2011年7月20日水曜日

P・レヴィ『ヴァーチャルとはなにか?』

先日、提出したレポートです。
感想、意見がありましたらよろしくお願いします。



「胡蝶の夢」において、荘周と蝶の移行、物化を可能にしている関係とはどのようなものなのだろうか。ここでは、そのような関係を考察するために、ピエール・レヴィにおけるヴァーチャル化の議論を扱いながら、明らかにしていくことにする。
 まず、レヴィにおけるヴァーチャル化の議論を追う。まず、レヴィはドゥルーズの議論に寄りながら、可能なもの―リアルなもの、という枠組みに対して「ヴァーチャルなもの―アクチュアルなもの」という枠組みを対置させながら、その議論を展開している。
ヴァーチャルなものは、存在の欠如として考えられているようなものではなく、「問題提起的な複合体」であり、「どのようなものであれ存在者に伴って」おり、つねに解決の過程、つまりアクチュアル化を要求している。そうであるならば、アクチュアルなものは問題に対する解決である。レヴィは可能的なものは「未発の状態」であり、これは「何も変化することなく実現される」が、ヴァーチャルなものは制約、環境と共に自己を作り出し、発見する。
レヴィは、ヴァーチャル性とアクチュアル性とは単なる「二つの異なった存在様式」であり、彼の議論の中心はこれら「存在様式」の分析などでなく、互いの領域への移行、つまりヴァーチャル化とアクチュアル化 である。
だとすると、ヴァーチャル化とアクチュアル化というのはなんなのか。レヴィはまず、アクチュアル化について「創造であり、……一つの形態の発明」であり、「ヴァーチャルなものを養う真の生成」だとして、アクチュアルなものはヴァーチャルなものに対応しているとする。
これに対して、ヴァーチャル化を「アクチュアル化の逆の運動」だと定義する。アクチュアル化が問題に対する一つの解決(アクチュアル性)であるならば、ヴァーチャル化は問題提起であり、ヴァーチャルなものとアクチュアルなものは互いに往環運動を行いながら、ずれていくのだ。つまり、「同一性の変動」、「件の客体の存在論的重心の移動」である。
しかし、それでは荘周と蝶に生じた移行の関係を説明することはできない。そのためには、ヴァーチャルの領域を考察する必要がある。具体的に、ヴァーチャルなものの領域では、何が起きているのだろうか。先述したように、ヴァーチャル化はアクチュアル化(問題から解決へ)の逆の運動(解決から問題へ)というかたちで定義されている。これに加えて、私が提示したテーマとの関連で言えば、ヴァーチャル化は時間空間の在り方を新しいものとして、我々に提示してくる。 
 レヴィは「ヴァーチャル化の主要な諸様態の内の一つ」として「今ここからの離脱」を挙げており、彼はヴァーチャル化=脱領土化という形を用いている。一つの例として、彼は企業のヴァーチャル化を挙げている。そして、重量を持たないハイパーテキストは場所を持っていないとしている。ヴァーチャルなものの領域においては、指定された明確な場所はなく、かわりに「同時化」と言うことが関係性としての空間を構成しており、「連結」が時間という単位に置き換えられている。同時に存在しているものが常に空間を構成しているのであり、ヴァーチャルの領域においては、絶えず「そこの外に置かれる」ということが生じているのである。生命は各々固有の仕方で、固有の時間空間を構成しているのだ。このことは、時間と空間の複数性を前提としている。そして、このような時間空間が生じている場所がヴァーチャルなものの領域であり、この次元において、アナロジーが機能している。ヴァーチャルなものの領域におけるアナロジーの機能について、少し長いが、引用しておく。

 アナロジーでいえば、記録や伝達の色々なシステム(口承の伝統、エクリチュール、ビデオ録画、デジタルネットワーク)は、それぞれ異なる物語のリズムや速さや質を作り上げた。新しい設備の一つ一つが、社会技術的「機械」の一つ一つが、特定の空間時間を、特定の地図作製を、特有の音楽を、一種の弾力的で複雑な錯綜体に付け加えるのである。その錯綜体において、諸延長が覆い尽くされ、変形し、互いに接続し、諸持続が対立し、干渉し、呼応しあうのである。現代の空間の多数化は私たちを新たな様式を持つノマドにした。つまり、与えられた延長の内で放浪と移動という道に従う代わりに、あるネットワークから別のネットワークへと、ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへと、私たちは飛び移るのだ。異型発生を私たちに強制することで、私たちの足もとで空間は変容し、分岐しているのだ。(P・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』p.13)

このようにアナロジーの働く空間において、私たちは「ある近接性のシステムから別の近接性のシステム」へと飛び移る。ここから、荘周と蝶の考えることが出来るのではないだろうか。荘周から蝶へ、蝶から荘周への移行は、レヴィのいうところの「ある近接性のシステムから別の近接性のシステム」への移行ではないだろうか。荘周と蝶は、各々にとって固有の時間空間を構成している。蝶が環境とともに作りあげている世界は、荘周が環境とともに作り上げている世界とは異なっている。ここに、時間空間の複数性、複数化という事態が生じることになる。ヴァーチャル化することにより、私たちは明確な時間空間への定着と言うことから離れる。今もなく、ここもない。ヴァーチャル化は全ての時間を今にすることが可能であり、全てのそこをここにすることが可能なのである。明確に指定された「今ここ」を持たないが故に、ヴァーチャル化は脱領土化とも呼ばれ得るのである。脱領土化、ヴァーチャル化した新たな空間と新たな速度を以てして、私たちは「ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへ」と移行することが可能となる。
 このように考えると、ヴァーチャル化は問題提起をしつつ、その解決(アクチュアル性)として新たな関係を構築することを可能にしている。その構築のために、ヴァーチャルな領域においては、関係性(近接性のシステム)の再配分が行われているのだ。これが、レヴィがいう「飛び移る」ということではないだろうか。この「ある近接性のシステムから別の近接性のシステムへ」ということが可能となるためには、二つのシステムは同次元に存在していなければならない。同一平面に存在しているような関係性がなければ、この移行は可能とはならないのではないだろうか。つまり、ヴァーチャル化はこのような同一平面を作る働きをしているのではないだろうか。ヴァーチャル化により、あらゆるものは、関係性0の並存関係におかれ、そこから再配分がなされ、新たな関係を構築し、新たにできた関係は固有の時間空間を形成するのだ。このようにして、荘周と蝶の移行はかのうなものとなるのであり、荘周である時、蝶である時、それぞれは各々に固有の世界を構築するのだ。
 レヴィはヴァーチャル化一般について語っている章の末尾で、以下のように語る。この一文を引用することで、私の言わんとしていることはより明確になるだろう。

ヴァーチャル化は、問題提起への移行であり、問題についての存在の移転であるので、必然的に、定義や規定、排除、包含そして排中律によって考えられる古典的アイデンティティを問題にする。だからこそ、ヴァーチャル化は常に異型発生的であり、他の何かになるものであり、他者を受け容れる過程なのである。(P・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』p.17)

異型発生的であるということは、レヴィにとっては創造的であるということに他ならず、ヴァーチャル化は創造の第一次の重要な条件であるように思われる。このヴァーチャルな領域については、セールがインターチェンジ、ノワーズと呼んでいる概念との親近性は明らかであるが、それについては別途、機会を設けたい。


参考文献

P・レヴィ 『ヴァーチャルとは何か?』昭和堂(2006)