は顕著な表象に属するからです。」

P「今私達が関わっている人々、すなわち、魂は常に思惟していると信じているデカルト派の人々は、人間とは異なる全ての動物に対して、それら(人間とは異なる全ての動物)に認識し、思惟するような魂を与えることなく、生命を一致させたこと、そして、デカルト派の人々は、魂は身体に結びつけられることなしに思惟し得ると言うことにいかなる困難も発見しなかったのは本当のことですよね。」

T「私としては、私は他の見解を持っています。というのは、彼ら(デカルト主義者)が魂は常に思惟しているというようなものおいて、デカルト主義者たちの見解を持っていますが、私は他の二つの点において、そのこと(デカルト主義者たちの見解)を持っていないからです。私は、動物は不滅の魂を持っているということ、人間の魂あるいは他の全てのもの達の魂は何らかの物体なしには決してあり得ないということを信じています。その証拠には神のみが、純粋な現勢(acte)であるものとして、それから(何らかの身体)から、完全に免れている、と述べます。」

P「もし、あなたがデカルト主義者たちの見解を持っているならば、私はカストルあるいはポルクスの身体は、常に生き生きとしているとはいえ、ある時は魂とともに、ある時は魂なしに存在し得るし、魂もまたある時はそのような身体において、ある時は、その身体の外に存在し得るので、カストルとポルクスは唯一つの魂しか持たないということが仮定され得る。その魂とは交代で眠っている、そして目覚めている二人の人間の身体において、交互に働くであろうものである。つまり、そういう訳で、それ(魂)はカストルとヘラクレスがそうであり得るほど、判明な二人の人間(deux personnes)に働きかけるでしょう。」

T「今度は私がより現実的に見える他の仮定を提出する番です。何らかの隔たり、あるいは何らかの大きな変化の後で、人が総体的な忘却に陥り得ることが常に同意されなければならないと言うことは本当ではないだろうか?スレーダンは死ぬ前に、覚えていた全てのことを忘れたそうです。つまり、この悲しい出来事のたくさんの他の事例がある。そのような人間が若返り、全く新たに、一から学ぶことが出来るとしたら、この人(スレーダン)は、別の人間であるだろうか。それ故に、同一の人間を精確に成しているのは記憶ではありません。しかしながら、これらの身体の一方において記憶に生じるようなことなしに、他方において記憶に関係づける、これらの異なった身体を交互に突き動かすようなある魂の虚構は、物体なしの空間とか、運動なしの物体のような哲学者の不完全な観念に由来する諸事物の本性に反するようなこれらの虚構の一つである。そして、それはもう少し深く理解すれば消えてしまうようなものです。というのも、各々の魂は全ての先の印象を保存しているということ、今話したような仕方により、魂は半ば区別されるようなことはないということを、知らなければなりません。つまり、各々の実体における未来は過去との完全な連関を持っている。これは個体の同一性を作るようなものである。にもかかわらず、私達の現在の思惟に貢献するような現在と過去の印象の多様性のために、記憶は少しも必要ではなく、必ずしも可能ですらないのです。というのも、私は少なくとも混雑した何らかの結果がないような、あるいは次の思惟とともに混ざり合った何らかの名残がないような思惟が人間の中にあると言うことを少しも信じていないのです。諸事物は大いに忘うるのですが、もし、しかるべく連れ戻されるならば、はるか昔のことからでも同様に再び思い出されるでしょう。」

P「いかなる夢もみることなくたまたま眠るような人々は、それらの思惟は作用(action)においてあるということを決して確信することは出来ない。」

T「たとえ夢をみていないとしても、眠っている間、何らかの弱い感覚(sentiment)がないということはないです。目覚めでさえそのことを示しています。そして目覚めることが容易であればある程、外で起きていることについての感覚(sestiment)を持っているのです。けれども、この感覚(sentiment)は常に目覚めの原因となるほど、十分に強いものではありません。」

P「この瞬間に、眠っている人間において魂が思惟ていると概念すること、次の瞬間、起きている人間においてもまた思惟している、と概念することは、魂がそれを思い出すことなしには、確かに難しいことのように思われます。」

T「このことは概念しやすいだけではなく、同様のことは、起きている間、毎日のように観察されるように思われます。というのも、私達は常に、私達の眼あるいは耳を刺激するような対象を持っているのです。それ故に、魂はそこにおいて、それに注意することなく、同様に結びつけられているのです。なぜなら、私達の注意は、その作用が繰り返される時、あるいはいくつかの他の理由により、対象が自分にそれ(注意?対象?)をもたらすのに十分に強くなるまで、他の対象に対して隠されているのである。これはあたかもこの対象に対して個別的な眠りのようなものであり、この眠りは、私達の注意が全ての対象に対して一斉に止んだ時、全体的なものとなるのである。それ(注意)が分割される時、眠る方法についても同様である。」

P「青少年期において勉強に専念し、十分に恵まれた記憶を持っていたので、熱病になる前には、いかなる夢も持つことはなかったということを実際に知っています。彼が私に話してくれた時、彼は熱病から治ったばかりで、25、26歳のときでした。」

T「もっと年をとった研究者で、いかなる夢も決して見たことのない人について、同様のことを聞いたことがあります。しかし、魂の表象の永遠性に基づかなければならないと言うことは夢だけに基づくものではありません。なぜなら、まさに眠っている時、どのようにして魂は外で起きていることについての何らかの表象を持つのか、と言うことを私は既に見せたからです。」

P「しばしば思惟し、少しも思惟されたものを覚えていない、これは役に立たない仕方で思惟しているということです。」

T「全ての印象はそれらの効果(effet)を持っているが、全ての効果は常に顕著であるとは限らないのです。あっちではなく、こっちを向くとき、これはまさに、しばしば私が気付いていないような小さな印象の連鎖によるのであり、この連鎖とはある運動を少しばかり困難な他の運動にするのである。意図的でない私達の全ての行為(actions)は諸々の微小表象の協力の結果であり、さらに、私達の熟考(nos deliberations)において多くの影響を持っている私達の習慣と情熱である。というのも、これらの習慣は徐々に生じるのであって、したがって、諸々の微小表象なしに顕著なこれらの配置(ces dispositions)に達することは少しもないのである。道徳においてこれらの効果を否定するような人たちは、自然科学において感覚不可能な粒子を否定するような悪い教養のある人々をまねているのである、ということを私は既に指摘した。そして、それにもかかわらず、そこで自由について語る人々の間には、均衡を傾かせるようなこれらの感覚不可能な印象に用心せず、道徳的行為において、二つの牧場の中間にいるビュリダンのロバのように、全くの無差別を想像している人がいることを私は見てきました。そして、これは私が、後で、より十分に語るものです。それにもかかわらず、私はこれらの印象は強いることなく、傾けると言うことを認めます。」

P「おそらく、思惟しており目覚めている人において、彼の身体は何らかの事物に関わっており、記憶は脳の痕跡によって保存されているが、その人が活動していない(眠っている)時、魂は魂自身においては別として、自らの思惟をもっている、と言われるかもしれない。」

T「いずれにしても、私はそのことについて言うどころではない。なぜなら、私は身体と魂の間に、常に、厳密な照応(corerespondance)があると信じており、そして、私は、目覚めていようが寝ていようが、自分が気付いていないような身体からの印象を、魂がそこについて相似しているものを持っていることを証明するために利用するからである。私は、そのうえ、血液の循環に応じ、それでもそれについて少しも意識されていないような内臓の全ての内的な運動に応じているような魂において、何かしら起こると言うことを述べる。それはあたかも、水車の側に住んでいる人が、それ(水車)が成す音に少しも気が付いていないようなものである。確かに、寝ている間、あるいは起きている間に、魂がそれから少しも接触されておらず、身体において、作用されることが少しもないような諸印象があるならば、あたかも魂がそれ(諸々の身体的印象)を受け続けるために、ある形象と大きさを必要としているように、諸々の身体的印象が魂と身体の結合に対して限定を設けなければならない。魂が非物体的かどうか少しも支持できないような人は、と言うのは非物体的な実体と質料のこれこれの変様の間には釣り合いは少しもないのである。一言でいえば、これは、魂においては、魂がそれに気づくようないかなる表象もないと信じてしまう誤謬の大きな源泉である。」

P「私達が思い出すような夢の大半は常軌を逸した、不十分に結びつけられたものである。それ故に、魂は身体に対して理性的に思惟する能力を持っていなければならず、どんな理性的なこれらの独り言もとどめておかないということが、言われるはずだ。」

T「身体は、理性的、あるいは非理性的な魂についての全ての思惟に応じるのである。そして、夢は目覚めているよう人の思惟と同様に、脳におけるそれらの痕跡をも持っている。」

P「あなたは魂が常に、実際に思惟していると確信しているのだから、私はあなたが私に、それらは、身体に結び付く前に子供の魂の内にあるような、あるいはまさに感覚(sessation)の手段により、魂がいかなる観念を受け取らない前にその結合があるうちは諸観念であると言ってくれることを望みます。」

T「私達の原則によって、あなたを満足させることは容易です。魂の表象は常に、本性的に身体の構成に対応しています。経験をほとんど持たないような人々に生じるように、多くの雑然とした運動、脳においてほとんど識別されていない運動がある時、(諸事物の秩序に従がえば)魂の思惟は、もはや判明ではあり得ません。しかしながら、魂は決して感覚(sensation)の助けを失うことはありません。なぜなら、魂は常にその身体を表出し、この身体は常に周囲の無数の仕方により打たれています。しかし、周囲を取り巻くものとはしばしば雑然とした印象のみを与えるのです。」

P「しかしまた、『知性論』の著者が成すのとは別の問題がここにあります。私は(彼が言うように)大変な自信とともに、人間の魂あるいは(同じようなことだが)、人間は常に思惟しているということを主張する人々がどのようにそのことを知るのかを私に言ってくれたら良いのに、と。」

T「私は、魂において私達が気付くことがない何かが起こっていることを否定するために、より多くの信用が必要かどうかわかりません。と言うのは、注目すべきものは際立ってはいない諸部分の複合でなければなりません。思惟も運動も、何ものも一挙に生じることはあり得ません。要するに、それは、今日あたかも誰かが感覚不可能な粒子を私達がどのように認識するのか、と尋ねるようなものです。」

P「私達に魂は常に思惟しているといった人々が、既に私達に人間は常に思惟していると言ったことを私は憶えていません。」

T「それは彼らが切り離された魂についてもそのことを理解しているからです。しかしながら、彼らは結合の間中、常に人間が思惟していると、容易に認めるにも関わらず。魂は決してあらゆる身体(物体)から切り離されていないと考えている私はと言えば、人間は常に思惟し、思惟するだろうと絶対的に言われ得ることを私は信じています。」

P「身体(物体)は諸部分を持つことのない延長である、ある事物はそれ(ある事物)が思惟していることに気づくことなしに思惟すると言うこと、それは平等に理解可能であるように思われる二つの主張です。」

T「申し訳ありませんが、あなたが、それ(魂)が意識的に表象していないものが魂においては何もないと言うならば、これは、私達の第一の討論(第一巻の生得観念について)により既に支配されているような原理についての繰り返しだと言わなければなりません。そこで人は生得観念と生得的な真理を壊すために、(原理についての繰り返しを)利用したいと望んだでしょう。もし、私達がこの原理を承認するならば、私達は経験と理性に反すると思うばかりではなく、私達は理由なしに私達の見解を放棄するでしょう。私はこの見解を十分に理解しやすいものだと信じています。しかし、有能であるような、私達の論敵は、その点について彼らがかくもしばしば、かくも積極的に進展させるようなものについて証拠を示したことがないばかりでなく、彼らに反対のことを示すことは容易です。即ち、私達が私達の全ての思惟について、常に、明白に反省することは可能ではありません、と言うことです。さもなければ、精神は、決して新しい思惟に移行することが出来ずに、各々の反省について、無限に反省することになるでしょう。例えば、現在の感覚(sentiment)に気がつくとき、私は常に、私がそれ(現在の感覚)について思惟していることを思惟しなければならず、そして、更にそれ(思惟していることを思惟していること)について思惟していることを思惟しなければならず、したがって無限に。しかし、私はこれら全ての反省について反省することをやめなければならず、そして要するに、人がそれについて思惟することなく、移行させるような何らかの思惟がなければならないのです。さもなければ、人は常に同一のものに止まることになるでしょう。」

P「しかし、全く同様に、そこにおいて空腹に気づくことなく空腹であると言う時、人間は常に空腹であるということを主張する根拠があるだろうか?」

T「多くの差異があります。つまり、空腹は常に自存している訳ではない個別的な理由を持っているのです。しかしながら、飢えている時でも、絶えずそれ(空腹)について考えている訳ではないと言うことも、また本当のことです。しかし、空腹について考えている時、人はそれ(空腹)に気が付いています。と言うのは、これは非常に顕著な配置(disposition)だからです。つまり、胃には常に刺激があるが、それ(刺激)は空腹の原因となるためには、十分に強くならなければならないのです。同一の区別が常に思惟一般と顕著な思惟との間に成されなければならないのです。こうして、私達の見解をあざけるために生じたものは、私達の見解を堅固にするのに役に立つのです。」

P「今や、人間がその思惟においていつから観念を持ち始めるのか、と言うことが尋ねられ得るでしょう。そして、それは人が何らかの感覚(sensation)を持つや否やだと応えられなければならないように思われます。」

T「私も同じ見解です。しかし、それはやや特殊な原理によります。というのは、私達は観念なしに、思惟なしに、そして同様に感覚(sensation)なしにあることは決してないのです、と私は信じているからです。私は単に観念と思惟の間を区別するだけです。と言うのは、私達は常に、感官とは無関係に、純粋あるいは判明な諸観念を持っているのである。しかし、思惟は常に何らかの感覚(sensation)に応じているのです。」

P「しかし、精神が複合観念を形成する時は能動的であるのに、認識の基礎あるいは素材である単純観念の表象においては単に受動的なのです。」

T「全ての単純観念の表象に関して、精神が単に受動的であるということが、どうしてそういうことがあり得るのだろうか。なぜなら、あなた自身の告白に従えば、その表象が反省に由来するところの単純観念があるのであり、少なくとも精神は自分自身に反省という諸思惟を与えているのです。と言うのは、反省するのはそれ(精神)自身ですからね。精神がそれら(思惟)を拒否し得るかどうか、これは別問題です。そして、疑いなく、何らかの機会が精神をそのように至らせるとき、精神をそこから反らすような何らかの理由なしに、そうあること(精神が反省についての思惟を断ること)はおそらくあり得ません。」

P「ここまで、私達は一緒に公然と討論してきたようです。今度は、私達は諸観念の詳細へと進もうとしているのだから、私はより意見が一致すること、私達が何らかの特徴においてのみ異なる、ということを期待しています。」

T「私が真であると見なした諸見解を学識豊かな人たちが認めてくれると嬉しいのですが。というのも、彼らはそれら(私が真だと見なした諸見解)を強調することができ、それら(私が真だと見なした諸見解)を白日の下にさらすことが出来るからです。」



とりあえず、あげてみましたが、まだ直していない個所などがあるので、
手を加えていこうと思っています。
何か指摘のある方、どしどしお願いします。

2010年6月24日木曜日

『人間知性新論』序文 部分訳

部分過ぎて、話の流れがわからないので、
少しずつたしていきたいと思います。



・魂は、アリストテレスと『知性論』の著者に従うような、まだ書き込まれていない(タブラ・ラサ)であるところの書字板のように、全く空白なのかどうか。そして、そこ(魂)に刻まれた全てのものは単に諸感官(des sens)と経験に由来するのかどうか。あるいは魂は単に機会に応じて、諸々の外的対象が呼び覚ますような多くの諸概念(notions)と諸言説を本来的に含んでいるかどうかを知ることが問題(重要)である。

・ところで、一般的真理を堅固に(確認、批准)するような諸事例は、それがどんな数であれ、この同一の真理についての普遍的必然性を打ち立てるのに、十分ではない。

・論理学は、一方が自然神学を、他方が自然法学を形成するところの形而上学と道徳と共に、そのような真理(必然的真理)で満ちているのであり、したがって、それらの証明は生得的と呼ばれるような内的原理にのみ由来し得るのである。

・しかし、諸感官によって機会が与えられるような注意の力で、私達の中に、それら(諸法則)が発見されうるということで十分である。

・動物の(観念の)連合(consécution)は推論の影でしかない。すなわち、これは想像力(imagination)の連結、そして一つの象(image)から別の像への移行でしかない。

・というのは、理性のみが確実な規則を打ち立て得るし、少しも確かではなないような規則に不足しているようなものには、確実な規則に対して例外を設けることにより、(不足を)補うことができ、そしてついには、必然的な結論(結果:conséquence)の力において、ある(確実な)連関、動物が帰されるところの象の感覚可能な連関を試す必要なしに、しばしば出来事を予見する手段を与えるようなものを発見し得るのである。

・さて、反省とは私達の内にあるようなものへの注意に他ならず、諸感覚は私達が既に私達と共に持っているようなものを私達に与えることはないのである。

・そして、これらの対象は直接的であり、私達の知性に対して常に存在(現前)しているので……

・そのような理由で、諸観念と諸真理は傾向(des inclinations)、配置(des dispositions)、習慣(des habitude)、あるいは自然的潜在性(des virtualités)として、私達に生得的なのであって、作用(des actions)として生得的なのではない。とはいえ、これらの潜在性は、しばしば感覚不可能で、それ(この潜在性)に応じるような何らかの諸作用(quelques actions)を常に伴っているのである。

・したがって、私は、彼が私達の認識の二つの源泉、諸感官と反省を認めているのだから、この点に関して、彼の見解は、実際は私の見解、あるいは共通の見解とはことならない、と信じるに至ることができた。

・なぜなら、自然的に(本来的に、本性的に)作用なしの実体はあり得ず、運動なしの物体さえも、決してないのである。

・それ故、この微小表象は考えられていない程、より大きな効果(効力)を持っているのである。

・寄せ集めにおいては明晰だが、諸部分においては混雑している、この「曰くいいがたいもの」、これらの好み、多くの諸感官による(の)象を形成しているのは微小表象である。(私達を)取り巻く物体が私達になすような、無限、各々の存在が宇宙の他の全てのもの共に持っているこの連関(cette liaison)を包むようなこれらの印象を形成しているのも微小表象である。

・これらの微小表象に応じて(の結果として)、現在は未来で満ちており、過去を背負っているということ、全てのものは協働している(ヒポクラテスのいうような「万物同気」)こと、諸実体の最も小さなものにおいて、神の眼と同じほど鋭い眼は、宇宙の諸事物の全ての帰結(結果、実現、列:la suite)を読み取ることができると言うことが、まさに言われ得るのである。

・さらに、その(個体の)現在の状態との連結がなされたとき、これらの感覚不可能な表象は同一の個体を示し、構成している。その個体とは、感覚不可能な表象がこれらの個体の先行状態を保存しているような痕跡によって特徴づけられるのである。これらの感覚不可能な表象は、この個体そのものが、それ(感覚不可能な表象)を感覚しないとき、すなわち、もはやはっきりとした記憶がないとき、上位の精神により識別され得るのである。

・一言でいえば、感覚不可能な表象は自然科学における感覚不可能な粒子と同様に、精神学において、役に立つのである。

2010年6月17日木曜日

「夜」について

conti/nuit/é

もちろんContinuite(連続性)を切断しつつ「nuit」(夜)が現れ出ることをいう言葉である。
日常の連続を打ち破って、底のほうから、なにやらobscure(正体不明)の「夜」が立ち上がってくる。
その「夜」が宇宙への通路なのである。
(『水声通信』黒田アキ p.81)

最近、夜寝ることを拒んでいる。
一つの感情としての「恐怖」が原因である。
なぜ、「恐怖」を抱くのだろうか、何に対して。

夜寝ることを拒んでいるのは、夜が好き、寝る時間がもったいない、
といったこれらの理由によるものではない。
そのことだけは、はっきりと言っておこう。
では、それ以外に「夜」寝ることを拒んでいる、その理由とは何だろうか。
私なりに、ここ数日、そのことを考えるとき、常に頭にあるのは、黒田アキの作品、概念に対する、
小林康夫のコメントであり、上に引用した文章である。

そのことを念頭に置きつつ、話を進めていきたい。

私が「夜」寝ることを拒んでいる、恐怖により拒んでいる理由は、「朝」の到来である。
個人的な体験として、小説、映画、歌詞などで、二人(恋人同士、友人同士、親子は問わない)が、
砂浜に並んで、朝日が昇るのを見つめているシーンは、ほぼ「幸せ」なシーンとして描かれている。
そのようなシーンに対して、「正体不明」の恐怖を秘かに抱いてきた。
家族で行った初日の出、キャンプ場で眠れずに過ごして迎えた朝、夜通し飲み始発に乗り込む時の朝日、
これらには崇高なもの、暖かさを感じつつも、どこかにしこりとして「恐怖」が残っていたことを告白しよう。

では、「なぜ」なのだろうか。
一つとして同じ、そして一般的なる「夜」は存在しない。
それぞれが個別的な「夜」なのであり、どんな日常の平穏な流れの中にあっても、その都度「夜」なのである。
Continuite(連続性)を打ち破るものとして、「夜」が立ち上がってくる。
つまり、日常の連続は、「夜」によって切断される。
しかし、この「夜」による「切断」がなければ、そこに連続性があることを認識できないのではないだろうか。
「夜」が立ち上がることで、そこには「連続性」と「切断」が同時に現れてくることになるのではないだろうか。

そして、私が「恐怖」を抱く場面、つまり朝が訪れる瞬間には、
「夜」が日常を切断するのではなく、逆に「夜」が切断されるのである。
「宇宙への通路」であり、開かれたものとして「夜」が切断される。
こういうことが出来るのならば、「太陽」によって「夜」が日常から引き裂かれるのである。
そして、この瞬間は我々(少なくとも私)が「宇宙への通路」を失う瞬間なのである。

安定した、我々を包み込むような「日常」という大きな連続の中で、
私は「引き裂かれた」感覚、「切断」された感覚を「夜」の終わる瞬間に見てしまうのである。
この感覚は、自らの皮膚を「引き裂かれた」感覚に似たような「恐怖」を、
私の目の前に立ち上がらせるのである。

大切なものを失くした時の、好きな人を失った時の感覚と似ているのではないだろうか。
それらのものは(少なくとも)私にとっては、世界への、「宇宙への通路」のようなものである。
生命を育む、「宇宙への通路」である「夜」が「引き裂かれ」、「切断」される瞬間を、
目撃してしまうのは、個人的な体験として、私に「恐怖」という感情を抱かせる。

空間的な区切りであるならば、私は自らの些細な力によってでも、拒否することが可能である。
そして、自ら空間を「切断」することも可能である。
私たちはある程度の自由度をもって、空間を移動することが出来る。
しかし、時間においてはそうはいかない。私たちは不可逆の時間の中をただ進むしかないのである。
進む、という能動的な行為を行えているのかすら疑わしい。

空間と絶対的に異なる時間において、否応なく、我々にもたらされるこの「切断」を、
私はどのように受け止めるべきか、認めるべきなのだろうか。
少なくとも、それがわからない、今の私にとっては、この「夜」の「切断」は、
「連続性」を生みだし、「連続性」を切断するという二重の意味を持ちつつも、
「切断」の側面ばかりが、強調され、強烈なものとして、私の前に現れているのである。

このように、弱い私にとって、夜は愛しいものでもある。
小さなもの、弱いものが身を隠し、もしくは隠さずとも生きていけるのは、
全てが明らかになってしまう太陽の下において、ではなく、全てに等しく「闇」を与え、
私自身を隠すように包み込んでくれる「夜」において、ではないだろうか。

2010年5月13日木曜日

NE LⅡ C2

第Ⅱ巻 2節 「単純観念について」

P:それ故に私は単純観念と複合観念があるということをあなたが承知してくれることを期待しています。このように、蝋における暖かさと柔らかさと氷における冷たさは諸々の単純観念を供給してくれます。というのも、魂はそこにおいて、様々な諸観念において区別され得ないような一様な概念(conception uniforme)を持つからである。

T:これら可感的観念は見かけにおいては単純であると言われうることを私は信じています。なぜなら、雑然としているので、それら(可感的観念)はそれら(可感的観念)が含むようなものを区別する方法を精神に対して少しも与えることがないからです。
それは丸く現れるような遠い諸事物と同様です。なぜなら、そこにおいて何らかの雑然とした印象は受け取られるとしても、角はそこ(現れとして丸いもの)から見分けられることはないからです。
例えば、緑は青と黄色の混じり合ったものから一度に生じると言うことは明らかである。同様に、緑の観念はこの二つの観念(青の観念と黄色の観念)が複合したものであるということも信じられ得る。
そして、それにもかかわらず、緑の観念は青の観念、あるいは熱さの観念と同じくらい単純に我々に現れるのである。
この青の観念と熱さの観念は現れにおいてのみ同様に単純だということは信じられるべきである。それにもかかわらず、私はこの単純なものという諸観念が扱われることに容易に同意する。なぜなら、少なくとも我々の統覚(apperception)はこれら(諸々の単純観念)を分離することは出来ず、それら(諸々の単純観念)がより理解可能なものになるのに応じて、他の経験と理性によりそれらの分析に至らなければならないのです。


P=フィラレート(ロック)
T=テオフィル(ライプニッツ)

あげてみたのは良いものの、恥ずかしい……
ご指摘があればコメントをお願いします。

2010年5月11日火曜日

部分訳

この説が導入する実体の諸々の統一性において、そして原初的実体によるそれら(諸事物)の予定調和において、私は諸事物の諸々の真の原理を発見する。そこにおいて私は驚くべき単一性と一様性を発見する。従って、完全性の程度を除けば、常に至る所で同じことである。(p. 56)


要するに、私が動物の諸々の魂とそれらの感覚がいかに人間の諸々の魂の不死性を少しも損なうことがないのか、あるいはむしろあらゆる魂が不死であると理解すること以上に私達の自然的不死を確立し得るものはどうしてないのかと私が理解したのはこの説について熟考したからである。それにもかかわらず、危惧すべき輪廻があるということはない。なぜなら、諸々の魂だけではなく、さらに動物も生きたままであり、感覚したままであり、活動したままであるし、あり続けるでしょう。既にあなたに言ったことに従えば、至る所でここと同じであり、どこでも常に私達においてと同じである。(p. 57)


ライプニッツ『人間知性新論』の第一章の部分訳です。
論文に関係あるとかではなく、単に気になった箇所です。
ページ数はブラウンシュビック版のものです。

2010年4月16日金曜日

実感なきまま

実感なきまま日常は進む。
いや、むしろ日常生活の方が実感というものを感じ取れるのではないだろうか。
不勉強さ、労働、満腹感……何かを現実として感じ取ること、
それはやはり日常の強みというのではないだろうか。

そこに「非日常的な出来事」つまり「事件」と名付けるならば、
「事件」はその強烈さゆえに、その駆け抜けるスピードの速さゆえに、
「実感」を感じさせることはない。

「事件」は云々……


修論を来年書くにしても、テーマは早いうちに決めたほうがよい。
それは私が読解に必要な力が人より劣るからである。
劣ることを言い訳にはできないし、そこに胡坐をかくのも駄目である。
今年は血反吐を吐くくらい出来たら良いなと思うし、力、語学力が何よりも課題なのは当の前にわかっている。
わかっていることを実行しないのは愚の骨頂であるだろう。

今年の努力次第であるが、修論のテーマを考えてみた。

表向きは「ライプニッツの観念、認識」のあたりで書きたいということになっているが、
実際は「ライプニッツにおける天使の身体とは」ということについて書きたい。

そう、ふと思った。

2010年2月6日土曜日

レポート[後期]3

スピノザ『エチカ』第二部定義4について

 スピノザは『エチカ』第二部定義4において「十全な観念 とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する」 と記している。ここでスピノザが示そうとしている「十全な観念」とはどのようなものなのだろうか。
 まず、引用文中にある「真の観念」についてスピノザは第一部公理6で「真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならぬ」 としている。では、観念と対象の一致とはどういうことだろうか。
 第二部定理7において「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一」であることを第一部公理4より証明している。さらに備考において「思惟する実体と延長した実体は同一の実体」であるので、同様にして「延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されている」だけであるとしている。つまり「思惟する実体と延長した実体」および「延長の様態とその様態の観念」はそれぞれ「同型性」 をもっていることになる。
 この「同型性」は人間精神と人間身体についても当てはめることが出来る。第二部定理11においてまずは人間精神を構成する最初のものは「現実に存在するある個物の観念」であると述べたうえで、第二部定理13において「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」のである。つまり第二部公理4により我々は身体が様々な仕方で刺激されることを感じているが、もし身体が人間精神の対象でないとしたら「身体の変状の観念」が人間精神の中にないことが「同型性」によりわかる。なので「身体の変状の観念」があるということは人間精神の対象は「現実に存在する身体」であるということになる。
 しかし、「身体の変状の観念」よってのみ人間精神は自らの身体と外部の物体を現実に存在するものとして知覚しており、さらにそれらの本性を含んではいるが「十全な認識」を含んでいないのである。スピノザの「認識」についてドゥルーズは「観念の自己定立、観念の「開展」すなわり発展」であるとしている 。「身体の変状の観念」によって得られる認識は「非十全な認識」であり、その認識を構成している観念は「非十全な観念」であるということが言えるだろう。
 では十全ないしは非十全な観念を含む十全ないしは非十全な認識の区別を手掛かりにして、両者の区別を行うことにする。
 第二部定理25、27においてスピノザが「人間身体のおのおのの変状の観念」は外部の物体についても、人間身体そのものについても「十全な認識」を含んでいないというとき、第二部定理28で述べているように「単に人間精神に関連している限り」において「十全な認識」ではなく「混乱したもの」となっている。というのも、外部の物体の、そして人間身体(を組織する部分)の「十全な認識」は「神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中にある」ので、原因としての神へ辿り着くには他の多くの観念をさかのぼっていくという作業が無限に続き、人間精神に関連している場合にはこの観念の無限連鎖の一部しか知覚できず、「前提のない結論のようなもの」であり「混乱した観念」である、とスピノザは結論付けている。
 では、なぜこのような無限連鎖は「前提のない結論のようなもの」であり「混乱した観念」であるのか。第二部定理29の系においてスピノザは自らの身体、外部の物体について「十全な認識」を持ち得ない場合として「自然の共通の秩序に従って知覚する場合」を挙げている。この場合は「自然的条件」の下での知覚する場合、「外部から決定さ」れた場合であり、「物との偶然的接触に基づいて」知覚する場合である。外部から決定された場合については第二部定理40の備考2にいて説明されている。そこにおいては我々が多くのものを知覚する手段が記されており、「非十全な認識」は「第一種の認識」に由来する。つまりは感覚と記号による認識であり、これは「表象」と呼ばれる。そして第二部定理26の系の証明において「人間精神がその身体の変状の観念により外部の物体を考察する時、我々は精神が物を表象すると言う。……精神は外部の物体を表象する限りその十全な認識を有しえない」としている。「表象」や「第一種の認識」は観念の無限連鎖が起こるために、人間精神はそれを「前提のない結論のようなもの」としてしか認識できず、このような場合「人間精神が物を部分的にあるいは非十全的に知覚する」のである。
 つまり「非十全な観念」とは「標徴〔記号〕としての観念」であり、「おのずから開展〔=説明〕」されるのではなく、外部の物体との偶然的接触による身体の変状により開展=説明される。そして標徴=記号として「私たちの現在」、「痕跡からのがれられない私たちの無力」、外部の物体の現前、そして外部の物体が「私たちにもたらす結果」を「指示しているにすぎない」のである。
 では、「十全な認識」、「十全な観念」とは、を考えるために、まずは認識(第二種、第三種の認識)について述べることにする。なぜなら、「第二種の認識(=「理性」)」と「第三種の認識(=「直観知」)」はどちらも「十全な観念」を含んでいるからである。
 この二つの認識は先に見たように「第一種の認識」は「非十全な観念」しか含んでいないのに対して、「十全な観念」を含んでいるという点において区別され、必然的に真であり、真偽の区別を我々に教えてくれるものである。「第二種の認識」と「第三種の認識」は真偽の区別、「真なるものと偽なるもの」についての「十全な観念」を含んでいるからである。では、「第二種の認識」と「第三種の認識」はどのように区別されるのだろうか。
 「第二種の認識」は「共通概念」あるいは「十全な観念」を有しているものである。「共通概念」については第二部定理37において「すべてのものに共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるもの」であり、「決して個物の本質を構成しない」ものであるとしている。「共通概念」とはドゥルーズが「まずそれが身体または物体相互に共通ななにかを表すところからきている」と指摘しているように参照箇所として「補助定理2」が挙げられている。「共通概念」がなぜ「個物の本質」を構成しないのかについてはスピノザ指定しているように第二部定義2を見れば明らかである。
 第二部において「第三種の認識」については「我々はこれを直観知と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質の十全な観念から事物の本質の十全な認識へ進むもの」とだけ記されている。
 「非十全な認識」と「十全な認識」の違いは「非十全な観念」を含んでいるか「十全な観念」を含んでいるかである。「第二種の認識」である「理性」においてその機能として与えられているのは第二部定理44における「事物を偶然としてではなく必然として観想すること」であり、同定理の系1において事物を「偶然として観想する」ことは「第一種の認識」である「表象」にのみ依存しているとある。つまり「十全な観念」の有無で区別される「第一種の認識」と「第二種の認識」の違いは事物を偶然として観想するか、必然として観想するかである。感覚、記号による漠然たる経験、知性による秩序づけのない「記憶や習慣の秩序」にしたがった認識、つまり「事物を偶然として」観想するのではなく、事物を「必然として」観想する、必然性の認識である。必然性の認識とは「記憶や習慣の秩序」にしたがい連鎖、連結を形作る「非十全な観念」として事物を認識すること、特に事物を時間に関して偶然なものとして「表象」するのではなく、「永遠の相のもとに知覚する」こと、つまり「それ自身においてあるとおりに」知覚することである。事物の必然性の認識は、第一部定理16によりそこから「無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならぬ」ものである「神の本性の必然性」の認識に他ならないからである。
 ここでもう一度、第二部定義4を確認し、論を「十全な観念」に戻していきたい。「十全な観念とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことである」とされている。「真の観念」のように対象と一致しているだけでは「十全な観念」ではなく、「それ自体で考察され」なければならない。ここで「それ自体で」考察されるとは先にみた「それ自身においてあるとおりに」ということである。さらに「真の観念の特質」を有しているのだから、第一部公理6における「真の観念」と同様に対象と一致していなければならない。しかし、スピノザは「十全な観念」に関して「外的」ではなく「内的」であることを強調しているならば、対象との一致についても「内的」であるはずだ。対象との一致と言った場合に第二部定理7が思い出される。つまり「延長の様態とその様態の観念」の一致、つまり「延長属性と思惟属性」の「同型性」である。この場合、「延長の様態とその様態の観念」は「同一の必然性」をもって生じている。
 我々の持ち得る観念は「延長の様態の観念」だけではない。第二部定理20、21において説明されているように現実に存在する身体を対象とした観念により構成される人間精神の観念、つまり「観念の観念」もある。「十全な観念」が「真の観念の特質」を有している限り、対象と一致しなければならないので、神の中にある「観念」とその観念つまり「観念の観念」も一致していなければならない。第二部定理43の証明においてスピノザは観念Aの例を持ち出す 。第二部定理21の備考より「精神の観念と精神自身は同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずる」である。これは「延長の様態とその様態の観念」のときと同様に「同一の必然性」をもって生じている。つまり「精神の観念と精神自身」は「観念とその対象」として一致している。つまり「真の観念の特質」を有している。そして、「精神の観念と精神自身」は同一属性において考えられているので、「それ自体で」考察されている。
 「真の観念」が対象と一致している観念である時、二通りの一致が考えられるのではないか。一つは「延長属性と思惟属性」での一致であり、他方は「思惟属性同士」での一致である。後者において「人間精神の本性によって説明される限りにおいて」神に帰すことのできる観念が「十全な観念」であるのではないか。そして、「十全な観念」は必然的に真である認識を特徴づけるものであるというが出来るのではないだろうか。






参考文献
スピノザ 『エチカ』(上巻) 岩波文庫、1951
G・ドゥルーズ 『スピノザ 実践の哲学』 平凡社、2002
上野修 『スピノザの世界 神あるいは自然』 講談社現代新書、2005
ピエール=フランソワ・モロー 『スピノザ入門』 白水社、2008
小林道夫(責任編集) 『哲学の歴史』(第5巻) 中央公論社、2007
 松田克進「スピノザ」参照