2010年5月13日木曜日

NE LⅡ C2

第Ⅱ巻 2節 「単純観念について」

P:それ故に私は単純観念と複合観念があるということをあなたが承知してくれることを期待しています。このように、蝋における暖かさと柔らかさと氷における冷たさは諸々の単純観念を供給してくれます。というのも、魂はそこにおいて、様々な諸観念において区別され得ないような一様な概念(conception uniforme)を持つからである。

T:これら可感的観念は見かけにおいては単純であると言われうることを私は信じています。なぜなら、雑然としているので、それら(可感的観念)はそれら(可感的観念)が含むようなものを区別する方法を精神に対して少しも与えることがないからです。
それは丸く現れるような遠い諸事物と同様です。なぜなら、そこにおいて何らかの雑然とした印象は受け取られるとしても、角はそこ(現れとして丸いもの)から見分けられることはないからです。
例えば、緑は青と黄色の混じり合ったものから一度に生じると言うことは明らかである。同様に、緑の観念はこの二つの観念(青の観念と黄色の観念)が複合したものであるということも信じられ得る。
そして、それにもかかわらず、緑の観念は青の観念、あるいは熱さの観念と同じくらい単純に我々に現れるのである。
この青の観念と熱さの観念は現れにおいてのみ同様に単純だということは信じられるべきである。それにもかかわらず、私はこの単純なものという諸観念が扱われることに容易に同意する。なぜなら、少なくとも我々の統覚(apperception)はこれら(諸々の単純観念)を分離することは出来ず、それら(諸々の単純観念)がより理解可能なものになるのに応じて、他の経験と理性によりそれらの分析に至らなければならないのです。


P=フィラレート(ロック)
T=テオフィル(ライプニッツ)

あげてみたのは良いものの、恥ずかしい……
ご指摘があればコメントをお願いします。

2010年5月11日火曜日

部分訳

この説が導入する実体の諸々の統一性において、そして原初的実体によるそれら(諸事物)の予定調和において、私は諸事物の諸々の真の原理を発見する。そこにおいて私は驚くべき単一性と一様性を発見する。従って、完全性の程度を除けば、常に至る所で同じことである。(p. 56)


要するに、私が動物の諸々の魂とそれらの感覚がいかに人間の諸々の魂の不死性を少しも損なうことがないのか、あるいはむしろあらゆる魂が不死であると理解すること以上に私達の自然的不死を確立し得るものはどうしてないのかと私が理解したのはこの説について熟考したからである。それにもかかわらず、危惧すべき輪廻があるということはない。なぜなら、諸々の魂だけではなく、さらに動物も生きたままであり、感覚したままであり、活動したままであるし、あり続けるでしょう。既にあなたに言ったことに従えば、至る所でここと同じであり、どこでも常に私達においてと同じである。(p. 57)


ライプニッツ『人間知性新論』の第一章の部分訳です。
論文に関係あるとかではなく、単に気になった箇所です。
ページ数はブラウンシュビック版のものです。