2010年2月6日土曜日

レポート[後期]3

スピノザ『エチカ』第二部定義4について

 スピノザは『エチカ』第二部定義4において「十全な観念 とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する」 と記している。ここでスピノザが示そうとしている「十全な観念」とはどのようなものなのだろうか。
 まず、引用文中にある「真の観念」についてスピノザは第一部公理6で「真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならぬ」 としている。では、観念と対象の一致とはどういうことだろうか。
 第二部定理7において「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一」であることを第一部公理4より証明している。さらに備考において「思惟する実体と延長した実体は同一の実体」であるので、同様にして「延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されている」だけであるとしている。つまり「思惟する実体と延長した実体」および「延長の様態とその様態の観念」はそれぞれ「同型性」 をもっていることになる。
 この「同型性」は人間精神と人間身体についても当てはめることが出来る。第二部定理11においてまずは人間精神を構成する最初のものは「現実に存在するある個物の観念」であると述べたうえで、第二部定理13において「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」のである。つまり第二部公理4により我々は身体が様々な仕方で刺激されることを感じているが、もし身体が人間精神の対象でないとしたら「身体の変状の観念」が人間精神の中にないことが「同型性」によりわかる。なので「身体の変状の観念」があるということは人間精神の対象は「現実に存在する身体」であるということになる。
 しかし、「身体の変状の観念」よってのみ人間精神は自らの身体と外部の物体を現実に存在するものとして知覚しており、さらにそれらの本性を含んではいるが「十全な認識」を含んでいないのである。スピノザの「認識」についてドゥルーズは「観念の自己定立、観念の「開展」すなわり発展」であるとしている 。「身体の変状の観念」によって得られる認識は「非十全な認識」であり、その認識を構成している観念は「非十全な観念」であるということが言えるだろう。
 では十全ないしは非十全な観念を含む十全ないしは非十全な認識の区別を手掛かりにして、両者の区別を行うことにする。
 第二部定理25、27においてスピノザが「人間身体のおのおのの変状の観念」は外部の物体についても、人間身体そのものについても「十全な認識」を含んでいないというとき、第二部定理28で述べているように「単に人間精神に関連している限り」において「十全な認識」ではなく「混乱したもの」となっている。というのも、外部の物体の、そして人間身体(を組織する部分)の「十全な認識」は「神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中にある」ので、原因としての神へ辿り着くには他の多くの観念をさかのぼっていくという作業が無限に続き、人間精神に関連している場合にはこの観念の無限連鎖の一部しか知覚できず、「前提のない結論のようなもの」であり「混乱した観念」である、とスピノザは結論付けている。
 では、なぜこのような無限連鎖は「前提のない結論のようなもの」であり「混乱した観念」であるのか。第二部定理29の系においてスピノザは自らの身体、外部の物体について「十全な認識」を持ち得ない場合として「自然の共通の秩序に従って知覚する場合」を挙げている。この場合は「自然的条件」の下での知覚する場合、「外部から決定さ」れた場合であり、「物との偶然的接触に基づいて」知覚する場合である。外部から決定された場合については第二部定理40の備考2にいて説明されている。そこにおいては我々が多くのものを知覚する手段が記されており、「非十全な認識」は「第一種の認識」に由来する。つまりは感覚と記号による認識であり、これは「表象」と呼ばれる。そして第二部定理26の系の証明において「人間精神がその身体の変状の観念により外部の物体を考察する時、我々は精神が物を表象すると言う。……精神は外部の物体を表象する限りその十全な認識を有しえない」としている。「表象」や「第一種の認識」は観念の無限連鎖が起こるために、人間精神はそれを「前提のない結論のようなもの」としてしか認識できず、このような場合「人間精神が物を部分的にあるいは非十全的に知覚する」のである。
 つまり「非十全な観念」とは「標徴〔記号〕としての観念」であり、「おのずから開展〔=説明〕」されるのではなく、外部の物体との偶然的接触による身体の変状により開展=説明される。そして標徴=記号として「私たちの現在」、「痕跡からのがれられない私たちの無力」、外部の物体の現前、そして外部の物体が「私たちにもたらす結果」を「指示しているにすぎない」のである。
 では、「十全な認識」、「十全な観念」とは、を考えるために、まずは認識(第二種、第三種の認識)について述べることにする。なぜなら、「第二種の認識(=「理性」)」と「第三種の認識(=「直観知」)」はどちらも「十全な観念」を含んでいるからである。
 この二つの認識は先に見たように「第一種の認識」は「非十全な観念」しか含んでいないのに対して、「十全な観念」を含んでいるという点において区別され、必然的に真であり、真偽の区別を我々に教えてくれるものである。「第二種の認識」と「第三種の認識」は真偽の区別、「真なるものと偽なるもの」についての「十全な観念」を含んでいるからである。では、「第二種の認識」と「第三種の認識」はどのように区別されるのだろうか。
 「第二種の認識」は「共通概念」あるいは「十全な観念」を有しているものである。「共通概念」については第二部定理37において「すべてのものに共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるもの」であり、「決して個物の本質を構成しない」ものであるとしている。「共通概念」とはドゥルーズが「まずそれが身体または物体相互に共通ななにかを表すところからきている」と指摘しているように参照箇所として「補助定理2」が挙げられている。「共通概念」がなぜ「個物の本質」を構成しないのかについてはスピノザ指定しているように第二部定義2を見れば明らかである。
 第二部において「第三種の認識」については「我々はこれを直観知と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質の十全な観念から事物の本質の十全な認識へ進むもの」とだけ記されている。
 「非十全な認識」と「十全な認識」の違いは「非十全な観念」を含んでいるか「十全な観念」を含んでいるかである。「第二種の認識」である「理性」においてその機能として与えられているのは第二部定理44における「事物を偶然としてではなく必然として観想すること」であり、同定理の系1において事物を「偶然として観想する」ことは「第一種の認識」である「表象」にのみ依存しているとある。つまり「十全な観念」の有無で区別される「第一種の認識」と「第二種の認識」の違いは事物を偶然として観想するか、必然として観想するかである。感覚、記号による漠然たる経験、知性による秩序づけのない「記憶や習慣の秩序」にしたがった認識、つまり「事物を偶然として」観想するのではなく、事物を「必然として」観想する、必然性の認識である。必然性の認識とは「記憶や習慣の秩序」にしたがい連鎖、連結を形作る「非十全な観念」として事物を認識すること、特に事物を時間に関して偶然なものとして「表象」するのではなく、「永遠の相のもとに知覚する」こと、つまり「それ自身においてあるとおりに」知覚することである。事物の必然性の認識は、第一部定理16によりそこから「無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならぬ」ものである「神の本性の必然性」の認識に他ならないからである。
 ここでもう一度、第二部定義4を確認し、論を「十全な観念」に戻していきたい。「十全な観念とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことである」とされている。「真の観念」のように対象と一致しているだけでは「十全な観念」ではなく、「それ自体で考察され」なければならない。ここで「それ自体で」考察されるとは先にみた「それ自身においてあるとおりに」ということである。さらに「真の観念の特質」を有しているのだから、第一部公理6における「真の観念」と同様に対象と一致していなければならない。しかし、スピノザは「十全な観念」に関して「外的」ではなく「内的」であることを強調しているならば、対象との一致についても「内的」であるはずだ。対象との一致と言った場合に第二部定理7が思い出される。つまり「延長の様態とその様態の観念」の一致、つまり「延長属性と思惟属性」の「同型性」である。この場合、「延長の様態とその様態の観念」は「同一の必然性」をもって生じている。
 我々の持ち得る観念は「延長の様態の観念」だけではない。第二部定理20、21において説明されているように現実に存在する身体を対象とした観念により構成される人間精神の観念、つまり「観念の観念」もある。「十全な観念」が「真の観念の特質」を有している限り、対象と一致しなければならないので、神の中にある「観念」とその観念つまり「観念の観念」も一致していなければならない。第二部定理43の証明においてスピノザは観念Aの例を持ち出す 。第二部定理21の備考より「精神の観念と精神自身は同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずる」である。これは「延長の様態とその様態の観念」のときと同様に「同一の必然性」をもって生じている。つまり「精神の観念と精神自身」は「観念とその対象」として一致している。つまり「真の観念の特質」を有している。そして、「精神の観念と精神自身」は同一属性において考えられているので、「それ自体で」考察されている。
 「真の観念」が対象と一致している観念である時、二通りの一致が考えられるのではないか。一つは「延長属性と思惟属性」での一致であり、他方は「思惟属性同士」での一致である。後者において「人間精神の本性によって説明される限りにおいて」神に帰すことのできる観念が「十全な観念」であるのではないか。そして、「十全な観念」は必然的に真である認識を特徴づけるものであるというが出来るのではないだろうか。






参考文献
スピノザ 『エチカ』(上巻) 岩波文庫、1951
G・ドゥルーズ 『スピノザ 実践の哲学』 平凡社、2002
上野修 『スピノザの世界 神あるいは自然』 講談社現代新書、2005
ピエール=フランソワ・モロー 『スピノザ入門』 白水社、2008
小林道夫(責任編集) 『哲学の歴史』(第5巻) 中央公論社、2007
 松田克進「スピノザ」参照